トレーナースクールの昼休み。
いつもなら子供たちのにぎやかな声が響く木陰も、今日ばかりは、一人の少女が放つ、ぴりぴりとしたオーラで静まり返っていた。
ハルカは、図鑑とノートを広げ、うんうんと唸りながら頭を掻きむしっていた。
(ダメだ…全然わからない…!)
ユーリという壁。
彼の戦術の穴を探そうとすればするほど、その思考の深さに迷い込み、答えが見えなくなる。
レンタルしたジグザグマとの連携も、どこかぎこちなく、自分のイメージ通りに動いてくれない。
「たいあたり」を指示する声も、以前のような快活さを失っていた。
焦りばかりが募り、彼女らしい太陽のような笑顔は、すっかり鳴りを潜めていた。
そんな彼女の隣に、ユーリが、サンドイッチの入ったランチボックスを持って、すとん、と腰を下ろした。
「…らしくないな、ハルカ」
ぽつり、と呟かれた言葉に、ハルカはむっとした表情で顔を上げる。
「…らしくないって、何よ。私だって、真剣に考えてるんだから」
「考えすぎなんだよ」
ユーリは、ハルカが広げているノートに目を落とす。
そこには、びっしりと書き込まれた、ユーリの戦術の分析と、それに対する対策案が並んでいた。
あまりにも緻密で、理論的で、そして、どこか窮屈な文字の羅列。
「俺の真似をしようとしても、多分、うまくいかない。それは、君の戦い方じゃないから」
「じゃあ、どうしろって言うのよ!」
思わず、声が大きくなる。
ユーリに勝つために、必死で考えているのに。
その努力を、頭ごなしに否定されたように感じたからだ。
ユーリは、そんな彼女の苛立ちを意に介すでもなく、静かに、しかし、その瞳で真っ直ぐにハルカを見つめて、言った。
「ハルカなら、もっとこう…『当たって砕けてみるかも!』って、全力で突っ走るんじゃないか?」
「え…」
「小難しく考えるより、『これだ!』って閃いたことを、後先考えずに試してみる。失敗したら、大声で悔しがって、でも、次の日にはケロッとして、また新しい無茶を思いつく。…俺は、そういう君のバトルの方が、好きだけどな」
その言葉は、ハルカの心に、静かに、しかし深く染み込んでいった。
そうだ、いつからだろう。
バトルが、こんなに苦しいだけのものになってしまったのは。
ユーリに勝つことばかり考えて、一番大切な「楽しむ」という気持ちを、どこかに置き忘れてしまっていた。
「当たって砕ける、前に…」
ハルカは、顔を伏せたまま、か細い声で呟いた。
「その『当たる』ための知識を、私、まだ知らないかも…。ユーリは、普段、どんな事を考えてバトルしてるの? 教えて…」
それは、プライドの高い彼女が、初めて見せた、素直な弱さだった。
ユーリは、そんな彼女が愛おしいと思った。
そして、自分が持つ知識が、この輝かしい才能の道標になるのなら、それを授けることに何の躊躇もなかった。
「…俺は、『後の先』を取る方が、好きかな」
ユーリは、まるでチェスの名人が初心者へ定石を教えるかのように、静かに、そしてゆっくりと語り始めた。
相手を知ることの重要性。
予測と対策の連鎖。
そして、最後は経験とアドリブがものを言う、読み合いの楽しさ。
その言葉は、あまりにも高度で、途方もない知識量を要求するものだった。
ハルカの顔に、再び絶望の色が浮かびかけた、その時。
「まあ、いきなり全部を覚えるなんて、誰だって無理だよ。俺だって、今の知識を身につけるのに、すごく長い年月がかかったんだから」
彼は、そう言うと、具体的な「最初の第一歩」を、彼女にだけそっと示した。
「だから、まずは範囲を絞るといい。俺たちが今いるトウカシティと、その周辺。そして、最初のジムがあるカナズミシティ。まず、そこに出てくるポケモンと、ジムリーダーのツツジさんが使うポケモンだけを、完璧に頭に叩き込んでみるんだ」
そして、ユーリは、最後にとどめの一言を、真っ直ぐに彼女の瞳を見つめて、告げた。
「…ハルカになら、絶対にできる」
その、確信に満ちた一言。
それはハルカの心に灯った、どんな理論よりも、どんな戦略よりも、明るく、そして力強い光だった。
あのユーリが、私のことを、信じてくれている。
ハルカは、顔を上げた。
その瞳には、もう迷いはなかった。
「…うん。わかった」
彼女は、短く、しかし力強く頷くと、持っていたノートとペンを勢いよくバッグに放り込んだ。
