Fate/Grand Rail - 千の異星紀行 作:TheLazyMan
かつて氷雪の大地に建ち、今は焼却された世界から隔絶されてしまった神秘の施設は、まだ傷跡を隠しきれずにいた。崩落した廊下は鉄骨がむき出しになり、応急の結界が震えながら魔力漏洩を防いでいる。焦げついた壁面を前に、技術班が黙々と魔術式の修復を繰り返す。
医療棟には包帯を巻いた職員がひしめき合い、消毒の匂いが廊下に充満していた。
食堂では破損した什器を片付け、簡素な配給を並べるスタッフの背に疲労が濃い。
幾度も停電を繰り返す光源は不安定に瞬き、その度に人々の心臓が強張る。
管制室は未だ計器の半分が動作せず、地球儀型の魔術演算機は沈黙したままだ。
それでも人々は歩みを止めない。
壁に貼られた「修復計画」の表には、赤字で進捗率が刻まれていた。
――カルデアは、辛うじて前へ進もうとしている。
作戦司令室は、爆心地のひとつだった。
天井は半ば崩れ、壁には黒い煤がこびりつき、魔術回路は焼け焦げた蛇の抜け殻のように散乱している。大型演算機――カルデアの頭脳に等しいそれは無残に裂け、赤黒い結晶が破片となって床に散らばっていた。
焦げた鉄と薬品の臭いが鼻を刺し、足元の床板は一歩ごとに軋みを上げる。
ここは、最も守られるべき場所であり、最も深く傷つけられた場所だった。
その中心に、一人の医師が座っていた。白衣は煤で汚れ、眼の下には濃い隈。
――ロマニ・アーキマン。
常は軽口ばかり叩いている男は、今や重い書類を両手に抱え、沈黙のままサインを重ねていた。
報告書には無惨な文字が並ぶ。――「死亡者数」、「損壊率」、「修復未定」。
それでも彼は立ち止まらない。
「炉心の応急修理は完了……負傷者の治療も終息傾向。……よし、これで」
声は小さく、だが確かだった。
彼は己の心を奮い立たせるように、最後の印をペン先で記し、深く息を吐いた。
「みんなを集めよう。……せめて、
◇
作戦司令室。その中央広間。
かつてマスター候補のコフィンを設置していた清冽な空間は、今や鎮魂のために開かれていた。
床一面に並ぶのは、百を超える亡骸。
木の棺もあれば、白いシーツに包まれただけのものもある。
大きさも形も揃わず、中には布の下から人の輪郭を想わせるものもあった。
それらは無言のまま並び、ひとつひとつが痛烈な欠落を訴えていた。
――肉片ひとつ残さなかった他の仲間たちの分も弔ってほしい、と。
集まったスタッフたちは、皆、深い影を背にまとっていた。
包帯を巻いた腕を押さえながら立つ者。血に濡れた制服のまま、ただ祈りに来た者。
誰もが口を閉ざし、ただ沈黙だけが支配している。
彼らの背後には、霊基を現界させた英霊たちが整列していた。甲冑の輝きも、宝具の煌めきも、この場では不思議と霞み、ただ厳かな存在感だけが漂う。
本来、カルデア式の英霊召喚によって召喚された彼らの存在を維持するためには、カルデアの炉心からの魔力供給が必須。霊体化を解除するだでけも魔力消費効率は悪くなり、それは損耗の著しい炉心にとって好ましい状況ではない。さりとて、示すべき敬意を示さずして、いかに英霊でいられようか。最期の瞬間まで世界の使命に殉じた人を祀るのは、人として当然の責務ではないだろうか。英霊たちが己の姿を現すのは、その意志の表明であり、カルデアに対する揺るぎのない連帯であった。
居並ぶ人々の最前列には、藤丸立香とマシュ・キリエライト、そして異邦の来訪者、アラベルが立っていた。彼らの胸には、言葉にし難い痛みと決意が同居していた。
――かつ、かつ、と。
響く靴音に皆が目を向ける。彼らの視線は、中央へ進み出たロマニへと向けられる。
彼は深く息を吸い、言葉を選ぶようにゆっくりと口を開いた。
「みんな。ここに眠る仲間たちは……僕たちの未来を繋ぐために、その命を差し出した人たちです。僕たちは、彼らの犠牲の上に立っています。……どうか、その安らぎが永遠であるように、共に祈りを捧げてほしい」
その声は震えていたが、広間のどこまでも届いた。
次の瞬間、壇上の魔術陣が淡く輝き、炎が立ち上る。
青白い火は静かに広がり、亡骸を一つひとつ包んでいく。
燃え上がることなく、ただ穏やかに、灰へと還していく。
炎に照らされる人々の瞳は、赤く潤んでいた。
嗚咽も声も漏れない。ただ無音の祈りだけが、空間を満たす。
いつの間にか姿を見せてきた白い獣ですら、冥福を祈るように目を閉じていた。
灰が舞い、天井の高みに昇っていく。
その様は、まるで夜空に散る星々のようであった。
そして、誰からともなく頭を垂れる。
