Fate/Grand Rail - 千の異星紀行 作:TheLazyMan
大空洞の最奥部――。
その場所は、まるでこの星の心臓の奥底に潜り込んだかのようだった。
天井は高く、闇と岩肌が絡み合って空間を覆い、僅かな発光鉱石の淡い光が、底知れぬ深淵をぼんやりと照らしている。
だが、その光は決して安らぎをもたらすものではなかった。むしろ、それが映し出すのは、絶え間なく生まれ出でる幻影のスウォームたち――不気味な翅音と、爆ぜる直前の甲殻の軋み。
そしてそれら破壊の申し子たちを統率する成熟体は、中央の巨岩に腰を据えたかのように鎮座し、その周囲から幻影の群れを湧き立たせ続けていた。虫たちは規則性も理性もなく、ただカルデアの面々へと自爆の本能だけで襲いかかってくる。
その光景は、波打ち際に立つ人間を押し潰そうとする無限の潮のようで、いくら迎撃しても減らぬ群れに、誰もがじわじわと体力と気力を削られていた。
セイバーはその中心で剣を振るい、爆撃を回避しつつ隙を窺う。
しかし、相手の数と爆発の規模はあまりに膨大で、剣を振り下ろす間さえ与えられない。彼女の銀の甲冑が爆風で震え、頬に小さな切り傷を刻んでいく。魔力の消耗を自覚しながらも、それを補充する術はなく、焦燥が彼女の瞳に滲む。
マシュは前衛で盾を構え、仲間を覆うように動く。防ぐたびに仮想宝具の表面が青白く光り、その輝きが衝撃波で揺らめく。藤丸は呼吸を荒げながらも、周囲を見渡してスウォームが飛来する方向を叫ぶ。それを聞いてジャンヌは旗を高く掲げると、マシュの盾だけでは防ぎきれない奇襲を打ち払う。アラベルは銃口を熱で赤く染め上げながら、連射に次ぐ連射で迫る影を撃ち抜く。現場指揮者のオルガマリーですら、指揮を振るう余裕を失い、懸命に魔力を振り絞って魔力の光弾を打ち出している。
その時――。地鳴りのような重低音が、足元から突き上げた。
一瞬、親玉の動きが止まる。次の瞬間、大空洞の入り口方向から轟音が響き渡り、爆風が空間全体を震わせた。岩壁がひび割れ、天井から鉱石や破片が降り注ぐ。まるで星そのものがうめき声を上げているかのような衝撃だった。
遅れて、熱を孕んだ噴煙が奥へ奥へと押し寄せる。硝煙の匂いが鼻腔を刺し、黒煙の向こうで赤い閃光が揺らめく。それはただの爆発ではない。人の意思が込められた、何かを断ち切るための炎だ――アラベルは即座にそう悟った。
通信機がざらついた雑音を吐き、ロマニの切迫した声が響く。
『……た、大変だ。英霊らしき魔力反応がひとつ……
今の爆発、間違いない……クー・フーリンだ』
一瞬の沈黙が、仲間たちを包む。
藤丸の顔から血の気が引き、マシュは息を呑む。ジャンヌは旗を握る手に力を込め、オルガマリーは腕を下ろしかける。
あの戦士が――あの英雄が――。
だが、アラベルは歯を食いしばり、引き金に再び指をかけた。
「泣くのは後! 弱気になるな! あいつはそのために死んだんじゃない!」
榴弾砲を続けて撃とうとするが、冷たい事実が返ってくる――弾切れ。最後のストックを撃ち切ってしまった。
舌打ちし、狙撃銃への切り替えのために銃のアンカーを地面から外して、スタビライザーと弾倉を切り替えようとする。
――その行動はすなわち、戦闘が始まってからずっと継続されていた、圧倒的な火力支援が途切れることを指していた。
同時にスウォーム達にとって、血に飢えた獣が牙を突き立てるための合図に等しい。
翅音が不気味に膨れ上がり、空洞を満たし、空気が圧縮されたような感覚が全員の鼓膜を押し潰す。
