ホウエン地方の片隅にある、穏やかで小さな田舎町、ミシロタウン。
その日は、二つの「新しい出会い」が待っている、特別な一日だった。
一つは、町の人々の間でもっぱらの噂となっている、新しい家族の引っ越し。
なんでも、ジョウト地方にいたオダマキ博士の奥さんと息子さんが、今日、この町へやって来るらしい。
小さな田舎町では、そんな些細な出来事もあっという間に広まる一大ニュースなのだ。
そして、もう一つ。
ハルカにとって何よりも大切な、自分だけのパートナーを迎えに行く日。
「いってきます!」
真新しいトレーナーカードを胸にハルカが元気よく家を飛び出すと、すぐ隣の、空き家だったはずの家の前に、大きな引っ越しトラックが停まっているのが見えた。
たくましいゴーリキーたちが、次々と荷物を運び出している。
(ああ、このお家が、オダマキ博士の…)
そんなことを考えながら、ハルカは期待に胸を膨らませ、町の外れにあるオダマキ研究所へと足を速めた。
しかし、研究所に着くと、そこに博士の姿はなかった。
「あら、ハルカちゃん。ごめんね、博士はまたフィールドワークに出ちゃって…」
助手さんが、申し訳なさそうに言う。
今日、パートナーをもらいに来るとちゃんと伝えてあったはずなのに。
いかにも、フィールドワークが大好きなあの博士らしい。
ハルカは苦笑いを浮かべながら、博士を探しに再び外へと駆け出した。
ミシロタウンを出て、101番どうろへと足を踏み入れた、その時だった。
草むらの奥から、何やら切羽詰まったような、大人の叫び声が聞こえてきたのだ。
「うわぁぁ! 誰か、助けてくれー!」
その声に、ハルカは迷わず駆け出す。
声のする方へ向かうと、そこには案の定、白衣を泥だらけにしたオダマキ博士が、一匹の野生のポチエナに猛然と追い掛け回されている、情けない姿があった。
「ハルカ君! ちょうどいいところへ! すまんが、カバンの中の、モンスターボールを…!」
博士に助けを求められ、ハルカは地面に転がっていた大きなカバンへと駆け寄る。
中には、三つのモンスターボール。
彼女は、その中の一つを迷わず掴み取り、力強く投げた。
「いけっ、モンスターボール!」
ポンッ、と軽い音を立ててボールから現れたのは、オレンジ色の、ひよこのようなポケモン。
アチャモだった。
(アチャモ…!)
最初に貰えるパートナーポケモンのデータは、ユーリとの勉強で既に完璧に頭に入っている。
このレベルのアチャモが使える技は、「ひっかく」と「なきごえ」のはず。
そして、相手はスクールで嫌というほど戦ってきたポチエナ。
「アチャモ、まずは『なきごえ』!」
ハルカの、凛とした声が響く。
アチャモは初めて会ったトレーナーの指示に、しかし、迷いなく応え、可愛らしい鳴き声で、ポチエナの攻撃力を下げる。
「よし! 次は、『ひっかく』!」
ポチエナが僅かに怯んだ、その隙を逃さない。
アチャモの小さくも鋭い爪が、的確にポチエナにヒットする。
初めてのポケモンとのバトル。
しかし、彼女の指示には一切の淀みも、迷いもない。
もし、この程度の、レベルの低い野生のポケモンに後れを取るようであれば、あの修羅の国トウカシティで、「女王」などとは、呼ばれない。
数度の攻防の後、ポチエナは、すごすごと、草むらの奥へと逃げ帰っていった。
一度、研究所へと戻ったハルカは、改めて博士から深々と頭を下げて礼を言われた。
そして、ついに、運命の選択の時が訪れる。
博士がテーブルの上に、三つのモンスターボールを並べた。
みずタイプの、ミズゴロウ。
くさタイプの、キモリ。
そして、今しがた共に戦った、ほのおタイプの、アチャモ。
初心者用のポケモンだから、どの子も決して気難しいポケモンではないはずだ。
ならば、選ぶ理由はもっとシンプルでいい。
ハルカは、三匹のポケモンの入ったモンスターボールを、じっと見つめる。
そして、迷いなく、一つのボールへとその手を伸ばした。
(一度、一緒に戦ってくれた、この子がいい。それに、私の、この赤い服にも一番似合うかも!)
