ギリギリで生きていたい   作:ptagoon

1 / 1
飲み込んだ飲み会

──野本──

 

「犬が人間になぜモテるか分かるか?」

 

 高校一年生の頃、担任教師の磯村が、数学の授業中にそんなことを言い出したことがあった。かなり昔の記憶であり、どこか輪郭のない朧気なものであったが、それでも当時の机の肌触りや、廊下から流れる冷たい風の感覚はすぐに思い出すことができた。

 

「理由は単純だ。人の言葉を話さないからだよ」

 

 得意げに話す磯村先生の声は淡々としており、冗談を言っている様子でもなかった。「人間は平気で嘘を吐く。お前らみたいなガキには分からないだろうが、大人は嘘つきばっかりだ。そんな世界にいるとな、言葉ってのを信用できなくなるんだよ。だが犬は違う。尻尾を見れば感情が分かる。嘘を吐かない。だから人間にもてるんだ」

 

 つまりだ、と磯村先生は教室の後ろで騒ぐ僕たちを指差した。「お前らみたいな授業中に喋ってる奴らは、一生誰からもモテねえんだよ。俺のモテない奴リストにもそう書いてある。うるさい奴、病院を嫌がる奴、決められた場所でトイレができないやつ」

 

 それはモテない犬の条件なのではないか、と言いたかったけれど、騒いでいた手前そう抗弁することができず、僕たちはただ黙っていることしかできなかった。

 

 

 

 

「あの磯村先生の言葉はないよな」

 

 それから十年後。僕たちは居酒屋の片隅であの時のことを話し合っていた。天ぷらが有名な全国チェーンの店は金曜の夜ということもあり、酷くごったがえしていた。風情も情緒のへったくれもないが、高校時代の男友達が十年ぶりに会う場所としては相応しいかもしれない。

 

「磯村先生があんなことを言ったせいで、俺達は灰色の学生生活を送る羽目になったんだ」

「勝手に灰色にすんなよ」

 

 来人の言葉に苦笑した守が隣に座る僕の肩を軽く小突いてくる。「俺たちはそれなりに色鮮やかな学生生活を送ったじゃねえか。そうだよな野本」

 

「ああ」と僕は手にしていたジョッキを口に運び、僅かに残っていたビールを飲み干した。

「ピカピカに輝いていたよ。虹色の学生生活だった」

「虹色は言い過ぎじゃないですか?」と正面に座る高円寺が微笑ましそうにこちらを見てくる。「精々青色でしょう」

「なんで青色?」

「ブルーな気持ちってやつです」

「嫌だよブルーな学生生活なんて。まだ灰色の方がいい」

 

 下らない会話だ。けど、だからこそ懐かしかった。僕たち四人は高校時代いつだって一緒にいた。四六時中ずっと行動していた訳でもない。だけど、それでも何か大事なことや、馬鹿なことをする時は決まってこの四人だった。中学校で同じ部活だっただけの繋がりといえばそれまでだけれど、高校生だった僕にとって、この四人でいる時には万能感のような何かを感じていた。

 

「とりあえず色々注文しといたから」

 

 守はこれ見よがしに店内に設置されたタブレットを掲げ、「とりあえず生ビールと天ぷらを死ぬほど頼んだ」と誇らしげに笑った。

 

「大学生みたいな頼み方だね」

「俺はいつまで経っても若さを忘れないの」

「天ぷらって、具体的に何を頼んだんですか?」

 

 ええと、海老と芋と大葉と、と読み上げていたが、唐突に「あと味噌汁」と言い出した。

 

「味噌汁? なにそれ」

「味噌の汁だよ」

「そういうことを聞いているんじゃない」

 

 味噌汁の天ぷらなんて聞いたことがなかった。そもそも汁物の天ぷら自体が存在し得ない。どう考えても美味しくない。

 

「大丈夫だって」が、なぜだか守は自信満々だった。「俺、これ好きでよく食べるんだ」

「まあ、守が食べてくれるならいいんだけどさ」

「でも味噌が嫌いでよ。味噌抜きにした」

「それはもう味噌汁じゃないだろ」

 

