Fate/Grand Rail - 千の異星紀行 作:TheLazyMan
シャドウ・サーヴァントが霧のように消え去った瞬間、戦場を包んでいた圧迫感がふっと解けた。
残響のように空気が震え、戦いの余燼が荒れ果てた土地を駆け抜ける。折れかけた枯れ木がぎしぎしと音を立て、風にあおられてぱきりと折れた枝が、地面に乾いた音を響かせた。砕けた瓦礫が静かに転がり、戦闘の喧騒を忘れさせるような寒風が吹き抜ける。
マシュは大きく息を荒げ、肩で呼吸をしながらも、まだ楯を下ろさない。額には汗が滲み、頬は戦闘の高揚で紅潮していた。
「マシュ!」
己のマスターの声を浴びて、マシュはようやく我を取り戻したように顔をあげた。
駆け寄った藤丸が、彼女の両肩を掴むようにして称賛する。
「すごかった……! 本当に、見事だったよ!」
マシュは息を整えつつも、かすかに笑みを浮かべる。
そこへジャンヌも駆け寄り、静かに頷いた。
「二人とも……素晴らしい戦いと、見事な支援でした。あなた方がいてくれて、本当に助かります」
「い、いいえ。私だけではありません。これは先輩とジャンヌさん、お二人と一緒に勝ち取った勝利です。称賛を向けられるのは、お二人も同じ。
……お待たせしてすみません。マシュ・キリエライト、ようやく宝具を使えるようになりました。これから先、更なる力を尽くすこと誓います」
互いのことを口々に賞賛する三人。
少し離れた位置で戦況を見ていたクー・フーリンが、口の端を上げる。
「ようやく、俺以外の戦力が揃ったな」
「なら、その戦力が消えるまで、ちゃんと働いてもらうからね?
……ねぇ。あれも元は聖杯戦争に参加してた英霊だったんでしょ? ちゃんと倒したのも理由があるって、ことでいいんだよね?」
「当然だ。聖杯戦争で敗北した英霊の魂は、聖杯に回収される。仮に俺たちが聖杯を取得したとして、変に生き残りがいると何かトラブルが起こるかもしれねぇ。たとえそれが英霊の残滓であったとしても、だ」
「なるほど。それで、自分ではあいつに敵わないから、体よくマシュちゃんたちに任せたと?
いやぁ、頭がいいねぇ。さすがは森の賢者っぽいお兄さん」
アラベルが、彼の横目を盗むように視線を送り、唇の端で笑う。
クー・フーリンは肩を竦め、答えは返さない。
そのとき、ジャンヌが戦場の一角で立ち止まり、目を細めた。
そこには、消滅したはずのシャドウ・サーヴァントの残滓が、黒い靄に包まれながら、炎のように揺れる魔力の塊を残していた。
「……これは?」
ジャンヌが問いかける前に、クー・フーリンが歩み寄り、肩越しに覗き込む。
「
藤丸が何か言おうと口を開くよりも早く、ジャンヌはその塊に手を伸ばし、迷いなくその身へと吸収した。
炎が溶けるように彼女の胸へと入り込み、瞬間、彼女の身体から柔らかな金色の光が立ち上る。
あまりの躊躇いのなさに、藤丸もマシュも、オルガマリーですら思わず目を見張った。
「……大丈夫、効いています」
ジャンヌは短く答える。その声音には確信が宿っていた。
ロマニからの通信が入り、端的に告げる。
『彼女の言うとおりだ。ジャンヌの魔力、確かに上昇してる。この上昇幅なら、さっきの宝具の使用データを見返す限り……ジャンヌさん、あの宝具をあと3回は使えるね』
「分析、ありがとうございます。ですが魔力の出力が上がりましたので、宝具もさっきより力を入れて使用するでしょう。3回というのは、適切ではないでしょうね」
『そうか、魔力の消費量があがるのか。となると、あと
「何回宝具が使えるにせよ、これで私達の戦力が大きく向上した。機は熟した、といっていいでしょうね」