全員が沈黙をもって死者を悼む。
――この祈りこそが、カルデアに残された唯一の灯火であった。
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特異点F……燃え盛る冬木の特異点が消滅してから、数日後。
人理から隔絶され、焼却された世界から孤立してしまったカルデアの内部は、レフ・ライノールが起こした爆破テロの爪痕が、そこかしこに残されていた。
――
最も深い傷を負った、カルデアの心臓部たる場所。正式名称を中央管制室という。
天井は半ば落ち、主制御盤は黒焦げにひしゃげている。
かろうじて残った補助回路をかき集め、スタッフたちは仮設の端末を並べて最低限の機能を再建していた。だが、かつて誇った未来観測装置シバの出力は十分の一にも満たない。
本来なら司令室中央の広間に、レイシフト作戦の実行前には、コフィンと呼ばれる鉄製の棺が48基も置かれていた。それが今や2基しか置かれていない。残りの46基はレイシフト運用に耐えられないほどの損害を受けてしまい、そしてそれらに入っていた他のマスター候補は奇跡的にも死者こそ出ていないが、レフの冷酷な攻撃のメインターゲットとなり、全員が瀕死の重傷を負っていた。ロマニの判断で、コフィンを一時的な凍結治療用の容器へと転用し、瀕死のマスター候補らを再収用していなければ、更なる悲劇が生まれていただろう。
まさに作戦司令室は、焼けただれた心臓が辛うじて鼓動を刻む場所のようでもあった。
――
カルデア全体を支える、エネルギーの炉心部。
爆心の揺れにより炉心の外殻が歪み、魔力流路の半分が閉ざされた。
修復班が絶え間なく魔力冷却剤を注ぎ、暴走だけは防いでいる。
現在の出力は通常の二割未満に落ち込み、あちこちの廊下の灯は夜ごと揺れ、不安を煽った。
だが、それでもプロメテウスの火は消えてはいない。それがスタッフたちの唯一の救いだった。
――
マスター候補の戦闘訓練や演習のために用意された、カルデア内の専門訓練施設。
爆発の衝撃で壁面が裂け、内部の演算回路は何基も停止した。
シミュレーターを起動する装置自体は動いているものの、訓練用の幻影投影はノイズを伴い、時折、見たことのない怪物のような影が走る。
本来なら危険すぎて封鎖すべき区画だが、人理焼却に立ち向かう中、英霊との連携訓練は必須。
スタッフは安全を保証できないまま、最低限の使用を再開していた。
――
吹き飛んだ棚からは皿が幾百と床へと滑り落ちて、調理器具の多くが破損し、今は温めるだけの簡易食や、非常食として用意されていた固形食しか提供できない。
それでも、配膳の列を作る人々の間には、ほんの僅かにだが笑みが戻る。
温かいスープの匂いは、冷えた心をわずかに癒すからだった。
――
幸いにして直撃を免れた医務室は、今や最も活気のある場所だった。
包帯と薬の匂いが充満し、負傷者のうめき声と看護師の足音が絶えない。
ロマニは休む間もなく治療に奔走し、スタッフたちの心の支えとなった。
彼の白衣だけは、灰の中でも唯一清らかに見えた。
――
各部屋はほとんど無傷で残った。
だが、帰るべき住人のいない扉が増えた。
扉に掛けられた名札を見るたび、仲間を失った現実が胸を突いた。
今はただ、残された者が静かに横たわるだけの場所である。
――
廊下には爆風の跡がまだ残り、壁のひび割れからは冷気が忍び込む。
足音を響かせるたび、煤がぱらぱらと落ちる。
それでも、歩く者は止まらない。
ひび割れを修繕する者、資材を運ぶ者、ただ静かに祈りながら歩く者――。
廊下は、カルデアの傷の深さと、生き延びた者の意志を等しく映していた。
――そして、
カルデアにおける最大の損失は、人の命だった。
――カルデアスタッフ総員 全410人。
かつて、研究員・技術者・魔術師・医療班――それぞれの分野で集められた英知の結晶。
だが今、彼らの総数はもはや誇りではなく、残酷な算術へと変わった。
死者:153人
爆心に近く、逃げる間もなく炎に呑まれた者たち。
爆破による設備の崩落に巻き込まれた者たち。
事故後に起きた漏電、魔力汚染に被曝して、無残にも脈を止めてしまった者たち。
そして、いかなる治療による状況改善の芽が見えず、安楽死させられた者たち。
名前を確認することさえ困難な遺体も多く、棺の中身は白布で覆われた影でしかなかった。
それでも一人ひとりの存在を忘れまいと、仲間は記録簿に震える手で署名を残し、先日の合同葬儀へと送り出していた。
行方不明者:172人
爆風に吹き飛ばされ、崩落した瓦礫に埋もれたままの者たち。