 相変わらずの守にどこか懐かしさを覚える。久しぶりの再会で、気まずくなることも覚悟したのだけれど、どうやら杞憂だったみたいだ。

 

 目前のビールからぱちぱちと泡が弾ける音がする。ビールなんて苦くて飲めた物ではないと昔は思っていた。が、いつの間にか居酒屋では真っ先に注文するようになってしまっている。目の前の友人達も自然にビールを口へと運んでいた。それが何とも歯がゆく、得体の知れない違和感に襲われる。

 

「でも、十年ぶりか」

 

 どこかからぽつりと声が聞こえてはっとする。誰の言葉かと周囲を窺うけれど、三人は僕を見てはにかんでいた。どうやら知らず知らずのうちに声を零していたらしい。

 

「本当に久しぶりだな」

「そうだな」

「まさか卒業してから一度も会わないと思わなかったよ」

「そうだねえ」

「来人は高校卒業してからすぐプロになっちゃうし、来人は毎日試合で日本中飛び回っているし、来人は女子アナと交際して別れるし」

「野本は俺のせいで皆が集まれなかったって言いたいのか?」

「そうは言ってないよ」と僕は両手を振る。「ただ、せっかくプロ野球選手になったというのに、昔の友人を自らの豪邸に招かないなんて、随分と薄情だなって思っただけだって」

「より悪化している」

 

 来人は昔からの仏頂面を僅かに崩して口元を緩めた。高校時代から大柄で、肩幅も背丈も大きかったのだが、それでも今の彼とは比べものにならない。四人がけの机に座っているはずなのに、来人の隣に座る高円寺は窮屈そうだった。

 

「でも、まさか本当にプロになるとはなあ」

 

 守が感慨深そうに目を細めて両手で頭を撫でた。未だ高校時代から変わらず坊主頭にしている来人をからかっているのだろう。昔のような悪戯っぽい笑顔を浮かべていた。「しかも名古屋ドラゴンズとはね。四ツ里イノチシラーズの四番も出世したもんだ」

 

 中学時代、僕たちが出会う切っ掛けとなった野球チームの名前を守は口にした。僕たちが通っていた四ツ里中学の野球部の愛称だ。小学校の野球部が自らのチームに名前をつけることはよくあるけれど、中学で名前をつけているのは僕たちくらいで、しかもそのネーミングセンスの悪さから生徒の間では不評だった。それでも三年間も名乗り続けていると愛着が湧くもので、引退する時にはそれなりに泣いた記憶がある。

 

「ドラゴンズに選ばれたのも、プロになれたのも偶然だ。大学時代に運が巡ってきたんだよ」

「驚きました」高円寺はその鋭い目を大きく見開き、僕たちをぐるりと見渡した。「あの来人が謙遜するなんて」

「高円寺は俺をなんだと思っているんだ」

「俺も大人になりましたからね。この場では口にはできません」

「本当に何だと思っているんだ……」

 

 来人は中学生の頃から飛び抜けて野球が上手かった。一年生の頃からエースで4番。彼の入学前までは地区予選の初戦で負けていたというのに、彼が入ってからは全国大会にまで出ることができた。高校時代もそれは同じだったようで、甲子園にこそ行けなかったものの、公立高校としては堂々たる成績を残していたはずだ。

 

「なあ来人。サインしてよ」酔いが回ってきたこともあり、僕は気兼ねなくお願いした。「プロ野球選手のサイン、高く売れそうじゃん」

「売るなよな」と来人が苦笑する。「色紙とか持ってきてんのか?」

「ない。この箸の袋とかでいい?」

「いいわけないだろ」

 ため息を吐いた来人に「プロ野球はどう」と訊ねる。「職場環境としてまとも?」

「まともかどうかは分からないが、どちらかといえば体育会系だな」

「そりゃそうだ」

「みんな球が速くて、肩が強くて、野球がうまい」

「そりゃそうですよ」

「まあ、ぼちぼちだよ」

 

