Fate/Grand Rail - 千の異星紀行 作:TheLazyMan
カルデアの施設は、ゆっくりではあるが確実に息を吹き返していた。
爆発の爪痕はまだあちこちに残り、焦げ付いた壁や剥き出しの配線が見る者に痛ましさを訴える。しかしそこに重ねられるように、新しい白いパネルや修繕用の金属板が次々と取り付けられ、光を取り戻した照明が廊下を均一に照らし出す。
機械油と焦げ跡の匂いに混じって、空調から流れる冷気が戻り、久しく聞こえなかった低い駆動音が施設内の所々で響き始めていた。復旧にあたる職員たちの足音と声が絶えず行き交い、その光景はまるで、崩れた人類の砦が再び形を整えていく過程そのものだった。
カルデアの最深部――魔力供給炉がある炉心区画は、巨大な魔術式と機械仕掛けとが幾重にも組み合わさった、まるで大聖堂のような空間だった。高熱を帯びた冷却パイプが壁一面を走り、半透明の魔力管からは青白い光が絶え間なく流れ込む。その中央に鎮座する黒鉄の炉心が、かすかな鼓動のように明滅し、施設全体の命脈を刻んでいた。
「さあ、いってらっしゃい」
ダ・ヴィンチは指先で空をつつく仕草をし、自身の肩から滑り降りた小さな使い魔を送り出す。それは「白貂を抱く貴婦人」の絵から抜け出したかのような雪白の小動物――柔らかな体毛を揺らしながら、ひょいひょいと作業管の隙間を潜り抜けていく。
炉心の奥深く、人間の手では届かない場所に潜り込んだ白貂の瞳に、遠隔の魔眼が宿る。ダ・ヴィンチはその視界を共有しながら、同僚の技師たちと息を合わせ、符号を走らせ、回路を調整した。
やがて、炉心の低い唸りが変わる。
ごぅ、と一段深い音を響かせ、カルデア全体に流れ込む電力が僅かに強くなる。計器の針が上昇するのを確認し、スタッフたちは歓声をあげた。
「安定出力がプラス三パーセント! これならシミュレーターの連続稼働も持つぞ!」
「各部門の消費負荷にも余裕ができますね!」
喜びに沸く声を、ダ・ヴィンチは穏やかに微笑みながら聞いていた。白貂は主の肩に戻り、胸の上で丸くなって小さく喉を鳴らす。
――これで、ようやく一歩前進だ。
しかし、思考の裏では別の算段が巡っていた。
特異点修復の第一歩、第一次作戦行動――第一特異点の探索と戦闘が迫っている。カルデアに必要なのは、炉心の安定だけではない。実際に前線へ立つ
ダ・ヴィンチは息を整え、スタッフの喜色を見渡しながら、ひとり心中で結論を下した。
「……よし。炉心の余力も確保できたことだし。
――そろそろ、英霊召喚室を本格的に動かすとしよう」
それは、カルデアがいよいよ、戦うための牙を研ぎ澄ますという決断であった。
◇
カルデアの深奥、重厚な扉がゆっくりと開かれた。
その先に広がるのは――円環状の魔術式が幾重にも描かれた、荘厳な英霊召喚室である。
床は白磁のように滑らかで、淡い光を湛える術式が流動するたび、まるで水面が波打つように輝きが走った。天井からは無数の霊子結晶が吊るされ、光を乱反射させて空間全体に星辰のきらめきを散らす。その中心には巨大な召喚陣――円環と直線、秘匿文様が幾重にも重なり合う、古代と現代の技術が融和した巨大な術式が鎮座していた。
「やぁ、待っていたよ」
ダ・ヴィンチが手を広げ、藤丸とアラベルを出迎える。彼女の背後で魔力炉の脈動に呼応するように召喚陣が脈打ち、空気には重くも清らかな圧が漂っていた。
藤丸は思わず息を呑み、アラベルは口笛を鳴らして肩をすくめる。
「さて、ここは説明不要かもしれないけど――念のためおさらいをしておこう。
カルデアの英霊召喚は、霊子演算装置・シバと、霊子変換炉を媒介にして、過去・未来・並行世界に至るまでのあらゆる座標にアクセスする。そして座標に眠る
ダ・ヴィンチは床に投影された二つの光のスクリーンを示した。そこには藤丸とアラベルの霊基データが浮かび上がっている。
「藤丸くん……属性は、善性・中立。ふむ、安定している。マシュとの相性も良好だろうね。
そしてアラベル……君は、悪性・中立。ふふ、随分とトゲのある数値が出ているじゃないか」
「性格の問題じゃないさ。戦場に立てば、優しい顔なんてしてられないってだけの話」
アラベルは軽く肩を竦めるが、その表情にはどこか冷めた影が差していた。
しかしダ・ヴィンチの視線は、スクリーンの下部に浮かぶ見慣れぬ項目に釘付けになっていた。
「……これは?」
そこに刻まれていたのは、通常の霊基データには存在しない項目――【運命】。
「ロマニに言って、無理やり項目を追加させたのさ」
アラベルはさらりと言い放ち、藤丸とダ・ヴィンチの驚きの視線を受けても涼しい顔だった。
「特異点の中でマリーには言ったんだけど、詳しく説明してなかったよね。
運命ってのはね、人間の意思なんて関係なしに、星神によって定められた力だよ。星海に生きる人間は、その星神の定めた運命に従うことで、その力の一部を借りて戦える。
理屈はどうであれ、レフが作った特異点は、十中八九、何らかの運命が関与していると想定した方がいい。星海の影響を受けた世界で戦う以上――誰がどの運命に縛られ、どの力を得やすいかを理解しておくべきでしょ?」
ダ・ヴィンチはしばし無言のまま二人を見比べる。
藤丸の欄には――存護。
アラベルの欄には――巡狩。
「なるほどね……」
ダ・ヴィンチの眼差しは、未知の概念に触れた学者の輝きを帯びつつも、同時に言いようのない緊張を孕んでいた。
カルデアの召喚陣に、運命という異質な因子が介在する――それは新たな戦力の可能性と、同時に制御不能な不確定要素を孕むことを意味していた。
「……アラベル、君が言うその、運命。ひとつ聞いておきたい」
ダ・ヴィンチは目を細め、指先で光のスクリーンをなぞった。
「藤丸の存護、君の巡狩……。これはどういう性質を持つ?