断絶された世界との繋がりを調査すべく、勇敢にもカルデアの外に出ようとして、帰った来なかった者たち。
そして、レフが呼び出した肉の壁に呑みこまれて、それとともに消失した者たち。
まだ生きているかもしれない、という希望は、同時に二度と帰らぬかもしれないという絶望の裏返しだった。
重傷者:39人
命は取り留めたものの、四肢を失い、あるいは焼けただれて横たわる者。
医務室のベッドはすべて埋まり、ロマニの目には連日、白い包帯の列が焼き付いて離れない。
その痛みに耐える呻き声が、カルデアの夜を覆っていた。
――
未来を託されるはずだった人材たち。
しかし、爆心の衝撃と霊子転送の反動は若き候補者たちを襲い、藤丸立香を除く47名は瀕死の重傷を負った。
彼らは肉体の保存が限界を超え、緊急の措置としてコフィンという名の冷凍睡眠装置に収められている。
凍てついた46基の鉄棺と、予備の1基。
それらの中で眠る姿は、まるで時代そのものが凍りついたかのようだった。
――唯一、無傷で生き残ったのは、ただ一人。藤丸立香。
その事実は奇跡であると同時に、残酷な指名のようでもあった。
復旧は道半ば。
だが、この荒廃の中でも人々は立ち上がり、死者のために、そして生き残った自分たちのために、少しずつ歩みを進めていた。
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魔力供給炉――通称、プロメテウスの火。
爆発の余波で一時は完全停止したその心臓部は、いまも不安定な脈動をくり返しながら唸っていた。
白い霜が張り付いた冷却管、焼けただれた配線、絶え間なく散る火花。
点検用通路の通用口が開き、防護服に身を包んだスタッフ数人が姿を現す。
「冷却材、二次充填まで終わりました。……でも、循環系の圧力値が安定しない」
「安定するまで充填を続けるしかないだろ? ……充填剤の予備は?」
「予備は残り三本。次の補給が来るまでは、節約しながら回すしかない」
「待ってるだけじゃ持たないって。ゼロになる前に、崩壊した倉庫からモノを引っ張り出す作業をしないと……何人か人を回すか」
「班長。クォーツフィラーで代わりに充填するのは?」
「だめだめ。まだどこも不安定なんだから。アレっていちど加工したら元に戻せないだろ? 隙間を埋めるのにゴツい塊を使うのは、周りの地盤が安定しているのが前提だからだ。分かるな?」
通路脇で、火花の音と混じるように、スタッフらが言葉が次々と交わされていく。
張り詰めた空気の中にも、互いの呼吸だけで動いているような、必死さがあった。
そんな場へ、背から下げたバッグを揺らしながら入ってきたのはアラベルだった。
バッグの中には、ブロック状の簡易食と水のボトル。
「ハーイ、差し入れだよ。腹が減ってたら頭も回らないでしょ?」
彼女がバッグを下ろすと、スタッフたちは一瞬目を丸くしたが、すぐに笑みを浮かべて受け取った。
「助かる……こんな時に気が回るなんて」
「ありがとう、これで夜まで持ちそうだ」
受け取った一人が、ふとアラベルを見て首をかしげる。
「……あれ? 服装、変えました?」
アラベルは頷き、露わとなった銀髪を軽く撫でた。
彼女が来ている服装は、全体的なシルエットは特異点のときと同じだ。しかしコートは深緑のフードの無いものに変えたり、その内側は半袖と半ズボンの軽装に変わったり、武装は腰帯の見える位置や太腿のベルトに括りつけたりと、動きやすさを優先して仕立てられたものとなっている。それに胸の谷間やら臍を露わにするなど、肌の露出が多い。――マシュの戦闘服への対抗心なのかは、本人のみぞ知る。
アラベルは肩をすくめ、軽口で返した。
「これね、
スタッフの一人が、わざとらしく咳払いをして笑う。
「いやいや、そんな格好は……あの、藤丸くんにはちょっと刺激が強すぎじゃないですか?」
「心配しなくても、あの子にはマシュが似合ってるさ」
笑い声が廊下に余韻を残す――その時だった。
「――アラベル! アラベル・ヴォルフスベイン!」
奥の暗がりから、やけに大きな声が響いた。
見ると、ロマニがメガホンを抱え、こちらに手を振っている。
「君を探してたんだ、ちょっと来てくれる!?」
場の空気は一気に切り替わり、スタッフたちは肩をすくめながらアラベルを送り出すのだった。
――場所は変わって、カルデアの奥深く。
爆破の被害を受けながらも奇跡的に残った一角――そこは大小の魔術機械がひしめく工房だった。
そして水晶の輝きと歯車の音、魔術陣の光に照らされて立つ人物が一人。