何より、そのつぶらな瞳と愛らしい姿が、彼女の心を強く、強く、惹きつけていた。
「博士、私、この子にします!」
ハルカが高らかに宣言したそのパートナー。
それは、これから始まる、長い、長い冒険を、そして、いつか、あの絶対的な王者と、最高のバトルを繰り広げる未来を共に歩むことになる、運命の炎のパートナー。
アチャモだった。
ハルカが、アチャモの入ったモンスターボールを宝物のように、ぎゅっと胸に抱きしめた、その時だった。
研究所のドアが、静かに開き、一人の見慣れない少年が、中へと入ってきた。
自分と、同じくらいの歳だろうか。
少し変わったデザインのバンダナを被っている。
(もしかして…)
ハルカが、隣に引っ越してきたというオダマキ博士の息子さんのことだろうかと考えていると、博士がその少年に向かって、父親のような優しい顔で話しかけた。
「おお、ユウキか。すまんすまん、少し、手間取ってしまってね」
その言葉で、ハルカは、自分の推測が正しかったことを確信する。
「手間取ったって…どうせ、また、野生のポケモンにでも、追いかけられてたんでしょ」
少年──ユウキは、呆れたように、やれやれとため息をつく。
「その通りだ!」
オダマキ博士は、悪びれる様子もなく、あっけらかんと笑うと、ハルカの方を指差した。
「いやー、危ないところだったんだが、そこの、ハルカ君が、助けてくれてね!」
その言葉に、ユウキの視線が初めて、真っ直ぐにハルカへと向けられた。
「…そうだったんだ。父さんが迷惑をかけて、ごめん。助けてくれてありがとう」
彼は、少しだけぶっきらぼうに、しかし、誠実な口調で、そう言って頭を下げた。
そして、改めて自己紹介をする。
「俺の名前は、ユウキ。よろしくな」
「私はハルカ。こちらこそ、よろしくね」
ユウキもまた、今年10歳になり、このホウエン地方からトレーナーとしての第一歩を踏み出す、新米トレーナーなのだという。
そして、ハルカと同じく、最初のパートナーをもらいに来たのだと。
「そうか! なら、ちょうど良かった!」
オダマキ博士は残りの二つのモンスターボールを、テーブルの上に並べる。
「すまんが、アチャモは今、ハルカ君に渡してしまったんだ。明日になれば、また新しいアチャモを用意できるんだが…」
しかしユウキは、その言葉を首を横に振って遮った。
「いや、大丈夫。俺、最初からミズゴロウが欲しかったから」
彼はそう言うと、テーブルの上の青いポケモンのシールが貼られたボールを、迷いなく手に取る。
「むしろ、ハルカがアチャモを選んでくれて良かったよ。ミズゴロウ、取られちゃうかと思って、ちょっとひやひやしてたんだ」
そう言って、ユウキは悪戯っぽく笑った。
その気さくで、裏表のない笑顔に、ハルカもつられてふふっと笑みをこぼす。
そしてユウキは、ミズゴロウの入ったボールをきゅっと握りしめると、その瞳に、挑戦的な光を宿してハルカに向き直った。
「なあ、ハルカ。せっかくだからさ…俺たちで、バトルしないか?」
それは、これから始まる、長い長い冒険の、そして、もう一つの、かけがえのないライバル物語の始まりを告げる号砲だった。
ハルカは、その挑戦的な視線を真っ直ぐに受け止め、そして力強く頷き返した。
「…うん! 望むところだよ!」
彼女の胸の中では、二つの火が炎が燃え上がっていた。
一つは、遠いトウカシティにいる、絶対的な目標であるユーリという名の火。
そして、もう一つは、今、目の前に現れた、これから共に笑い、共に競い合い、共に成長していくであろう、ユウキという名の新たな火。
ハルカの本当の冒険は、今、まさに、その幕を開けたのだった。
◇◇◇◇◇
オダマキ研究所の裏庭が、二人の新米トレーナーにとって、最初のバトルフィールドとなった。
ハルカが投げたボールから元気なアチャモが。