スウォームの親玉の背後から、影の塊が一斉に飛び出す。無数の自爆虫が渦を巻きながら迫る様は、黒い嵐が壁のように押し寄せる光景そのものだった。甲殻同士がぶつかり合う乾いた音、熱気を帯びた翅の唸り、そして中に潜む爆ぜる予兆の匂い――全てが、死の一瞬前を告げていた。
「――来ますッ!」
マシュが叫び、盾を高く掲げる。
蒼く輝く宝具の防壁が前線に展開され、押し寄せる衝撃を真正面から受け止めた。爆風が盾の外縁を撫で、光の幕が揺らぐたび、彼女の肩が軋むように震える。
背後では、ジャンヌが旗を突き立て、祈りにも似た声を上げて仲間を鼓舞する。その旗から溢れる加護の光が、幾度か防壁の揺らぎを押し返した。藤丸は、アラベルから借り受けた愛銃を構え、無駄弾を撃たぬよう一発ごとに引き金を絞り、迫る影を確実に撃ち抜く。オルガマリーでさえ、額に汗を滲ませながら小規模の魔力弾を放ち、虫の群れに空白を生み出そうと必死だった。
それはただの反撃ではなかった。
全員が――アラベルが新たな武器へ切り替える、その一瞬のために時間を稼いでいたのだ。
しかし、押し寄せる波は止まらない。盾の向こうで、甲殻が弾ける音と光の閃光が絶え間なく続く。熱風と衝撃波が肌を刺し、呼吸すらままならない。
その時――。
「――道を開けろ!」
鋭い声と共に、白銀の閃光が防衛線を切り裂いた。
セイバーが群れを縫うように飛び込み、次々と虫を斬り伏せる。剣閃の軌跡が残光となり、周囲の空気を焦がす。彼女は動線を阻害する最後の一匹を断ち割ると、カルデア一同をかばう様に立ちはだかり、深く息を吸い込み、足を地に根付かせるように立ち止まった。
その双眸には、揺るがぬ覚悟が宿っていた。
「汚らわしい虫ども! 屍の山に沈め。崩落せよ――!」
その瞬間、空洞の闇が一気に退けられるかのように、彼女の周囲に膨大な魔力が渦巻く。
黒と金の輝きが剣身を包み、空間そのものを軋ませながら光は凝縮されていく。魔力の奔流は熱となり、岩壁を震わせ、翅音すらかき消すほどの高鳴りを生み出していた。魔力の奔流は、まるで大地の心臓を直接握り潰すかのように空洞全体を震わせていた。
――宝具の展開。
セイバーは深く腰を落とし、両手で握る黒き聖剣へと、己の内に眠る全ての力を注ぎ込む。
だが――その光が頂点に至るまでの、ほんの刹那。
口惜しきことに、数瞬の時が、足りない。
「――
アラベルが渾身の悪態を吐き、ズボンのポケットに手を突っ込み、何かを取り出した。それは刃の破片だった。破砕し、もはや剣とも呼べぬ無骨な刃切。
それを虫の群れへ向け、躊躇なく全力で投げ放った。
同時に、彼女は左腕で狙撃銃を強引に持ち上げ、肩の痛みを無視して引き金を絞る。
弾丸は音を裂き、空を走る火線と化して飛び、投げられた刃切に命中した。
――瞬間、空間がねじれる。
刃切の内部に仕込まれた術式が暴走し、膨大な衝撃が凝縮して炸裂。アラベルと自爆虫の間に、純粋な壊滅をもたらす小規模爆発が発生し、最前列の虫たちは甲殻ごと四散、爆風に巻き込まれた後続も翅を焼き切られ、突撃の勢いを失った。
その一瞬――セイバーの魔力は臨界に達する。
――
剣先から解き放たれた魔力の奔流は、天地を引き裂く嵐のように前方を薙ぎ払う。衝撃は空洞全体に反響し、耳鳴りとともに岩盤を震わせ、光と闇が混ざり合う災禍の帯となって突き進んだ。
迫りくる自爆虫たちは、その暴虐な流れに触れた瞬間、甲殻ごと粉砕され、内包していた爆発すら暴発させながら散り消えていく。爆炎と漆黒の奔流が混ざり合い、まるで地獄そのものが眼前に開いたかのような光景が広がった。