どんな人間がそうした道を歩むのだろうか」
アラベルは視線を横に流し、少し間を置いてから答えた。
「存護に生きる人間は――誰かを守りたいと願い、そのために立ち続ける者だ。苦難があっても、逃げ出すよりも踏みとどまる。自分が傷ついてでも、他者を護ろうとする。……要するに、君みたいな人だよ」
彼女はちらと藤丸を見た。藤丸はその言葉に戸惑いながらも、真剣な表情で耳を傾ける。
「じゃあ、巡狩は?」
「巡狩に生きる人間は、境界を渡って狩りを続ける者。星海を漂う獣や災厄を追い、撃ち、果てるまで歩く。誰かのためというより、ただ己が定めに従って……狩人であることをやめない者、だ」
その声音には皮肉と共に、どこか諦観のようなものが混じっていた。
ダ・ヴィンチは腕を組み、なおも問いを重ねようとしたが、アラベルが遮る。
「詳しい資料は、後日アーカイブにまとめて提出するよ。口先だけじゃ伝わらないことも多いしね」
それ以上の追及は無益だと悟ったように、ダ・ヴィンチは小さく肩をすくめた。
投影された霊基データを示し、穏やかながらも真剣な口調で続ける。
「よろしい。ではいったん、話を戻そう。――まず藤丸君だ。
君はまだ戦闘経験に乏しい。魔力や魔術に触れ始めたばかりで、その適性も低い。だから新しい英霊を増やすよりも、今いる仲間――マシュやジャンヌとの連携を高めることを優先すべきだ。二人の霊器を強化し、君がその支えになれるよう訓練を積む。それが最も効果的な道だと考えている」
藤丸は深くうなずいた。
「……確かに、今の俺にできるのは、彼女たちの支えになることぐらいだと思います。
でも……だったら、どうして俺までここに呼ばれたんですか?」
ダ・ヴィンチは藤丸を見てから、アラベルへと視線を移してためらいのない声音で告げる。
「――アラベルに、もう一騎の英霊召喚を行わせる。その過程を見せるためだ」
アラベルは口の端を吊り上げ、軽く肩をすくめた。
「……わざわざ新しい英霊を呼ばなくてもいいんじゃない? オレとクー・フーリンがいれば、大抵の戦闘は切り抜けられるだろうし」
その声音は皮肉めいていたが、どこかでダ・ヴィンチの返答を予測している響きもあった。
ダ・ヴィンチは、柔らかな笑みを浮かべたまま首を振る。
「確かに君と彼がいれば、荒事を凌ぐことはできるだろう。だが――」
その声音は次第に澄みわたり、聴く者の胸を打つ透明さを帯びていく。
「特異点とは、海に浮かぶ氷山のようなものだ。目に見えている部分は一片にすぎない。表層の戦闘をいかに制したとしても、その下に沈む巨大な質量が、いつどのように牙を剥くかは誰にも読めない。まして今回は、星海からの影響が織り込まれている……。人理の因果と、星海の因果が絡み合う以上、その予測は霧よりも濃い。備えを怠ることは、無謀と同じだよ」
アラベルは一瞬だけ黙り込み、やがて小さな笑い声を漏らすが、すぐに真剣な眼差しとなる。
「……聞いてみただけさ。別に本気で反対してるわけじゃない。
ただ、懸念はちゃんとあるよ。召喚した英霊が制御できなかったら? あるいは、このカルデアのリソースを食い潰すだけの存在だったら?」
ダ・ヴィンチは指先で端末を軽く叩き、霊子の波形を投影した。
「その恐れは常にある。けれど――カルデアは、契約と霊基制御の技術でその危険を抑え込む仕組みを持っている。霊脈炉も安定を取り戻しつつある今なら、過剰な負荷も生じにくい。加えて、君や藤丸のような『マスター』が存在することで、英霊はただの兵器ではなく、意志を持つ仲間として召喚されるのさ。クー・フーリンや、ジャンヌのような……ね」
理路整然と告げられる言葉に、アラベルは肩の力を抜いて「なるほどね」と小さく相槌を打つ。
そこでダ・ヴィンチはふいに、藤丸の方を振り返った。