そして、すっくと立ち上がる。
「ありがとう、ユーリ!」
彼女は、ここ数日見せたことのなかった、太陽のような満面の笑みを浮かべた。
「私、やってみる!」
そして、彼女はくるりと背を向けると、バトルフィールドで待っているジグザグマの元へと、全力で駆け出した。
その背中は、もう、少しも重くはなかった。
ユーリは、そんな彼女の後ろ姿を、サンドイッチを頬張りながら、満足げに見送る。
(…それでこそ、だよ。ハルカ)
彼が本当に見たかったのは、自分の模倣をする優等生ではない。
常識の斜め上を行く発想で、自分の完璧な理論を、内側からめちゃくちゃに破壊してくれる、予測不能な天才。
◇◇◇◇◇
トレーナースクールの恒久行事、一泊二日の野外合宿。
その目的は、テントの設営や野外での調理といった、トレーナーとして旅をする上で必須となるサバイバルスキルの習得だ。
「はーい、じゃあ、これから二人一組でペアを組んでくださーい!」
先生のその一言は、教室に悲喜こもごものドラマを生み出した。
陽キャな子供たちは誰と組むかではしゃぎ、陰キャな子供たちにとっては地獄の時間の始まりだ。
基本的には、仲の良い同性の友達と組むのが暗黙の了解。
そんな空気が、教室を満たしていた。
しかし、その空気を、一人の少女が、迷いのない一歩で切り裂いた。
「ユーリ! 私と、ペアを組んでくれないかな?」
ハルカだった。
彼女は、他の誰にも目もくれず、一直線にユーリの元へと向かい、そう宣言したのだ。
ユーリは、少しだけ驚いた顔をしたが、すぐに「ああ、いいよ」と静かに頷いた。
その瞬間、教室のあちこちで、小さな悲鳴とため息が漏れた。
「おー! ユーリ、ハルカとペアだってよー!」
と茶化す男子たち。
そして、その影で、血の涙を流す女子たち。
まだ思春期というには早いが、「男女七歳にして同席せず」の言葉通り、どこか男女を意識し始めるお年頃。
気になる女の子にちょっかいを出すことでしか愛情表現ができない、子供っぽい男子はお呼びではない。
女子たちの人気は、常に思慮深く、バトルも強く、そしてどこか大人びているユーリに集中していたのだ。
その競争を、誰よりも早く、そして堂々と制したのが、ハルカだった。
実習が始まると、二人の「格の違い」は、さらに明らかになった。
テントの設営は、ユーリが説明書を一度読んだだけで、ハルカに的確な指示を出し、他のどのペアよりも早く、そして完璧に完了させた。
夕食の準備では、ユーリが手際よく火をおこし、調理を進めていく。
ハルカが出来るのは、その隣で言われた通りに食材を切り、時々「味見だよ」と差し出されるシチューをふーふーしながら食べることくらい。
(なんだか、これじゃあ…)
横に並んで、一つの作業をする。
その光景が、まるで新婚夫婦のようだと考えてしまった自分に気づき、ハルカはぶんぶんと頭を振った。
だが、一度意識してしまうと、もうダメだ。
隣に立つユーリの横顔が、やけに大人びて見え、顔にじわじわと熱が集まってくるのを感じた。
自由時間。
火照った頭を冷やそうと、ハルカは104番どうろの砂浜で、一人海に入っていた。
波打ち際では、他の子供たちがキャモメと戯れている。
そして、少し離れた場所では、ユーリがビーチチェアに寝そべり、腕の中のラルトスを抱きながら、まるでバカンスにでも来た大人のように、優雅に寛いでいた。
歳は変わらないはずなのに、その姿が妙に様になっているのが、おかしくて、そして少しだけ格好いいと思ってしまう。
そんなことを考えていた、その時だった。
急に、足に何かがぬるりと巻き付き、ピリッとした痺れが走った。
「きゃっ!?」
次の瞬間、抗えない力で、足が海の中へと引きずり込まれる。
慌てて足元を見ると、自分の足には、青白い体をしたメノクラゲが、その二本の長い触手で絡みついていた。
(毒…!?)
足の痺れは、メノクラゲの毒のせいだ。
ハルカは、必死に腕をばたつかせ、沈むまいと抵抗する。
ここで抵抗をやめたら、暗い、冷たい海の中へと引きずり込まれてしまう。
本能的な恐怖が、彼女の心を支配した。
しかし、8歳の少女の非力な抵抗は、水タイプであるメノクラゲの前ではあまりにも虚しく、その体は、ゆっくりと、しかし確実に、水中へと引きずり込まれていく。
(助けて…!)
