潮風が、ホウエンの匂いを運んでくる。
長い船旅の終わりを告げる汽笛が、カイナシティの港に朗々と響き渡った。
ゆっくりと接岸していく大型船の甲板で、ユーリは手すりに寄りかかりながら、故郷の青い空と、活気あふれる港の喧騒を静かに見つめていた。
その足元には、主人の心を感じ取るかのように、ラルトスが静かに寄り添っている。
そして、ユーリが背負う少し大きめのリュックサックの上。
そこが定位置とばかりに、一匹のでんきねずみポケモンが、小さな体で器用にバランスを取りながら座っていた。
「…ピカ」
初めて見るホウエンの風景に、そのポケモン──ピカチュウは、好奇心旺盛な黒い瞳をきらきらと輝かせている。
この小さな相棒を迎え入れるためだけに、わざわざカントー地方まで足を運んだ。
卒業式を終えた、その足で。
傍から見れば、酔狂以外の何物でもないだろう。
ホウエン地方にだって、ピカチュウは生息しているのだから。
サファリゾーンへ行けば、出会うことができる。
だが、それではダメだった。
サファリゾーンのピカチュウは、レベルが27前後と高い。
それでは、ゼロから育てるという、旅の醍醐味が薄れてしまう。
だからこそ、遠回りをしてでも、カントー地方のトキワの森へ行く必要があった。
世界で一番、レベルの低い野生のピカチュウに出会える、始まりの森へ。
(ピカチュウを捕まえる理由、か…)
もし誰かにそう問われたら、きっと答えに窮するだろう。
そんなの、アニポケ世代の男の子にとっては、あまりにもナンセンスな質問だ。
理屈じゃない。
本能であり、魂に刻み込まれた、原風景そのものなのだから。
(サトシみたいに、ピカチュウを連れて旅をしたかったんだよ)
心の中で、誰に言うでもなく呟く。
(言わせんな、恥ずかしい)
ただ、それだけ。
その、子供じみた、しかし何よりも純粋な憧れが、彼を突き動かした唯一の理由だった。
もっとも、その憧れを形にするまでの道のりは、決して平坦ではなかった。
トキワの森でのピカチュウの出現率は、決して高くない。
ようやく見つけたと思っても、その尻尾の先が、可愛らしいハートの形になっているメスの個体ばかり。
(俺が欲しいのは、オスのピカチュウなんだよ…!)
そんな、誰にも理解されないであろう、しかし譲れないこだわりを胸に何日も森を彷徨い、根気よく探し続けた末にようやく出会えたのが、今、自分の背中に居る、この相棒だった。
船を乗り継ぎ、ようやくトウカシティへと帰ってきた。
見慣れた木と、緩やかな潮風が、彼の帰還を歓迎しているようだった。
二週間。
自分が留守にしている間に、ハルカはもう、最初のパートナーを選んだ頃だろう。
(ハルカのことだから、きっとアチャモを選ぶはずだ)
彼女の快活な性格と、少しだけミーハーなところ。
そして、何よりあの赤い服に一番似合うのは、アチャモしかいない。
ユーリの中には、そんな確信があった。
ならば、自分がもらうべきポケモンは決まっている。
(アチャモとタイプが被らないとなると…キモリ、だな)
くさタイプの御三家、キモリ。
その進化形であるジュプトルとジュカインの、クールでスタイリッシュな姿は、前世の記憶の中でも特に好きなポケモンの一つだった。
キモリ、ピカチュウ、ラルトス。
これが、当面の旅の主軸となるだろう。
バランスもいい。
(あとは、道中でココドラとヤミラミも欲しいな。ほのおタイプは…コータスあたりが丸いか)
彼の頭脳は、既に、これから始まるホウエンリーグ制覇への、完璧なロードマップを描き出している。
感傷に浸る時間は、もう終わりだ。
自分の不在を、彼女はきっと寂しがって、そして、少しだけ怒っているに違いない。
その顔を思い浮かべると、自然と口元が緩んだ。
「さあ、帰るか」
ユーリは、背中のピカチュウを落とさない様に、そっとリュックを背負い直す。
足元のラルトスが、彼の決意を感じ取ったように、こくりと頷いた。
王の不在の時間は、終わった。
黄金の稲妻という、新たな切り札と共に、彼は今、自らが統べるべき「王国」へと、そして、ただ一人のライバルが待つ、あの戦いの日々へと、静かに帰還した。
◇◇◇◇◇
少し懐かしい感じもするトウカシティの街並み。
その中心、自宅へと続く道の真ん中で、それは仁王立ちしていた。
太陽のような笑顔はどこへやら、頬をぷくりと膨らませ、腕を組み、明らかに「怒っています」というオーラを全身から放つ少女──ハルカ。
その傍らには、主人の心情を映したかのように少しだけむすっとした表情のアチャモが控え、そして、彼女の肩には、優雅な、しかしどこか誇らしげなアゲハントがその美しい翅を休めていた。