「――それに、今回の一件は君にとっての授業でもある。英霊召喚とはどういう仕組みで、どんな危険や可能性を秘めているのか。知識として理解することは、君がマスターである以上、避けて通れないのだよ」
唐突に矛先を向けられた藤丸は、目を瞬かせてから小さくため息をついた。
「カルデアに来ても、結局授業を受けることになるのか……。
もう学生生活は終わったと思ってたのに」
そのぼやきに、アラベルは「まだ若いんだから諦めな」とからかうように笑い、ダ・ヴィンチは愉快そうに頷いて見せた。
カルデアの英霊召喚室に、再び光が戻った。
磨かれた床に刻まれた召喚陣の紋様は、炉心の安定と共鳴するように淡く輝き、再稼働のために動員されたスタッフたちの声が響く。手の空いた職員たちが端末を操作し、魔力伝導路を調整し、警戒網を二重三重に張り巡らせる。
やがて、話を聞きつけたマシュが駆けつけた。
「先輩、アラベルさん……ここで、英霊召喚を?」
続いてジャンヌとクー・フーリンも姿を現す。
ジャンヌは真剣な眼差しで儀式を観察し、クー・フーリンは気怠げな笑みを浮かべつつも、眼光だけは鋭く周囲を走らせた。
召喚陣の前に立つアラベルは、足元に置かれた四つの結晶に視線を落とした。
「これが……聖晶石ってやつ? ずいぶんあっさりした仕組みになってるんだね」
拾い上げて指先で転がすと、透きとおる石の中に、凝縮された魔力が脈打つように光を放っていた。
「ところで、この石ってどこで拾えるの?」
「特異点の中でも、特に魔力濃度の濃い地点なら採取できるよ。星のひび割れから零れ落ちた欠片のようなものだからね」
何気ない調子で問いかけると、ダ・ヴィンチは頷きながら答えた。
アラベルは短く相槌を打ち、その答えを頭にしまい込んだ。
そして結晶を両手で掲げると、口の端を吊り上げる。
「準備はできた。始めようか」
聖晶石が魔方陣の中心へと投げ込まれる。
瞬間、召喚室の空気が揺らぎ、光が弾けた。床の紋様がまばゆい輝きに変わり、光の輪が幾重にも重なって走る。渦巻く風は見えざる矢のように鋭く、響く詠唱が天井を震わせる。
そして――影が形を結んだ。
「……っと。あーあ、また厄介な場所に呼び出されたもんだな」
現れたのは、フードを深くかぶり、背に弓を負った青年。
気安い態度で肩をすくめ、だが瞳には醒めた光が宿っていた。
「アーチャー……真名を名乗った方が手っ取り早いか。
俺は、ロビン・フッド。ま、そう名乗っとくのが分かりやすいだろ。よろしくやってくれや」
彼は召喚主――アラベルへと視線を向けた瞬間、ぴたりと動きを止めた。
「……おいおい、なんだこの感覚。契約経路、普通じゃねえな。おまけに、背負ってるものが……ずいぶんと、面倒くせぇ。ったくよ。俺の運の悪さも大概だな」
額に手を当て、大げさに嘆息する。
アラベルは片眉を上げ、興味深そうに見返した。
「ロビン・フッド、ね。……で、君はどんな人なの?」
問いかけに、ロビンは肩を竦めて答える。
「さっき言った通りさ。名乗りはロビン・フッド。義賊の弓兵ってやつだ。強欲な権力者や腐った領主どもを狙って、森の影から矢を射るのが俺の仕事。ま、正義漢なんて柄じゃねえけどな」
アラベルは数秒黙ってから、不意に口元を歪めた。
「……なるほど。やり口は違えど、一流の狩人であることには間違いない。
お互い、気配を消して獲物を仕留めるのは得意だろうしね」
「おいおい、見た目の割に話が早ぇじゃねえか。いいぜ、協力してやろう。
……どうせ俺一人じゃ逃げ場もねえしな」
差し出された手に、ロビンは目を細め、にやりと笑った。
ロビンとアラベルが握手を交わした瞬間――召喚陣の外から、のんびりとした声が飛んできた。
「へっ、こりゃ面白ぇ。陰湿そうなやつが来たな。マスターと揃って皮肉屋コンビか?
