水の流れる音が聞こえる。体中が痛い。
目が覚めると、僕は灰色の石レンガの上であおむけに寝ていた。どうりで体が痛かったわけだ。辺りを見回すと、どうやら目が痛くなるようなさっきの部屋とは違い、石造りの、一言でいえば…古代の遺跡、みたいな?僕はそんな感じの部屋にいた。部屋には水路があるけど、それ以外にあることと言えば…出口しかない。
意識を手放す前のことははっきりと覚えている。もし、あれが夢じゃないとしたら…僕の体はやっぱり、霧になってこの場所に来たのかもしれない。
色々と不可解なことが多くて、気がおかしくなりそうにはなったけど、ここが何処かがわからない以上は、長居しても何も解決しない。僕は辺りに何もないことを確認し、部屋を後にした。
かつ、かつ…
部屋の外に出てみても、おんなじ感じの石造りの壁に石レンガの床、ただそれだけの質素な迷路みたいな廊下になっていて、僕は若干不安を感じ始めていた。
一応、ダメもとで自分が着ている服のポケットや内側を色々と確認したものの、特に僕が誰であるかの身分証明書だとか、財布だとかは入っていなかった。しかし、ただひとつだけ、僕の首には青と赤の十字のネックレスがかけられていた。かなり特徴的だ。
かつ、かつ…
しばらく歩いても、途中でたまに部屋のようなものがあるくらいしかなかった。僕の足音だけがかつかつと石の壁に響き、不安と恐怖、そして孤独に押しつぶされそうだった。
空の木箱がたくさんある部屋、乱雑に家具が積み重ねられた部屋に、とても広い広場のような空間があった。でも…その何処にも、人はいなかった。
謎の焦燥感に駆られ、僕は少し、早足になっていた。
不意に、遠くの曲がり角に、黒い何かがいるのを発見する。
遠くてあまりよく見えないものの…それは、確かに二足歩行で歩いていた。確かにちょっと怖くはあったけど、もしあれが人間だったらと考えると、僕は居ても立っても居られなかった。
更に近寄ってみると、あの黒い何かは衣服だということが分かった。黒いフード付きのパーカーが特徴的なそれに、僕は走って近寄った。
『あ、あの…!すみませ___』
僕がそう言い終える前に、"それ"は僕の方を向いた。
僕は思わず、咄嗟に後ずさりしてしまった。"それ"は、顔が真っ黒…いや、顔その物が無かった。黒い霧か、もやか、そんな何かがフードからあふれ出ては、地面に落ちる前に消えていた。
『ぁ……っ!!』
"それ"が僕の方へと足音を鳴らして走ってきた瞬間、僕は本能的な危険を感じて、来た道を急いで戻った。
突然走り出したからか、若干お腹が痛くなる。いくら全力で走っても、どすどすと後ろから迫ってくる足音は、離れる気配がなかった。曲がり角に若干ぶつかりそうになり、壁に勢いよく手をついて曲がると、さっきいた空の木箱の部屋の扉が見えた。瞬間、僕の頭にひとつの考えが浮かんだ。
心臓の鼓動が激しくなる。僕は目を見開き、急いでその部屋の中へと駆け込む。僕は木箱のうち、いちばん脆そうだったひとつを壁に投げつけ、叩き割った。みしゃっと音を立てて砕けた木箱の一部を剥がし、手にトゲが刺さるほどに鋭い木片を握り締めた。
どす、どす…
すぐ近くまで、その足音が響く。
それを聞いて、僕はすぐに大きな木箱が積まれて出来た影に隠れた。僕の視界は極端に一点に集中し、激しく響くその足音が、耳にこびりついていた。
どす。すぐ近くで、足音が鳴る。
『っ…ぐ…っ!』
僕は直ぐに反応し、石レンガを蹴り、"それ"の首元に飛びかかった。
大きく右腕を振り下ろし、左腕で相手を抑えつつ木片を強く突き刺す。木片は確実に、それに刺さった。
…刺さった。はず。
それなのに、"それ"は怯むどころか、僕の攻撃に反応して、僕の右腕を掴み、僕のお腹に蹴りを加えてきた。
『っ…ごっ…!?』
右腕を掴まれ、抵抗できないまま、一方的に殴られる。苦しい。怖い。一体、これは何なんだろう。
何とか手を振りほどこうと足に力を入れ、思い切り引っ張る。しかし、すぐに足を払われ、そのまま背中に重い一撃を加えられる。何度も、何度も。
『っあぁ…が…』
地面に倒され、馬乗りになって首を絞められる。体を繰り返し踏まれる。違う苦痛を、何度も何度も与えられる。痛みで気持ち悪くなって、無理やり立たされて、その時に何回か吐いてしまった。