(…アゲハント、か)
ユーリは、その光景を視界に捉えた瞬間、内心で満足げに頷いていた。
ハルカがミシロタウンを発ってから、今日までおよそ三、四日。
その短期間で、彼女はケムッソを捕獲し、カラサリスを経て、アゲハントへと進化させた。
その育成速度も見事だが、ユーリが感心したのは、その選択そのものだ。
アニメのハルカも、アゲハントを使っていた。
だが、目の前の女王が、そんな単純な運命論でパートナーを選ぶはずがない。
(アチャモを選んだ時点で、最も警戒すべきは、みずタイプとじめんタイプ。アゲハントはむし・ひこうの複合タイプ。じめん技は無効化できる。そして何より…)
アゲハントは、「すいとる」「メガドレイン」「ギガドレイン」と、むしタイプでありながら、くさタイプの強力な吸収技を覚えることができる。
じめんタイプにメタを張りつつ、みずタイプにも強く出られる、最高の相性補完だ。
ドクケイルに進化したなら、また別の戦略を考えなければならない。
トウカのもりのキノココや、102番どうろのハスボーという選択肢もあったはず。
その数多の可能性の中から、彼女は、自らの手持ちに最も適した、このアゲハントという「最適解」を導き出した。
そのトレーナーとしての確かな成長にユーリは満足し、そして、ほんの少しの誇らしさすら感じていた。
ただ、それとこれとは話が別だ。
理屈の上での賞賛と、今、目の前でへそを曲げている少女の機嫌は全く連動しない。
ハルカは、ジト目でユーリを睨みつけながら、つかつかとこちらへ歩み寄ってきた。
「…どこ、行ってたのよ」
「カントーに」
「知ってるわよ! なんで、私を置いて、一人で勝手に行っちゃうのよ!」
問い詰めるその声には、怒りと、ほんの少しの寂しさが滲んでいる。
ユーリは悪びれる様子もなく、ただ、静かに答えた。
「コイツが、どうしても欲しかったんだ」
そう言って、彼は背中のリュックを少しだけ前に傾ける。
その上から、黄色いでんきねずみが、きょとんとした顔でひょっこりと顔を覗かせた。
ピカチュウ。
その、あまりにも有名で、あまりにも愛らしいポケモンの姿を視界に捉えた瞬間、ハルカの不機嫌なオーラは、春の雪のように一瞬で溶け去った。
「…かわいい、かもー!」
彼女は、先ほどまでの剣幕が嘘のように、目をキラキラと輝かせると、吸い寄せられるようにピカチュウへと手を伸ばし、その小さな体をひょいと抱き上げてしまった。
「あ、おい、待て!」
ユーリが慌てて制止の声を上げるが、時すでに遅し。
バチチチッ!
「きゃあああっ!?」
ピカチュウの体から放たれた、ささやかな、しかし確かな電撃が、ハルカの体を直撃した。
髪を逆立て、軽く白目を剥きながらも、ハルカはなんとかピカチュウを落とさずに耐える。
ユーリは、やれやれとため息をつくと、ハルカの腕の中から、そっとピカチュウを取り戻した。
「チャーッ!」
主人の腕の中に戻ったピカチュウは、なおもハルカを威嚇し、その赤い頬のでんきぶくろから、パチパチと火花を散らしている。
「ピカチュウは元々警戒心が強いポケモンなんだ。いきなり無闇に触ったら、そうなるに決まってるだろ」
ユーリはそう説明しながら、ピカチュウのでんきぶくろを、親指で、くにくにと優しく揉みほぐしてやる。
すると、あれだけ尖っていたピカチュウの表情が、途端にとろりと蕩けて、気持ちよさそうに喉を鳴らした。
「チャ〜…」
「な、なによそれ! 私にはあんなに威嚇したのに! ひどいかも!」
「そういう生態なんだから、仕方ない」
ユーリは、骨抜きになったピカチュウを再び背中のリュックの上へと戻しながら、何事もなかったかのようにハルカへと向き直った。
「これからオダマキ博士のところに初心者用のポケモンを貰いに行くけど。ハルカは、どうする?」
その、あまりにも自然な問いかけ。
まるで、自分が彼の旅に同行するのが、当たり前であるかのような。
言葉にはしないけれど確かな「信頼」に、ハルカの心は再び温かいもので満たされていく。
「…とーぜん、一緒に行く!」
彼女は、先ほどまでの不機嫌さが嘘のように、太陽のような満面の笑みを浮かべた。
そして、まだ返事もしていないユーリの右手を取ると、ぐいっと、力強く引っ張り始める。
「ほら、早く行こ!」
その、小さな、しかし温かい手の感触。
王の不在の時間は終わりを告げた。
女王がその手を取った今、二人の本当の旅が、ここから、ようやく始まろうとしていた。
◇◇◇◇◇
トウカシティを後にし、ユーリとハルカは102番どうろの緑豊かな小道を歩いていた。
