ニワトリ肢に立つ小屋の中   作:ウニダコ

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1話

 戦時中に冒険家として南極へ向かったイギリス系アイルランド人の探検家アーネスト・シャクルトンは、母船「エンデュランス号」がウェッデル海の氷に閉じ込められ沈没する悲劇に見舞われた。

 

 シャクルトンと乗組員は極限状態で生き延び、氷の上でキャンプを張り、後に救命ボートで脱出。5人の仲間とともに小さな救命ボートで800マイルの過酷な海を渡り、南ジョージア島に到達した。山岳を越えて捕鯨基地にたどり着き、救助を求めた。

 

 南極探検隊から救出された時、彼は戦争はいつ終わったか尋ねた。

 

 基地管理者は答える。

 

「戦争はまだ終わっていない。何百万人もが死んだ。ヨーロッパは狂ってしまった。世界は狂ってしまった」

 

 

 

 

 

 

 

 破壊,殺戮,崩壊。超熱の光芒と機械人形によって宇宙が満たされる。その前の時代。

 社会の構造も、ウイスキーの煙っぽさも、誰かを想う熱っぽさも何もかも知らず、ただ彼女のことを知っていた。誕生日や生まれ故郷といった著せる情報でなく、もっと深層の領域において。

 

 シイコ・スガイ。かつてのシイコ・■■。

 

 彼女のことを知っていた。

 

 

 真っ直ぐに敷かれたグリッド舗装の歩道沿い。人口の八割以上が低軌道下層労働に従事しているコロニー区画にて、オリガ・ゼームリャは生まれ育った。

 住人の苗字は、アレクセイ,ミハイル,イワン,セルゲイ──さまざまな旧スラヴの断片を抱えており、旧世紀の滲みが如実に著れていた。

 

 家の壁は薄かった。遮音材は古い。隣人の咳が寝室まで聞こえた。天井からは時折、微かな結露が垂れ落ちる。けれど「貧しさ」とは思わない。彼女にとって、あの天井の雨粒は、眠るときにだけ現れる小さな星のようであったがゆえに。

 

 父、イヴァン・ゼームリャは、コロニー整備局の下請け業者でパイプ溶接をしていた。機嫌のいいときは口笛を吹いて作業に出かけ、機嫌の悪いときは黙ってコーヒーを飲む。それ以上でも以下でもなく。

 母、アナスタシアは、ルビノフ区の中学校で技術補助の仕事をしていた。何度も給料が遅配され、校舎の冷暖房が止まる日があっても、愚痴を言うことはない。洗濯物をたたむ手のしわが深く、爪の縁に常に赤ペンの跡が残る。

 

 正直だった。怒鳴らず、叱りすぎず、ただ静かに働いている。静かに生きている。背中を見つめたとき、オリガはふとこのまま、この場所で同じ天井を見つめて、背中を丸めて同じ風景を歩き続ける己の姿に思い至り、そしていつも耐えがたいほどの息苦しさから、決まって頭を振りかぶる。

 

 何が悪い? 

 何も悪くない。

 だからこそ、その焦燥は誰にも説明できない。自分だって。

 

 高校生。ある瞬間に湧き出て止まらない衝動から、地球連邦軍の徴募事務所へ駆け込む。口ひげを蓄えた壮年の対応役は彼女を一瞥し、今期の募集ノルマに辛うじて達したことに息をつく。数枚の用紙を手渡し、事務的な説明を淡々と述べる。

 

 家に帰り、両親に話す。両親はかつてなく真剣な娘を珍しく思い、席につく。軍。入隊。給料。サイン。すべてを話すと、父はもう一杯コーヒーを淹れた。本当に大丈夫なのか、命の危険はないかと母は延々に彼女に問う。そのすべてに対しオリガは予めの台本をつらつらと読み上げる。

 

 難色を示していた2人も、最終的にはペンを取る。経済的な理由は副次的なものでしかなく、娘の意志の尊重こそ第一であったが、家では将来の学費の問題が深く根差しており、それが経済的徴兵制によって解決されることもまた事実であって。

 

 出立の日をオリガは記憶していない。士官学校は別バンチのため、シャトル便が必要であった。ドッキング・ベイまで両親が見送りに来てくれたかもしれない。もしくは、最寄りのサブウェイ駅までだったかもしれない。この曖昧さは自身の薄情ゆえか、それとも今生の別れなどではないことから来る楽観ゆえか、オリガには分からなかった。わかろうともしなかった。

 

 彼女に会った今でなら、後者でありたいと願うことができている。

 

 

 

 寝具の上下を共にしていたわけではない。彼女は窓側の列で。私は壁際の奥で。隊列も別、班も別。会話の機会はない。必要性も。

 