 結局そう結論づけた来人は照れくさそうに頬を掻いた。「大学生の頃にしていたバイトよりは忙しいが、それでも好きな野球をしてお金を貰える人生というのは、悪くない」

 

 ほぅ、と自然と息が漏れる。周囲の異様な雰囲気に気がついたのか、「なんだよ」と来人はきょろきょろしていた。「どうしたんだ」

「いや、すげえなって思ってよ」

 

 皆の意見を代弁した守がしげしげと来人を見つめていた。尊敬と憧憬の混ざったその瞳は、高校時代に皆が来人に向けていたものと何も変わっていない。さすが来人と言わざるを得なかった。

 

「好きを仕事にできるってのは凄えよ。才能と努力の結果だな。俺、今でも上司に怒られたら言ってるんだぜ。友人にプロ野球選手がいるけど、そんな俺に文句を言っていいのかって」

 

「自慢の仕方が最悪すぎる」

「まあ上司も知り合いにジョニーデップがいるから、とんとんではあるな」

「さすがにジョニーデップには敵わない」

 

 ホームベースのように大きな顔をくしゃりとさせた来人は「そういう守も」とその太くて短い眉を少し上げた。「立派な仕事に就いたらしいじゃないか」

「お。知ってんのか」

「そりゃあね」と来人は肩をすくめる。「お巡りさんには日頃からお世話になっているから」

「何をやらかしているんだ」

「人聞きが悪い」手にしたジョッキを一気に飲み干した来人は「一日警察署長とかなったことがあるんだ」と自慢げに胸を張った。「一日だけ、守の上司になったことがあるんだよ」

 

 ほへー、と間も抜けた声を出すことしかできない。守が警察官となっていることは知らなかった。が、驚きよりは、やっぱりなとどこかで納得する気持ちの方が大きい。太陽は西に沈むし、上司は部下を殴るし、ビールを飲めばゲップが出るし、守は警察官になる。この世界の理といってもよかった。

 

 守は昔から約束やルールを破らない男だった。誰かが校則を違反すると、たとえ相手が先輩や先生であったとしても果敢に注意をしていた。模範的な優等生ではあったが、中学生にとって、模範的な優等生ほど鬱陶しいものはなく、「なんでもまもる守くん」と皮肉半分の渾名をつけられていたのだが、「俺は何だって守るぜ。きっといつの日か世界を守る日もくるかもな」と本人は満更でもない様子だった。得意げだといってもいい。

 

 そんな守が警察官になった。そう聞くと胸の奥が少し暖かくなる。彼の純真さが失われていないような気がして、ほっとする。

 

「何だよにやにやして」

 

 守が僕を下から見上げるようにして訊ねてくる。相手を訝しむ時の彼の癖だ。当時から変わっていない。

 

「俺が警察官ってのが、そんなにおかしいのか」

「いや」と首を振る。「お似合いだよ」

「お似合いって何だよ。普通そこは、凄いなとか、感心したとか、ファンタスティックとか言うべきなんじゃないのか」

「警察官って、交番にいるおまわりさん?」

 

 守の言葉を無視して訊ねる。わざとらしく舌打ちをした守だったが、すぐに白い歯を見せて「本庁勤務」とはにかんだ。「忙しいが、まあやりがいはあるよ」

「凄いな」と僕は本心から言った。「杉下右京には会った?」

「県警にはいねえよ」

「どこにもいませんよ」くすくすと笑った高円寺は「もっと真面目に質問しないと」と黒縁の眼鏡を人差し指で弄った。「ところで湯煙殺人事件は月何件起きるんですか?」

「一件も起きない」

「あんパンはコンビニで買うの?」

「買わない」

「僕が捕まったらソースカツ丼にして」

「しない」

「味噌ソースで」

「しない!」

 

 ふざけすぎたからか、守は大きな声を出した。が、その声に怒りはなく、どちらかといえば喜色が浮かんでいる。

 

「お前らは警察に夢を見すぎなんだよ。もっと現実を見ろ」

「なら教えてくれよ。警察の現実とやらを」

「赤い彗星みたいに言いやがって」

「いけしゃあしゃあってことか?」

 