こりゃカルデアの空気がますます暗くなんぞ」
口火を切ったのは、壁にもたれかかっていたクー・フーリンだった。にやにやと笑みを浮かべながら、肩を揺らす。
そんな彼に向ってジャンヌが静かに歩み寄り、まるで弟をたしなめる姉のように声をかけた。
「……やれやれ。クー・フーリン、言葉が過ぎます。新しい仲間を迎えるときは、まず祝福を与えるべきです。皮肉ではなく、歓迎をこそ口にすべきでしょう?」
その口調には柔らかさがあったが、真っ直ぐな眼差しに射抜かれて、クー・フーリンは鼻を鳴らす。
「……へっ、説教くせぇな。だがまあ、悪ぃ気はしねえ」
彼は頭をがしがしと掻きながら、ふと過去を思い出すように視線を泳がせた。
「姉貴分に小言食らうなんざ、昔から慣れっこだからな。……ああ、ほんと、性に合わねえ」
「なら、これからも慣れてもらいましょう。私たちには、互いを律する力も必要ですから」
その一幕に、ロビンがくすくすと笑った。
「へぇ、にぎやかなとこだな。……兄貴だの姉貴だの、俺には似合いそうにない役がもう埋まってるってわけだ」
召喚室の空気がようやく落ち着いたころ、マシュが小さく息を整え、藤丸を見上げた。
「これで……新しい仲間が増えましたね。いいパーティーが編成できると思います」
ロビン・フッドは背伸びをして肩を鳴らし、胡乱げな視線を投げつつも、口元に皮肉な笑みを浮かべている。クー・フーリンは腕を組み、どこか面白がるように眺めていた。ジャンヌはそんな二人を咎めるように微笑み、場の空気をなだめている。
その時、藤丸がふと顔を上げた。
「――だったら、歓迎会をしようよ」
唐突な提案に、一瞬その場の空気が止まった。だが次の瞬間、マシュはぱっと顔を輝かせる。
「それは素敵です! ぜひ、皆で……!」
ジャンヌも、どこか懐かしげに手を組んで頷いた。
「新たな縁を祝うことは、人の営みの根幹ですもの。お祈りと共に、温かな食卓を囲みましょう」
「宴か……悪くねえな」
クー・フーリンは顎に手を当て、思案するふりをしつつ、ニヤリと笑った。
「じゃあ俺は、肉を山ほど用意してもらいてえな。狩りに出る気分でガツガツ食いたい」
「おいおい、肉ばっかりじゃあ栄養偏るだろ」
ロビンがすかさず茶々を入れる。
「俺はサラダだな。できればハーブの利いたやつ。……胃が持たねぇんだよ、いろいろとな」
「うふふ、どちらも大事ですね」
ジャンヌが軽やかに受け止めると、マシュも遠慮がちに言葉を添える。
「あの……私は、温かいスープがあれば嬉しいです。体も心も、ほっとするような……」
次々と飛び出す要望に、スタッフの一人が笑いながらメモを取り始める。その場は自然に「どんな料理を並べるか」「誰が準備に加わるか」という談笑へと移り、空気は軽やかに弾んでいった。
――ただ一人、アラベルを除いて。
彼女は肩越しに会話を眺めながら、口をはさむ間合いをつかめずにいた。食事や宴会に関心がないわけではない。けれど「肉だ、サラダだ、スープだ」と無邪気に盛り上がる輪の中で、自分だけ別の言語を話しているような疎外感がふと胸をよぎる。
そんな様子を察したのか、クー・フーリンがわざとらしく声を張った。
「おいアラベル。お前はどうだ? 狩人らしく獲物の血で乾杯でもしたいか?」
「……余計な詮索」
彼女は冷ややかに返す。
だがそれが返って、彼女が場に入りきれていないことをさらけ出す結果になってしまった。
それでも、笑い声と冗談が飛び交ううちに時間は過ぎていく。やがて一同は「じゃあ食堂の準備は後日にしよう」という結論にまとまり、その場はいったん解散となった。
人々がぞろぞろと廊下に散っていく中、ダ・ヴィンチは両手を背に組んで静かに歩き出した。召喚の余韻、そして賑やかな声を背に受けながら。
「歓迎会か……うん、それも大事だけどね」
小さく笑みを浮かべ、彼女は自室兼工房へ戻る道を選ぶ。
だが、その途中で――ふいに足を止めた。
脳裏に、召喚で得られたデータと、特異点Fでの戦闘記録が電光のように結びつく。
「……ああ、そうか。なるほどね。もしそれを応用できれば――」
――その時。世界一の美女の顔に、子供のような輝きが浮かんだ。
「
通路に響いたその声は、彼女自身の胸を震わせるものだった。
誰にも聞かれていないのを幸いに、ダ・ヴィンチは足早に工房へと向かう。背筋を走る閃きに突き動かされながら――。