 教官が短く告げる。

 

「二人一組。ゼームリャは■■と組め」

 

 人のネームより相貌を覚えることを得手としていた自分にとって、ただでさえ希薄な関わりの人物を名前から想起するということは困難であったが、聞きなれない響きの苗字に、私の耳は反応を示す。

 解散の後、各々は指示された通りにペアを組む。珍しく残っている微かな記憶を頼りに探すと、人ごみの先で彼女と静かに目が合った。

 黒髪は切りそろえられている。アジア、それも東のモンゴロイド的風貌。若く見える人種という一般的な認識を差し引いても幼く感じられた容姿を見つめると、ふとファースト・ネームが思い浮かんだ。シイコ。確かそのような名前であった。

 イポーニヤ。日系。コロニーは人種のるつぼとはいかず、その創始者による偏りはコロニーごとに異なる。初めて見る人種であって、入隊式の日に印象に刻まれていたのだった。

 

「よろしくね。ゼームリャさん」

 

 右手を差し出される。低い背丈にしては妙に通る声色に少しばかり気圧されるも、ためらわずその手を受け取る。「こちらも、よろしく」

 思うより強く握り返される感触を捉えながら、ひっかかりを覚える。いくら目が合って向かって来ていたといえど、彼女は初対面の私を疑いなしにゼームリャと思えたのか。うがちすぎと理性がささやくが、彼女が確認せずに早々に握手を求めた事実が脳髄にこびり付く。

 

「あのさ。話したこと、あったっけ」

 

 振り返られる。微笑まれる。そのままかぶりを振る。それが詮索を阻害する拒絶か、それとも彼女が曖昧の甘美さを拝しているとして、その信念から来ているものなのかオリガには判別がつかない。

 集合の号令。我に返る。まるで猜疑が常の秘密警察ごっこではないかと自嘲する。彼女と並び立ち、教官の前の整列に加わる。軍人は協調を求められており、それが手っ取り早く済むならむしろ願ったりである。そう言い聞かせて訓練に赴いた。

 これ以降、行動を共にする機会が多くなる。

 

 

 

 

 訓練生活が軌道に乗り、各班が初期の体力測定と初動機器の操作課題を終えた後、数日間の空白期間が与えられた。休暇とは言えず、日々の予定が決まっていないだけのことだったが、訓練生たちは余白に安堵を覚えた。オリガもまた、訓練着を脱ぎ捨てた夕刻の涼しさを一杯の水で済ませて、その日の行動を何も決めぬまま、食堂脇の小さな憩いの空間へと足を運んでいた。

 

 そこは設置者の意図を測りかねる簡素な中庭で、植え込みに水を遣る自動散水装置の音が、ほとんど無意味に繰り返されていた。ベンチがいくつかあり、半数は使用不可の札が貼られていた。ひとつに腰を下ろし、金属板の背もたれに体を預ける。見上げると、擬似空が張られている。夕焼けのプログラムが終了し、切り替わりの色補正が追いつかず、空の一部が微妙に緑がかっている。

 

「ここ、隣、使うね」

 

 空の変色の隙間から漏れてきたかのように、声が届いた。視線を移すと、例の同期、シイコがトレーを手に立っていた。彼女は、食堂から持ち出されたままの水とスープと、冷めきったソーセージを乗せた皿を無造作にベンチ脇へと置き、荷物のように軽く座った。

 

「……いいよ」言ったところで、もう座っている。だがオリガは、なぜかそれを鬱陶しいとは思わなかった。シイコは黙ったまま、スプーンでスープの縁をくるくる撫でるように掬い、そのまま口に運ばず、また器に戻していた。何をしているのか分からずに見ていると、ふいに彼女が言った。

 

「このスープ、今日のロットは味がちょっと濃いかも。オリガさん、あまり塩分強いの得意じゃないよね」

 

 オリガは面食らった。名前を呼ばれたことにも、それに紐づく体質めいた情報が添えられたことにも。味付けが強すぎて顔をしかめた日があった。誰が見ていたというのか。

 

「……私、言ったことあった?」

「ううん。なんとなく」

 

 その言葉の後に何も続かず、またスプーンが沈黙のリズムで器の内を掬い続ける。オリガは一瞬、シイコが自分の思考を覗き込んでいるのではないか、という妄想にかられたが、それもすぐに打ち消す。ただ、そういう人間なのだと言い聞かせる。察しが良く、観察が行き届き、そしてさりげなく相手に踏み込んでくる。もしかするとそれは、彼女なりの親しさの示し方なのかもしれない。

 

「よく、見てるんだね」

「見てるというより、わかっちゃう感じかな」

「超自然的な言い方だ」

「まさか。ひとより少し、ひとの考えていることがわかりやすいだけ。誰でもやってることでしょう?」

 