 来人をスルーした守は「警察はそんな派手な仕事ばかりじゃない」と急にまともなことを言い出した。「地味で大変な仕事ばかりだ」と弱々しい笑みを浮かべて愚痴をこぼしたが、「でも」とすぐに顔をあげた。鼻の下を擦ったかと思えば「やりがいはあるよ」と誇らしげな表情になる。

 

「地味で面倒な仕事ばかりだ。でも、必ず誰かの助けになるんだ。ありがとうと感謝されることもないし、スーパーヒーローみたいな有名人になれるわけじゃない。けど、まあ。それでも俺はやるよ」

「どうして?」

「それが仕事だからだ」

 

 その場にいる誰もが痛いところを突かれたかのように眉を顰め、苦々しく笑った。

 

「大人の回答ですね」

 

 高円寺ははっと鼻を鳴らしていた。嘲るというよりは、同情と共感がない交ぜになった自嘲といった方が近いだろう。悲しげな鼻の鳴らし方だった。

 

「あの生真面目な守もすっかり大人になってしまって」

「そういう高円寺はあんまり変わっていないよな」

「そうですか?」

「というかあれだ。子供の頃から大人びていたから、変わっていないように見えるだけかもしれねえ」

 

 なんですかそれ、と頬を緩める高円寺は、酒が入って頬が赤らんでいるというのに、素面の僕よりもよっぽど冷静に見えた。

 

 高円寺は学生時代から冷静、というよりもクールだった。本人曰く髪型や身なりを整えているわけではないらしいが、黒くて柔らかい長髪と、黒縁の眼鏡から覗く切れ長の目が印象的で、常に理路整然とした話し方をするも相まって、当時からエリートサラリーマンのような雰囲気を醸し出していた。あれから十年経った今でもそれは変わらず、むしろ目尻や頬に少し皺ができ、貫禄が出てきたことも相まって、スーパーエリートサラリーマンとも言うべき風貌になっていた。

 

「高円寺は今何してんだよ」

「お前らと違って、普通のサラリーマンですよ」

「何系? 家系とかか?」

「ラーメンじゃないんですから」

 

 メディア系ですよ、とため息を吐いた彼は続けて地元の有名企業の名を口にした。業界最大手の一流企業だ。

 

「すげえじゃん。さすが高円寺」

「おだてても出るとこにしか出ませんよ」

「なんで法廷で争わなきゃならないんだ」

 

 高円寺は誰も訊ねていないのに「仕事はぼちぼちですね」と話し始めた。まあ、社会人になったら話すことなんて仕事のことしかないのだから、仕方がないのかもしれない。「最近ようやく営業からバックオフィスに移れたんですよ。辛い外回りから解放されました」

「広告系の外回りって大変そうだよね」

「大変ですよ。妙齢の男女に怒られた数ランキングがあれば、きっと第2位になれますよ」

「一位は誰なんだ」

「来人のとこの監督」

「ああ」

 

 たしかに野球選手の監督は色々とやじられているイメージがある。が、それに匹敵するほど怒られるというのも凄まじい。そもそも僕からすれば、何でもそつなくこなす高円寺が怒られていること自体が想像もつかなかった。

 

「まあでも何とか出世コースに乗れましたから」

 

 愚痴ってしまったことを反省したのか、高円寺は気張った声を出した。「このまましがみついてやりますよ。いつの日か社長になって、妻と息子をハワイに連れて行くんです」

「妻と息子」

 なんとなしに鸚鵡返しにしてしまう。高円寺の左手薬指に嵌められた指輪は既に年季が入っていた。

「まさか高円寺が結婚第一号になるとはなあ」

 守が感慨深そうに頷く。「意外だ」

「なんですか。暗にもてなさそうっ言ってます?」

「理想が高そうだって思ったんだよ。お前、高校時代も告白されては、振りまくりだったじゃねえか。お前に振られた女子生徒で、アイスホッケーができるくらいって」

「人数がぴんときませんね」苦笑した高円寺は「そういう守は学生時代どうだったんですか?」と返す刀で訊ねた。「もてもてでした?」

「振られた数ならお前に負けない」

 守はなぜか自慢げだった。「俺を振った女子生徒でテニスができるくらいだ」

「二人じゃないですか」

「冷静に考えろ。俺みたい口うるさい奴がもてるわけないだろ」

「それもそうですけど」

「そんなことないですよって言え」

 