その、悲痛な心の叫びが届いた相手は、トウカシティにいる父親ではなく、なぜか、ビーチチェアで寛いでいるはずの、あの少年の顔だった。
その瞬間。
波導は我にあり──!
水面が、爆発した。
意識が遠のきかけたハルカの体を、力強い腕が抱きかかえていた。
ユーリだった。彼は、まるで水の上を走るかのように、海面を蹴って、一気に砂浜へと戻る。
「…大丈夫か、ハルカ!」
砂浜に辿り着くと同時に、ハルカは、助かった安堵と、海に引きずり込まれた恐怖で、堰を切ったように泣き出してしまった。
ユーリの胸に顔をうずめ、わんわんと泣きじゃくる。
「うわぁぁん! 怖かったよぉ…!」
ユーリは、そんな彼女の背中を、優しく、そしてあやすように、ぽんぽんと叩いてやる。
彼の視線の先、海面には、先ほどのメノクラゲだけでなく、その仲間であろう、おびただしい数のメノクラゲが、不気味に浮かび上がっていた。
「…どうやら、メノクラゲの大量発生に、運悪く出くわしてしまったみたいだな」
ユーリは、冷静に状況を分析しながらも、腕の中で震える少女を、ただただ、優しく抱きしめ続けるのだった。
その温もりは、ハルカにとって、何よりも安心できる、世界で一番安全な場所のように感じられた。
◇◇◇◇◇
テントの中は、外の喧騒が嘘のように静かだった。
ユーリは、ハルカの足首にできた、メノクラゲの毒による赤い腫れに、真剣な眼差しを向けている。
まず、彼は自らの手に淡い青白い光──波導を宿し、そっと患部に触れた。
温かいエネルギーが流れ込み、ハルカの体の治癒力を内側から高めていく。
その、科学では説明できない不思議な力に、ハルカはただ息をのんだ。
次に、ユーリはすり鉢を取り出し、持っていた「モモンのみ」を手際よくすり潰していく。
甘酸っぱい香りが、テントの中にふわりと広がった。
「モモンのみは、天然のどくけしなんだ。すり潰して湿布にすれば、すぐに効くはずだよ」
そう言うと、彼はペースト状になった実を、ガーゼに塗り、ハルカの足首に優しく巻き付けた。
その手つきは、驚くほどに慣れていて、そして、どこまでも優しかった。
(すごい…ポケモンだけじゃなくて、きのみの知識まで…)
ハルカは、改めて、隣にいる少年の底知れなさを肌で感じていた。
バトルでは、誰にも追いつけないほどの天才。
サバイバルの知識も豊富で、そして今、こうして自分の手当てまで完璧にこなしている。
これまで、彼は乗り越えるべき「壁」であり、競い合う「ライバル」だった。
しかし、命の危機からまるで物語の騎士のように颯爽と救い出され、こうして二人きりのテントの中で献身的な看病を受けていると、ハルかの中でユーリのイメージが少しずつ、しかし確実に、塗り替えられていくのを感じた。
彼は、「壁」なんかじゃない。
自分を、守ってくれる人。
その認識が、彼女の中に眠っていた「女の子」としての側面を、強く、強く刺激する。
テントという、外の世界から仕切られた二人きりの密室。
その特殊な環境が、彼女の心理に更なる変化をもたらした。
これまで「天才」「ライバル」という記号で見ていたユーリが、今、一人の「男の子」として、強烈に意識され始めたのだ。
線は細くとも逞しくなってきた腕、自分より少しだけ高い体温、真剣な時の低い声。
その全てが、ハルカの心臓を、ドキドキと、甘く締め付ける。
(私…どうしちゃったんだろ…)
モモンのみの湿布が効いてきたのか、足の痺れはもうほとんど感じない。
代わりに、自分の頬に、熱が集まってくるのを感じた。
ハルカは、何でもないフリをして、少しだけ姿勢を直した。
ほんの少しだけ、体を前に屈める。
スクール水着の薄い生地が、最近、少しだけ成長してきた胸の形に合わせて、たわむ。
その中央に、浅い、しかし確かな谷間が生まれる。
それは、彼女自身、9割が無意識、1割が計算で行った、ささやかな自己アピールだった。
(…ユーリは、どう思うかな…)
そして、彼女は、見逃さなかった。
手当てを終え、顔を上げたユーリの視線が、ほんの一瞬、しかし、確かに、自分の胸元に注がれたのを。
その瞬間、ハルカの心には、バトルで勝利した時とは全く違う種類の、甘美な「勝利」の実感が湧き上がった。
(…見た。私をちゃんと、『女の子』として見てくれた…!)