オルガマリーの言葉が、今の一行の状態を代表している。
息を整えた一行は、互いに視線を交わし合う。
現場指揮官として、オルガマリーが最後の確認を取ろうと、一同を見渡した。
「さて、準備は整いました。……一応、聞いておくわよ。街に戻る気はまだある? 今のマシュやジャンヌだったら、あの虫ども相手にも引けを取らないでしょう」
「いいえ、所長。私たちは大空洞へ行きます。……そうですよね、先輩」
「うん。今の戦いを通じて、俺は理解しました。仲間を思いやる気持ちを大事だけど、それ以上に、今の自分にしかできないことを一所懸命に果たしたい。特異点が維持している間に聖杯を回収して、この時代の異常を正す。それが、今の俺にできる、人理への最大の貢献だと思う。
だから、大空洞に向かうことに異存はありません。俺たちは行きます」
「……ようやく、少しはマシな顔をするようになったわね。まだまだ駆け出しのひよっこなのに。マシュ、ジャンヌ。彼が途中でくたばらないよう、しっかりと守ってあげなさい。
それと、マシュ。宝具を使用する時は、宝具の名を言うことを起動キーとすることで、より確実かつ強力な発動ができます。名前が決まっていないなら、以後、人理の理(ロード・カルデアス)と言いなさい。いいわね?」
「は、はい!」
「アラベル、あなたも次は最初から戦って。出し惜しみはなしよ」
「分かってるって。虫祭りは思い切り楽しまなくちゃ」
戦意に漲った各々の瞳が、一つの合意を自然と形成する。
彼らの覚悟を見届けたクー・フーリンは、杖をしっかりと握り直して、
「――そんじゃ、行きますか。最後の戦いの場へ」
先頭に立ち、冬木市西側の寺社を目指して歩き出す。彼に続いて、一行も歩き始めた。
その奥には、大空洞へと続く道が、地獄の口を開けて待っている。
◇
冬木市西側の山間へと分け入る道は、塵芥をかぶった石段が続き、時折吹き抜ける温い熱風が木立をざわめかせる。山道の脇には、石灯籠や、古びた狛犬が朽ち果て、苔むした台座の上で半ば崩れかけていた。
やがて現れた寺社は、屋根瓦が剥がれ、鳥居も傾いていた。拝殿の戸は外れ、積もった落ち葉が床一面を覆っている。誰も参る者のいない廃墟のようなその場所を、一行は無言で通り過ぎる。
山の裏手へ抜けると、そこにぽっかりと口を開けた巨大な縦穴が見えてきた。誰もがその名を告げずとも、そこがどんな場所であるか直感で理解する。
――大空洞。
淀んだ空気が吹き上がり、肌を刺すような禍々しい魔力の気配が周囲を満たす。空洞の淵では、風が低く唸るように渦を巻き、眼下は闇に沈んで何も見えない。
一同が自然と身構える中、アラベルは空気の奥に別種の匂いを嗅ぎ取った。魔力とは違う、節足の擦れる微かな音を伴う、忌々しい虫の気配。さらにその下層には、星海でしか感じられないはずの――エントロピーの残滓が、冷たい波のように漂っていた。
アラベルは出し抜けに、ジャンヌに声をかける。
「……ねぇ、ジャンヌ。まだオレのこと疑ってる?」
「いいえ。あなたは十二分に誠意を示しました。それはあなたの敬虔なる信仰心によるものだと理解しています。それにこれから先、我らは死地で肩を並べるのです。同胞に疑念を抱いてどうやって戦うというのでしょう?」
「……思い切りがいいね、聖女様は。感心しちゃうよ」
アラベルは腰のホルスターから愛銃を抜き、一歩前へと出る。
「……さっきはずっと見ていることしかできなくて、ごめんね。
最後の美味しいところ持っていったお詫びに、今度は全力でやってあげる」
その声音は軽く、それでいて獲物を狩る寸前の狼のように危うい。薄闇の中、口元に浮かぶシニカルな笑みが一層鋭さを増した。