 やんややんやと騒ぎながら、守は「お前の子供なんて、どうせ産まれながらに七三分けなんだろ」と意味の分からないことを口走っていた。「おぎゃあじゃなくて、承知しましたって言いながら産まれてきたんだろ」

「うちの娘はもっと可愛い」

 

 酒を飲んでも引き締まった表情を崩さなかった高円寺が、にへりと顔を歪ませた。待ってましたとばかりにスマホを取り出し、画面をこちらへ向けてくる。そこには布団で眠る小さな子供の姿があった。

 

「何歳?」 なぜか少し小声で来人が訊ねた。「1歳と半年」

「可愛い?」

「見たら分かるでしょう。天使ですよ」

 

 高円寺の顔は緩みに緩み、もはや元々どこに目鼻があったのかも分からなくなっていた。クールで冷静だったはずの彼をここまで蕩けさせるなんて。子供とはなんと恐ろしいのか。

 

「目に入れても痛くない。食べちゃいたいくらい可愛い」

「何味かな」

「その反応は真っ当じゃないですよ」

「お母さんの写真も見せろよ」あまりの幸せオーラでお腹いっぱいになっていたのだけれど、守はさらに幸せオーラを浴びたいらしく、茶化すように高円寺を脇で突いた。「どんな人だ」

 

 高円寺は何も言わずにスマホを弄り、僕たちへと向けた。写真の右側には高円寺がいた。どこか緊張した面持ちで、顔が引き攣っている。が、それでも耳が赤くなっており、照れているのがよく分かった。その高円寺を照れさせている原因は左側に映った女性であることは明らかだ。

 

 美人だった。髪は短く、どこか男勝りな雰囲気がある女性だ。得意げに片頬をあげ、がしりと高円寺の肩を掴んで、彼の髪の毛を掴んでいる。プロレスの試合を切り抜いたかのような写真だ。これだけで高円寺家の普段の会話が窺える。それほどまでに臨場感があった。

 

「何歳?」やけに大声で守人が訊ねた。「二十八歳と、三十九日」

「可愛い?」

「見たら分かるでしょう。悪魔ですよ」

 

 高円寺の顔は酷く強張り、もはや元々どこに表情筋があったのかも分からなくなっていた。クールで冷静だったはずの彼をここまで怯えさせるなんて。結婚とはなんと恐ろしいのか。

 

「そろそろ桃太郎が家にこないかと冷や冷やしているんだ。鬼退治に」

「雉ってペットとして飼えるんだっけ」

「その反応は真っ当じゃないですよ」

 

 高円寺らしからぬ愚痴だったけれど、おそらくこれは惚気だろう。世の中には喧嘩をせず、お互い罵倒もしない健全な夫婦というものも存在するらしい。そんな仲睦まじい夫婦はなぜか余所ではパートナーの愚痴を言うのだという。奇妙な生態だけれど、今の高円寺もおそらくそんな感じなのだろう。

 

「野本はどうなんですか」

 

 守と来人が結婚生活を根掘り葉掘り探ろうとしていたからか、どこか逃げるように僕へと視線を向けてきた。

 

「今なにやってるんですか」

「今はしがないサラリーマンをやってるよ」

「しがない? 申し分ないの間違いだろう」

 

 来人はおどけるでもなく、真顔で言ってくる。

 

「俺はな、野本は凄い奴になるって昔から睨んでいたんだ。きっといつか、世界を救うことになるって」

「買いかぶりすぎだよ」

「そうだな」と守も頷く。「俺もそう思っていたぜ。お前はビッグになるって。いつの日か、旧友の打ち上げ代を全部払ってくれるような男になると思っていたぜ」

「守以外には奢ってもいいかな」

 