そして、魔力の奔流は一直線に親玉へと直撃する。
激突の瞬間、赤黒い光の柱がその場に生まれ、天井へと突き抜ける。柱の中で親玉の外殻が軋み、無数のひび割れが走る。その悲鳴にも似た共鳴音が、最奥の空洞全体に響き渡った。
◇
赤黒い閃光の余波が岩壁を削りながら拡散していく。
その異様な輝きは、しばし戦場から翅音を奪った。粉塵がゆっくりと降り積もり、焦げた甲殻の臭いが漂う。誰もが一瞬、終わったのではないか――そんな淡い希望を抱く。
しかし、煙の奥でうごめく影がそれを打ち砕いた。
「……まだ、だと?」
セイバーの低い声が響く。
崩れた外殻の隙間から、濁った体液を垂らしながら、親玉は再び体を持ち上げた。かつての均整を欠いたその姿は、むしろより醜悪さを増していた。甲殻の下で蠢く半透明の筋肉が脈打ち、裂けた肉腫から無数の小さな触手が這い出しては空気を探る。湿った粘液が地面に滴り、焦げた臭気に生臭さが混ざる。
――その時、背後で短く息を呑む音が響いた。
「アラベル!?」
一番先に、それに気付いたのは藤丸だった。彼の顔から血の気が引く。
アラベルの左袖は肘から先まで裂け、そこから先――手首から先が、存在しなかった。断面からは鮮血が噴き出し、彼女の服を濡らしていく。
オルガマリーが即座に駆け寄り、両手をかざす。
「動かないで! 今すぐ止血する!」
温かな魔力の光が迸り、血の流れが徐々に弱まる。それでも彼女の表情は焦燥に歪んでいた。
「……まだ、右手は残ってる。銃は撃てる」
アラベルは歯を食いしばり、震える声でそう言った。
強がりだと分かっていても、その瞳には戦いを放棄しない固い意志が燃えている。
「馬鹿を言わないで!」 オルガマリーの怒声が空洞に響く。
「無茶をすれば、今度こそ取り返しがつかなくなる!」
その間も、セイバーは宝具の反動で膝が落ちかけながらも、剣を杖代わりに立ち続け、醜悪な親玉を睨み据えていた。
親玉の再生は、もはや悪夢だった。裂けた外殻の隙間から新たな甲殻が芽吹き、粘ついた体液に包まれながら形を成す。内部の肉が泡立ち、砕けた翅が再び伸びては湿った音を立てて開く。空洞全体に、虫の体液と焦げた肉の匂いが満ちていく。
「……くっ、足りない!」
オルガマリーが低く唸った。治癒の魔術はアラベルの命を辛うじて繋ぎ止めているが、自身の魔力は枯渇に近い。焦りのあまり、彼女はアラベルの上着のポケットに手を突っ込み、ざらついた小片を掴み出す。
掌の上には、淡い蒼光を放つルーン石の欠片があった。
「……借りるわよ!」
オルガマリーは問答無用でそれを握り込み、魔力を吸収する。淡い光が彼女の指先を駆け抜け、治療の光が再び強くなる。
痛みに顔を歪めながら、アラベルが低く問う。
「……それ、誰のか知ってるの?」
「――クー・フーリンから、もらったんでしょう?」
オルガマリーは目を細め、吐き捨てるように言った。
「……いや、そんな覚えは――」
言い終える前に、彼女の動きが固まった。
オルガマリーの視線は、アラベルの左腕――失われたはずの手首の断面に釘付けになっている。
「……ホーリー・ベイビー……」
そこから、異様な再生が始まっていた。
ぱちぱちと空気を焼く音と共に、白い骨が芽のように伸び、節を作り、指の骨が編まれる。そこに赤黒い筋が蠢きながら絡みつき、血管が脈動して流れ込み、膜のような皮膚が生まれては張りついていく。
