気づいた時には遅かった。
急に寒気がして目を向けた窓の外、山鬼さんが黒い靄のようなものに包まれていく。
その黒い靄は数秒で消え、鬼としての山鬼さんが現れる。
古風な着物に身を包み、炎のような赤い髪を長く伸ばし、頭からは二本の角が生えたその姿はあの日の夜に見た鬼の姿と同じ。
分かってはいたことだが、改めて山鬼さんが鬼だということを実感する。
「……く…の……つ…」
山鬼さんが口を動かして何か言っているが、扉一枚を隔てた向こうにいる彼女の声は俺には聞こえない。
そのまま山鬼さんはどこかへ走り去ってしまう。
「おーい、ぼーっとしてるけど大丈夫?」
「あ、ごめん」
その様子を見ていると、俺がもともと話をしていた相手の佐藤茜が肩をたたいてくる。
「まあ大丈夫そうならいいけど。それでさ、その手紙先輩に渡してくれよ!自分で渡すのは…なんか恥ずかしすぎて無理だからさ」
俺が茜から受け取った手紙、好きな先輩へのラブレターを指さして彼女は教室を出ていった。
「分かってる。だけど、まずは」
山鬼さんを追いかけないと。
山鬼さんがどこに行ったのか分からない。
だけど、何となく当たりはついていた。
「山鬼さーん!」
町はずれの森の中、あの日の夜に山鬼さんを見つけた場所で俺は彼女を探す。
山鬼さんは鬼に変化してしまった時にはこの森で戻るまで過ごすと言っていた。
その言葉通りなら彼女がいるのはこの森のはずだ。
「来た…んですね」
その考えは当たっていた。
森の中の道から少し外れた場所にある開けた場所、山鬼さんはそこに座っていた。
その姿は鬼の時のものだが、会話ができるということは正気に戻りかけているのだろう。
「心配だったから。何かあったんじゃないかと思って」
頭を抱えて座り込む山鬼さんに近づこうとした。
このまま会話を続ければ落ち着くんじゃないかと考えて。
「…何かあった…ですか。…ふふっ、そうですね…ありましたよ。私が鬼に変わってしまうような何かが」
ゆらりと山鬼さんが立ち上がる。
長い髪が垂れ下がって顔を隠しているせいで表情は分からないが、何かまずい気がする。
「私は転校ばかりで友達がなかなかできませんでした。それに、友達になったとしても鬼としての私を見られたら絶対に嫌われるって思ってて」
ゆっくりと山鬼さんが近づいてくる。
その速さは亀の歩みのように遅い。
離れようと思えば簡単に離れることが出来る。
それなのに自分の体が石になってしまったかのように重く、動くことが出来ない。
「だから嬉しかったんです。私が鬼だってわかっても○○君が友だちになってくれて」
山鬼さんが俺の目の前まで迫る。
身長は彼女よりも俺の方が高いはずなのに、その姿は俺の何倍も大きいように見えてくる。
「○○君とお話をするのも楽しかったです。○○君と一緒にいると落ち着くことが出来て、幸せな気持ちになって」
ゆっくりと山鬼さんが両手を前に突き出した。
抵抗しようと思えば簡単に出来そうなくらい弱い力、そんな力であるにも関わらず、俺は後ろへ押し倒される。
「…だんだん○○君がいないと鬼の私を抑えられなくなっていきました。それに、○○君が他の女の子と話をしているともやもやしてきて。…2週間くらい前に教室の窓ガラスが突然割れたこと覚えていますか?」
口を動かすことが出来ない。
頭の中ではいくつも言葉が浮かんでくるのに、それを声に出すことが出来ない。
「覚えてますよね。皆さん驚いていましたし。…あれ、私がやったんです。○○君が女の子と話をしていているのを見てイライラして、つい鬼の力を使ってしまったんです」
倒れこむ俺の上に山鬼さんが腰を下ろしてくる。
その時になってやっと髪の隙間から彼女の顔が見えた。
笑っている。
「自分でも大変なことをしてしまったと思います。人前であんなことをしてしまうなんて。…だけど、それと同時に私分かったんです。○○君のことが好きなんだって。他の人に盗られたくないんだって」
笑っているのに怖い。
その瞳は黒く染まっていて、何も映さない。
その口は笑っているのに怒っているかのように見える。
「今まで鬼の私は私の中で暴れまわっているだけでした。でも、あの日から鬼の私が囁いてくるようになったんです。『誰かに盗られる前に自分のものにしよう』と」