 そりゃねえぜ、と守は大袈裟に手を叩いた。ぱんぱんと激しい音が木霊するが、周囲の喧騒に巻き込まれてすぐに消え去っていく。その喧騒の合間を縫って「自動車関係のとこだよ」とメーカーの名前を告げた。「最近関税で大変だけど」

 

 おお、と皆が嬉しそうに笑みを浮かべる。「凄いな」

 

「皆に比べれば全然だよ」

「そんなことねえだろ。お前、昔から車好きだったもんな。大人になったら軽トラで皆を荷台に乗せてやるって言ってたじゃないか」

「懐かしい。結局大人になる前にやってみたんだよな」

 

 守の親戚が軽トラを持っていて、偶然その人の家に行く機会があったので、せっかくだからと運転させてもらったのだった。あの守が無免許運転を許すはずがなく、かといって諦めきれなかった僕たちは、「私道ならいいんじゃないか」という来人の一言で、敷地内で運転することにしたのだ。

「今となってはいい思い出だけど」といいつつも、高円寺の顔は渋かった。「あれは大変でした」

 

 荷台に皆を乗せるまではよかったものの、当時の僕はマニュアルとオートマの違いも分からず、当然クラッチなるものも知らなかった。闇雲に操作をした結果、車は急発進し、荷台に載せた皆は見事に吹き飛んだ。

 

「僕はもうあんな悲劇を起こさない。そのために車屋になったんだ」

「あの悲劇を防ぎたいのなら車屋じゃなくて教師になるべきだな。高校で教えるんだ。荷台に載せた友人を吹き飛ばしてはいけませんって」

「転職しようかな」

「そんな志望動機の奴は受からないだろ」

 

 ピロピロと携帯電話の着信音が聞こえてきたのはその時だった。瞬間、先ほどまでの和やかな雰囲気が一気に崩れ去った。店員が健気に空いたピッチャーを片付ける音も、隣の個室で大学生が狂ったようにあげる歓声も、すべてがただのうるさい雑音へと変わった。

 

「あ、俺だ」

 

 無意識のうちに誰もが自分の携帯電話を見ていたのだけれど、立ち上がったのは守だった。電話に出るために席を外すのかと思ったが、どうやら緊急事態らしく「ごめん。ちょっと行かないといけない」と僕たちへ手をひらひらと振った。

 

「行くってどこに」

「そりゃ」と守は手際よく身支度を調えながら、早口で言った。「仕事に」

「仕事? 今からか」

「まあな」

 

 ハンガーからジャケットを取った守は「仕方ねえよ」と言いつつ、俺達へ背を向けて早足で駆け出した。

 

「事件が俺を呼んでいるんだから」

 

 そう言い残した守は勢いよく店から飛び出していく。僕たちはそんな彼の後ろ姿をぼんやりと目で追うことしかできない。

 

「あの、よろしいでしょうか」

 

 どれくらい店の奥を見続けていたのだろうか。いつの間にか店員さんが僕たちの机の傍にきていた。しばらく声をかけ続けていたらしく、苛立ちと披露のない交ぜになった表情で「こちら、ご注文の商品です」と机上に皿を並べていく。大量の皿を一瞬で広げていくさまは、それだけで何か一つの見世物のようだった。

 

 立ち去る店員さんを見送った後に、僕たちは机上に並べられた料理や飲み物を見て、愕然としていた。頼みすぎて量に驚いた訳ではない。出てきた商品の一つが明らかに異様で、驚いたのだ。

 

「これ何だよ」

「何って」と困惑しながらも僕は言う。「多分、味噌汁の天ぷらじゃないか」

「味噌ないけど」

「味噌抜きだからじゃないかな」

「食べる?」

「いらない。誰だよこんなもの頼んだ奴」

「守じゃなかった」

 

 まじか、と頭を抱えた来人は「あいつ、事件がとか言ってどっか行ったけど」と唇を尖らせた。「この天ぷらの方がよっぽど事件だよな」

「事件は現場で起きてるってのに」

 

 モテない奴リストに味噌汁の天ぷらを頼む奴って書くべきだよな。そう嘆く来人を前に、僕たちは頷くことしかできなかった。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。