この確信は、彼女に、これ以上ないほどの自信と高揚感をもたらす。
テントの中は、モモンのみの甘い香りと、二人だけの穏やかな空気で満たされていた。
ユーリの手際の良い処置のおかげで、ハルカの足首を苛んでいた痺れと痛みは、すっかり消え去っていた。
「…うん。もう大丈夫そうだ」
ユーリは、満足げに頷くと、立ち上がろうとして腰を浮かせた。
もう治療は終わったのだから、他の皆がいる場所へ戻るのが当然の流れだ。
しかし、その瞬間。
「あっ…!」
ユーリが立ち上がるよりも早く、これまで大人しく座っていたハルカが、まるで何かに弾かれたかのように、その体勢を崩した。
そして、バランスを失った彼女は、立ち上がりかけたユーリの胸に、もたれかかるように、しかし、明らかに意図を持って、押し倒すような勢いで抱き着いてきたのだ。
どん、と軽い衝撃と共に、ユーリは再びテントの床に背中をつける形になる。
その胸の上には、顔をうずめるハルカの柔らかな髪の感触と、シャンプーのいい匂い。
予期せぬ出来事に、ユーリの思考が一瞬だけ停止する。
「ハルカ…? どうしたんだ、まだ足が…」
「ううん、足はもう、大丈夫…」
ハルカは、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳は潤んでいて、頬は夕焼けのように赤く染まっている。
彼女は、ユーリの服をきゅっと掴んだまま、か細い、しかし芯の通った声で、彼に懇願した。
「…でも、もう少しだけ。このまま、一緒にいて…?」
それは、プライドの高い彼女が、初めて見せた、素直な弱さと甘えだった。
その、あまりにも健気で、そしてあまりにも破壊力のある願いに、ユーリの中にあった「賢者」としての理性が、音を立てて崩れていく。
(…敵わないな、これは)
ユーリの返答は、言葉ではなかった。
彼は、何も言わずに、ただそっと、ハルカの体を優しく抱きしめ返した。
そして、彼女の頭を、まるでお気に入りのぬいぐるみを扱うかのように、ゆっくりと、優しく撫で始める。
背中に回されたもう片方の手は、まるで母親が赤子をあやすように、ぽん、ぽん、と、温かく、そして心地よい一定のリズムを刻み続けていた。
その、あまりにも完璧で、あまりにも優しい「答え」に、ハルカの心は、完全に溶かされていった。
もしユーリが「いいよ」と言葉で返していたら、まだ「気を遣わせちゃったかな」と、少しだけ遠慮が残ったかもしれない。
しかし、彼の行動は、言葉を介さない、もっと直接的で、そして雄弁な肯定だった。
「君がここにいたいなら、それでいい」
「何も心配しなくていい」
そのメッセージが、温もりとリズムを通じて、ハルカの魂に直接流れ込んでくる。
彼女は、この腕の中が、世界で一番安全で、安心できる場所なのだと、本能で理解した。
ここは、強がる必要も、背伸びする必要もない、ありのままの自分でいられる場所。
ハルカにとって、ユーリの腕の中は、心の「ホーム」であり、いつでも帰ってこられる「安全地帯」として、その心に深くインプットされていく。
先ほどまでの、胸を高鳴らせるような、刺激的な「ドキドキ」は、鳴りを潜める。
代わりに、体の芯から、じんわりと湧き上がってくるような、温かく、そして満たされた幸福感が、彼女の全身を支配していた。
これが本当に誰かを「好き」になるということなんだと、彼女は初めて、心の底から理解したのだ。
彼女の頭の中からは、ライバルであることや、駆け引きをすることなど、全ての雑念が消え去る。
ただ純粋に、「時間が止まってしまえばいいのに」「この腕の中で、ずっと、このリズムを感じていたい」と、そう願うだけだった。
ハルカは、もう何も言わない。
ただ、ユーリの胸に顔をうずめ、目を閉じ、彼の心臓の音と、背中を叩く優しいリズムに、その身と心を、完全に委ねるだけだった。
テントの中の二人の時間は、まるで永遠のように、静かに、そしてどこまでも温かく、過ぎていくのだった。
◇◇◇◇◇
遅い夕食を終え、夜の帳が完全に下りたキャンプサイト。
ランタンの柔らかな光が、テントの壁をぼんやりと照らしていた。