…どれほど時間が経っただろう?しばらく一方的に殴られ、抵抗する気力も失せた。すると、それは無抵抗な僕の腕を掴み、僕を引きずり、部屋を出ようとした。僕を、どこかへ連れていこうとしている。
何処に?…分からないけれど、それはまずい。
『くっ……!』
咄嗟に辺りに視線を向ける。何とかして木箱をひっつかみ、勢いよく引き寄せ、がらがらと木箱を落下させる。
腕が重い。視界が揺れる。木箱が激しく音を立てて崩れ、雪崩となる。僕を引きずっていたそれも、雪崩に巻き込まれていた。僕はそれを視界の端に捉えた瞬間、痛みなど忘れてすぐにその部屋を出る。僕は、孤独への恐怖をも思い出し、石の廊下を必死に駆けていた。
ひゅーっ、ひゅーっ、だっだっ…
自分の息の音も気にならないほど、必死に走っていた。とにかく、あの奇妙な何かと距離を取らなければならないと思っていた。
どれくらい走っただろう?どれくらいの時間、ここを彷徨っていたんだろう?考えが色々巡った。でも、次の瞬間、そんなことはどうでも良くなった。
走っているうちに、とても広い広場のような部屋に出た。僕はまだ走っていたけど、突然、少し低い男性の声が響いた。
『動くな!』
突然の声に、体が硬直した。生きている人間の声だ。
体を動かさないように、ゆっくりと視線を向ける。水色のネオンの装飾が特徴的な装備をした、緑色の、ポニーテールの男性だ。
さっきの何かのように、意図が分からない事がないだけで安心できた。そして何より、僕以外に生きている人間がいることに安堵した。
…しかし、残念なことに、少なくとも友好的とは言えないだろう。彼は、拳銃のようなものを構えていた。
『地面に伏せろ。今すぐ。お前を拘束する。』
『あっ…あの…!』
ついさっき目覚めて何も記憶がないと思ったら、変な生き物に襲われて、今はやっと見つけた人間に拘束されかけてる。拘束されたらどうなるんだろう?それは分からないけど、ここに残されるのは嫌だ…!
僕は訳も分からず、自分が無害だと信じて欲しくて、普通の人間ならしないであろうことをしてしまった。
『すみません、僕、さっき目覚めて、記憶が無くて、まだ何も…!』
『近寄るな!』
きぃぃん、きぃぃん。
彼に近寄ろうと、体の向きを変えた一瞬。奇妙な音とともに、二度、水色の光が視界に映る。
『っ…ぁ』
自分の胸が異常な程に冷たく感じた。しかし、それはすぐに、地獄の熱さ、痛みへと変わった。
『あ、つ…っ……ぁぁあああああ!!』
地面に倒れ、強く胸を抑える。異常な程に、胸の二箇所が熱い。熱した鉄を押し付けられた瞬間のような感覚が、常にする。疑問が幾つも浮かび上がる。よく分からない。何が起きた?僕は、撃たれたのか?
そして…僕は、死ぬのか?
『はぁ…クソ。擬態してる悪夢でもない、人間じゃねぇか。』
そう気怠げな声を発し、彼は銃を構えつつ、僕へと近づいてくる。
悪夢?なんの事?それなら、さっきの黒い霧の顔したあれは悪夢という存在だったの?分からないところは増えていくばかりだった。とにかく、今の僕はうずくまって、次に弾丸が発射されることが無いことを、ただひたすらに祈るしか無かった。
『おい。起きろ。…つっても、もう時期死ぬか。
チッ。利益目当ての浮浪者かヤク中のキチガイか知らねぇが、こいつが悪いとはいえ、胸糞悪いぜ…』
もう時期、死ぬ?
痛みに若干慣れて、彼の方へも少しは意識を向けることができるようになった。相変わらず撃たれた胸は焼け付くように痛いが、それよりも、彼の言葉が信じられなかった。
彼は僕の近くでしゃがみ、僕の顔を覗き込んで、問いかけるように言った。彼の三白眼というか、ジト目のような、いかにも怠そうな目つきがよく見える。
『…装備無しで二発受けて、即死じゃないのか。華奢な体して結構タフじゃねぇか。だろ?』
『…な、ん…?』
だいぶ痛みに慣れた僕が、そう途切れ途切れに言葉を発すると、彼は酷く驚いたように目を見開いた。
『お、お前…話せるのか?胸に撃てば、一発ですら肺が焼かれるような痛みで、二発ともなれば心臓が鳴る度に全身に地獄みてぇな熱が回る弾丸だぞ…!』
彼は急いで僕の体を抱え、心拍をチェックする。その他にもいろいろ何かを計られてるっぽいけど、僕にはなんだかよく分からなかった。
『おい…お前、一体何なんだよ…!
