遙かなる挑戦者と悠理の旅路   作:星乃 望夢

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私を見つけてくれた、世界で一番優しい人

 

 とある日の夜、トウカシティは猛烈な嵐に見舞われていた。

 

 横殴りの大粒の雨が、家の壁を容赦なく叩きつける。

 

 時折吹き荒れる突風が窓を揺らし、そのリズムに合わせて雨音はさらに勢いを増した。

 

 夜空を引き裂く雷の閃光と、それに続く轟音は、これがただの嵐ではないことを物語っていた。

 

「…大丈夫だよ」

 

 ユーリは、布団の中に潜り込んできた母のジグザグマの背中を、優しく撫でてやった。

 

 小さな体は、雷鳴が轟くたびにびくりと震えている。

 

 そんな臆病な家族を安心させるように、ユーリは静かな夜を過ごした。

 

 翌朝。

 

 嵐は嘘のように過ぎ去っていたが、空にはまだ名残惜しむかのように低い雲が垂れ込め、時折思い出したように強い風が吹き抜けていた。

 

 ユーリは、全身を覆う奇妙な鈍痛と、体の芯から這い上がってくるような寒気と共に目を覚ました。

 

(なんだ…これ…?)

 

 布団はちゃんと被っているし、隣にはジグザグマの温もりもある。

 

 寒さを感じる理由が見当たらない。

 

 額に手を当ててみても、熱があるようには思えなかった。

 

 ユーリは静かに息を吸い込み、意識を集中させる。

 

「波導は我にあり!」

 

 その声と共に、体の内側から青白い光のようなエネルギーが湧き上がるのを幻視する。

 

 転生者であるユーリは、この世界に「波導」という生体エネルギーが存在することを知っていた。

 

 そして、日々の意識を己の内に集中させ続けた末、自分の中にもその力が眠っていることを確信した。

 

 波導を活性化させれば、体の疲労は抜け、傷ついたポケモンを癒すこともできる。

 

 肩が凝るという母にマッサージと称して波導を送り込み、喜ばれたこともある。

 

 その経験から、人の身にも効果があることは実証済みだ。

 

 その万能ともいえる力を自らの内に循環させても、しかし、体に澱みのような不調は見当たらない。

 

 そして、波導を研ぎ澄ませたからこそ、ユーリはこの異変の正体に気づいた。

 

(繋がっている…誰かの意識と)

 

 自分ではない、誰かの痛み。

 

 自分ではない、誰かの寒気。

 

 それがまるで自分のことのように、ダイレクトに伝わってきている。

 

 ユーリは、この近辺に生息するポケモンが、昨夜の嵐で被災したのではないかという結論に至った。

 

「ジグザグマ、行くぞ」

 

 ユーリはジグザグマを連れて、急いで家の外へ出た。

 

 町中は、嵐の爪痕が生々しく残っていた。

 

 折れた木の枝や吹き飛ばされた葉が散乱し、片付けに追われる大人たちの姿が見える。

 

 だが、ユーリの足が向かうのは町の中ではない。

 

 トウカシティとコトキタウンを結ぶ、102番どうろ。

 

 ジグザグマやポチエナ、ケムッソといった馴染み深いポケモンたちから、ハスボーやタネボー、そして、滅多に出会えないがアメタマと、この場所にしか生息していない希少なポケモン、ラルトスと出会える場所だ。

 

 勝手知ったる道のはずだった102番どうろは、凄惨な有様だった。

 

 草むらはなぎ倒され、大小さまざまな枝が散乱し、中には道を塞ぐほどの倒木もあちこちに見える。

 

 波導の繋がりを辿っていくと、意識の向こうから伝わってくる痛みと寒気が、一歩進むごとに強くなっていく。

 

 ユーリは確信を強め、歩調を速めた。

 

「っ…!」

 

 そして、彼は見つけた。

 

 大きな倒木が、まるで巨人の腕のように別の木にのしかかり、その隙間に、小さな白い影が倒れているのを。

 

 それは、普通のラルトスではなかった。

 

 青い髪、オレンジ色のツノ。

 

 陽の光の下で見れば、その体は鮮やかな淡いピンクに輝くであろう、色違いのラルトスだった。

 