ユウキが投げたボールから愛嬌のあるミズゴロウが、それぞれ飛び出す。
ほのおタイプのアチャモに、みずタイプのミズゴロウ。
タイプ相性だけを見れば、ハルカが圧倒的に不利。
しかし、彼女の心に焦りはなかった。
お互いが覚えている技はタイプ一致ではない、ごく基本的なものだけ。
アチャモは「ひっかく」と「なきごえ」。
ミズゴロウは「たいあたり」と「なきごえ」。
これは、ポケモンの性能差ではない。
純粋な、トレーナーの「腕」が試される戦いだ。
「アチャモ、まずは『なきごえ』!」
ハルカの凛とした声が響く。
先手必勝。
まずは、相手の攻撃力を削ぐ。
あの魔境で嫌というほど学んだセオリーだ。
「ミズゴロウ、君もだ! 『なきごえ』!」
しかしユウキもただ者ではなかった。
ハルカの意図を即座に読み、同じ手で応酬してくる。
互いの攻撃力が、1段階ずつ下がった。
ハルカは目の前の少年を、侮れない、と、静かに評価を改めた。
「もう一度、『なきごえ』!」
ハルカは試すように、もう一度同じ指示を出す。
「今だ、ミズゴロウ! 『たいあたり』!」
ユウキはその誘いに乗らなかった。
相手が補助技を使うその隙を突き、攻撃へと転じる。
その判断の速さは、並の初心者ではない。
攻撃力が2段階下がったミズゴロウの「たいあたり」。
その威力は、半減している。
(でも、真正面から受けてやる必要なんて、ない!)
ハルカの思考は、そのさらに先を行っていた。
「アチャモ、ジャンプして!」
ミズゴロウが一直線に突っ込んでくる、その寸前。
アチャモは主人の声に応え、軽やかに宙を舞った。
勢い余ったミズゴロウは目標を見失い、そのまま地面にべしゃり、と無様に突っ伏してしまう。
その一瞬の、しかし、決定的な隙を、あの魔境で育った女王が見逃すはずがない。
「今よ、アチャモ! 背中に飛び乗って『ひっかく』!」
落下する勢いのまま、アチャモはミズゴロウの背中に飛び乗る。
そして、その小さな爪で的確に、何度も、何度も、ひっかき始めた。
「ミズゴロウ、振り払え!」
ユウキが慌てて指示を出す。
ミズゴロウは体を激しく揺さぶり、背中の厄介な敵を振り落とそうとする。
しかし、ハルカの指示は、さらにえげつなかった。
「アチャモ、足でしっかりしがみついて! 口ばしで、頭のエラに噛みついて、耐えなさい!」
アチャモはその小さな足で必死にミズゴロウの背中にしがみつき、そして、その鋭い口ばしでミズゴロウの弱点である頭のヒレに、がっちりと噛みついた。
技ではない。
しかし、背中を爪で抉られ、頭を口ばしで突かれれば、じわじわと、しかし確実にダメージは蓄積していく。
「ミ、ミズゴロウ…!」
為す術なく、もがき苦しむパートナーの姿に、ユウキはついに降参を宣言した。
「…まいった。俺の、負けだ」
勝負あり。
ハルカはパートナーとなって初めてのバトルで、見事な勝利を飾った。
「やったね、アチャモ!」
彼女はアチャモを優しく抱き上げ、その小さな頭を何度も何度も撫でてやった。
ユウキはミズゴロウをボールに戻すと、悔しそうに、しかし、どこか感心したような顔でハルカに言った。
「…すごいな、ハルカ。あんな風に、事細かに指示を出して、粘り強く戦うトレーナー、初めて見たよ」
その言葉に、ハルカはふふっ、と悪戯っぽく笑った。
そしてこれから旅立つこの新しいライバルに、ほんの少しだけの、しかし、極めて重要な助言を送る。
「…多分だけどね。トウカシティの周りにいるトレーナーは、みんな、私と同じくらい、厄介かも」
その意味深な言葉の本当の意味を、この時のユウキはまだ、読み切ることができなかった。
ハルカはユウキに別れを告げ、ミシロタウンを後にする。
向かう先はただ一つ。
トウカシティ。
卒業式から二週間。
長かったようで、短かった、離れ離れの時間。