それは生理的嫌悪と、否応なく目を奪う神秘とが同居した光景だった。
「な、なんだこれ……!?」
藤丸の声は裏返り、マシュも息を呑む。
「私じゃない……こんな再生、私には無理よ!」
オルガマリーは必死に否定する。
ジャンヌが視線をルーン石へと向け、静かに言った。
「……その石の力ではありませんか?」
次の瞬間、ルーン石が脈打つように蒼光を放ち、魔力がオルガマリーの腕を伝ってアラベルへと注ぎ込まれていった。吸収するたび、肉の芽吹きは加速し、骨は完全な形を成し、指先に感覚が戻ってくる。
やがて――左手は元通りに蘇った。
アラベルは半信半疑で握り、開き、手首をひねる。感覚は確かにそこにあり、右手と同じように思い通りに動く。
「……ホーリー・ベイビー。本当に……戻ってる」
呟きは、どこか震えていた。
戦場の向こうでは、セイバーが親玉を睨みつけ続けていた。
「……回復は遅い。宝具のダメージが効いている。……自爆虫はまだ来ない」
その声には、油断の欠片もない。
だが周囲を見渡せば、誰もが傷だらけで、魔力の残り火すら弱々しい。
アラベルは、そんな中で唐突に顔を上げた。
瞳に宿った光は、明らかに何かを掴んでいる。
「ねぇ、マリー。
「……は?」
あまりにも場違いな言葉に、オルガマリーは眉をひそめる。
「今なんて――」
その反論を、アラベルの眼差しが封じた。
暗い星海の底から吹き上がるような意思の光。
彼女の視線は、この世界の外側すら射抜くかのように鋭く、強い。
視線がぶつかった瞬間、言葉よりも先に、何かが通じ合った。
火花のような閃光が心の奥で弾け、遠く異なる二つの海が、同じ潮目でぶつかる。
空気がゆっくりと反転し、耳鳴りにも似た低い響きが胸を震わせた。
――どちらの世界の音か、オルガマリーには判別できない。
だが、幻のような一瞬は、湿った羽音に引き裂かれた。
虫の王が、裂けた外殻の隙間から新たな触肢を伸ばし、血膿のような光を滲ませながら、壊れた肉体を再び編み直していく。
その周囲に、ひとつ、またひとつと、小型の自爆虫が形を結び――腐汁を垂らしながら、再び群れを成す。
「何かするならとっととやれ! 悠長にしている暇はない!」
セイバーの声は鋼のように冷たく、叱咤は風圧と共に響く。白銀の剣閃が、迫る群れを無造作に断ち切った。
オルガマリーは短く息を呑み、即断した。
「……藤丸、マシュ、ジャンヌ! 守りを固めて――!」
瓦礫に覆われた足元へと膝をつき、彼女は魔力を指先に込める。
土と血で汚れた大地の上に、淡く輝く円と線が滑るように描かれていく。その形は、外界の理を呼び込むための古い式――だが、この場に漂う空気は、明らかに異質だった。
やがて、円環は完全な姿を現した。
自分の狙撃銃を仕舞って立ち上がったアラベルが、その
外周では仲間たちが円を囲み、徐々に数を増やしつつある幻影の虫を弾き飛ばしながら、魔方陣を守る壁となる。
「媒体もなしに応じる存在なんて――」
オルガマリーの言葉は、途中で切られた。
アラベルの声音は静かだったが、そこに含まれる確信は揺るぎなかった。
「
次の瞬間、彼女は左手の親指を歯で噛み切った。
鉄の味と温かな滴が口の端を滑り、指先から
それは魔方陣の中心へと吸い込まれ、淡い光の中に赤い脈動を刻んだ。
そして――アラベルは左手を前へと突き出した。
その指先が示す先に、目に見えぬ扉が軋みを上げて開きかけていた。
「……詠唱を教える必要はある?」
「心配ご無用。……大事なことを忘れるようなタチじゃないよ」