「…ラー……」

 

 か細く、途切れそうな鳴き声。

 

 一刻を争う。

 

 ユーリは、ラルトスへと駆け寄った。

 

「波導は我にあり!」

 

 両手に青白い波導のエネルギーを集中させ、そっとラルトスの体に触れる。

 

 温かい光が、弱り切った小さな体を包み込み、その治癒力を内側から高めていく。

 

 同時に、傍らの相棒に鋭く指示を飛ばした。

 

「ジグザグマ! ラルトスの前の地面を掘るんだ!」

 

 ジグザグマは心得たように、力強い前足で地面を掘り進めていく。

 

 ラルトスを安全に引き出すための空間ができたのを確認すると、ユーリは慎重にその体を窪みへと滑らせ、倒木の下から完全に引きずり出した。

 

 そっとラルトスを抱きかかえる。

 

 まだ意識は朦朧としており、体は冷たい。

 

 ユーリは自らの全身に波導を巡らせて身体能力を強化すると、ただ一点、ポケモンセンターを目指して、荒れた道を駆け出した。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 ポケモンセンターの自動ドアを駆け抜けたユーリは、カウンターにいたジョーイさんに、腕の中の小さな命を託した。

 

「この子を、お願いします!」

 

 事態の緊急性を即座に理解したジョーイさんは、ラッキーと共にラルトスを集中治療室へと運び込んでいく。

 

 その背中を見送りながら、ユーリはただ祈ることしかできなかった。

 

 モンスターボールに入っているポケモントレーナーのポケモンならば、専用の機械で迅速に回復させることができる。

 

 だが、野生のポケモン、しかも嵐で衰弱しきった個体の治療は、そうはいかない。

 

 外科的な処置から内科的なケアまで、全てが人の手で行われる。

 

 あとは、ラルトス自身の生命力を信じるしかないのだ。

 

(頼む、助かってくれよ…)

 

 ユーリは、治療室のランプが消えるのを待つ間、待合室のベンチに深く腰を下ろした。

 

 ラルトスを抱えて走った疲労と、走っている間も腕の中のラルトスに向けて、気休めと知りつつも波導を送り続けていた消耗が、ずしりと体にのしかかる。

 

 気怠さで顔を上げていられず、傍らに寄り添うジグザグマを枕代わりに、行儀悪く横になってしまった。

 

 泥だらけの服も、今は気にする余裕がない。

 

 ポケギアで時刻を確認しながら、ただひたすらに待つ。

 

 一分一秒が、永遠のように長く感じられた。

 

 数時間が経っただろうか。

 

 カチャリ、と静かな音を立てて集中治療室のドアが開き、ジョーイさんと、小さな担架を押すラッキーが姿を現した。

 

 ユーリは弾かれたように体を起こす。

 

「お疲れ様です。無事にラルトスは助かったわ。貴方がいち早く見つけて、応急処置をしてくれたおかげよ」

 

 その言葉に、全身の力が抜けていくのを感じた。

 

「よかった……」

 

 安堵のため息をつきながら、そっと担架に手を伸ばす。

 

 眠っているラルトスの頬に触れると、見つけた時の氷のような冷たさは消え、生きている証である確かな温もりが指先に伝わってきた。

 

 血色も、心なしか良くなっているように見える。

 

「ラルトスには『トレース』という、相手の特性をコピーする能力があります。エスパータイプでもあるこの子が、危機的状況で無意識に助けを求め、そのシグナルを僕が偶然キャッチしたのかもしれません」

 

 ユーリは、自分がただの子供ではないことを示唆するように、冷静に状況を分析して見せた。

 

 ジョーイさんは驚いた顔をしたが、深くは追及せず、ただ優しく頷いた。

 

(そして、俺が波導使いだったことも、この子とのチャンネルが繋がりやすかった要因だろうな)

 

 内心で、ユーリはもう一つの真実を付け加えた。

 

 そっと手を離そうとした、その時。

 

 眠っているはずのラルトスの小さな手が、ユーリの指をきゅっと掴んで離さなかった。

 

「あら…」

 