 シイコの横顔は、どこか遠い場所を見ているようで、言葉もまた自分のために発されたものでない気がした。

 そのまましばらく沈黙が続いた。オリガは、その沈黙を無理に埋めようとはしなかった。スープの器に浮かぶ油膜の形が、微かに揺れた。

 

 

 

 

 彼女が特異な”感覚”を有していることを確信したのは、私自身がそれと同様の能力をもってして共鳴したなどというわけでなく、単に外面的な行動からの推察によるものであった。サイキック。エスパー。ESP。彼女を分類するにおいて、これらは些か無機質に過ぎた。"感覚"はシイコにとってコミュニケーションのツールであり、主に気を遣うために用いられたから。

 

 訓練棟の食堂は朝食の色とともに、ささやかな喜びが巻き起こっている。同期たちが次の小休止の予定を口々に語っている。休暇申請の締切が近づいていた。

 連邦軍では週末の短期休暇に加えて、夏季および冬季に約二週間の休暇が設定されている。この期間は帰省が許可されていて、申請すれば移動費だって受け持ってくれる。

 多くの訓練生はこれを期に、コロニーをまたぐ移動を行う。実家あるいはリゾート地で、鬱屈した訓練から解放されるために。

 

「実家に戻るよ、妹の誕生日で。ケーキを焼いてやる」

「サイド6で遊ぶさ。この建物、いい加減息が詰まる。空気を入れ替えんと」

 

 誰もが、近づく休暇に僅かな希望を重ねていた。薄暗く錆びついた訓練施設に、ほんのひとときの陽射しが差していた。軍隊には若い者が多く、思い思いの楽しみを口にする。オリガもほとんど逃げ出すように離れた両親にもさすがに思うところがあったため、帰省で顔を出すつもりだった。飽きていたコロニーも、今で見れば新たな景色として楽しめる可能性に賭けていた。

 

 軍隊らしからぬ穏やかな空気のなか、聞こえるようにシイコが口を開く。それまでただ、マグカップの縁を指でなぞっていた。オリガは冷めたスクランブル・エッグをかきこんでいた手を止め、相席の彼女に目をやる。

 

「……次の休暇、申請するなら、来期のほうがいいね」

 

 場が静まり返る。彼女がそんなことを言うとは誰も思っていなかった。彼女は童顔と、似つかわしくない母性的、もしくは友愛的なやさしさで同期からは気受けしていた。その反動だった。

 

 なんだよ。次が取れるなら取るだろ。

 先のことなんか保証ないぞ、教官殿は気まぐれだから。

 

 何人かは笑った。だがその笑いには、どこか不安がにじんでいた。シイコの声が、あまりにも静かで、確かだったからだ。彼女の感覚が特異であることに感づいているのは私だけでない。彼女の妙な才覚を実感していない人間はいない。

 

 席を発ち、カウンターのメーカーでコーヒーを二杯注ぐ。出戻って、シイコに一杯を手渡した。香りと苦みを好むわけでなく、何となしの慣習で毎朝に摂取している。シイコも拒まないため、機会があればついでで用意していた。

 

「そういう予感とか勘って、文章で聞こえるの? 啓示?」

「ううん。なんとなく、よくない気がするの。言葉じゃないわ……悪い出来事に巻き込まれるやつが出る」

 

 それ以上は何も言わなかった。理由も。根拠も。ただその目だけがこちらを見ていない。遠く見えない何かを見ている。

 

 彼女の言葉を信じる理由はなかった。だが、信じない理由もなかった。彼女の言葉はこれまでも、どこかでこちらを救ってきた。大げさだが、小さな助言の一つ一つが、死の気配を遠ざけてくれたように思えた。だから申請書の「次期休暇」の欄を空白にした。

 

 教官は眉をひそめる。「余計な遠慮はするな、取れる時に取れ」。オリガはただ黙る。彼のシワはさらに深まる。最後まで怪訝そうだったが、やがては肩をすくめた。

 

 

 

 他バンチ行きのシャトルの一便が予定を大きく逸れた。突発的なデブリベルトの接近で、大幅な航路変更を余儀なくていた。休暇を取った同期たちの一部は、まさにそれに搭乗していた。

 コロニーの軌道上で緊急停泊。帰還が遅れ、予備食料も切れかけ、乗客たちは数日のあいだ機内の簡易冷却室で過ごさざるを得なかった。

 ニュースが各々の公報端末に流れる。誰もが沈黙する。『負傷者は確認されておりません』。言葉が余計に危うさを際立たせる。それに言及する必要があるのだから。

 