ハルカの肩では主人の弾む心とは裏腹に、少しだけ気品を漂わせるアゲハントが優雅に翅を休めている。
彼女の隣を歩くユーリの背中では、黄金のでんきねずみが、初めて見るホウエンの景色を興味深そうに見渡していた。
しかし、その穏やかな道行きは、すぐに賑やかな喧騒に取って代わられた。
102番どうろは、ハルカの時と同じくトウカシティ・トレーナースクールの同窓会会場のままだった。
「お、ユーリじゃないか! ハルカもいる! 勝負しろ!」
「俺たちの新しいパートナー、見てくれよ!」
道行く先々で、見慣れた顔ぶれ──卒業したばかりのかつての同級生たちに声をかけられ、何度もバトルを申し込まれた。
その多くが、男女のペア。
どうやら、卒業式をきっかけに、カップルがまた何組か成立したらしい。
彼らもまた、思い思いのポケモンを捕まえ、トレーナーとしての第一歩を踏み出していた。
そして、その誰もが自信満々に繰り出してくるのは、やはり、二年間苦楽を共にしてきた、あのレンタルポケモンと同じ種類のポケモンたちだった。
もっとも、彼らはハルカとの道中で既に手痛い洗礼を受けている。
ハルカにこてんぱんにされ、そのバトルで得た経験値は、そっくりそのまま彼女のケムッソがカラサリスになり、そしてアゲハントへと進化するための、見事なまでの「養分」となっていた。
その雪辱を果たさんと、今度は「王」であるユーリに、彼らは闘志を燃やしていた。
「ダブルバトルか。ちょうどいい」
ユーリは次々と申し込まれるカップルたちからの挑戦をむしろ歓迎していた。
彼はピカチュウとラルトスをフィールドに繰り出す。
始まったばかりのこのコンビの練度を高めるには、実戦こそが最高の訓練となる。
しかし、その戦いは訓練と呼ぶにはあまりにも一方的だった。
彼彼女らの不運は、まず、その戦術の前提が、あまりにも「ユーリ対策」に寄りすぎていたことだ。
「ジグザグマ、『なきごえ』!」
「ポチエナ、『とおぼえ』だ!」
相手の物理攻撃力を下げながら自身の攻撃力を上げる補助技コンボ。
ユーリがアゲハントを使っていた頃、誰もが最初にぶつかった壁であり、そして、それをどう乗り越えるかを必死に研究してきた、彼らのセオリー。
だが、その常識は、目の前の二人には一切通用しない。
ピカチュウも、ラルトスも、その攻撃の主軸は特殊攻撃。
物理攻撃力をいくら下げられようと、痛くも痒くもないのだ。
そして何より、彼らは忘れていた。
トレーナースクールで常勝不敗を誇った、あのラルトスの悪夢を。
ユーリの指示でラルトスは目に見えない「ねんりき」の力で相手を翻弄する。
時には地面の小石を礫のように飛ばし、時には相手の足元を掬って体勢を崩させる。
その自由度の高すぎる戦法に、元同級生たちは為す術なく掻き回された。
そこへ、ピカチュウの容赦ない「でんきショック」が突き刺さる。
黄金の電撃は、確率で相手に「まひ」状態を付与する。
一度痺れてしまえば体が動かなくなるだけでなく、自慢の素早さもガタ落ちだ。
ピカチュウもラルトスも、元々素早さが高いポケモン。
反面、防御面は脆いが、問題ない。
やられる前に、やってしまえばいい。
タンク役とアタッカー役を分担させ、じわじわと相手を追い詰めていたスクール時代のアゲハントコンビとは全く違う、超攻撃的な布陣。
彼らは初めて目の当たりにするユーリのバリバリの特殊アタッカー編成に、ただただ圧倒されるしかなかった。
中には、ピカチュウというポケモンのあまりの有名さ故に、その対策を練ってきた者もいた。
「ピカチュウは特殊アタッカーだ! 特防の高いポケモンで受け止めろ!」
その判断は、決して間違ってはいない。
しかし、ユーリの思考は、常にその一枚上を行く。
相手が特殊受けのハスボーやタネボーを繰り出し、油断した、その瞬間。
ユーリの口元が、ほんの少しだけ、不敵に歪んだ。
「──今だ、ピカチュウ。尻尾に電気を溜めて叩きつけろ!」
その指示と共に、ピカチュウは自らの尻尾にバチバチと激しい電撃を収束させる。
そして、それを鞭のようにしならせ、相手のポケモンへと叩きつけたのだ。
特殊攻撃である「でんきショック」を、物理技へと変える、あまりにもトリッキーな一撃。
単純な特殊アタッカー編成だと思い込んでいた相手は、その意表を突く攻撃に、完全に思考が停止する。
そんなこんなで、ユーリとハルカは、かつてのライバルたちの屍を乗り越え、ついにミシロタウンへと到着した。
その穏やかで、静かな町の空気は、ここまでの熾烈なバトルロードが嘘のようだった。