 どうしたものかとジョーイさんに視線を送ると、彼女は慈愛に満ちた微笑みを浮かべていた。

 

「命の恩人の貴方に、すっかり心を許しているのね。この子が完全に回復するまで、もう少しだけ、傍にいてあげてくれるかしら?」

 

 ジョーイさんの言葉に、ユーリは再びラルトスへと視線を落とす。

 

 目元を隠す青い髪の奥で、大きな橙色の瞳がじっとこちらを見つめていることに気づいた。

 

 その瞳は、何かを強く訴えかけているようだった。

 

 エスパータイプであるラルトスなら、きっとこちらの心も読めているはずだ。

 

「……俺で、いいのか?」

 

 ユーリが静かに問いかけると、ラルトスは応えるように、その手に込められた力をぐっと強めた。

 

 それは、か細く、しかし確かな意思表示だった。

 

 ユーリはひとつ、静かに頷く。

 

 そして、ジョーイさんに向き直った。

 

「はい。この子を、預かります」

 

 それは、一人の少年と、一匹の特別なポケモンとの間に、決して切れることのない絆が生まれた瞬間だった。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 意識が、暗闇と光の間を明滅していた。

 

 横殴りの雨が、私の小さな体を叩きつける。

 

 風が唸り声をあげ、木々が悲鳴を上げていた。

 

 雷の閃光が世界を白く染め上げるたび、すぐ側で巨人が倒れるような轟音が響き渡る。

 

 怖い、寒い、痛い。

 

 大きな木の下で、必死に嵐が過ぎ去るのを耐えていた。

 

 だが、神様は私に味方してくれなかった。

 

 すぐ近くに雷が落ち、私が寄りかかっていた木が、耳を聾するほどの音を立てて裂けていく。

 

 衝撃で体が吹き飛ばされ、何かに強く打ち付けられた。

 

 そこで、私の意識は一度、完全に途切れた。

 

 どれくらいの時間が経っただろう。

 

 次に気がついた時、私は冷たい地面の上で、折れた木の間に挟まれて動けなくなっていた。

 

 嵐は過ぎ去ったようだけど、体のあちこちがひどく痛み、寒さで震えが止まらない。

 

 声を出そうとしても、か細い音が漏れるだけ。

 

(誰か…助けて…)

 

 エスパータイプである私の本能が、無意識に助けを求めるシグナルを放つ。

 

 だけど、この森にいる仲間たちも、みんな嵐で傷つき、自分のことで精一杯なのが伝わってくる。

 

 私の声は、誰にも届かない。

 

 絶望が、冷たい霧のように心を覆っていく。

 

 もう、だめかもしれない。

 

 そう思った、その時だった。

 

 暖かくて、力強い「何か」が、私の意識に流れ込んできた。

 

 それは、他のポケモンたちが持つものとは少し違う、もっと澄んでいて、もっと優しい、青い光のようなエネルギー。

 

 その光は、遠くから、しかし真っ直ぐに、私を目指して近づいてくる。

 

(誰…?)

 

 私は最後の力を振り絞り、その光に向けてシグナルを送った。

 

 「ここにいる」と。

 

 やがて、草を踏みしめる音が聞こえ、目の前に一人の人間の少年が現れた。

 

 彼の隣には、一匹のジグザグマがいる。

 

 少年は、私を見ると少しだけ目を見開いた後、すぐに駆け寄ってきてくれた。

 

 そして、その手に、あの青い光を宿した。

 

「波導は我にあり!」

 

 少年の手が私の体に触れた瞬間、温かい奔流が流れ込み、凍えていた体が内側からじんわりと温められていく。

 

痛みが、少しだけ和らいだ気がした。

 

 少年の指示でジグザグマが地面を掘り、私は窮屈な木の隙間から助け出された。

 

 そして、少年の腕にそっと抱きかかえられる。

 

 彼の体から伝わる温もりと、絶え間なく注がれる青い光のエネルギーに安堵しながら、私の意識は再び遠のいていった。

 

 次に目覚めたのは、真っ白な部屋の、柔らかなベッドの上だった。

 

 体はまだ少し気怠いけれど、あの絶望的な痛みと寒さは消えている。

 

