ディネルースとエレンミアが創始した村で、多くの初子が生じた。生誕を寿ぐ儀式で、白銀樹に異常が発生する。
「姉さま、ご用意はお済みでしょうか」
遠慮がちな催促に、ディネルースは少々焦りながら応じた。
「ああ、いま行くよ。ヴァスリー」
そう言って、鏡に映した祭祀服姿を改める。数千年前から形が変わっていない古式の装束である。今一つ確信が持てず、部屋を出てから腹心に尋ねることにした。
「待たせた。変なところはないかな?」
くるりとまわり、両腕を掲げて示した彼女に、イアヴァスリルは長年の友の表情で微笑んだ。
「まるで昔の通りです、姉さま」
イアヴァスリルも古式の礼服だが、生成りの単衣であり、装飾品もほとんどつけていない。じゃらじゃらと鳴る木製の首飾りやら、琥珀の耳飾りやらを揺らしながら、ディネルースは半眼で恨み言を口にした。
「私が氏族長だったのは二百年も前だぞ。やっぱり、お前が祭祀役でよかったんじゃないか? 村長なんだから」
「何を仰いますか。皆、納得いたしませんよ。誰より、私が。さあ、森に参りましょう」
促されて戸外に出ると、村の風景が広がっている。電線はなく、高層建築も禁じられているから、空は広い。首都ティリアンの郊外とは思えないほどの素朴な村に仕上がっている。
居並ぶ家々は、どれもエルフ族の伝統をいくらかは引き継いだ木造平屋だ。ただし、その内実は近代的で、あらゆる壁、床、屋根裏に断熱材を吹き付けてある。万年雪が遂に溶けるほど温暖化が進んだ昨今でも、微かな空調だけで年中快適に過ごせる作りだ。それでも見た目や床材はツェーンジーク山脈の杉材を用い、庭に草花の彩りを添えるのは、エルフ族の変わらぬ性向である。
さすがに道路はアスファルトで舗装されている。その両脇に植えられた並木はまだ背が低いが、将来は良い日陰になるだろう。
戸口の階段を降りて道路に踏み出そうとしたところで、はっとした顔のイアヴァスリルに声をかけられる。
「足のお加減は、もう?」
ディネルースは肩をすくめてみせた。
「痛みはもうないよ。恥ずかしいところを見せたな。ロザリンド会戦の頃は、足には足の目があると思って、下も見ないで山を駆けたものだが」
「久方ぶりの狩りでしたから。私もまだ足が張っています。腕を落としていないのはノアだけでした」
何となく誇らしげなイアヴァスリルに、ディネルースは意地悪く言ってみせた。
「今夜は、お前たちが酔っ払いの標的になるんだな。昔の懇親会では、ひどい目に遭わされた」
オルクセン連邦時代に、アンファングリア旅団(後に師団)所属歴のある将校団が毎年おこなっていた会合のことである。内実は気楽な宴会で、要するに同窓会のようなものだった。
王妃時代のディネルースにとっては、荘重に扱われずに済む貴重な場であった。気心の知れた元部下たちは、わざと遠慮のなく「姉さま」「姉さま」と昔同然に扱ってくれた。
とはいえ閉口させられたのは、当時の闇エルフには珍しく結婚した彼女の生活に、皆が興味津々であったことだ。時計の短針が頂点をまわった頃になると、同郷にして同族、そして同性だけの気安さで、際どい質問や冗談を浴びせられた。
王妃殿下へ最初の火蓋を切るのは、無邪気を装ったラエルノアだった。その後に元連隊長たちが側面射撃を加えた。ディネルースは激しい攻撃を右にかわし、左にさばき、しばしば応射を放って「姉さま」の余裕をみせようとした。そんな時、平素は生真面目で通っているイアヴァスリルが鋭い指摘を加えて、一同をあっと言わせたものだ。ディネルースは腹心の思わぬ裏切りと名推理にたじろぎ、言わでもの秘話を漏らしては、不覚の嬌声を浴びてしまった。
そのイアヴァスリルは、ラエルノアとの最近の仲をからかわれて、見るからに狼狽した。
「私たちは別に。パートナー制が出来たから使ったというだけで。今さらな話です」
「それでも悪い気はしないだろう?」
小さく頷く腹心の素直さを好ましく思いながら、ディネルースは流れた時間の長さを思った。何もかも変わっていく。彼女も、国も、闇と白の両エルフ族も。
エルフィンド王国の一村で氏族長をしていた自分が、オルクセン王国の将軍になり、オークの国王グスタフと結ばれて王妃になった。夫に先立たれてからは、民主化したオルクセン連邦に女王として長く君臨した。