隣からの問いに、アラベルは片眉をわずかに上げた。
唇に滲む笑みは、冷たくも孤狼のように挑発的だった。
そして、静かに口を開く。
「――素に銀と鉄。礎に石と契約の大公」
低く落ち着いた声が、大空洞の湿った空気を震わせた。
その響きに、虫の王が異様な気配を察したのか、ぐらりと首をもたげ、濁った瞳孔が中央の魔方陣を射抜く。
次の瞬間、咆哮。
全身を編み直していた再生を途中で断ち切り、周囲に黒い亀裂を撒き散らすように、数えきれぬほどの小型自爆種を吐き出した。
「全員、死力を尽くせ!」
白銀の剣閃が閃き、漆黒の騎士王の命令が戦場を走る。
「――降り立つ風には壁を」
アラベルの声が、血煙の中でも途切れない。
爆ぜる羽音と火花。群れが四方から雪崩れ込み、鋭い脚を振り上げる。
ジャンヌは天へ祈り、残された魔力を一滴残らず解き放つ。光が旗を伝い、衝撃波となって押し寄せる。
藤丸は左腕の刻印を握りしめ、最後の令呪を解放する――。
「行け、マシュ!」
眩い光に包まれた少女が、一瞬だけ息を呑み、それから巨大な白亜の盾を現出させた。透明な壁が半球を描き、迫る爆炎と破片を受け止める。
「――門より出でて、王国に至る三叉路を渡れ」
火線と火線が交錯し、光と闇が閃光の中で砕ける。
セイバーは己の肌を焦がす熱風も顧みず、刃を横薙ぎに振るった。
斬撃から溢れる魔力波が、接近する群れを一掃する。
爆発の破片が鎧に食い込み、肉を抉っても、その動きは止まらない。
「――告げる。汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に」
大地が揺れた。
虫の王が翼を広げ、黒い旋風を巻き上げながら飛翔する。
質量を伴った影が、稲妻のごとくカルデアの前線へと突っ込んだ。
「させん――ッ!」
白銀の軌跡が、闇の奔流と真正面から激突する。
衝撃は雷鳴にも似て、地面を大きく抉った。
セイバーの剣が親玉の鉤爪を受け止めた瞬間、火花とともに骨を震わすほどの重圧が押し寄せる。
だが――質量の暴力は、意志の力をも軽々と押し潰す。
「ぐっ――!」
剣ごと押し飛ばされ、鎧が軋み、背中が岩壁に叩きつけられる。砕けた石片が弾丸のように散り、空気を裂いた。
吹き飛ばされる間際、セイバーの視界に、背後で魔方陣を守る仲間たちが一瞬だけ映る。
「――聖杯の寄るべに従い、この意、この理に従うならば応えよ」
詠唱の声が、戦場の轟音を切り裂くように響いた。
その声は決して大きくないのに、耳の奥に焼き付く。
まるで、この戦場でその言葉だけが現実であり、他は幻影に過ぎないとでも言うように。
「……来い!」
旗を掲げたジャンヌが、飛翔した親玉を受け止める。
巨大な影が衝突し、衝撃波が周囲を薙ぎ払い、地面が波打つ。
靴底が岩を削り、足元に亀裂が走る。それでも彼女は一歩も退かない。
「――誓いを此処に。我は常世総ての善と成る者、我は常世総ての悪を敷く者」
背後では、残る仲間たちが自爆虫を必死に薙ぎ払い、魔方陣へ一匹たりとも近づけまいと戦っていた。
どこからともなく、漆黒の魔力の奔流が嵐のように一筋の波を生みだし、自爆する虫もろとも、ジャンヌを圧し潰そうとする親玉の横腹を抉りとり、大地を引き裂くような耳障りな絶叫が木霊する。
剣戟の音、爆炎の咆哮、甲殻の砕ける不快な音――それら全てが混じり合う中、ひときわ澄んだ声だけが続く。
「――汝三大の言霊を纏う七天、抑止の輪より……とっとと来やがれ!! 天秤の守り手!!」