 どうやら、助かったらしい。

 

 ぼんやりと天井を眺めていると、すぐそばに、あの少年の気配を感じた。

 

 見ると、少年は私の頬を優しく撫でてくれていた。

 

 その指先から伝わる温もりが、心地いい。

 

 この人が、私を助けてくれたんだ。

 

 少年が手を離そうとした時、私は無意識に、その指を掴んでいた。

 

 行かないでほしい。

 

 もっと、そばにいてほしい。

 

 その一心だった。

 

 私の気持ちが伝わったのだろうか。

 

 少年は、私の目隠しの奥にある瞳を、まっすぐに見つめてきた。

 

 彼の心の中には、たくさんの知識や、大人びた思考があるのがわかる。

 

 でも、その奥にあるのは、とても優しくて、温かい心。

 

「……俺で、いいのか?」

 

 少年が、静かに問いかけてきた。

 

 その声は、私の心に直接響いてくるようだった。

 

 私は応えるように、掴んだ指に、ありったけの力を込めた。

 

 「あなたがいい」と、そう伝えるために。

 

 少年は、私の気持ちを全部わかってくれたように、小さく頷いた。

 

 その瞬間、私と彼との間に、青い光でできた、決して切れることのない繋がりが生まれたのを感じた。

 

 私の名前は、まだない。

 

 でも、私のトレーナーは、もう決まっている。

 

 この、世界で一番優しくて、不思議な力を持つ、貴方だけ。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 ポケモンセンターの一室。消灯時間を過ぎた静寂の中、月の光だけが、ベッドに横たわる二つの小さな影を淡く照らし出していた。

 

 ユーリは、母のジグザグマの柔らかな体を枕代わりに、腕の中に小さな温もりを抱きしめていた。

 

 嵐の中で見つけた、色違いのラルトス。ジョーイさんの治療のおかげで、一命は取り留めたものの、まだその体は弱々しく、安心するには早かった。

 

(大丈夫、大丈夫だから…)

 

 ユーリは、眠るラルトスの頭を、そっと優しく撫で続ける。

 

 おかっぱ頭のような青色の被り物の下で、小さな体がぴくりと反応する。

 

 その仕草が愛おしくて、たまらない。

 

 彼の行動は、単なる看病ではなかった。

 

 彼が持つ特別な力、「波導」。

 

 その青白い生命エネルギーを、ごく緩やかに、しかし絶え間なく、ラルトスの体へと送り続けていたのだ。

 

 それは、弱った生命力を直接的に補い、嵐の恐怖でささくれ立った心を根源から癒すための、彼にしかできない最上の治療だった。

 

 背中を、子どもをあやすように、ぽんぽんと心地よいリズムで叩いてやる。

 

 腕の中のラルトスが、安堵したように体を預けてくるのを感じる。

 

 その無防備な姿に、ユーリの前世の記憶が、郷愁と共に蘇った。

 

(ラルトス…本当に、この世界にいたんだな…)

 

 画面の向こうで、ドット絵やポリゴンとして見ていた存在が、今、確かにここにいる。

 

 温かく、柔らかく、そして生命の息吹に満ちている。

 

 その奇跡に、胸が熱くなった。

 

 気づけば、ユーリの唇は、ラルトスの頭から伸びる、赤い板状のツノへと吸い寄せられていた。

 

 そこが、彼女たちにとって最も敏感な、感情を司る器官であることを、彼は知識として知っていた。

 

 チュ、と小さな音を立てて、唇を触れさせる。

 

 それは、前世で愛し続けた存在への、数十年の時を超えた挨拶であり、この世界で出会えたことへの感謝の祈りだった。

 

 その瞬間、ユーリから流れ込む波導の質が、僅かに変わったのを、ラルトスは眠りの淵で感じ取っていた。

 

(あたたかい…もっと…)

 

 彼女は、ユーリの腕の中で、さらに深く身を委ねる。

 

 嵐の夜の絶望的な寒さと痛みは、この温かな光の奔流によって、完全に溶かされ、浄化されていく。

 