しかし、魔種族たちの楽土だと思われた栄光の国家も、星歴が千年を越えてからは制度疲労をみせはじめた。繁栄と進歩は少子化をもたらし、人間族との永久の平和を計るための星欧連合加入は、移民の流入と種族ナショナリズムの復活につながった。
連邦解体後、元女王ディネルースは、独立を果たしたエルフィンド国に迎えられた。白エルフの元女王エレンミアとともに二人して王女となり、両エルフ族の融和と国家の統合の象徴として過ごしてきた。
その結実、国が滅びた後に永らえてまで見た夢が、いまディネルースの目前にあった。
まだ背の低い森の前に、エルフの村民たちが集っている。エルフだから全員が女性。今日だけは種族伝統の祭礼服をまとっている。肌と髪の色はさまざまだ。共通しているのは、二百五十年以上前のベレリアント戦争期に、生まれの白銀樹を喪失したこと。
母樹を失った者達が集い、疑似的な新氏族を作っているのがこの村である。村民の半数以上は、白エルフによる
しかし見慣れた褐色の顔に横並んで、真白い肌に金髪の白エルフ達も多い。戦時中に村が戦場となり、オルクセン軍の砲撃を受けて白銀樹が焼失した白エルフたちである。
戦争と虐殺の当事者たちが手を取り合い、一つの村の建設に邁進できたのは、共通の目的があればこそだ。
村民のうち、何十名かが、その成果を胸に抱いている。この新村で初めて生まれた赤子たちである。清潔な布にくるまれて、寝ている者もあれば、もぞもぞと手を動かしている者もある。泣いている者も、その声は小さい。
「大きくなったものだ」
ディネルースが言ったのは、生後一か月にもならない赤子ではなく、森のことである。本来は一村ごと数本しかない白銀樹が、この新しい村には数百本もある。それも、白エルフの樹と闇エルフの樹が混在している。エレンミア王女の発見と後援で実現を見た、歴史上初の人工白銀樹林。それが、ようやく初子を実らせるまでになった。
両エルフ族にとって、生まれの樹は文字通り母である。エルフ族は出産せず、赤子は白銀樹の根元に忽然と発生する。生まれれば、氏族の皆で共同して育てる。まず与えるのは羊の乳と、母樹の枝で作った護符である。彼女らは護符を一生手放さず、母樹への祈りも欠かさない。数千年の果てに、あるいは何らかの不慮の死を迎えると、同氏族の者が必ず護符を回収して、生まれの樹に捧げる。護符は夜のうちに忽然と消える。死者の魂は母樹を通じて天に帰って安らい、再度の出生を待つという。
そんな彼女たちにとって、生まれの白銀樹を失うショックは計り知れない。その嘆きだけで生命力を失い、失輝死した者も多い。新しい白銀樹とその命は、彼女達が二百年以上ぶりに手にした希望だった。
「あら、殿下。まだまだ小さい赤子ですよ」
そう言って、村民たちは赤子たちの一挙動ごとに笑い合う。赤子の首には、真新しい護符が下げられている。
往古の育児との違いは、専門教育を受けた多数の保育士や小児科医が雇用され、村で暮らしつつ保育に参加していることだ。現代の教育により知識を獲得したエルフたちは、高い乳幼児死亡率を運命として受け入れる諦観を持たない。
中には村に招かれてから一念発起して専門教育を受けた村民も少なくない。村長のイアヴァスリル・アイナリンドや、リア・エフィルディス出納課長といった村役場の重役からして、そうである。彼女らは役所の勤務を半日で終え、もう半日は保育現場に一スタッフとして参加するのを日課にしている。なにせ、元来が氏族長ないし副氏族長級の人材たちで、その後の軍務経験で更に仕事慣れしている。小村の事務などは早々に片づけて、嬰児たちを世話する苦労と悦楽を皆で争っているのだ。
村民たちは二手に別れ、祭祀役の道を空けた。その先に木組みの祭壇がこしらえられて、森を拝めるようになっている。
こういうのは、ミアの方が上手いんだがな――と思いながら、厳かげな顔に直ったとき、ディネルースはあることに気づいた。すかさず、供回り役のイアヴァスリルが身体を寄せてきた。
「どうかなさいましたか」
「しまったよ。忘れていた」
隠しながら、左の薬指を見せる。そこでは金の指輪が陽光を反射している。何の細工も宝石もない、優しい曲線。あのひとの太い指にも、同じデザインのものが嵌っていた。