次の瞬間――魔方陣から爆裂する光が全てを押し流した。
渦巻く奔流は、熱でも風でもない、純粋な魔力そのもの。
人も虫も、味方も敵も、アラベルでさえも、等しく壁際まで吹き飛ばされる。
ただ中央に立つ一人だけが、揺るぎなくその場に立っていた。
アラベルの足元の魔方陣は、まるで星々が連なり新たな運命を描くように輝き、そこから影が形を成し始めていた。
◇
爆裂する魔力の奔流が収まり切らぬうちに、魔方陣の中央から白い靄が立ち上った。
それは単なる煙ではない――魔力の粒子が濃密すぎて凝結した、可視の奔流。
漂い、渦を巻き、光を孕み、やがて幻のような光景を映し出していく。
蹄の音――。
それは確かに戦場の岩盤を叩く響きとして聞こえた。
靄の奥で、一頭の灰色の勇馬と、一頭の黒き駿馬が現れる。それらの双眸は星のように光り、毛並みは夜空の闇を閉じ込めたかのごとく艶やか。
馬具には銀細工が施され、緋色の装飾紐が風のない空間で揺れる。
彼らを牽くのは、人類史の伝承に記された、とある大英雄のための戦車。
黄金の車輪は回転のたび火花を散らし、車体は戦場の焔と血を反射して、刃のごとく輝く。
その戦車の上に立つ影――。
最初、それが誰なのかは誰も分からなかった。
深く被った兜と赤い外套が、その姿を覆い隠している。
ただ、背に長槍を負い、戦場を俯瞰するその立ち姿は、時代も世界も超えた戦士のそれだった。
「……
低く、どこか笑みを含んだ声が、靄を割ってアラベルへ届く。
その瞬間――藤丸たちの表情が揃って変わった。
驚き、困惑、そして理解。
壁際に叩きつけられていたセイバーが、岩片を払いながら歩み出る。
血を流しつつも、冷ややかに唇を吊り上げた。
「……しぶとさだけは変わらんらしいな」
アラベルは肩をすくめ、小さく笑った。
「分かりやすいヒントをありがとう。おかげで助かったよ」
「はっ、そりゃ何よりだ」
影は軽口を返し、背の長槍を手に取った。
槍先を大きく払うと、周囲の魔力の煙が一気に吹き飛ぶ。
そこに立っていたのは――。
緋色の外套を翻し、鋼の鎧を纏った金髪の戦士。
しなやかで獰猛な肢体、手には血を吸い尽くしてなお渇くことのない魔槍、ゲイ・ボルグ。
そして背後には、二頭の神馬と黄金の戦車。
「御者がいねぇのはよく分からねぇが、いないなら俺が牽くだけだ。
――英霊、
その双眸が虫の親玉を捉えた瞬間、戦場の空気が一変した。
まるで荒天前の海のように、冷たく、重く、鋭く。
星海を駆ける戦士、クー・フーリンの殺気が、敵を貫き、大空洞の空気を震わせた。
◇
クー・フーリンの双眸が、正面の巨大な影――虫の親玉を射抜く。
その視線はただの敵意ではない。
星海の嵐をも凌ぐ、殺意と戦意の奔流。
瞬間、空気が鳴動した。
漲る魔力が大空洞の空間を満たし、そしてアラベルの魂の奥底に流れる、運命の力とそれとが絡み合う。
見えぬ雷が走ったかのように、岩壁が低く唸り、空気はひりつき、戦場そのものが震え始めた。
息を吸うだけで肺に火が入るような感覚――全員が直感で悟った。
これはただの英霊召喚ではない。世界の法則が一瞬だけ軋んでいる。
『――アラベル、聞こえるか!?』
耳元の通信に、ノイズ混じりのロマニの声が割り込んだ。
『すごい……いや、異常だ! 君が呼び出した英霊は、魔力量の波形が完全に狂ってる! 計測上、正面にいる巨大反応とほぼ拮抗してるぞ!』
報告を受けたカルデアの現場班は、息を呑むしかなかった。
しかし当の本人――クー・フーリンは、不満げに鼻を鳴らす。
「拮抗だァ?