(待っててね、ユーリ)
やっとまた会える、たった一人の、絶対的な目標。
その想いを胸に、ハルカはその一歩を踏み出した。
◇◇◇◇◇
ミシロタウンを後にし、101番どうろの緑豊かな草むらを、ハルカは新たなパートナーであるアチャモと共に、ゆっくりと歩いていた。
ユウキとの初陣を見事な勝利で飾ったアチャモ。
その才能は疑いようがない。
しかし、ハルカの頭の中は早くも、次の課題でいっぱいだった。
(アチャモだけじゃ、やっぱり心許ないな…)
一匹のポケモンに、集中的に経験を積ませることは、確かにその個体を早く強くする。
しかし、旅という長い戦いにおいては、控えのポケモンがいないことは、致命的な「息切れ」に繋がる。
ユーリなら、きっとそう言うだろう。
彼女は、トレーナースクールの図書室で、そして、ユーリとの個人授業で、頭に叩き込んだ知識をフル回転させる。
この101番どうろに生息するのは、ジグザグマ、ポチエナ、そしてケムッソ。
コトキタウンを越え、少し足を伸ばせば、103番どうろにはキャモメもいるはずだ。
(キャモメは、みず・ひこうタイプ…アチャモの弱点である、じめんタイプに強いし、みずタイプにも対抗できる。理想的、かも…)
しかし、彼女はすぐにその選択肢を頭の中で打ち消した。
アチャモですら、まだ自分にとっては完全に未知のポケモン。
その上で、全く新しい、キャモメというポケモンの育成法や戦術をゼロから構築する。
それは、あまりにもリスクが高い、「冒険」すぎる選択だ。
まずは足元を固めるべきだ。
(となると、やっぱり…)
選択肢は自然と、二年間嫌というほどその生態と戦術を研究し尽くしてきた、あの三体に絞られる。
ジグザグマ、ポチエナ、ケムッソ。
あるいは、ユーリのパートナーであるラルトスという可能性も、頭をよぎる。
しかしラルトスは極端に人前に姿を現さない、希少なポケモン。
それを探し出すのにどれだけの時間がかかるか、分からない。
(一番堅実なのは、使い慣れたジグザグマかな…)
スクール時代、自分の手足のように操り、ユーリに次ぐナンバー2の地位を築き上げてくれた、あの頼もしいパートナー。
その安定感は魅力的だ。
ハルカがそう考え事をしながら草むらをかき分けて進んでいた、その時だった。
目の前の木の葉の上で、一匹のポケモンが一心不乱に葉をもしゃもしゃと食べていた。
ケムッソだった。
その小さな赤い体を見た瞬間、ハルカの頭の中に新たな、そして、より高度な戦術の可能性が、閃光のように駆け巡った。
(そうか…ケムッソなら…!)
アチャモは、地上戦のエース。
ならば、二人目の仲間は、いずれ、空を飛べるようになるポケモンの方が、戦術の幅が圧倒的に広がる。
アゲハントになるか、ドクケイルになるか。
それは、運命に委ねるしかない。
しかし、どちらに転んでも、「飛行能力」という、アチャモにはない、絶対的なアドバンテージを手に入れることができるのだ。
ハルカは迷いを捨て、静かに、しかし、力強く頷いた。
「アチャモ、いくよ!」
彼女はアチャモを繰り出すと、的確な指示でケムッソを捕獲できるギリギリのラインまで、弱らせていく。
そして、モンスターボールをまっすぐに投げた。
ボールが数度、小さく揺れた後、カチリ、と、静かな音を立てて、捕獲の成功を告げる。
ハルカはそのボールを拾い上げ、満足げに微笑んだ。
それはただ、目の前に現れたポケモンを衝動的に捕まえたのではない。
自らの手持ちのバランス、将来的な戦術の幅、そして、来るべきユーリとの再戦。
その、全てを見据えた上で、彼女が自らの意思で選び取った、未来への、極めて戦略的な布石だった。
トレーナースクールの「女王」は、今、本当の意味で、自らの「王国」を築くための賢明な、そして確かな一歩を踏み出したのであった。