いまではすっかり身に馴染んでいるこの指輪も、最初は違和感があったものだ。そもそも、結婚したら揃いの指輪をつけるというのは人間族の習慣で、エルフにもオークにも馴染みがなかった。まして闇エルフ族は、元来、金属の宝飾品に興味が乏しい。
それは百も承知の上で、彼女の夫、グスタフ・ファルケンハインは常になく非論理的に言い張った。
――うん、結婚指輪というんだ。君には馴染まない習慣だと思うんだが、何というか。私にとって結婚式とは、こうなんだよ。だから、その……。
実に珍しいことに、情けなく縋るような目でみつめる牡を可愛いと思った。「私は構わないぞ」という返事を聞いて、彼は相好を崩したものだ。「銀製もいいんだがね。君の肌と髪の色には、金の方が合うんじゃないかと思うんだ」とか言って。
彼女の指に指輪をはめた時は、すっかり緊張していたと思う。日頃の威厳を忘れ、少年のような含羞を浮かべて。偉大な国家指導者に、そんな一面もあったのだと、彼女だけが知っている。
それから二百五十年余。すっかり身に馴染んだ指輪だが、今は少々まずい。出陣前でもない限り、白銀樹の祭事で身に纏っていいのは、植物由来のものだけだ。闇エルフと異なり、昔から宝石や金銀を好んできた白エルフも、祭事でだけは金気を忌んできた。
どうしよう、と表情で尋ねたディネルースに、イアヴァスリル村長はくすりと笑った。
「まあ、いいでしょう。村長は大目に見ます。さあ、祭壇に」
ディネルースが壇上にあがり、跪づくと、村民も全員がそれに倣う。ふにゃふにゃという嬰児の声のほかは、木の葉ずれの音だけが響く。
ディネルースは息を整え、両手で自らの護符を握り、やがて静かに謡い始めた。伴奏はない。まずは、歌詞のない音だけ。二節目からはイアヴァスリルが唱和する。村民一同がそれに加わり、和音が波となったとき、言葉がそれに乗る。
我らが彷徨える魂
この寄る辺なき世界の旅
光り輝く星降る雨は我らを導く
そこには病も苦痛も危険もない
両エルフ族に古くから伝わる歌である。降星の祝福を受け、白銀樹に寿がれてきた種の歴史を、伝え讃える詞である。ゆったりとして荘重な調べに、赤子たちの泣き声は静まり、寝息に変わっていく。歌はさらに続く。
星は我らを導く
白銀樹は我らを育む
星よ 樹よ
我らが魂を導きたまえ
安らいだのは赤子だけではない。戦乱を経て、母樹を喪失し、オークの国で懸命に生きてきた両エルフたちは喜びに浸り、音の中に陶酔した。
同じ歌詞を三度繰り返したところで、祈りの歌が終わった、その時のことである。
赤子たちが一斉に目を開け、火が付いたように泣いた。あたかも悲鳴のように。
成年のエルフたちが異常に気付いたのは、その数秒後のことだった。
それは、あえて言葉にするなら、ぐわぁんと響く銅鑼か、地響きのようだった。皆が苦悶に呻き、頭を押さえる。事実として、音はしていない。その証拠に、木々にとまる鳥たちは、この異常に気付きもしない。
しかし、エルフたちには聞こえる。凄まじい轟音が襲う。その源は、目前に茂る白銀樹の森である。
ディネルースは歯を食いしばり、顔をあげると、現に振動が見えた。枝や葉の、ではない。空気の、でもない。まだ若い森から白銀の気が沸き起こり、天に向けて昇っている。それは無音、無風の竜巻だった。
巻き上がり、天に向かう、白銀の魔力の渦。ディネルースは、その先に目を凝らした。雲一つない青空に、見慣れた白い影がある。
「……月へ?」
魔力の昇天はやがて終わった。森には何の変化もなかった。エルフ達は不気味がったが、初子を得て樹が喜んだのだろうという解釈に落ち着いて、その後は予定の祝宴を張った。
ディネルースはわざと陽気に振舞い、新婚と言うべきイアヴァスリルとラエルノアをからかった。そして「殿下、この子を」と次々に紹介される赤子を、おっかなびっくり腕に抱いた。
赤子は、生きているとは信じられないほど軽く、小さかった。何かを掴もうとしているのか、ふがふがと手を動かして、それで精一杯であるらしい。まだ見えぬ目は澄み渡り、無心に彼女を見つめている。
ディネルースは笑み崩れた。不吉なことなど、何もない。なにせ、この子たちが生まれたのだ。たくさんのエルフの赤子が。始まったばかりの生涯に、悪いことなど起こっていいはずがない。
翌日の昼、ディネルースの姿はエレントリ館にあった。
中央山脈の起伏に抱かれ、シスリン川の滝音が響くこの館は、空気さえ清浄に感じられる。実際、この地は聖域なのだ。
