僕は今、最早、劇物としか言えない食べ物と対面している。
立ち昇る紅い湯気は幻視すら誘い、吸い込めば常人なら涙と咳が止まらなくなるだろう。
殺人的な香辛料の匂いは、常人ならば嗅ぐだけで汗が噴き出し、体の芯が熱を帯びていくだろう。
英霊である僕ですら涙が滲み、汗が噴き出てくる。
煮え滾るマグマのような赤黒い液体の中には、豆腐や肉のそぼろが沈んでいる。
そう、僕は今、あの紅洲宴歳館・泰山の激辛麻婆豆腐を前にしているのだ。
辛すぎて食べれないことを見越して、念のためバトエルの姿になっている。
辛さは痛覚からくるものだから、痛覚を無効にすれば大丈夫だろう。
麻婆を蓮華で掬い、恐る恐る口元に持っていくと暴力的な麻婆の香りが強まっていく。
しばし逡巡し、一思いに一口で食べる。
「っ……!?」
舌に触れた刹那、暴力的な辛味が爆ぜ、喉を焼き、胃へと落ちていく。
英霊である僕の身体能力をもってしても、何の意味も持たないかのように痛みが体を襲う。
声にならない悲鳴が喉奥で弾ける。
痛みが体を襲ったのと同時に、僕は瞬時に狂化する。
狂化と同時に、舌や胃の痛み、痛みの余韻がきれいさっぱり消え去った。
……思ったよりヤバかった。
前世でも激辛はそこまで好きじゃなかったとはいえ、普通に食べれていたし、痛みには慣れているから少しはいけるかと思ったけど、全然駄目だった。
辛さの次元が全然違った、市民向けの市販品の辛さと、本場の辛さは全く持って違うということを思い知らされた。
ギルを下すほどの麻婆が普通なわけなかったようだ。
そんなことを考えながらとりあえず、麻婆を完食しようと、麻婆を掬って口に含んだ瞬間。
口の中を暴力的な旨味が一気に押し寄せてきた。
濃厚すぎるほどの深い旨味が舌の上で爆ぜた。
………これは、これほどの美味さだったとは。
辛さを乗り越えた先に病みつきになるほどの旨味があるとされていたけど、本当に美味しい。
手が止まらない、まるでポテチなどのスナック菓子を食べているかのようだ。
蓮華を握る手が震えているのに、動きは止まらない。
辛味という暴力を無効化した今、舌の上に残るのはただただ濃密な旨味だけだ。
まるで、辛さという試練を越えた者だけに与えられるご褒美のような味わい。
だが、それ故に罪悪感を感じる。
僕は正攻法で辛さを乗り越えたのではなく、痛覚の無効化という外法をもって辛さを乗り越えたからである。
蓮華を動かすたびに胸の奥がざわつく。
旨味の奔流に酔いしれながらも、どこか後ろめたさがつきまとう。
痛覚を切った。
それは確かに攻略ではあるけれど、克服ではない。
辛さという門番を正面から突破したわけではなく、裏口から忍び込んだようなものだ。
いずれは正攻法をもってこの麻婆の旨味に至りたい。
そう考えながら蓮華を口に運んでいると、何処か聞き覚えのある声がした。
「いつものを頼む。」
その声の持ち主は、慣れた様子で注文をすると、僕の方に向かって歩いてきた。
そして、僕の対面の席の横で立ち止まり、口を開いた。
「相席しても構わんか?バトエル。」
そう言って此方を見てくる綺礼の表情は、どこか喜色を滲ませていた。
「ええ、良いですよ。」
僕の返事を聞いた綺礼は座りながら此方に話しかけて来た。
「まさか、お前がいるとはなバトエル。」
「私もです。まさか、こんなところで会うとは。」
そう返すと、綺礼は湯気の立つ麻婆を前に、わずかに目を細めた。
「それで、その麻婆はどうだ?」
「とても美味しいです。今まで食べた麻婆の中で一番と言っていいほどに。」
綺礼は、僕の言葉にわずかに口角を上げた。
「美味い、か。……それはそうだろう。この店の麻婆は、
ただ唐辛子が山のようにぶち込まれた一見雑な料理にも見えるが、
豆腐を口に含んだ瞬間舌を焼く刺激がたまらない味覚をもたらす。
辛さに耐えた者だけが辿り着ける境地……そういうものだ。」
綺礼はいつもは死んでいる目を輝かせ饒舌にそう言った。
「………私は辛みに耐えきれず、痛覚を切ってしまいました。」
「………そうか。」
僕の言葉に綺礼は残念そうにそう言った。
「アイ、マーボードーフおまたせアルー!」
綺礼が言葉を言い切ると同時に麻婆が机に置かれた。
綺礼は目に光を灯して蓮華を手に取る。
「………この殺人的な香り。何度味わっても、魂を揺さぶられる。」
そう呟くと、迷いなく麻婆を掬い、口へと運んだ。
そして、少し硬直した後凄まじい勢いで麻婆を口に運ぶ。
綺礼は、汗を滝のように流しながらも、絶えず手を動かし、僅か数分で麻婆を完食する。