死にかけてるどころか、普通の怪我みたいに、ほんの少しずつだけど回復してる…!』
僕が知りたいよ。
彼は何度も、『チッ…何だよ、何だよ、何だよ…!』と呟きつつも、僕の両手両足を拘束し、おそらく僕に弾丸を打ち込んだであろう場所二箇所の部分に、何かを刺した。かなり思いっ切り刺されて痛かったけど、そのおかげか、焼けるような痛みは少しづつ引き、やがてその痛みは消えた。
『…はぁ。本来、一発だけ誤写した時の為の装備だ。二発撃ったら、どれだけ早く対応しようが、死期の先延ばしにしかならないからな。
…クソ。ひとつ使うだけでも手続きがめんどくせぇのに。感謝しろよな。』
彼は装備を片付けつつ、僕にそんなことを呟く。
『まさか、一人にふたつ使うとは思ってなかったな。
…さて、クソ尋問タイムを始めるとするか。』
僕の額に、彼の拳銃が突きつけられる。銃口はそこそこ熱かった。
相変わらず何が起きているかすら分からなかったけど、今の僕はそれすら忘れていた。彼は『お前はどうかは知らんが、常人なら額に撃つと、脳が焼けて重度の熱中症より酷いサマになるぜ』と付け加え、僕に話し始めた。
『まず一つ目。お前は何でここに居る?』
『っ…知らない。記憶がなくて、彷徨ってただけ…
そういう意味なら、ここから出るため、かな…』
『ふぅん』
彼は目を細め、怪訝そうに僕のことを見下ろした。
『良い言い訳だよな、記憶喪失。何事も知らぬ存ぜぬで通せるが、本当にそうかは証明できない。やましい事がある時にクソ野郎共がよく使うテンプレ構文だ。』
『なっ…ほ、本当なんです…!』
『へぇ』
僕の言葉などどうでもいいかのように、彼は僕の横に座って、何か鉄の板のような…よく見ると、端末のようなものを取り出して、目を通していた。
『お前、名前は?』
名前…ついさっき付けられたものだけど、たしかに僕に名前はある。
『…セルマ。』
『セルマ?お前、名前だけってことないだろ。そういうのは聞かれたら苗字も答えるんだよ。』
『…えぇ…。』
名前だけ答えればいいんじゃないの?とは思ったものの、僕は与えられた名前はセルマだけで、苗字は与えられてないことを思い出すと、全身に寒気が走った。僕は無いと答えるしか無かった。
『…ない。』
『なるほど、偽名か。ふーん…
…セルマって名前の中に、確かにお前に似た顔のヤツは居ないな。』
ついさっき付けられた名前とはいえ、そんな直ぐに偽名と断定されると意外と腹が立つ。でも、反論のしようがないのも事実だった。
さっき僕に名前を与えたあいつは何なんだ?苗字くらい、教えてくれればいいのに。
…この場合は、教える、じゃなくて付ける、の方が正しいのかな。あぁ、こんな切迫した状況で、僕は何考えてるんだろう。
『はぁーあ。埒が明かないな。
顔写真から見ても似てるヤツはいない。となると、登録されてないか、整形でもしたのか…まぁ分からねぇけど。』
彼はそう言うと、ちらっと僕の方を見て、拘束を解いた。かと思えば、直ぐに僕の体にベルトのようなものを巻き、僕に前を歩かせ、そのままどんどん先へと進み始めた。
『ほら、行くぞ。カツカツ歩け。』
『行く…って、何処にですか?』
ちょうど後ろからため息が聞こえる。僕、何かしたかな。
『出口の道も知らないなんて言い訳は聞かないからな。俺が教える。』
『いやっ…そ、それでいいなら…』
後ろから、急かすようにつんつん銃口を押し付けられる。僕は、指示された通りに前を歩かされる。恐らくこれから尋問か何かをするためにどこかに連れていかれるんだろうけど、外に出られるなら僕にも都合がいい。もうこんな場所には二度と来たくないから。
彼は考えるばかりでゆっくりとしか歩かない僕に、苛立ったように僕を急かす。
『ならさっさと歩け。ここから出るぞ。』