「やあ、やっと来てくれたね」
作業台から顔を上げたその姿は、まるで一幅の絵画から抜け出たかのようだった。
深い群青のローブと、星を散りばめたかのような装飾。
背に流れる長い栗色の髪、柔らかな微笑を浮かべた唇。
男性とも女性ともつかない中性的な気配を纏いながら、存在そのものが
ロマニが隣で小声に囁く。
「さっき気づいたんど、いつの間に服を変えたんだい?」
「今さら気づいたの? 遅すぎ。デリカリー足りなくない?」
「でっ……でり……」
「あはは! ロマニ、言われてるじゃないか。いつも言っているだろう? いつも生真面目な仕事人間でいても人生が退屈になるだけだって。もっと美術を嗜んでみてはどうかな?」
「うぐ……ぜ、善処するよ……」
感覚の優れた英霊の前では、小声での内緒話はたやすく解読されるものだ。
ダヴィンチは楽しげに椅子を回転させ、万金の価値を超える至高の美の瞳をまっすぐに向ける。
その視線は好奇と寛容をないまぜにした、芸術家の光を帯びていた。
彼女の目の前の作業台の上には、アラベルの愛銃――短銃と、可変式の狙撃銃が分解され、パーツごとに精密に並べられている。
「さて、アラベル。君の依頼は完了したよ。この星の外の異文明で作られた工芸品に触れるなんて、芸術家、冥利に尽きるとはこの事だった。
それで内容なんだけど……発射機構、変形機構、各部動作、すべてが完璧。あれだけの激しい連続使用に関わらず、気になったのは可動部に詰まった埃の塊くらい。さすがは星海の武器だ。
ただ――残念ながら、弾丸のストックがゼロだね」
アラベルの瞳が一瞬揺れる。
ダヴィンチは指先で弾倉を持ち上げ、乾いた音を響かせた。
「素材が特殊すぎる。星海の世界からしか得られないものが使われている。
地球上では代替不可能。カルデアの倉庫を探したけど、似た性質の鉱石すら見当たらなかった」
言葉は柔らかいが、その事実は冷徹だった。
武器は生きて帰るための命綱――それが役に立たない。
「だから提案がある」
ダヴィンチは笑みを崩さず、指を鳴らした。
背後で光のパネルがいくつも開き、複雑な設計図が浮かび上がる。
「君の銃を、こちらの技術に合わせて
外部世界への門が閉じられた以上、星海の素材に依存する兵装は不安定。
代わりに――地球の魔力を使った武装に組み替えれば、君自身の負担も減る。
科学と魔術の融合、それが私の得意分野でね」
アラベルは視線を落とし、銃を見つめた。
無数の戦場を共に生き抜いてきた、己の手と一体となった武器。
それが誰かの手で大きく姿を変えることを、心が許さなかった。
「……悪いけど、遠慮しておくよ。
これはオレの相棒。どんなナリになってもいいけど、それはオレの手でやらないといけない。
他人の手で姿を変えられるのは――いくら君だろうと、気に入らないかな」
言葉は静かだったが、その芯は揺るぎない。
ロマニが困ったように眉を下げる。
だが、ダヴィンチはその答えを予期していたかのように、不敵に笑った。
「やっぱりね。なんとなく、そう言うと思った」
彼女は作業台の下に手を伸ばし、布をかぶせた長いケースを取り出す。
布を払うと現れたのは――アラベルの愛銃と寸分違わぬ姿をした、二挺の銃だった。
ただし、細部の装飾や魔術刻印が微妙に異なる。
星の輝きではなく、地球の魔力に応じて淡く光を帯びる仕組み。
「君の銃を真似た、
どうかな? 本物の天才はね、オリジナルを尊重した上で複製するものなんだよ」
工房の灯りが、二挺の銃を照らし出す。アラベルは息を呑み、その瞳に揺れる火を見つめた。
――かくして一同は、カルデアの廊下へと出でる。
向かう先は、シミュレータールーム。つい数時間前に復旧後のベータテストを完了させ、低出力のシミュレートであれば実行できるという報せが入ったばかりであった。
冷却装置の低い唸りと、修復工事の余波が漂う中、アラベルはケースに収めた新しい銃を携え、ロマニとダヴィンチに導かれて歩いていた。
ふと、空間が揺らぎ、しなやかな肢体をした男が姿を現す。
クー・フーリン――先ほどまでは霊体化していたはずの彼が、物珍しげに口笛を吹きながら壁に寄りかかる。
「へえ、そいつがお前の新型か。俺も見物させてもらおうか」
アラベルは肩をすくめ、軽口を返す。
「魔力の無駄遣いだよ、わざわざ霊体化を解除なんかして。廊下で槍を振り回したら工事の人が泣くよ」
「俺の槍は丈夫で繊細だ。ぶつける相手を間違えることはねえさ」
クー・フーリンは白い歯を見せて笑う。アラベルも負けじと鼻で笑い返す。
「へえ、