藤丸はその横顔を見て、一瞬、胸の鼓動が早まる。頬が熱を帯びかけたその時――ジャンヌの視線が、何かを察したように藤丸へ向く。藤丸は慌てて視線を逸らし、息を整えた。
やがて隊列が組まれる。先頭はアラベル、その背に藤丸とマシュ、中央にジャンヌとオルガマリー、そして最後尾にクー・フーリンが立つ。
冷たい風が背を押すように吹き、禍々しい闇の口が彼らを迎え入れた。
一行は迷いなく、大空洞の奥へと足を踏み入れる――。
◇
大空洞の内部は、外の空気とは別種の冷たさを湛えていた。
岩肌は煤のように黒く、所々に赤黒い結晶が突き出している。その結晶からは、微かに脈動する魔力の光が漏れ、洞窟全体を不気味に照らし出していた。空気はねっとりと重く、吸い込むたびに胸の奥へ鉛が沈んでいくような感覚が襲う。
「……空気が重すぎる……」
藤丸が短く息を吐く。喉が焼けるように熱いのに、吐息は白く濁る。
「この濃度……冬木の破壊の震源は間違いなくここね」
オルガマリーが顔をしかめ、何かを唱えながら指を振る。術式の光輪が幾重にも展開され、汚染された魔力を浄化していく。
だが、淡い光はすぐに闇に呑まれ、空気はほとんど変わらなかった。
「……ほんの気休め、か」
オルガマリーは悔しげに呟く。
進むにつれて、足元に妙な感触が混じり始めた。
「……止まって」
アラベルが低い声で制止する。銃口がゆっくりと地面を指す。そこには、茶色く乾ききった甲殻、節足の欠片、そして細長い触角が散乱していた。
「……蟄虫の残滓か。形態からして、幼蟄虫かな?
足元に気をつけて。生きてなくても、嫌なもんだよ」
その忠告の直後だった。
ジャンヌの足元で、丸い何かがごろりと転がった。光を受けて、ぎょろりとした黒い眼球がこちらを睨むように輝く。
ジャンヌの顔から血の気が引き――
「――――っ!」
次の瞬間、甲冑ごと全体重をかけてその眼球を踏み潰した。
ぐしゃりと湿った音が響き、欠片が岩肌に飛び散る。
「…………」
藤丸もマシュも言葉を失った。
背筋に寒気が走るのは、眼球の不気味さか、ジャンヌの行動力か――聖女は脳筋であったか。
だがクー・フーリンは腕を組み、感心したように頷く。
「いい踏みっぷりだ。アルスターの戦士でも、そう易々とは出来ねえ芸当だぜ」
ジャンヌは目を逸らしつつも、小さく「……感謝します」とだけ返す。
その声音は、明らかに不承不承としており、誇りと羞恥と、わずかな自嘲が混じっている。
弛緩しかけた空気を断ち切るように、アラベルが低く通る声を放った。
「――何やってるの。ほら、行くよ」
背筋を伸ばし、愛銃を握り直す。虫の気配は確実に濃くなっていた。壁の割れ目から滲む湿った空気に、微かな振動が混じっている。まるで地下深くで蠢く群れの息遣いが、岩盤越しに伝わってくるかのようだった。
自然と肩に力が入る。藤丸たちも同じだった。誰もがジャンヌのさっきの
やがて――クー・フーリンが足を止めた。鋭い気配の変化に、杖の柄がわずかに鳴る。
「……」
「どうしたの?」
急に立ち止まった彼を訝しんで、オルガマリーが眉をひそめる。一同も足を止めて振り返った。
だが彼は答えず、唇に人差し指を立てて静止を促した。懐から取り出したのは、青白く光を宿すルーン石の欠片。無言でそれを地面に置くと、指先で符を切り、淡い魔光を四方に走らせた。
次の瞬間、通路の岩壁が
擬態が剥がれるように、鈍色の幻が崩れ、黒ずんだ空間が露わになる。そこは狭い岩窟――そしてその中央に、ひとりの影が座り込んでいた。
長い銀髪は土と煤に汚れ、黒銀の鎧は裂け、幾筋もの深い傷が血の跡を残している。