その本体は、木材や漆喰をふんだんに使った典雅な三つの館ではなく、居心地のいい五つの東屋や離れでもない。
中央館の裏庭こそが、白エルフ族最大の聖地。王国時代のエルフィンド女王でさえ、儀式の時以外では足を踏み入れることを憚った神の庭だ。
王国がオルクセン連邦に併合され、再びエルフィンド国として独立した現在でも、聖域を侵す者はいない。そこに立ち入ることができるのは、二人の王女だけである。
いま、その両王女は聖域の土を踏んでいる。ディネルースは呆然として、もう一人の王女に尋ねた。
「本当、なのだな……」
一目瞭然のことを、敢えて聞かずにはいられない。
エレンミア・アグラレス王女は、白皙の頬を常よりさらに青白くしている。
「あの時、私もここで祈っていました。初子たちの誕生に祝福を下さるように、祈りの歌を捧げて」
「私は白銀の竜巻をみた。あれは膨大な魔力だったと思う。天に昇っていくようだった。あんなものを見たのは、グスタフの魔術以来だ」
彼女の亡き夫は、天候を操作することができた。雲一つない空に叢雲を沸かせ、大雨を降らせて畑を潤した。逆に、豪雨を晴れに変えて、洪水を防いだこともある。まさしく奇跡の技で、その行使の際は黄金色の魔術が天に立ち昇るようだった。
それとは異質な白銀の魔力の渦を思い出し、ディネルースは寒気を感じた。
「しかし、収まった後は何ともなかったぞ。村の森は」
そう言って、泉のそばの地面に空いた穴を見下ろす。底が見えないほどの空洞だ。
答えるエレンミアの声には明白な恐怖があった。
「黄金樹は、金色の魔力に包まれて……天に昇るようだった。収まった時は、もう、こうなっていた」
数万年の昔から、ずっとそこにあったものが、なかった。王家の者が生まれ出でる、世界でただ一本の神樹。白エルフ族の信仰の中核たる黄金樹が消失したのだ。根が張っていた痕跡が空洞となって残るのみで、枝の一本も落ちていない。
『黄金樹の守護者』と尊称されてきた白エルフの王女は、空洞のそばを震える指先で示した。
「見てほしいものは、あれ。私には読めないけど、文章が変わっている」
ディネルースもそれを見る。それは、四角柱の石碑だった。碑には謎の古語が彫り込まれていた。エルフィンドの古蹟学者たちにも読めない謎の文字を読み解けたのは、彼女が知る限り、夫グスタフだけであった。
彼女が百年以上ぶりに目にする石碑は、その色を一変させていた。かつては漆黒であったものが、いまは摺りガラスのような半透明。そこに緑色に光る文字が浮かんでいる。字は時おり明滅するようだ。
ディネルースは石碑の側にしゃがみ、用意の辞書を開いた。市販品ではない。夫グスタフが死ぬ前に作ったものだ。この石碑に記された文字、神代の字の意味を記した、世界でただ一冊の辞書。前半は低地オルク語、後半はキャメロット語で書かれている。病み衰えつつあったグスタフは、これを彼女に託した。
『キャメロット語とオルク語の辞書を買ってきたんだ。子ども用のものをね。その言葉を、できるだけ置き換えたつもりだ。単語さえ分かれば、大まかに意味はとれると思う。恐らく、こんなものはいらないとは思うが、あくまで念のためだよ』
この石碑や、それを残した者――ヴィラ、ヴィリエラ、あるいは偉大な指導者と呼ばれた者達は、もう世界に干渉してこないはず。そう夫は言っていた。しかし、万一そうではなかった時を彼は恐れ、膨大な手間をかけて簡易な手製辞書を遺したのだ。
それを引いたディネルースは、いま浮かんでいる文字は辞書の後半に合致すると分かった。該当する言葉を手帳に記していく。
「この文字は、形こそ違うが、語彙や発音はキャメロット語に似ているんだ。ええと、一文目は『初めの』『卵』『場所』……後は、すぐには分からないな。いや、これは熟語か」
二人の王女はともにキャメロット語を解する。ある程度まとまったところで、食い入るように見つめているエレンミアに解説する。
「最後の言葉だけは分かったぞ。丸めて片付けるとか、元に直すとか、そのような言葉だ。最後の一文字は数字だな。キャメロット語に直すと、ちょうど―――」
置き換えられた日常語は、異様な響きに聞こえた。
「『Roll Back 2』だ。この石板は、そう言っている」
(次話「神々の遺産」に続く)