“丈ある牙”は、坂を下った。大きな勇気をもつ牡らしく。
斜面には、ぬらぬらとした海の草が引っ掛かっている。
彼は、それらを慎重に避けて通る。トゲの玉虫が隠れていたら、足が傷ついてしまうからだ。彼は知恵も多くもっている。
足元に注意しながらも、周囲を見張る目に油断はない。水が引いたからには、坂を下ろうと思い立ったのは自分だけではないだろう。
油断してはならない。彼と同じオークならともかく、ドワーフどもは、まだ鉄の武器をもっているかもしれない。あの気味の悪い、裸ザルどもだって、いくらかは山に逃げたはずだ。あいつ等は弱いが、しかし恐ろしい。
そう警戒して握りしめる右手。そこには黒曜石の斧がある。彼とても、鉄の便利さを知らぬわけではない。愛用していた鉄の斧は、海に食われてしまったのだ。あの時に。
背すじに冷たさが走る。恐怖だけではない。実際、ひどく寒いのだ。
思わず足を止め、空を見上げる。同じことが起こりはすまいかと。
空は薄暗い。灰色の、雲とも闇ともつかないもので空が覆われている。白いものが次々に降ってくる。雪ではない。灰のような、土のような。
あの日から、ずっとこうだ。
あの日、輝く星が落ちてきた。すると、海が山に届くほど背を伸ばし、大地に襲い掛かった。彼の村も、狩場だった野も、すべて呑み込まれた。生き残ったのは、山の高みまで走れた僅かな者だけだった。
その後は、太陽が昇らなくなり、長い長い夜が続いた。月もなく、星もない、闇だけの夜だった。
食べ物は早々に尽きた。山の高みにあった僅かな果実を食い尽くし、同じく逃げて来た他種族を食った後、彼らは闇の中で同族を殺し食らうしかなかった。
飢えたとしても、山を下りることはできなかった。海は、引いたかと思えばまた戻ってきて、迂闊な者たちを連れ去った。ようやく薄暗いとはいえ昼間が戻った頃、やっと海は去った。
またいつ海が戻ってくるとも知れないが、それでも野に降りなければ、飢えて死ぬ。
そう直感して、彼は、群れの中で最も大きな牙と勇気をもつ牡は、たった一頭で山を下った。生きる。何としても。星が落ちようが、野が海に食われようが、まだ彼は生きている。だから、生きる。そのために食う。
平野まで降りた彼は、海が大地に置いていった巨大な魚をみつけた。直感は正しかったのだ。地面に横たわる魚は、まだ腐っていない。そして大きい。ドワーフや裸ザルなら、逆に丸飲みにされそうな大きさだ。
これを持って帰ろう。彼は丈ある牙。その大きな力ならば、己ほども大きな魚でも担いで行ける。そう決めて、まずは魚の頭を持ち上げる。しかし、重い。見た目よりずっと重い。重さが変なところにある。
大きな知恵をもつ彼は、すぐに気付いた。
魚を地面に下ろし、その口をこじあける。実際、既に何かを丸飲みにしているらしい。ずいぶん重い何かを。
薄暗い空の光でも、それはすぐ見つかった。魚の口に乗り込むようにして、それを引きずり出す。重たい。重たい。おお、ぐおお。全身の筋肉が張り、体毛のない肌に汗が流れる。
しばらく苦労して、やっと魚の中から取り出した。ぺたんと地面に座り、荒い息を整えながら、それをまじまじと見た。
妙な石だった。彼の丈の半ばほどしかないが、異様に重い。そして、平らだ。川の流れに磨かれたように、つるつるしている。そして黒い。斧に使った黒曜石よりも黒い。
初めての衝動が湧き上がる。ものを食べる時とは違う。牝と番う時とも違う。心地いいのに、知らない衝動だ。それを表す言葉を彼は知らない。どころか、言葉というもの、あの裸ザルどもが使う奇妙な鳴き声や色は、彼の理解の外にある。