漆黒の甲冑の隙間から覗く肌は青白く、全身から魔力が抜け落ちたかのように力なく垂れ下がっていた。黒のドレスの裾は裂け、剣を支える力も尽きたのか、傍らの漆黒の剣は石床に横たわっていた。
瞳は閉ざされているが、その表情は、長く戦い続けた者特有の硬さを残している。その姿は威容の面影を留めつつも、今はただ、消耗しきった闘士の静寂そのものだった。
その女性は――英霊であった。
「お前……
クー・フーリンの呟きに、一同は驚愕する。冬木の惨劇を拡散した張本人の一人が、なぜここで、傷だらけの体を隠すように横たわっているのか。
クー・フーリンは、剣を横たえたままの女騎士に一歩近づいた。
その気配を感じ取ったのか、彼女――セイバーはゆっくりと瞼を開く。深い闇を宿した、灰色とも淡い黄金ともつかぬ瞳が、槍兵を射抜くように見据えた。
「……戦う気は、今はなさそうだな」
クー・フーリンは懐からルーン石を取り出し、掌で淡く輝かせる。
「……情けは不要だ」
掠れた声でそう告げるセイバーの声音は、疲弊の中にも鋼の意志を残していた。
しかし槍兵は一歩も引かず、低く短く言い放つ。
「
その声音には圧があった。
セイバーはわずかに眉を動かし、反論を諦めると静かに目を閉じた。
ルーン石から放たれた魔力の光が、黒銀の鎧の隙間から彼女の体内へと流れ込み、枯渇しかけていた内側をわずかに満たしていく。
やがて補填が終わると、セイバーは息を整え、ゆるやかに身を起こした。
「……恩に着る、槍兵」
そう言って一礼すると、改めて周囲を見回し、藤丸たちを認めた瞬間、瞳にかすかな光が宿る。
「――カルデア、か」
「なぜ、その名を?」と、オルガマリーが目を見開く。
「大空洞に侵入者があった」
セイバーの声は淡々としているが、その奥には苛烈な戦場の記憶が滲んでいた。
「そいつは、カルデアの名を呟きながら、聖杯のある空間へと進んでいった」
忌々しい敗北の記憶を思い出すように、セイバーは表情を僅かに歪めながら続ける。
「聖杯を守護するのは、私の務めだ。侵入者を討つべく動いたが――その直後だ、あの異様な虫の群れが大空洞に雪崩れ込んだのは」
「スウォーム、ってやつか」
「ほう、知っているなら話が早い。その通りだ。
彼女の目に一瞬、戦場の閃光が蘇る。
「無論、私は応戦した。聖杯の魔力リソースを活用しながら、奴らと長い間、戦い続けた。
だが侵入者は乱戦の最中に姿を消し、おまけに虫どもは、あの見た目にそぐわず尋
鎧の隙間から覗く深い切り傷や焦げ跡が、その言葉の真実を物語る。
「宝具を連続発動してようやく押し返したが――その代償として、聖杯の支配権は失われ、我が魔力は底を尽きかけた。……今の私は、それだけの存在だ」
彼女の声は静かだったが、その奥底には、守護を果たせなかった無念と、未だ燻る闘志が渦巻いていた。
セイバーは剣を地面に突き立てて、ゆっくりと体を伸ばす。クー・フーリンは杖を肩に担ぐようにしながら、彼女の傷だらけの全身を一瞥した。
「……その状態で、まだ戦うつもりか?」
「当然だ。守るべきものは、まだ残っている。
……それに、私は自分の敗北を許さない。必ず、奴らには報いを受けさせる」
問いかけに対して、セイバーは迷いなく頷く。
その揺るぎなき騎士の魂に、アルスターの大英雄は、かつて冬木の戦場で剣と杖とを交えた宿敵は、口元を歪めて、どこか懐かしむような不敵な笑みを漏らす。
「……ああ、そうか。
藤丸が一歩進み出る。
「セイバー……あなたのマスターは?」
「聖杯のそばにいた。だが今となっては、状況もよくわからん、生きているのは間違いないのだろうが」