工房の扉を押し開けると、ダ・ヴィンチは迷いなく奥の作業台へと直行した。机上には余剰の霊子筐体、そしてカルデアの倉庫に積み上げられていた「用途不明」とラベルされた魔術資材のリストが並んでいる。
「さあ、片っ端から手を付けるよ」
軽く指を鳴らすと、生前に絵画に写した動物を模した使い魔たちが四方から飛び出し、器具を引きずり、素材を運び、火花を散らして回路を接続する。
手際は流麗でいて苛烈だった。溶接の閃光と霊子パルスが交差し、あっという間に既存の棚は解体され、床には新しい魔方陣が刻み込まれていく。ダ・ヴィンチは髪を揺らしながら工具を操り、まるで自らも機械仕掛けの一部であるかのように動き続けた。
「強化実験に必要なのは――燃料、触媒、そして被験者。ならば種火を人工的に生産できれば、英霊の育成速度は飛躍的に高まる……!」
思考を言葉に投げ捨てながら、彼女は手元の試験管に魔力溶液を注ぎ込む。その液体が淡く光を帯び、やがてぽん、と泡立ち、小さな人影めいた光の塊を形作った。
――種火。それは小さな精霊のようであり、炎を宿した雛のようでもあった。
「ふふ、やっぱり面白いね」
ダ・ヴィンチは掌に踊るその存在をまじまじと観察し、口元に愉快そうな笑みを浮かべた。赤子のように光を放ちながら、種火はきらきらと弾んでいる。
「この可愛らしい見た目で、英霊の力をぐんと底上げするなんて……なんだか不釣り合いで素敵だ」
視線が、召喚室で聞いた
「……ああ、いいことを思いついた」
唇が、いたずらっぽい弧を描いた。
「この種火を……
宴に紛れて、英霊たちに一口食べさせれば……おや、強化完了。なんて手軽なんだろう!」
声を抑えきれず、彼女は喉をくくくと鳴らした。
「歓迎会と強化実験の一石二鳥、まさに芸術的解決策――いや、悪戯かな?」
種火がぱちりと瞬きをしたように光った。
ダ・ヴィンチはそれを試験管に戻すと、軽やかに指を弾いた。
「さあ、準備は整いつつある。宴の主役は料理か、それとも科学か。
――それは、出してみてのお楽しみだね」
彼女の笑い声が工房にこだまし、夜半のカルデアに奇妙な余韻を残した。
◇
カルデアの食堂は、つい数日前まで戦火に焼かれた痕跡を隠せないまま残っていた。壁のひび割れや焦げ跡は今なお生々しいが、それらを逆手にとってスタッフたちは工夫を凝らした。
不要になったシーツや布を折りたたみ、傷跡を隠すように垂らし、布の上には即席の装飾品を並べる。光源には古いランプが吊るされ、柔らかな灯りが漂った。かすかに埃が残る空気を、栽培室から運んできた新鮮な野菜の香りが洗い流す。温かなスープの湯気がボウルから立ち上り、食糧倉庫に眠っていた冷凍保存の天然肉も調理班の手で皿に盛られて並べられて、今のカルデアでは滅多にお目にかかれないご馳走となっていた。
集まったのは、藤丸、マシュ、ジャンヌ、クー・フーリン、ロビン、そしてアラベルとロマニを含めたカルデアの主要メンバー。さらに比較的手の空いたスタッフが二十名ほど。残りの者たちは復興作業に専念しており、「こっちの分まで楽しんできてくれ」と背中を押されていた。重荷を背負う者同士だからこそ、遠慮なく息抜きが必要なのだ。
準備を眺めていたロビン・フッドは、柱の影にもたれ、腕を組んでひとり小声を漏らす。
「英霊に食事なんざ必要ねえってのに……ったく、まあ……」
その口調は皮肉めいていたが、肩にかかる髪の隙間から覗く表情は、どこか柔らかかった。
「……なんだか、不思議な連中だな」
そう呟く声に、近くにいたマシュが小首を傾げ、微笑みを返した。
やがて調理が終わり、場が落ち着く。食堂の中央に即席の卓が据えられ、人々の目がひとりに向けられた。
――ロマニ・アーキマン。カルデアの現最高責任者にして、司会進行に祭り上げられた男。ちなみに飲み会で幹事となったことは人生で一度としてない。ある意味、人生初の緊張感に晒され、ロマニは妙に弾む脈を意識しながら、いそいそと皆の視線を集めるのであったが……。
「え、えーっと……」
彼は場の空気に飲まれたように数秒ほど立ち尽くし、手元のメモを慌ててひっくり返す。
「ええ、今日はその……召喚に成功して、新しい仲間を迎えられたということで……いや、つまり、その……」
言葉がよろめくように出てくるたび、場のあちこちから小さな笑いが漏れる。クー・フーリンが「しっかりしろよ医者!」と野次を飛ばし、スタッフの一人が「がんばれ司会者!」と茶化す。笑い声が広がるにつれ、硬かった空気はみるみるほぐれていった。