「………ごちそうさまでした。」
綺礼は満足げに息を吐き、蓮華を静かに置いた。
「………やはり、この店の麻婆は格別だ。」
汗で濡れた前髪を指で払いつつ、綺礼は恍惚とした声音で呟く。
その目は、普段の虚無を湛えた暗い光ではなく、どこか熱に浮かされたような輝きを宿していた。
「バトエル、お前もいずれは正攻法でこの味に辿り着くといい。」
「………そうですね。いずれはその境地に至って見せます。」
僕はそう言って泰山を後にする。
「期待しておこう。………店主、お代わりを頼む。」
後ろからは綺礼の何処か締まらない言葉が聞こえた。
ーー数か月後。
僕は今、泰山にて激辛麻婆豆腐と対面している。
狂化をしない正攻法で、激辛麻婆豆腐の辛みを克服する。
そのために、僕はこの数か月の間、週に1,2回泰山に行き、麻婆をテイクアウトをし、食べてきた。
英雄として苦痛には強いため、辛さのグレードを落として慣れるより、激辛麻婆豆腐を食べて無理やり舌を慣らす方が、早いと思ったからだ。
そしてその見込み通り、今では辛さを殆ど感じなくなった。
最初の頃は一口食べるたびに喉が焼け、胃が悲鳴を上げ、汗が滝のように流れた。
しかし今は違う。
辛味が舌に触れた瞬間、確かに痛みは走る。
だが、その痛みはすぐに旨味へと変わり、舌の奥へと吸い込まれていく。
「……行ける。」
蓮華を握る手に、かつての震えはない。
むしろ、期待に指先が熱を帯びている。
紅い湯気を吸い込むと、鼻腔を刺す刺激が脳を揺らす。
だが涙は出ず、咳も出ない。
身体が、ようやくこの暴力的な辛味を食べ物として認識し始めたのだ。
蓮華を口に運ぶ。
舌に触れた瞬間、鋭い辛味が走る。
だが――
「……美味しい。」
痛みの奥にある濃密な旨味が、以前よりもはっきりと感じられる。
辛味と旨味が拮抗し、互いを高め合い、舌の上で爆ぜる。
これが、正攻法で辿り着く味か。
狂化して食べた時とは比べ物にならないほどに美味しい。
蓮華を進めるたびに、胸の奥が熱くなる。
罪悪感はもうない。
これは逃げずに向き合い、積み重ねてきた結果だ。
「……ふぅ。」
額に汗が滲む。
身体が辛味を受け止め、処理し、旨味へと変換していく。
完食し、一息つこうとしたその時だった。
「随分と、板についてきたではないか。」
聞き覚えのある声が、背後から落ちてきた。
振り返ると、そこには泰然とした表情の綺礼が立っていた。
以前と同じ、しかしどこか満足げな目をしている。
「……綺礼。」
「正攻法で食べると宣言してから、どれほど経ったかと思えば。
……なるほど、ようやくその域に達したか。」
綺礼は僕の前の麻婆を一瞥し、わずかに口角を上げた。
「その表情。痛みを受け止め、なお旨味を味わう者の顔だ。」
「……まだ完全ではありませんが、前よりはずっと。」
「十分だ。辛味とは、克服した瞬間から究極の味覚へと変わる。
お前は今、その境地に立っている。」
綺礼はそう言うと、店主に向かっていつものように声をかけた。
「いつものを頼む。」
そして、僕の隣の席に腰を下ろす。
「バトエル。辛味を越えた先の旨味は、どうだ?」
「……最高です。」
「ふっ……それでいい。」
綺礼は満足げに目を細めた。
やがて彼の前にも紅い麻婆が置かれ、綺礼は迷いなく蓮華を口に運ぶ。
汗を流しながらも、恍惚とした表情で麻婆を味わう姿は、以前と変わらない。
だが、今日は違う。
僕もまた、同じ境地に立っている。
辛味という門番を正面から突破し、旨味の奥へと辿り着いたのだ。
蓮華を口に運びながら、僕は静かに呟いた。
「……ようやく、ここまで来れました。」
綺礼は汗を拭いながら、わずかに笑った。
「共に存分に麻婆を味わおうではないか。」
「ええ。………店主、麻婆豆腐のお代わりをお願いします。」
それからしばしの間、紅い湯気が立ち上る中で僕たちは黙々と蓮華を動かし続ける。
カチャカチャと食器と蓮華のぶつかり合う音だけが、静かに響いていた。
ーー数か月後。
僕と綺礼は泰山で麻婆を食べながら話していた。
ディンギルの姿である。
以前まではバトエルの姿で来ていたが、辛さに耐えれるようになったため、最近はずっとディンギルの姿で来ている。
「……綺礼。準備はいい?」
「無論だ。奴に、この世の真なる味覚を教えてやる時が来た。」
綺礼はいつもの虚無を湛えた目ではなく、妙に楽しげな光を宿していた。
その表情は、何処か愉悦を含んでいた。
「しかし、ギルが素直に食べると思う?」