セイバーは淡々と告げるが、その瞳の奥にはわずかな焦燥が見え隠れする。
アラベルが、鋭く問いを重ねた。
「ひとつ聞く。……あの虫どもを、この世界の生物じゃないと、どうして断言できたの?」
「奴らに施された強化の気配が――英霊の座から伝えられる、あらゆる地球の魔術体系から外れていた。根拠は薄い。だが、あれはこの世界の理ではない……そう推察できる」
その答えに、アラベルの表情がわずかに険しくなる。どうしようもなく嫌な予感が、彼女の胸を締めつけた。
マシュが口を開く。
「その……侵入者の容姿は、分かりますか?」
「はっきりとは分からん。やつは隠蔽の魔術で姿は霞ませていたからな」
セイバーは小さく首を振った。
「ただ――シルクハットのような帽子を被っていた。それは確かだ」
その瞬間、オルガマリーとマシュがわずかに目を見開く。
短い沈黙ののち、オルガマリーは小さく首を振り、深く息を吐いた。
「……いいわ。見間違いかもしれない。自分の目で確かめるまで、答えは出さない」
セイバーは、深く息を吸い込むと、全身に宿る気迫を押し出すように前へ出た。
その視線は鋼のごとく硬く、一同を射抜く。
「――状況は切迫している。ここでの私の目的は一つ、聖杯の奪還だ。
お前たちと一時的に協力する」
有無を言わせぬ声音に、誰も異を唱えられなかった。
ただ、ジャンヌだけが一歩踏み出し、眉をひそめる。
「……私たちの背後を狙うような真似は、私が許しません。ご理解いただけますね」
「それは――
セイバーは口角をわずかに動かす。はぐらかすとも挑発とも取れる返答に、ジャンヌは小さく鼻を鳴らし、それ以上は追及しなかった。
再び進行の態勢を整えようとしたそのとき、クー・フーリンが杖を地面に突き立て、静かに言った。
「……悪いが、
予想外の言葉に、一同の視線が集まる。しかしアラベルは何かを悟ったのか、険しい表情で問いかけた。
「足止めのため……ね?」
「ご明察。山中に張った罠が破られた。あの気色悪い虫の群れが迫ってきてる」
その声音は冗談めかしながらも、芯は揺らいでいない。
「お前らがこの先で戦いに集中できるように、ここから先には一匹たりとも通させねえ」
「待て、槍兵――私が代わって死力を尽くそう。貴様では、門番の役目は荷が重い」
セイバーが一歩進み出る。クー・フーリンはふてぶてしい笑みを浮かべた。
「いいや、お前がそいつらと一緒に行け。
そう言って己の杖を、まるで槍を扱うかのようにを回し、低く言い放つ。
「とっとと行け。ここは任せろ」
大英雄の矜持に満ちた言葉を敬うように、一同は短く頷き、大空洞の最奥へと体を向けて歩き始める。
――その時。藤丸は歩きかけた足を止め、振り返った。
暗がりの中で、背を向けて立つクー・フーリンの輪郭は、岩壁に切り取られた影と溶け合いながらも、確かな存在感を放っている。
「……必ず、聖杯を取り戻します」
その声には、仲間を置いていくことへの痛みと、彼の覚悟に応えるという誓いが込められていた。
マシュも同じように振り返り、胸の前で盾を握り締める。
「本当に……ありがとうございます。先輩と私は、あなたに守られたことを決して忘れません」
背中越しに二人の言葉を受けたクー・フーリンは、ゆっくりと振り返った。
その瞳は、深い夜の海の底で燃える炎のように静かで、しかし確かに熱を孕んでいる。
「へっ……英雄ってのはな、やるべき時にやるもんだ。生前はそのせいで痛い目を見てきたが、たまには格好つけんのも悪くねえ」
軽口に見せかけたその言葉の裏に、退く気配も迷いも一切なかった。
彼は懐から最後のルーン石の欠片を取り出し、指先でそっと撫でる。