ロマニは顔を赤らめつつも、えいっと覚悟を決めるように声を張り上げた。
「――はいっ! ともあれ! 新しい英霊の仲間を紹介します! ロビン・フッド!」
拍手とともに注目が集まると、ロビンは気怠そうに椅子から立ち上がった。
「……ったく、こういうのは柄じゃねえんだがな」
ぼやきながらも、一度視線を集めた以上、逃げはしない。
「森に潜んでる俺が、人に歓迎されるなんて妙な話だ。
けど――まあ、ありがとよ。俺なりに矢の一本くらいは役に立てるはずだ」
不器用ながらも、心を込めた言葉に場が温かくなる。
ロビンは木のジョッキを持ち上げ、わずかに口端を吊り上げた。
「……んじゃ、乾杯だ。俺を拾った運の悪さに、そしてここで一緒に生き延びる縁に――」
『乾杯!』
重なる声が食堂に響き渡り、グラスやジョッキが鳴り合った。
その瞬間、戦火の痕跡に覆われた食堂が、まるで以前のカルデアを取り戻したかのように明るさを取り戻したのだった。
食堂に響く笑い声は、戦場では決して聞けない種類のものだった。
皿が運ばれ、杯が打ち鳴らされるたびに、どこか張り詰めていた空気が少しずつ解けていく。
「へえ……ずいぶんと変わった構えをするじゃねえか」
酒の代わりに注がれた果実水を片手に、ロビンがクー・フーリンの槍の動きを真似るように手をひらひらさせた。
「俺は森の中でこそこそやる方だが……お前さんみたいに正面から突っ込んでいく芸当はできねえ」
「そりゃあ森の猟師が槍ぶん回してたら、獲物も逃げるだろうよ」
クー・フーリンは豪快に笑い、手にしていた串肉を一口で噛みちぎった。
「けどまあ、お前の矢の精密さなら、獲物どころか戦場の兵もまとめて落ちるだろうさ。俺にはできん芸当だ」
「……おだてても何も出ねえぞ」
「ちなみに今の俺のクラスはライダーだから、その気になりゃ戦車も出せるぜ」
「うっわ、マジか。引き出しが多くて羨ましいね、大英雄さんは」
ロビンはわずかに笑みを浮かべながら、愉快そうに杯を口に運んだ。
一方その近くでは、ロマニが赤くなった顔を隠すようにジョッキを傾けていた。
その情けない声をスタッフたちが取り囲み、笑いながら彼を宥めたり囃したりしている。
「う、うぅ……司会なんて柄じゃなかったんだ……!」
「いやー最高でしたよドクター!」「もう一回やってください!」
「二度とやるか!」
そんなやりとりがまた笑いを呼び、場はさらに温かさを増していった。
藤丸とマシュはその光景を見て顔をほころばせていた。どこで手懐けていたのか、マシュの腕には小さな白い獣が抱かれており、フォウ、という奇妙な声をあげている。
ジャンヌも隣で頷き、穏やかな微笑みを浮かべる。
「良いですね……。こうして皆で笑っていられるのは」
「ええ……本当に」
「――フォウ!」
マシュの声は、ほんのわずかに潤んでいた。かつての賑わいを思い出し、その一端が戻ってきたことを実感しているのだ。
だが輪の中に入れず、アラベルは少し離れた席で杯を弄んでいた。
明るい喧噪は耳に届くのに、言葉を差し挟む隙が見つからない。
それでも――目の前に並ぶ料理、談笑する人々の声、そして漂う温かさが、胸の奥に眠っていた記憶を呼び覚ます。
――かつて、家族や仲間と肩を寄せ合った夜。星を見上げ、冗談を言い合い、誰もが狩りを全うして生き延びられると信じていた時間。世界が、星そのものが蹂躙されるまで築かれていた、束の間の平和。
思い出した瞬間、心の奥が少しだけ締め付けられ、彼女は無意識に唇を結んだ。
――そのとき、食堂の扉がぱたんと開いた。
「やあ、やあ! 遅れてしまってごめんよ!」
場に入ってきたのは、色鮮やかなローブをひるがえしたダ・ヴィンチだった。
彼女が軽やかに手を振ると、集まっていた人々は一斉に振り返り、温かな歓声で迎えた。
「ちょっと工房で夢中になってね、時間を忘れてしまったんだ」
「待ってました!」「ダ・ヴィンチちゃん!」
「ふふ、歓迎してくれてありがとう」
彼女は唇に小さな笑みを浮かべ、ひと呼吸置いてから高らかに宣言した。
「せっかくの歓迎会だ。ここで私から、とっておきのプレゼントタイムといこうじゃないか!」
唐突な一言に、場の空気が一気に湧き立つ。藤丸とマシュが顔を見合わせ、ロマニが「お、おいちょっと待て」と青ざめるのも構わず、ダ・ヴィンチは片目をウィンクさせて続けた。