「そいつは光栄だ。野生の狼みたいな野蛮な女にそう言われりゃ本望だな」
――冗談とも挑発ともつかない軽口の応酬。
ロマニは苦笑を浮かべ、隣のダヴィンチに助けを求めるように視線を投げる。
しかしダヴィンチは歩きながらも設計図をホログラムに投影し、新型銃の構造を延々と解析していて、全く耳に入っていない。
ロマニはふと胸の奥に、説明できない疼きを覚えた。
それは、何かが始まろうとしている予感に近い痛みだった。
――或いは単なる
重い扉が開き、一同は広いホールに入る。
中央には魔術式で形成された円環、空間そのものを仮想世界へと転写するカルデアのシミュレーターには、アラベル一人のみが入り、他の一同はガラス窓越しに制御室の中で待機している。
「今回は出力を絞ってあるよ。初歩的な戦場シナリオさ」
ダヴィンチが指を弾くと、周囲の風景が変貌した。
――赤い炎が夜を染める、冬木の街並み。
瓦礫と焦土に覆われ、骸骨の兵がぞろぞろと這い出してくる。
戦慄と焦熱の幻影が、複数の骸骨へと姿を変えて、現実のようにアラベルを取り囲んだ。
「……ふぅん。それっぽい雰囲気になるんだね。……敵も、あの街で見た骸骨兵か」
『その通り。あの特異点で記録された戦闘データを流用して――』
その言葉が紡ぎきられるより早く、アラベルはケースから短銃を取り出して構える。
――次の瞬間。
銃口から迸ったのは――黄金の奔流ではなく、
雷鳴に似た音が響き、骸骨兵の頭部を貫いた光弾が砕け散る。
火薬の爆ぜる匂いではなく、霊子の匂いが漂う。
「……っ! すごい威力だ!」
ロマニが思わず声を上げる。
彼の目には、魔力兵装がこれほどまで即効性と破壊力を示すとは想定外だった。
だが、銃を握るアラベルの表情は険しい。
「火力はあるけど……弾速が遅い。
反動もバランスが違うし、照準の感覚もズレる。ストックも微妙に重心が違う。
――こいつじゃ、オレの求めてる撃ち方ができない」
冷徹に不満点を並べるその態度に、ロマニが息を呑む。
しかしダヴィンチはむしろ嬉しそうに手を打った。
「その通り! だからこそ改良の余地がある!
テストに協力してくれるなら、もっと君に相応しい銃に仕上げられる。
どうだい、アラベル?」
「……いいよ。肉体労働ばかりで飽きていたし。納得できるまで、付き合ってあげる」
アラベルは銃を回し、冷ややかに息を吐く。
だがその瞳には――わずかに闘志が宿っていた。
銃口が再び骸骨兵へと向けられ、青白い閃光が夜空を裂いた。
◇
特異点Fの炎と硝煙をくぐり抜けた藤丸にとって、今のカルデアの地下施設は、どことなく特異点で見た光景と似たものを感じるところがあった。
至るところに焦げ跡と瓦礫の山が残り、壁のひび割れからは未だに電線がショートして火花が散っている場所もあり、照明の明滅が不安を煽っている。
それでも、手足を動かせる数少ないスタッフたちは、自分たちの手を止めなかった。
破壊された区画の安全確認、魔力炉の制御系統の点検、そしてなにより人理を救うため、レフが生み出した人理焼却の楔がどの歴史に打ち込まれているか懸命の走査をしている。
皆がそれぞれに、自分にできることを模索し、それらを必死に続けていた。
しかし藤丸はといえば、彼らのように特別な専門知識もなければ技術もない。
彼にできるのは、瓦礫を片付け、崩れた資材を運ぶことくらいだった。カルデアに残されたたった二人のマスターといっても、五体満足で動ける人間ということに変わりない。故に、肉体労働でもって、スタッフらの負担の軽減をしようと考えたのだ。
特異点から帰還した次の日から、毎日のように汗で前髪を濡らし、指に切り傷を作りながらも、それでも手を止めない。その胸中には常に、
瓦礫を抱えて運ぶ藤丸に、マシュが声をかける。
「先輩、無理はしていませんか?」
「……してるよ、多分。でも、しないわけにもいかないだろ」
苦笑混じりの返事に、マシュは一瞬言葉を探して、それから小さく微笑んだ。
「それでも先輩が動いてくださるから、皆さんもついてきてくださるんです」
藤丸は思わず目を逸らし、瓦礫をさらに抱え込んだ。胸の奥で、言い知れぬ熱が芽生える。
――その翌日のことだった。
胸に宿った熱をどのようにしようか悩まされて、頭に別の熱が灯ろうとしていた時のこと。
小さな報告書を手にしたマシュが駆け足気味となり、食堂跡で片付けに追われていた藤丸に駆け寄る。
「先輩! 朗報をお持ちしました。
「栽培室?」