だから彼は為す術もなく、その黒い石を見つめた。そのうちに、また身体が熱くなりはじめた。何だか、ぼうっとする。これは何だ。これは、これは……。
「これ」
知らない音の出所が自分の喉だと、そう気づくのに時間がかかった。今のは何だ。自分の気持ちか。気持ちとは何だ。この石のことか。それとも自分のことか。
「きれい」
それが自分を貫いた初めての衝動。感動という心なのだと、彼は知恵ではなく身体で悟った。それはまた、目の前の黒い石でもある。
「これ」
そうだ。目の前の石。それを見る自分。その感じ。
「これ、きれい」
音は二つになった。すると世界もまた、世界と彼の二つに分かたれた。彼は、分かった。
新たな衝動が湧き、音になってあふれ出す。
「これ、きれい!」
牝と番うより激しい快感に貫かれる。ああ、俺が。俺はここにいる。そう分かった。ああ、ああ。何と素晴らしい。
灰の降り続く薄暗い世界が、かつてなく色鮮やかに見えた。全てが新しい。あれは何だ。あれにも名前があるのか。何と言えばいい。ああ、ああ。
歓喜とともに見回す彼は、敵の存在に気づいた。離れた岩陰でこちらを伺っている。
弓を構えて――と気づいた途端、彼は斧を投げつけた。黒曜石の斧は回転しながら飛ぶ。
敵は弓で斧を払った。丈ある牙の鋭い目に、敵の姿が明らかになる。頭に毛があり、きらきらと光っている。だが、裸ザルではない。耳が尖っている。あれは森の者だ。
妙なのは、肌の色。森の者は雪のように白いはずだが、その女の顔は白と浅黒の斑だ。
敵の獲物、あの恐るべき弓は、斧を払った時に折れたようだった。ならば、殺せる。
丈ある牙は疾走し、敵に襲い掛かった。敵が魔法を使う前に、一息に仕留めねばならない。森の者は湾曲した片刃の剣を抜き、切りかかってきた。
横に跳躍してかわし、そのまま地面に転がる。また跳躍し、敵の追撃から逃げる。その間も、忙しく目を左右に走らせる。武器は。武器になるものは、ないか。
手近な石を拾って投げつけたが、当たらなかった。しかし、その間に、太い流木を拾った。両手で構える。
敵も足を止め、こちらを睨んでいる。
丈ある牙――後にオークと呼ばれる種族のうち、言葉を得た最初の一頭は、長い宿敵となる森の者――まだ白でも闇でもない、斑模様のエルフ、その最初の女王と向かい合った。
二頭は動かない。動いた時、勝負は一瞬で決まるだろう。
丈ある牙の血がたぎる。殺す。勝つ。そして生きられたならば。群れの生き残りどもを、この石の下に連れてくることができたなら。もっと素晴らしいことになるだろう。
対峙する森の女は、戦いの高揚と、皮膚の痛みに耐えている。あの毒の雨を浴びたときは、肌が火であぶられるようだった。それから、ずいぶんになる。彼女の肌が穢され、おぞましい黒褐色に変じてから。
だが後悔はない。あれは選別、否、聖別の儀式だったのだ。彼女は命を拾い、そして選ばれたのだ。偉大な指導者、現出せし神ともいうべき存在に見いだされ、種族を率いる女王として指名された。呪いの斑模様は、祝福の聖印だった。
あとは、あの石だ。あれは天界の石。偉大な指導者の世界に属すものだ。あれを手に入れれば、痛みは消える。海に流された故郷の森も蘇る。必ず持ち帰る。それが神の使命。
そのために、あのオークを殺す。刺し違えても殺す。恐れることはない。たとえ死んでも石さえあれば、二度は死なない。
ふっと息を吐きだすと、二頭は地面を蹴り、猛然と敵に襲い掛かった。
黒く大きい板のような石だけが、その戦いを観察していた。
そして五千年の時が流れた。
(次話「白銀は招く」に続く)