「これから特異点で大活躍するであろう主役たちへ――小さな贈り物を用意してきたんだ。さあ、遠慮なく受け取ってくれ!」
ダ・ヴィンチが手を打つと、ふわりと光が弾けた。
次の瞬間、彼女の背後に浮かび上がったのは、歯車と羽根を組み合わせた奇妙な使い魔たち――金属と紙でできた小型のオートマタだ。小鳥のように羽ばたきながら空を舞い、きらきらと煌めく粒子を撒き散らしていく。
「さあ、お届けものだよ」
ダ・ヴィンチが軽く指を鳴らすと、オートマタたちは列席者のもとへと舞い降りた。
まずはスタッフたちの手元へ。ひとりひとりの掌に、繊細な細工を施したアクセサリーが置かれていく。
指輪、ブローチ、ペンダント……その意匠はどれも、生前のレオナルド・ダ・ヴィンチが遺した工芸品や美術品を模したものだった。
「こ、これ……ルネッサンス時代で紛失したと言われた、あの……!」
「俺、ルーヴル美術館で同じの見たぞ!」
「まさか本人から直々に……!」
スタッフたちは目を見開き、声を詰まらせる。どの顔にも驚愕と感激の色がありありと浮かんでいた。
「はは、心配しなくても大丈夫。ここにいない仲間にも、ちゃんと後で届けておくから。君たちに渡した贈り物には、幸運を高める小さな祈りを込めてある。今のカルデアには、必要不可欠だろう?」
ダ・ヴィンチは軽やかにフォローを入れ、スタッフたちを安心させた。感謝の言葉と拍手が広がり、場の空気はいっそう温かみを増していく。
その笑顔を背に、ダ・ヴィンチは藤丸たちへと歩み寄る。
「さて、君たち三人へは特別製だよ」
彼女の手のひらに乗っていたのは、一つに組み合わされた三位一体の指輪だった。それぞれに美しい翠、碧、黄色の宝玉が飾られており、指輪を三つ横に並べると一つのフレーズが浮かび上がる仕組みだ。
藤丸、マシュ、ジャンヌへと指輪を渡しながら、ダ・ヴィンチは得意げに伝える。
「これは魔力増幅機能を持つ指輪さ。三人が近くにいるほど効果は高まる。つまり……君たちが共に歩むほど、力も増していくという仕組みだ」
「……すごい」
藤丸が目を丸くし、マシュは思わず息を呑んだ。ジャンヌも胸に手を当て、静かな感動を隠さない。
「私たちに、こんな……」
「三人で力を合わせる象徴になるようにと思ってね。ふさわしいだろう?」
「ダ・ヴィンチさん。宝石になにやら文章が書かれているようですが、どういう意味を示しているのでしょうか?」
「ああ、それね。私が生きていた頃に使われていた言語で、今の言葉に訳すとこうなる。『私たちは決して離れない』とね」
藤丸たちは揃って指輪を受け取り、互いに見せ合いながら、言葉にならない喜びに目を輝かせた。白い獣が「フォウ……」といななき、指輪の美しさに見惚れているようだった。
次にダ・ヴィンチが取り出したのは、小さな布袋だった。帯で口を締めただけの素朴な見た目だ。
「ロビン・フッド。君にはこれだ」
「……ただの袋に見えるが」
「空間圧縮機能付きだよ。見た目以上に物が入る。矢でも食料でも、何でも詰め込めるはずさ」
ロビンは袋を受け取り、しばし呆然とした後、口の端を歪めた。
「……ったく。万能の天才ってのは、本当に人の常識をぶち壊してくれる」
そうぼやきつつも、彼の声には確かな敬意と感謝が滲んでいた。
そして――ダ・ヴィンチの視線は、壁にもたれ掛かったアラベルへと注がれる。
「さあ。カルデアの輝ける星。星海の狩人。君には、これを」
差し出されたのは、漆黒の金属光沢を放つ細長いケース。それは特異点でアラベルが縦横無尽に使いこなしていた、可変機構付きの狙撃銃であった。ケースの中に折り畳まれて収納されているそれは、ダ・ヴィンチが直前まで調整を重ねた地球適合型モデル、その最新版である。
アラベルは静かにそれを受け取り、しばし無言で眺める。
次の瞬間――彼女は立ち上がり、武装を展開した。
機械仕掛けの装甲が展開し、銃身が鳴動する。その姿は威容を増し、光を浴びてきらめいた。
「おおっ!」「すげえ……!」
歓声が湧き上がり、場の視線が一斉に彼女へと注がれる。
アラベルはゆっくりと構えを取り、感触を確かめるように銃身を回転させ、スコープを覗き込む。
やがて彼女は深く息を吐き、短く言った。
「……パーフェクトだ、ダ・ヴィンチ」
「感謝の極み」
その言葉に、さらに大きな拍手と歓声が食堂を揺らした。