その声には、怒りでも驚きでもない。
ただ戦う者としての当然の反応――獲物を狩ることへの純粋な欲求だけが滲んでいた。
彼は振り返る。その視線の先、アラベルがゆっくりと息を吸い込み、まっすぐに見返す。
その瞳には恐れも迷いもない。ただ一つの覚悟――「ここで終止符を打つ」という強い意志。
「……ライダー。出し惜しみってどう思う?」
「サイコーに、嫌いだな」
「んじゃ、
アラベルは左手を掲げ、その手の甲に刻まれた令呪を見下ろした。
瞬間、赤い紋様が炎のように輝き、一画、二画、三画――すべてが同時に燃え尽きていく。
「我が命、我が力を振るい、
――クー・フーリン。魂の限界を超えて、目の前の敵をすべてを討ち果たせ!」
奔流。
それはもはや魔力と呼ぶには余りある質量の光。
クー・フーリンの足元から奔り、戦車の車輪を鳴らし、駿馬のたてがみを逆立たせる。
「……ッはははははァ――ッ!!!」
戦士の笑いが戦場に響き渡った。
狂気とも歓喜ともつかぬその声は、空洞の天蓋に反響し、岩壁を震わせる。
令呪が燃え尽きた瞬間、世界が軋んだ。
クー・フーリンの全身から奔る魔力は、もはや光の奔流というより空間そのものの圧縮と解放だ。足元の岩盤が悲鳴を上げ、放射状に亀裂が走る。
圧力で歪む空気。深淵の奥から響く耳鳴りのような低音。
その異様な気配に、敵だけではなく味方のセイバーすら頬を伝う冷や汗を拭えなかった。
「……やるな、槍兵」
彼女はそれだけ呟き、剣を握る手に力を込めた。
虫の親玉は、初めて味わう脅威に全身の外殻を広げ、無数の翅を震わせる。甲高い共鳴音は威嚇の咆哮に似ていた。だが――。
「へっ……カサカサと虚勢を張りやがって。悪いが、そういうのは俺には通じねぇ」
クー・フーリンは、虫の小賢しさを鼻で笑い飛ばす。
青碧とも黄金ともつかぬ髪の毛を逆立たせながら、振り返らずに呼び声を放つ。
「来い、マッハ! セングレン!
――アルスターの地を駆けた俺の相棒ども。この異形の戦場に、雷を刻み付けん!」
応えるように、二頭の黒き駿馬の蹄が雷の火花を散らし、たてがみは星明かりのごとく光を帯びていた。
御者台に立つクー・フーリンは手綱を握り締め、迷いなく鞭を振り下ろす。
轟音。
次の瞬間、雷光のような戦車が空間を裂き、稲妻が大空洞を縦断した。その軌道は、英霊であるジャンヌや、セイバーを以てしても追うことができない。
軌道上にいた自爆虫どもは切り裂かれ、火花と爆炎を散らす花火と化して消え去る。
突き抜けた戦車は弧を描き、親玉を正面に捉える。
クー・フーリンの瞳は獣を射抜く狩人のそれ――
虫の親玉もまた、迎撃の構えを取った。
その眼前に、濃縮された魔力と運命力が渦巻く黒き球体が生成される。
触れれば全てを崩壊させる、死の塊。
だが、クー・フーリンは星海を駆ける車輪そのものと化していた。
戦車も馬も、そして彼自身の肉体すらも白く輝き、槍の穂先に収束する光は、天と地をつなぐ雷柱のように一直線だった。
――
雷鳴を裂く咆哮とともに、戦車は星海を渡る光の流星と化した。
疾駆――その瞬間、虫の親玉の外殻を紙のように引き裂き、魔槍は巨体の胸を貫通する。
貫かれた傷口は、黒い太陽のように口を開けた。
そこから、奔流となった魔力と瘴気が逆流し、親玉の全身が一瞬、不気味に膨れあがる。
次の刹那――。
――轟。
巨大な漆黒の爆発が、音よりも先に光と衝撃を伴って大空洞を満たす。