「あっ、先輩には伝えていませんでしたね。栽培室とは、カルデア内に設けていた作物を栽培するための部屋です。食糧供給を外部に依存し過ぎないために、魔術で遺伝子改良や品質改良を施した野菜を育てていたのですが、今までは瓦礫のせいで栽培室に通じる通路が塞がれていて、立ち入りができませんでした。しかしスタッフの方々や、ジャンヌさん達のお手伝いのおかげで、栽培室までの通路が確保できたのです」
マシュの言葉に同意するように、ジャンヌが食堂へと姿を現す。
炉心の出力が日に日に調子を取り戻していることもあって、今では霊体化を解いて活動する時間の方が多くなっている。ダ・ヴィンチいわく、英霊の数がニ・三騎程度であれば常に姿を現してもいいとのことだったが、カルデアの窮状を慮って、ジャンヌはこまめに霊体化を維持していた。
「ええ。マスターのために微力を尽くせればと思い、手伝わせていただきました。こう見えても力仕事は得意なんですよ」
「それは、特異点内でよく理解している、といいますか……」
「うぐっ……せ、聖女のイメージにそぐわないじゃないですか。祈りを捧げるのと同じくらい力業が得意だなんて」
「ですがジャンヌさんは生前、フランスの農家の生まれでいらっしゃいましたし、当時の農耕技術を考慮しても、重たいものを抱えて活動されるのは得意だというイメージがありまして」
「わ、私のことはもういいです! 今は栽培室のことです。さっきスタッフの方と様子を見てきたのですが、こまめな管理が必要な種類を除いて、ほとんどが青々と育っていました。これで、少しでも皆さんに食事の喜びをもたらすことができるでしょう」
喜びを隠さず話すジャンヌに、藤丸は目を丸くし、やがて大きく息を吐いた。
「……よかった。これで、なんとかなるな」
「ええ。神の恵みですね。荒廃の中に残された、この小さな緑は……きっと希望になります」
静かに手を胸に当てて、ジャンヌは応える。そこで藤丸が口を開いた。
「じゃあ……食堂を、もう一度作ろう。人が集まれる場所を。テーブルも椅子も壊れちゃったけど、廃材を使えば、なんとか形にできるはずだ」
マシュが驚いた顔をし、それから力強く頷いた。
「はい……! 先輩、私もお手伝いします」
「ええ、よい提案です。祈りの場を失っても、人の心を結ぶ場は作れるはずです。この食堂こそ、私たちの祈りの形になるでしょう」
そうして、三人はスタッフに声をかけ、廃材を集めてはひとつひとつ磨き、組み合わせた。
藤丸は腕が筋肉痛に悲鳴をあげ、マシュは指先に小さな火傷を作った。それでも、誰ひとり弱音を吐かなかった。
やがて、他のスタッフたちがその姿を見て声をあげる。
「彼らに任せきりにはできない」
「俺たちも動くぞ」
整備班は訓練室の修復に乗り出し、解析班は特異点Fの戦闘データを必死に整理し始めた。
瓦礫の中に小さな灯がともるように、カルデア全体が熱を取り戻していく。
――だが、その熱はやがて人々を無理に駆り立てすぎた。
連日の徹夜、疲労でふらつくスタッフ達の姿を見ると、さすがのマシュも現状を見かねて、真剣な顔で制した。
「皆さん。もう、これ以上はだめです。無理をすれば、皆さんの努力が無に帰してしまいます。どうか、自分の体も大切にしてください。私たちは……これから長い戦いに挑むのですから」
その必死な言葉に、スタッフたちは互いに顔を見合わせ、気まずそうに顔を見合わせるのであった。
◇
カルデアの一角に設けられた工房は、深夜にもかかわらず淡い光に満ちていた。
立体投影機に浮かぶのは、特異点F――燃え盛る冬木で収録された戦闘記録。戦う英霊たちの姿と、彼らが交わした断片的な会話が、透明な窓のように虚空へ映し出されている。
ダ・ヴィンチは長い指を顎に添え、特にひとつの言葉に注意を注いでいた。
レフ・ライノール。その特異点を作り出した元凶にして、人理の裏切り者。
特異点が消滅す直前、彼がカルデアに対して残した言葉をリフレインしていたのだ。
《我が指導者は――かつて、遥か遠くの宇宙から迫る
――いかなる魔術を束ねようと、いかなる軍勢を築こうと……絶対に敵わぬ相手だと》
「……宇宙からの脅威、か」
ダ・ヴィンチは小さく呟いた。
それはただの虚勢なのか、それとも、彼が仕えていた
人理を焼却するほどの意志と技術を持つ者が、この星の外に存在するというのか。
彼女の瞳は、分析画面を透かして、さらに遥か遠くの星々を思うように揺れていた。
――その時、工房の扉が軽くノックされた。
「……失礼するよ、レオナルド」
現れたのはロマニ・アーキマン。両手に載せたトレイには、湯気を立てるマグと、軽食がいくつか。
「いくら英霊でも、研究続きじゃ疲れるだろうと思って。差し入れ、持ってきた」