 ユーリの愛情、安堵させようとする優しい気持ち、そして、その奥にある、遥か昔から自分という存在を知り、焦がれ続けてきた、深く、そして巨大な魂の記憶。

 

 その全てが、波導に乗ってラルトスの魂へと流れ込んでくる。

 

 ラルトスは、夢を見ていた。

 

 見たこともない世界で、一人の少年が、自分や自分の進化形の姿を見て、歓声を上げている夢を。

 

 不思議な箱の前で、自分たちと共に冒険をしている夢を。

 

 そして、自分の進化形によく似た大きなぬいぐるみを、宝物のように抱きしめて眠っている、少し寂しげな夢を。

 

(この人、は…私のことを、ずっと前から…)

 

 論理ではない。

 

 魂が、直接理解する。

 

 この人は、私の運命の人だ。

 

 私を見つけ、私を救い、そして、私を愛するために、ここにいる。

 

 ユーリは、そんなラルトスの内面の変化に気づく由もない。

 

 ただ、腕の中の小さな存在が、自分に全てを委ねてくれていることが嬉しくて、そのツノに、もう一度、キスを落とす。

 

 それは、一人の少年と、一匹の特別なポケモンが、初めて魂のレベルで触れ合った、静かで、そして神聖な夜。

 

 言葉もなく、約束もなく、ただ互いの存在を確かめ合うように、波導だけが二人を繋いでいた。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 ポケモンセンターの朝は、希望の光と共に訪れる。

 

 窓から差し込む柔らかな日差しが、清浄な室内に満ちていた。

 

 昨夜の嵐が嘘のように、ラルトスは驚異的な回復を見せていた。

 

 朝の検診を行ったジョーイさんは、カルテとラルトスの顔を何度も見比べ、信じられないといった表情で首を傾げている。

 

 瀕死の重傷だったとは思えないほど、その小さな体には生命力がみなぎっていた。

 

「すごい回復力ね…まるで奇跡だわ。これなら、もう退院しても大丈夫」

 

 ジョーイさんは、驚きを隠せないながらも、にこやかに太鼓判を押した。

 

「あとはお家で安静にしていれば、すっかり元気になるはずよ」

 

 その言葉に、ユーリは安堵しつつも、一つの現実的な問題に直面する。

 

「でも、この子は野生のポケモンですよね? 森に…返さないとダメなんじゃ…」

 

 その言葉が発せられた瞬間、それまで大人しくユーリの腕の中にいたラルトスが、ひしっ、と力強く彼の服を掴み、しがみついた。

 

 そして、潤んだ大きな瞳で、不安そうにユーリの顔を下から見上げる。

 

 その姿は、言葉以上に雄弁に「離れたくない」と訴えていた。

 

 困惑したユーリが助けを求めるようにジョーイさんへと視線を送ると、彼女は悪戯っぽく片目を瞑り、ウィンクを返してきた。

 

「この子も、貴方から離れたがってはいないみたいね。命の恩人であり、一晩中つきっきりで看病してくれた貴方に、すっかり懐いてしまったんだわ。…もう、貴方のポケモンにしちゃっても、大丈夫よ」

 

 そして、ジョーイさんは優しく付け加える。

 

「もちろん、貴方はまだトレーナーになる前の年齢だから、ちゃんとお母さんと相談して、許可をもらってから、ね?」

 

 その言葉は、ユーリにとって、そしてラルトスにとって、未来への扉を開く鍵だった。

 

 ユーリは、自分にしがみつくラルトスの頭を優しく撫でる。

 

 おかっぱ頭のような青色の被り物が、心地よさそうに揺れた。

 

 そして、まるでそれが当たり前の挨拶であるかのように、そのオレンジのツノに、そっと自分の唇を寄せる。

 

 チュ、という小さな音。

 

 それは、昨日までの不安な夜が終わり、今日から新しい関係が始まることを告げる、朝の誓いのキスだった。

 

 ラルトスは、そのキスを全身で受け止め、安心したように、さらに強くユーリにすり寄る。

 

 ジョーイさんは、そんな二人の姿を、まるで一編の美しい物語を眺めるかのように、頬に手を当てて、微笑ましく見送っていた。

 