俺の上にまたがる山鬼さんは体格的にそんなに重いはずがない。
それなのにまるで腹の上に岩でも乗せられているかのように感じてしまう。
「でも、鬼の私が提案してくる方法はどれも過激なものばかりで。だから、○○君に相談しようとしたんです。私の気持ちを伝えたい、私を助けてほしいと」
山鬼さんは俺の手に自分の手を絡ませ、その感触を楽しむかのように握ってくる。
「―なんなんですかあれ」
その手に一気に力がこもった。
万力のように締め付けてくる力に指の骨が悲鳴を上げている。
鬼の力が人間とは比べ物にならないということは山鬼さんから聞いていたが、自分の身で体験することになるとは思わなかった。
「お手紙持ってたはずですよね。…ああ、これです。これを持って本当に楽しそうに佐藤さんとおしゃべりをしていましたね」
そのまま山鬼さんの左手で両手首を頭の上で押さえられ、制服を探られる。
胸ポケットに入れていた手紙が山鬼さんに取り出されるのに時間はかからなかった。
山鬼さんはその手紙をじっと見つめる。
手紙を見つめる彼女の目は怒りと憎悪に染まっていて、
「ふふっ、かわいらしいハートマークのシールが貼ってあって…好きな人に送ろうって気持ちが私にも伝わってきますね。――本当に腹が立つ」
手紙はどこかへ飛ばされていく。
風なんて吹いていなかったはずなのに不自然なほど突然に吹いてきた強風によって。
「違…う、山鬼さ…んは誤解し…てる」
その時になってやっと声を出すことが出来た。
思うように動かない口を必死に動かして、あの手紙は先輩へのものだということ、俺はそれを渡してくれと頼まれただけだということを説明する。
「…」
俺が必死になって話す間、山鬼さんは無言でじっと見つめてくるだけだった。
表情から何を考えているのか読み取ることが出来ず、それがまた怖い。
「わかりました。○○君がそんなに必死に言うってことはあの手紙が○○君に渡すものではないということは本当なんですね」
山鬼さんはにこりと笑う。
やっと誤解が解けた。
どっと疲れが押し寄せてくる中、立ち上がろうとして――自分の両手が山鬼さんの手で押さえつけられたままだということに気づいた。
「山鬼さん?」
手に力を込めて抜け出そうとするが、がっしりと押さえつけられ、動かすことが出来ない。
「……考えたんです。今回は私の勘違いでしたが、今後はどうなるだろうって。○○君に他に好きな人ができるかもしれない。そもそもこんなことをしてしまった私のことなんて避けるようになるだろうって」
ゆっくりと山鬼さんが顔を近づけてくる。
「だから、決めたんです。このまま○○君が私だけのものになるようにすればいいって」
吐息がかかるほど近い距離に山鬼さんの顔がある。
じっと俺を見つめる目は獲物を狙う獣のようだ。
「最初は鬼の私が言うことは危ないことで無視し続けていました。だけど、鬼の私の言っていたことが一番簡単に望みを叶える方法だって気づきました」
艶やかな表情のまま山鬼さんの顔が近づいてきて、そのまま彼女の唇が俺の唇に重なる。
「だから、私はもう我慢しないことにします。欲しいものはどんな手を使ってでも手に入れるように、やりたいことは何でもやるようにします」
唇が重なったのはほんの一瞬、だがその一瞬で心を奪われてしまったような気分になる。
「今まで鬼の力は忌まわしいものだと思ってました。でも、鬼の力を受け入れた今はとっても気分が良くて、なんで今まで嫌ってたんだろうって!」
気分が高揚しているのか、山鬼さんはこれまでに見たことのないほど表情豊かに、声も聞いたことがないほどの大きさが出ている。
「…じゃあ帰りましょうか、○○君」
山鬼さんの一言、その言葉に体が勝手に動く。
俺は動くまいとしているのに、意思に反して体は山鬼さんのいる方へ向かっていく。
「ほら、こんな風に。何でも自分の思い通り。これからはどんどん鬼の力を使っちゃいます」
にこりと笑う姿はとてもかわいらしい。
それなのに、鬼の力を受け入れた山鬼さんの姿は恐ろしい。
「ぜーーーーーーったいに逃がしませんから」
一体これからどうなるのか、俺には分からない。
ただ、これから先、俺は彼女から逃げることは一生できないのだろうということだけは分かった。