ユーリは、シュラフの中に潜り込むと、いつもの日課のように、ラルトスをそっと抱き寄せて横になった。
ラルトスは、心得たように彼の腕の中に収まり、満足げに目を閉じる。
しかし、その穏やかな時間は、すぐに破られた。
隣のシュラフに潜り込んだはずのハルカが、もぞもぞと、衣擦れの音を立てながら、彼のすぐそばまで身を寄せてきたのだ。
そして、昼間の大胆さはどこへやら、少しだけ恥ずかしそうに、しかし、潤んだ瞳で、はっきりと要求した。
「…私も、抱っこして…?」
その、あまりにも破壊力のある一言。
ユーリの「賢者」としての思考が、「いや、それはまずいだろう」と警鐘を鳴らす。
しかし、昼間の出来事を経て、もはや彼の理性の力は、風前の灯火だった。
何より、潤んだ瞳で上目遣いに懇願する少女を、無碍に突き放せるほど、彼はまだ鬼畜外道な大人になりきれてはいなかった。
(…まあ、いいか。今日だけは、特別で)
そんな、都合の良い言い訳を心の中で呟きながら、彼は、ため息一つで、その要求を受け入れた。
ユーリは、左右の腕を広げ、ハルカとラルトスを、それぞれ腕枕の形で抱き寄せた。
左腕には、いつもの定位置であるラルトス。
右腕には、今日だけの特別な同居人であるハルカ。
まるで、二人の子供を寝かしつける父親のような、奇妙な「川の字」が完成した。
彼は、まず、左腕のラルトスに対して、いつもの「おやすみの儀式」を行う。
頭を優しく撫で、そして、そのオレンジ色のツノに、チュ、と軽いキスを落とす。
ラルトスは、心地よさそうに、さらに彼の胸元へとすり寄った。
そして、右腕のハルカ。
彼は、少しだけ逡巡した後、ラルトスにしたのと同じように、彼女の頭のてっぺん、つむじのあたりに、ごく軽く、唇を触れさせた。
その瞬間、ハルカの体が、びくりと、しかし嬉しそうに震えるのを、腕を通して感じた。
(してくれた…!)
ハルカの心は、歓喜で打ち震えていた。
ユーリが、ラルトスにするのと同じように、自分にも「おやすみのキス」をしてくれた。
その事実は、昼間の出来事が、ただの偶然やアクシデントではなかったことの、何よりの証明だった。
さらに、ユーリは、ハルカの柔らかな髪を、指で優しく、梳かし始める。
これは、ラルトスにはできない、ハルカだけの「特別扱い」。
その、くすぐったくて、でも、どうしようもなく優しい感触に、ハルカは、もはや幸福感で思考が飽和していくのを感じていた。
(私、勝ったんだ…ユーリの心の中の、特別な場所に、ちゃんと入れたんだ…)
彼女は、もう不安や焦りを感じない。
この腕の中こそが、自分の居場所。
その絶対的な安堵感に包まれながら、彼女は、人生で最も幸せな眠りへと、ゆっくりと落ちていく。
その全てを、左腕の中で、ラルトスは静かに感じ取っていた。
マスターが、ハルカという少女に「特別」な感情を抱き始めていること。
そして、その感情が自分に向けられる、魂の全てを捧げるような、絶対的な愛とはまた「種類が違う」ことも。
彼女は、ハルカに向けられたキスと、手櫛を、「正妻が、夫の浮気(というほどでもない、可愛らしい火遊び)を、黙って見逃してあげる」かのような、達観した視点で見守っている。
彼女は、ユーリの腕枕という「定位置」を確保していることに、絶対的な安心感を覚えている。
嫉妬を超えた、究極の愛。
彼女は、ユーリの幸福そのものを、自らの幸福として受け入れているのだ。
やがて、規則正しい寝息が、二つ、聞こえ始めた。
ユーリは、その寝息を確認すると、ようやく肩の力を抜いた。
右腕には、自分を完全に信頼し、無防備な寝顔を晒す、ライバルであり、特別な女の子。
左腕には、自分の魂の半身であり、全てを理解してくれる、運命のパートナー。
その、ありえないほど贅沢で、そして少しだけ困った状況に、ユーリは、ふっと、静かな笑みを漏らす。
そして、二人の温もりを感じながら、彼自身もまた、深い、深い眠りへと落ちていった。
それは、誰にも理解できない、しかし、三者三様、全員が満たされた、奇妙で、そして完璧なバランスで成り立つ一夜だった。