ダ・ヴィンチは微笑み、軽く肩をすくめてみせる。
「ふふ、気配りができる医者だこと。英霊に休息は不要だよ? もっとも、君の心遣いはありがたく受け取らせてもらうけどね」
差し出されたマグを受け取り、湯気の香りを楽しみながら、二人は投影画面を見上げた。
「……ところで、少し言わせてもらうけどね」
ロマニが眉を下げ、ため息をついた。
「アラベルさん、あれからずっとシミュレーターを回してるだろう? あれで結構な魔力を消費してるんだ。炉心の今の安定度を考えると、もうちょっと節約してくれないと困るんだよ」
「ふふ。なるほど、現場責任者らしい愚痴だね。だがロマニ、心配はいらないさ。魔力炉は確実に回復傾向にある。それに、これからはもっと大きな消費が常態化する。早いうちに慣れておかないと、後で現場で慌てることになるよ」
「……言うと思った」
ロマニは肩をすくめたが、その眼差しには安堵もあった。
二人は改めて投影されたデータに視線を戻す。
「復興の進捗は?」とダ・ヴィンチ。
「まだ被害は大きいけど……管制系統は最低限動くし、シェルターとしての機能も維持できてる。軽症者も軒並み持ち場に戻りつつある。重傷者の治療についても……まぁ、ボチボチかな」
ロマニの声には疲労の色が濃い。それでも諦めを許さぬ責任感が、彼の背筋を支えていた。
ダ・ヴィンチは小さく頷き、瞳を細めた。
「ならば、まだ希望はある。……だがもしも、レフが言い残したように、星の外から脅威が迫っているのだとしたら、この戦いはほんの序章に過ぎないだろうね。もっとも、今は人理焼却をどうにかしないとだけど」
工房の静けさに、二人の会話だけが穏やかに流れていく。
その時、ダ・ヴィンチは不意に言った。
「……ところで、人理焼却計画の核心が見えてきたよ」
「――――はぁっ!?」
ロマニは飛び上がるように驚き、手にしていたマグを取り落としかけた。危うく書類にこぼれそうになった中身を慌てて押さえ込み、目を丸くする。
「ちょっ、ちょっと待って! 今なんて言った!?」
「落ち着きなさい、ドクター」
ダ・ヴィンチは片手をひらひら振って宥め、しかし眼差しは真剣だった。
「これはあくまでも推論に過ぎない。けれど、状況証拠は揃ってきているんだ」
彼女は投影機に指先を滑らせ、光の層を切り替えていく。
「結論を簡単にまとめて言おう。私は人類史全体を走査した。その結果、
「それって……」
「そう。レフと、彼の指導者が打ち込んだであろう楔――人理を焼却するための
ダ・ヴィンチはマグカップをゆっくりと傾けて中身をすすりながら、声を落ち着ける。
「最初の特異点の座標確定には……
「……いや、まだ本格的な訓練は無理だ」
ロマニは即座に反論する。
「電力も魔力もまだ十分じゃない。シミュレーターはしょっちゅう落ちるし、アラベルさんなんかもう何度も強制終了を食らってる。あの状態じゃ、特異点内での戦闘を想定した訓練なんて……」
「ロマニ、君は誤解している」
ダ・ヴィンチは口角を上げ、どこか愉快そうに言った。
「シミュレーターに頼らずとも、基礎訓練はできるのさ」
そう言って、彼女は指先を軽く鳴らした。
空気が揺らぎ、赤い影が霊体化から姿を現す。気怠げそうに立つ英霊――クー・フーリン。
「……悪ぃな。ちょっと盗み聞きしちまった」
軽く頭をかきながら謝罪するその姿に、ロマニは「えっ」と声を詰まらせる。
だがダ・ヴィンチは気にした様子もなく、にっこり笑った。
「いいじゃないか。むしろ話が早くて助かるよ。クー・フーリン、君に頼みたいことがある。
藤丸とマシュ、それからアラベルの基礎トレーニングメニューを作って、監督してほしい」
槍兵は一瞬だけ目を細め、それから不敵に笑った。
「ほぉ……面白ぇじゃねぇか。ちょうど暇してたしな。
……ま、安心しろよ。軽く汗をかかせてやるつもりだ」
「……軽く、ね」
ロマニは額に手を当て、先の光景を想像してすでに頭を抱えていた。
◇
比較的被害の少なかった廊下の一角では、異様な熱気が生まれていた。
そこは応急の訓練場。壁際には給水用のポッドと簡易マットが置かれ、床には汗が飛び散り光っている。
「――っ、はぁ、はぁっ……!」
「がんばってください、先輩!」
息を切らす藤丸と、声で支えるマシュ。二人は交互にスクワット、ダッシュ、腕立て伏せなど、基礎的なトレーニングを繰り返している。
ケルトの大英雄、クー・フーリンが立案した「ズブの素人でも死ぬ気でやればこなせる」基礎トレーニングであった。