 まだ幼い少年と、特別なポケモンとの間に生まれた、奇跡のような絆。

 

 その始まりの瞬間に立ち会えたことを、彼女は心から祝福していた。

 

 ユーリは、ラルトスとしっかりと手を繋いで、ポケモンセンターを後にする。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 トウカシティの穏やかな昼下がり。ユーリは、母が待つ我が家への道を歩んでいた。

 

 彼の右側には、少しお疲れ気味ながらも、どこか誇らしげなジグザグマ。

 

 そして、彼の左手は、小さな、しかし確かな温もりに包まれていた。

 

 繋がれたその手の主は、ラルトス。

 

 陽の光を浴びて、彼女の白い体は桜の花びらのように淡く輝き、おかっぱ頭のような被り物は、どこまでも澄んだ空の色をしていた。

 

 そして、その頭から伸びるオレンジ色のツノが、歩くたびに愛らしく揺れる。

 

 道行く人が、思わず二度見するほどに、その姿は幻想的で、人目を引いた。

 

「ただいまー」

 

 家のドアを開けると、「おかえりなさい」という母の穏やかな声が迎えてくれた。

 

 リビングから顔を覗かせた彼女は、ユーリの姿を見ると、まずほっとしたような笑みを浮かべた。

 

「ユーリ、お疲れ様。連絡くれた時は驚いたけど、無事でよかったわ。それで、その子が…」

 

 母の視線が、ユーリの隣に立つ、小さな訪問者へと注がれる。

 

 電話で聞いていたとはいえ、実際に目の当たりにするその稀有な色合い──空色の髪とオレンジ色のツノを持つ、白い体のポケモン──と、人間の子どものようにユーリの手をしっかりと握る姿に、改めて感嘆の息を漏らした。

 

「本当に、ラルトスなのね。しかも、こんなに綺麗な色の…」

 

 ユーリは、ラルトスを安心させるように優しく頭を撫でながら、昨夜の嵐から今朝までの詳しい経緯を語り始めた。

 

 倒木の下で弱っていたこと、ポケモンセンターでの懸命な治療、そして、このラルトスが、どうしても自分から離れたがらないということを。

 

 母は、息子の言葉に静かに耳を傾けていた。

 

 そして、話が終わると、おずおずとラルトスの前にしゃがみこみ、その目線に高さを合わせる。

 

「そう…本当に大変だったのね。怖かったでしょう? でも、ユーリが見つけてくれて、本当によかった」

 

 その優しい声と、穏やかな感情の波に、ラルトスは繋がれたユーリの手をきゅっと握り返した。

 

 この家は、この人は、安全で、温かい。

 

 頭のツノが、そう教えてくれている。

 

 母は、驚きはしたものの、この小さな訪問者を拒絶するつもりは毛頭なかった。

 

 何より、自分の息子が、危険を顧みずに一つの命を救おうと必死に行動し、責任をもって一晩付き添った。

 

 その成長が、誇らしくてならなかったのだ。

 

「…ユーリ」

 

 母は立ち上がり、息子に向き直る。

 

「ジョーイさんも、言ってくれたんでしょう? それに、この子自身が、貴方のそばにいたいって、その小さな手で一生懸命伝えてくれているわ」

 

 母の視線が、ユーリとラルトスの固く繋がれた手へと注がれる。

 

「貴方はまだトレーナーじゃない。だから、正式にこの子をパートナーにするには、まだ時間がかかるかもしれない。でもね」

 

 母は、にっこりと微笑んだ。

 

「この子が、今日から私たちの新しい『家族』になること。それには、何の許可もいらないでしょう?」

 

 その言葉は、ユーリにとって、そしてラルトスにとって、何よりも嬉しい承認だった。

 

「ありがとう、母さん」

 

 ユーリが言うと、ラルトスもまた、ぺこり、と小さな頭を下げた。

 

 その健気な仕草に、母は思わず「まあ、かわいい!」と声を弾ませる。

 

 その日から、ユーリの日常に、新たな彩りが加わった。

 

 魂で繋がった、運命のパートナー。

 

 家族という温かい光に見守られながら、静かに、そして確かに、その一歩を踏み出したのだった。

 

 

 

 

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