古代の刻印が淡く輝き、冷たい洞窟の空気の中でわずかに温もりを帯びる。
その光景は、遠い昔から戦場を渡り歩いてきた戦士が、数え切れぬ勝負の前に行ってきた儀式のようだった。
――カチリ。
罠の起動音が、硬質な残響を伴って大空洞の奥から響く。
同時に、壁の向こうから押し寄せる重苦しいざわめきが、次第に鮮明になる。
無数の脚が岩を這う音、羽音と甲殻が擦れ合う不快な低鳴り。
それは大地そのものが蠢き、飲み込もうと迫ってくるかのようだった。
クー・フーリンは杖を握り直し、足を前に踏み出す。
全身の筋肉がしなり、古の英雄譚が彼の体を通して再び息を吹き返す。
戦いの匂いを胸いっぱいに吸い込み、口角をゆっくりと吊り上げた。
「上等だ……
その声は挑発であり、同時に戦場への恋文のようでもあった。
次の瞬間、彼の全存在が闘志の炎となり、迫りくる闇に立ちはだかる。
それは、英雄と呼ばれる者だけが持つ、揺るぎない背中だった。
◇
カルデア一同は、巨大な縦穴を抜けて大空洞の底へと降り立った。
そこはまるで地上の理から切り離された異界のようで、天井は闇の彼方に溶け、地面は複雑にねじれた岩肌と黒ずんだ結晶で覆われている。
空気は焦げた金属と乾いた血の匂いが混ざり合い、無数の裂け目や砕けた岩の塊が、つい先ほどまで繰り広げられていた激戦の爪痕を物語っていた。
壁には騎士王の剣圧が刻んだ鋭い剣閃の痕が走り、そこに絡みつくように焼け焦げた虫の死骸が張り付いている。
足を踏み出すたび、砕けた甲殻の破片が鈍く音を立て、冷たい地鳴りのように空洞全体に響いた。
異様な静寂と、戦場の残滓が生む圧迫感が、一同の呼吸を重くさせる。
「……あれを!」
ジャンヌが奥を指差す。
大地が燭台のようにせり上がった中央、その頂に柱付きの水盆があり、その上には
聖杯からは黒く濁った靄が溢れ、空洞全体にゆらゆらと広がっては、周囲の魔力と混ざり合い、異様な歪みを孕んだ空気を作り出している。
駆け寄るべきかどうか、一同は一瞬ためらった。
セイバーとジャンヌは目を細め、剣と旗槍を構えながら四方を見渡し、なお残る敵の気配を探る。
その間にも、黒い靄は脈打つように広がり、視界の端で奇妙な揺らめきを見せた。
アラベルは静かに前へ出ると、仲間たちを一瞥した。
「……虫の生き残りがいるか、確かめる方法がある。どう?」
低い声に、一同は頷き返す。
その確認を終えるや、アラベルは腰元から手榴弾のような楕円形の装置を取り出し、迷いなく聖杯めがけて放り投げた。
それが聖杯の真上に達した瞬間、愛銃を素早く構え、引き金を引く。
轟音と閃光が一体となって爆ぜ、黒い靄の中に炎と衝撃波が広がり、聖杯の周囲を一瞬にして覆い尽くした。オルガマリーは思わず抗議の声をあげる。
「ち、ちょっと、アラベル! 軽率よ! 聖杯が壊れたりしたら……」
叱責は最後まで言葉にならなかった。
アラベルが振り返り、微かに口元を歪めて否定したからだ。
その目は、何かを確信している者だけが持つ、獲物を射抜く光を帯びていた。
「壊れないよ、絶対に。あいつらが折角奪った苗床を見殺しにするわけがない。
――そうでしょ、虫ども!!」
確信が宿った声が、大空洞内に響き渡った。聖杯を睨みつけるその視線は、まるで生涯の宿敵に挑むかのようだった。
やがて、爆発の余波が完全に消えたとき、聖杯と炎の跡の間に不気味な影が姿を現した。
それは、幾重にも絡み合ったスウォームの死骸の束——肉塊のような盾だった。
無数の虫の盾のように互いに積み重なって聖杯を覆い隠している。まだ温もりを残す甲殻から滴る黒い体液が、聖杯の足元を汚す。