岩壁がひび割れ、地の底から噴き出す風が熱と死の匂いを運んだ。
そして――その巨影は、跡形もなく消え失せた。
残されたのは、瘴気と焦げた大地。
だが、クー・フーリンは槍をひと振り。刃の軌跡が空気を切り裂き、嵐のような突風が瘴気を払う。晴れ渡る視界の向こうで、戦車の御者台からこちらを見下ろす彼の口元に、勝者の笑みが浮かんでいた。
アラベルもまた、その笑みに応える。短く、しかし確かな信頼を込めて。
「……意外と強かったんだね」
「そうだぜ。見直したか?」
「ちょっとはね。……これで、終わり?」
「いや、まだだ」
クー・フーリンは首を向ける。
そこには、漆黒の戦火にも汚されぬ黄金の輝き――聖杯が鎮座していた。
言葉を交わす間もなく、戦場の隅で光が揺らめく。
セイバーが、静かに剣を納めていた。
彼女の輪郭から舞い散る光粒子は、戦いを締めくくる鐘の音のように荘厳だった。
「どうやら私もここまでのようだ。後処理と、我がマスターの保護は任せる」
「ああ? なんだよ。もっと気概を見せたらどうだ、セイバー」
「笑止。私の役目は既に果たされた。あとは貴様たちがどうにかするべきだ。
カルデアの者たちよ――この戦いの果てにも、人理を紡げ」
そう告げると、彼女は光に包まれながら消えていく。
その最後の微笑みは、別れよりも旅立ちを思わせた。
静寂。
一同は痛む身体を押さえながらも、互いに頷き合い、大空洞の中央へと歩み寄る。
激闘の末にようやく掴んだ勝利。
長く苦しい旅の末に、初めて成し遂げられる使命。
万感の思いを抱きながら、藤丸が、慎重に手を伸ばす。
その指先が聖杯の縁に触れようとした刹那――。
「――いけない!」
「下がれ、マスター!」
ジャンヌの声と、クー・フーリンの怒号がほぼ同時に響き渡る。
反射のような動きだった。二人は己のマスターを強引に抱き寄せ、聖杯から一歩、いや二歩も引き離す。
藤丸は息を呑み、アラベルは一瞬の出来事に足が地を離れる感覚を覚えた。マシュも反射的にオルガマリーを盾の裏側に隠す。
次の瞬間――。
空気が裂け、天井のはるか上から、吐き気を催すような
それは炎でも氷でもない、純粋な魔力で編まれた凶器。
轟音とともに地面を穿ち、聖杯の台座を深々と貫通する。
着弾の衝撃で周囲の石床が粉々に砕け、粉塵が波のように押し寄せた。
もし、あと一呼吸遅れていたなら――藤丸とアラベルの胸を、その穂先は容赦なく貫いていただろう。
背筋を冷たい刃でなぞられるような感覚が、全員の心臓を締め上げる。
舞い上がった塵が、ゆっくりと晴れていく。
その空白のような静寂の中――何もないはずの空間に、影が浮かび上がった。
最初は揺らぐ陽炎のようだった。
だが、輪郭は次第に人の形を結び、服の襞、顔の曲線、眼光の鈍い光までが露わになる。
現れたのは――レフ・ライノール。
その眼差しは、深海の底で光を拒んだまま蠢くもののように冷たく、濁っていた。
口元に浮かぶ笑みは、慈愛にも敵意にも似ていない。
ただ、生き物を「観察する」ことそのものを愉しむ、虚無の微笑み。
そして、彼の片手には――炭と化した、もはや人とも判別のつかぬ塊がぶら下がっていた。
それは腕の形を残しながらも、指先は黒く縮れ、皮膚も骨も灰と化している。
焦げた肉の匂いが、遅れて風に乗り、鼻を刺した。
誰一人として声を発せなかった。
不気味な沈黙の中で、レフは微笑む――まるで、この場の緊張すらも玩具にするかのように。