「問題ない。奴は究極と煽りに弱い。
我らが揃ってこの世の至高の料理と称えれば、興味を示さぬはずがない。
………ましてや、逃げるのかと言えば王として逃亡は選ぶまい。」
綺礼は静かに笑った。
「では、行こうか。奴を麻婆の道へと導く旅路へ。」
綺礼が立ち上がり、黒いコートの裾を払う。
その仕草はいつも通り無駄がなく、しかし今日はどこか軽やかだった。
「ギルが、どんな反応をするのか……楽しみだね。」
綺礼の口元が、わずかに愉悦を帯びて吊り上がった。
「楽しみだとも。奴が麻婆に屈する瞬間を見られるのだからな。」
そうして、僕達は激辛麻婆豆腐を手土産にギルのところへと向かった。
ーー数分後。
僕と綺礼はギルの麻婆をもってギルの前にいた。
「究極の料理に興味はないか、ギルガメッシュ。」
綺礼がそう言うと、ギルが興味を引かれたようで、眉を上げ口を開いた。
「ほう?究極か、この
それで、その料理とは何処にある。不味かったらただでは済まさんぞ。」
「ふ、直ぐに用意する。お前もきっと気に入るだろう。」
そう言って、綺礼は愉悦の笑みを浮かべながら麻婆をギルに出した。
ギルは麻婆を見た瞬間、わずかに肩を震わせた。
そして、露骨に顔を歪め、冷や汗を流す。
「………なんだこの悍ましき物体は!?綺礼、貴様、巫山戯ているのか。
断じて食わんぞ!このようなもの料理と認めてなるものか!」
ギルがそう言って席を立とうとすると、綺礼がすかさず口を開いた。
「逃げるのか?ギルガメッシュ。まさか王であろう者が、
ただの料理に怯えて逃げようとはな。」
綺礼の言葉にギルの動きがぴたりと止まった。
王の威厳を纏った黄金の瞳が、ゆっくりと綺礼へと向けられる。
「……綺礼。貴様、今……何と言った?」
声は低く、静かで、しかし確実に怒気を孕んでいた。
だが綺礼は怯むどころか、むしろ愉悦を深めたように口角を上げる。
「聞こえなかったか?逃げるのか、と言ったのだ。
王を名乗る者が、ただの料理一つに怯えるとは……実に滑稽だ。」
ギルの眉がぴくりと跳ねた。
「……ほう。よかろう、綺礼。貴様がそこまで言うのならば――」
ギルは椅子を引き戻し、どっかりと腰を下ろした。
その動作は、まるで王座に座るかのような堂々たるものだったが……
その額には、明らかに冷や汗が浮かんでいる。
「ふ、ふん。この
料理ごとき、
そう言いながらも、ギルの手は震えていた。
ギルは震える蓮華を口元へと運んだ。
「…………っっっ!!?」
声にならない悲鳴が、ギルの喉奥で爆ぜた。
ギルの瞳が見開かれ、全身が硬直する。
次の瞬間、ギルは椅子ごと後ろへ倒れそうになりながら、机に手をついて耐えた。
「………な、なんだコレは。コレが料理であるものか!
この
蓮華を握ったまま硬直し、震える指先で机を掴んでいる。
その唇は真っ赤に染まり、膨らんでいた。
「あは、あはははは!ギル、何その顔。唇が腫れて真っ赤だよ。」
ギルの顔に耐えきれず僕が笑うと、ギルが顔をより真っ赤にして口を開く。
「……き、貴様ら……っ。よくも、この
声は震え、威厳はどこかへ吹き飛んでいる。
その姿を前に、綺礼は静かに、しかし確実に愉悦を深めていった。
「どうした、ギルガメッシュ。まだ一口目だぞ。」
「……っ、黙れ……綺礼……!
こ、これは……もはや料理ではない……災厄だ……!」
ギルは荒い呼吸を繰り返しながら、口元を押さえた。
その額からは滝のように汗が流れ、頬は真っ赤に染まり、目尻には涙すら浮かんでいる。
「ふむ。ならば、やはり逃げるのか?」
綺礼の声音は淡々としていたが、その奥には明らかな挑発が潜んでいた。
ギルの肩がびくりと跳ねる。
「……逃げる? この
ギルは歯を食いしばり、震える手で蓮華を再び掴んだ。
「ふ、ふん……見ていろ……綺礼……! この程度……我が舌で制してくれよう……!」
そうして、言峰の挑発に乗ったギルは麻婆を完食した。
腹を壊してトイレに籠ることになったのは、当然というべきだろう。
「おのれ────おのれ、おのれおのれおのれおのれおのれおのれ……!」
その後、呪詛を吐きながらトイレに籠るギルの姿が確認され、その近くで二人の人影が愉悦の笑みを浮かべていた
原作主人公の性別
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男
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女