贈り物は、戦いに挑む者たちを照らす新たな絆の証として、確かにその場に刻み込まれたのだった。
「おいおい、ちょっと待てよ」
クー・フーリンが声を上げる。腕を組み、面白くなさそうにダ・ヴィンチを見やった。
「どういうことだ? 皆してもらってるが、俺だけ何もねえじゃねえか」
「へぇ……拗ねるのか、名高き戦士様が? 子供みたい」
「ほう、言うじゃねぇか……!」
誇り高い戦士は一瞬言葉に詰まり、額に青筋を浮かべた。
ダ・ヴィンチは肩をすくめ、愉快そうに指を振る。
「もちろん忘れてなんていないさ。はいはい、お待ちどう」
彼女が軽く手を打つと、オートマタのひとつがよろよろと飛来し、その鋼の爪で巨大な物体を運んできた。
ドスン! とテーブルに置かれたのは――
人間五人分はあろうかという、巨大な骨付き肉だった。
「……肉?」
「そう、肉だよ。君みたいな豪快な戦士には、これが一番ふさわしいと思ってね。たらふく食べたい、って言ってただろう?」
周囲からどっと笑いが起こった。スタッフたちも英霊たちも、口々に「ダ・ヴィンチらしい」と囁き合う。
クー・フーリンは一瞬口を開けたまま固まり、それから大きく顔をしかめる。
「……やっちまったな。俺が食い意地張ってるの、つい口にしたのを覚えてやがったか」
しかしすぐに開き直るように腕を突き上げる。
「よし、見てろ! アルスターの戦士の食いっぷり、とくと見せてやる。そこで御覧じろ!」
場はさらに盛り上がり、歓声と拍手が鳴り響いた。
その一方で、ロマニはぽつりと呟く。
「でも、あんな大量の肉なんて……カルデアのどこにあったんだろ……?」
やがて、クー・フーリンが豪快に骨付き肉へかぶりついた。
――その瞬間。
全身から七色の光があふれ出し、虹色の後光を背に輝き始めたのだ。
「な、なんだって!?」
「クー・フーリンが光ってる!?」
食堂中が悲鳴と笑いに包まれる。
ひとり、ダ・ヴィンチだけが腹を抱えて大笑いしていた。
「ふふっ、あっははは! 大成功だ! その肉ね、種火で作った特製骨付き肉さ。食べたら二十四時間、虹みたいに輝き続ける仕様なんだよ!」
「ふざけんなぁぁぁ!!」
クー・フーリンは抗議の声を上げたが、光り輝く姿は説得力も迫力もなく、ただ場をさらに爆笑に巻き込むだけだった。
アラベルはそれまで冷めた顔で眺めていたが、不意ににたりと口元を歪めた。
「……なるほど、そういう遊びか。……ねぇ、それ英霊以外の人が食べたらどうなるの?」
「彼と同じように光るだけさ。特に害はない」
「なるほどね」
言うが早いか、クー・フーリンの手から骨付き肉を横合いにかじった。
直後。アラベルの全身が、同じく七色の光に包まれる。
食堂が再び笑い声で包まれる。
「おいおい、マジかよ……!」
「だったら俺も!」
面白がったスタッフたちが次々に骨付き肉へと手を伸ばし、笑いながらかぶりついていく。
そして数分後――
食堂にいた人間も英霊も、誰も彼もが虹色に輝いていた。
キラキラと光の残滓をまき散らしながら笑い合う様は、まさに異様な光景だった。「フォウ、オロカフォウ!」と、白い獣が騒ぎ立てる。
ロビンは腕を組み、その様を眺めて肩をすくめる。自らも彼と同じように七色の虹彩を放ちながら。
「……奇妙なチームワークってやつだな」
◇
数日が過ぎていた。
あの夜、食堂は笑いと光に満ち、誰もが心の奥に温もりを灯した。虹色の輝きは翌日には消え去ったが、あの場を共にした者たちの胸には、確かに奇妙な一体感が残されていた。疲弊したカルデアの廊下に漂う緊張感は薄れ、作業の合間に交わされる笑みや冗談は、ほんのわずかだが人々の足取りを軽くした。
だが、その安らぎに長く浸っている余裕はない。
観測装置の再起動は幾多の試行錯誤を経て、ついに本格的な運用に至った。ダ・ヴィンチを中心とした観測班は昼夜を問わず、魔力の揺らぎを探し続けていた。緊迫した沈黙と紙束のざわめきの中、無数の計測値が解析され、宇宙の時空に散在する可能性の糸が、次第に一つの結び目へと収束していく。
やがて、その瞬間は訪れた。
複雑な数式の行列と共に、観測盤に浮かび上がった座標は確かな輪郭を持ち、確定の印を示す。冷たい光の中で、ダ・ヴィンチの瞳は鮮やかな輝きを増し、スタッフ達の息を呑む音が重なった。第一特異点――それは人類史の正規から外れた、最初の歪み。
その場所と時代が、明らかになる。
フランス――西暦1420年。