藤丸たちは思わず息を呑み、そのぞっとする光景に背筋を冷たくする。
「構えを緩めるな!」
セイバーの叱咤が、硬質な刃のように空気を裂いた。
その声に応じるように、一同は武器を握り直す。
その瞬間――
靄の奥から、無数の甲殻が擦れ合う音が押し寄せてきた。
十、二十、三十……いや、それ以上。
光を鈍く反射するスウォームたちが列をなし、地を這い、壁を這い、こちらへ迫る。
幼蟄虫と称される、繁殖の眷属たちの軍団だった。
そして、その群れの背後に——それは現れた。
岩塊のような巨躯。
地形そのものが歩み出したかのような存在感。
膨れ上がった甲殻の下で脈動する筋肉が、鈍重なはずのその動きに異様な迫力を与えていた。
――真蟄虫。その成熟体である。
吐き気を誘う嫌悪感が一行を覆うが、誰も視線を逸らさなかった。
セイバーが静かに剣先を上げ、低く言い放つ。
「……この穢れ、必ず断ち切る」
その誓いは、ただの宣言ではなく、これから始まる死闘の火蓋だった。
アラベルは背中の可変式狙撃銃を外し、流れるような手つきで展開する。
金属音と共にアンカーが地面へ食い込み、彼女の立ち位置は揺るぎない砦と化した。
そして腰のホルスターから愛銃を取り出し、軽く回すと、藤丸へと投げ渡した。
突如として渡された凶悪な兵器を、藤丸は手元を慌てさせながらもしっかりと受け取った。
「ちょっとの間だけ貸してあげる。……壊さないでね?」
戦場の空気が一層張り詰めた。
スウォームの群れが繁殖の咆哮を上げ、地鳴りのような音が大空洞を満たしていった。
◇
——視界は、果てしない闇の中に浮かぶ孤島のようだった。
高みから見下ろす奇妙な俯瞰。
大空洞の奥、カルデアの一行が虫の群れと激突する様を、まるで遠隔の魔導機器越しに眺めるかのように、静かに切り取っている。
岩壁のひび割れを縫う黒い靄、甲殻が砕ける閃光、跳ねる血飛沫。
すべてが平面的で、すべてが冷たく、そこには熱も音もない——ただ色彩だけが、黒の縁取りにゆっくりと呑み込まれていく。
「……どうせ焼却されるというのに、無意味なことを」
呟きは、吐息に混ざって溶けた。
命とは、星々の瞬きのようなものだ。
その輝きは束の間、確かに美しい。
だが、星の軌道を砕く重力のごとき
喜びも、怒りも、愛すらも——この宇宙の摂理の前では、いかほどの意味も持たない。
すべては虚無に還るために生まれる。
その歩みは、運命という名の螺旋階段をただ降りていくだけ。
その者は目を細め、映像の中で必死にもがく彼らを映す。
——人理を守る?
——未来を救う?
そのどれもが、いずれ焼き尽くされる舞台装置の上で踊る、徒労の劇にすぎない。
那由他の彼方まで続いている暗黒の霧がすでに口を開き、彼らを呑み込む刻限はすぐそこにあるのだから。
特異点の焼却まで、残された時間はもはや指折り数えるほど。
それでも彼は焦らず、騒がず、
まるで舞台の幕が落ちる直前の観客のように、ただ時の満ちるのを待ち続ける。
背後に置かれたその影——
全身を黒く炭化させられ、皮膚も肉も焼き潰された人物が、仰向けに横たわりながら、辛うじて吐息だけを繋ぎ止めていた。
かつてセイバーのマスターと呼ばれた者。
その者——レフ・ライノールは振り返りもしない。
その存在を小道具としてただそこに置き、終焉の瞬間までわざわざ生かし、苦痛と絶望を長く味わわせる。
この世の命は燃え尽きるために在る。
そして、自らはその最後の灯を吹き消す役目を負った者。
レフの唇は、微かな笑みに歪んだ——。
カルデアの抵抗も、星々のきらめきも、すべてはやがて「無」へと還るのだ。