マシュの呼吸は一定を保ち、時折、額に滴る汗をタオルで拭う余裕もある。特異点Fへの突入以前から戦闘トレーニングを受けていた彼女にとって、それらは難なくこなせる内容だった。
だが藤丸の方は顔を真っ赤にし、喉からは荒い呼吸が漏れ続けている。今までの彼の人生において……彼の身体能力から鑑みるという点において、これほどまでに密度の高いトレーニングをした経験はなく、すぐに体力の限界がきていた。特異点Fでの活躍は、火事場の馬鹿力によるものが大きかったともいえる。もっとも、そのような困難でも弱音を吐かない素質を見抜いたからこそ、クー・フーリンは彼用のメニューを考えたのだが。
藤丸は肩で息をしながら必死に腕を伸ばし、ランニングを続けようと足を前へと踏み出す。
「おいおい、それじゃあ雑魚にすら食い殺されるぞ!」
鬼のコーチ役・クー・フーリンが、腕を組んで喝破する。
マシュが心配そうに声をかけかけた瞬間、鋭い眼が彼女を制した。
「おい、盾持ち。情けは男のためにならん。こいつは今、甘えを捨てるかどうかの境目に立ってんだ。黙って見てろ」
その言葉にマシュは唇を噛み、拳を握り締めて引き下がる。
一方の藤丸は、全身を震わせながらも、床に膝をつきかけた自分を必死に支えた。胸の奥で燃えるものを確かめるように、歯を食いしばり、震える足を無理やりに立ち上がらせる。
「……まだ、終わってない……!」
声にならぬ声で自分を叱咤し、再び前へと一歩を踏み出した。
廊下に響くのは、若きマスターの荒い息と、靴底が床を叩く力強い音。復興を進めるカルデアの空気と重なり合い、そこには確かな「前進」の手応えが生まれつつあった。
その様子を、アラベルは壁に寄りかかりながら眺めていた。
疲労で膝を震わせながらも立ち上がろうとする藤丸と、それを必死に支えようとするマシュ――まるで子鹿とそれを庇う母鹿のような光景は、彼女にとって訓練というよりは舞台劇に近い。
彼女の口元には、面白いものを見つけた子供のような笑みが浮かんでいた。
「……なあ、アラベルも少しはやってみたらどうだい?」
ロマニが、手にしていたタブレットを下げながら声をかけてきた。
医務室から飛んできたのか、白衣のポケットからはメモ用紙がはみ出している。
「クー・フーリンがせっかく作ったメニューなんだし……一応、適性を見せる意味でも」
「もうやったよ」
アラベルは軽く肩をすくめる。
「……始めたら、ほら、うちの英霊が藤丸の方に張り付いちまってさ。放っておかれたわけ」
実際、彼女はさっさと全メニューを終えてしまい、クー・フーリンに「鍛える必要なし」と烙印を押されたのである。
なおも食い下がろうとするロマニに、アラベルはわずかに冷たい影を帯びた瞳で言い放った。
「……やりたくない。
短い一言に、ロマニは息を呑んだ。まるで不用意に地雷を踏んだような空気が走り、彼は視線を泳がせてから――倒れ込む藤丸に慌てて駆け寄ることで、その場をやり過ごそうとした。
「よく頑張りました、マスター!」
マシュが彼を抱き起こすのと同時に、ロマニが脈を取り、冷たいタオルを額に当てる。
そんな光景の脇で、ジャンヌが穏やかな声を投げかけた。
「……あなたも、もう少しカルデアに心を開いても良いのではありませんか?」
アラベルは口の端を吊り上げ、軽い皮肉でかわそうとした。
「ふふ、聖女様はお節介が板についてるね。
でも、オレは戦友でいれば十分だよ。居場所を作るのは他の人間に――」
「
しかし、ジャンヌの真っ直ぐな視線からは逃げ切れなかった。
結局、ため息をつきながら藤丸の腕を支え、介抱の手伝いをする。
「……っ、大丈夫です……まだ、立てますから……」
藤丸はなんとか息を整え、膝を伸ばそうとした。
その時だった。視線がふと隣までやってきたアラベルの胸元に滑り、布地の隙間から覗く、縦長の褐色の谷間に、一瞬だけ捕らえられてしまった。
慌てて目を逸らしたものの――アラベルはそれを敏感に察知する。にたり、と唇が歪む。
「へえ……
……マシュ、気をつけてね。どうも君の胸の将来が心配だ」
「なっ……! ア、アラベルさんっ!」
「そ、そんな……! ち、違いますよね、先輩っ!」
藤丸とマシュは同時に顔を真っ赤にし、慌てふためく。
「こら、余計なこと吹き込むんじゃねえ!」
すかさずクー・フーリンが槍の石突きを鳴らし、アラベルを追い払うように廊下の端へと押しやる。
「せっかくの修行の場が台無しだろうが!」
アラベルは肩を揺らして笑いながら追い出され、ジャンヌは深々と嘆息して天を仰いだ。
――カルデアの廊下には、今日も修練と騒動とが等しく満ちていた。