 戻ってきた同期はやせ細り、目の下に深い影を落としていた。一人が悪夢と吐き捨てた。別シャトルを利用していた者はまず同情した。次に、偶然にも災難を避けた己の運に息をついた。

 

 オリガは休暇の間、宿舎でシイコと整備訓練の追加課題をこなし、短期間だが推進制御の補習に志願していた。偶然にも、それは後の推薦の際に役立つ知識となった。二人の成績はわずかに上がり、上層部の記録に加点が残される。残りの日々は、管轄区内の商業区に二人で赴き、当たり障りなく暇を潰した。

 

「助かった、というのは彼らへの嫌味になるのかな」

「私の前でそれを言うの? でも、オリガが無事でいたのは嬉しいな」

「それ、私じゃなくても言う?」

「素直じゃないね。でも、オリガのお陰で寂しくなかったのは本当だよ」

 

 オリガは誰にも言わなかったが、胸の奥で小さく感嘆した。心を読む読まないに限らず、彼女の良さを思い知った。かの朝のシイコの目を思い出した。何かを見通す目。誰も気づかない波を感じ取る目。ただ、次に彼女が同じ眼差しを見せるたび、その声に耳を澄ますだろう。

 

 それだけだ。

 

 

 

 

 次期航宙士官候補課程への推薦内定を事務棟にて告げられた際、オリガは候補者リストに記載されたシイコの名前よりも、むしろ己の名前が載っている事実と、自分という肉が内包している普遍さとのまったくのかみ合わなさに奇妙な違和を覚えた。

 

 航宙士官課程は、連邦軍の航宙部門における初期戦力要員を育成する専門訓練であり、一般訓練生の中から選抜された候補生が、実戦想定下の模擬戦闘、宇宙機動、対艦管制、航法理論、推進機整備、環境適応訓練などを段階的に履修するプログラムであった。基礎訓練において精神耐性と空間認識、機器操作の連携項目で高スコアを出した者が中心に候補となり、一定数は実機課程修了前に前倒しで上層部の人材マッピングに引き抜かれることもある。

 

 特別で、ユニークで、普通でない。

 

「貴官は第5訓練戦群に再配備される。書類は端末で確認の上、今日中に電子署名を済ませるように」

 

 オリガの中で言葉は跳ねなかった。心には空白だけが広がっている。オリガは歓喜という感情を忘れたようだった。もとより喜びを覚えにくくあったが、状況にふさわしい情動が沸き上がらないのは、人としての欠陥でないか。

 

 候補者のリストに再度視線を落とす。自分の名前のすぐ下に、ある名前が並んでいる。■■ シイコ。オリガは安心を拾った。そうでなければ不自然だ、とすら思った。彼女が候補に選ばれない理由はどこにもなく、けれど、その名前が自分のそれと隣り合って表示されているという、その単純な事実が、今になってオリガの呼吸をひとつ深くした。

 

 廊下に出る。天井灯の照明は変わらず等間隔に配置されていたが、その光がいつもより長く感じられた。重力のわずかなズレが足取りに波を作る。遠く格納庫から聞こえてくる整備用クレーンの駆動音が、鮮明に鼓膜を打つ。

 

 

 

 

 ──集合ぉ。整列ッ。気を付け! これよりセレモニーを執り行う。休め。呼ばれる者は前へ。オリガ・ゼームリャ。はい! シイコ・■■。はい! 貴君らは基礎訓練において優秀な成績を収めたため、第5特殊航空士官群に任命する! 任命された者は、任務に忠実であることを誓うか? 誓います。誓います。任命証授与! 隊員、礼。なおれ。元の位置。これにて、セレモニーを終了する! 国旗降納、用意! 国旗にィ敬礼! なおれ。元の位置。以上をもって本日のセレモニーを終了とする! 各隊解散! ──

 

 ワッペンのシルエットが変わった。襟章にエンブレムが加わった。書類上の属性が変わった。しかし、肩書だけだった。世界に記録されている"オリガ・ゼームリャ"と、実際の内包物とであまりにも大きい隔たりがあった。あるいは、その乖離を埋めることこそ私の仕事なのか。

 

「嬉しくないの?」

「自覚してない才能で、なおかつ志望していたことでもないから」

「知らなくても、ふつう認められたら喜ぶと思うけど」

「期待に答えられるかどうかの不安が勝る」

 

 把握していない面で評価されたとて、困惑が大きい。反射神経? 判断力? G耐性? されど、断る気力もなかった。ただ分不相応という謙遜だけが先立つ。おそらく傲慢で、生温い考えだが、私は自分のこととなると神経質だった。過ぎた。

 

「けっこう、評価とか気にするんだね。オリガはそういうのないと思ってた」

「ニュータイプでもわからないのか」

「なにそれ?」

 

 怪訝を見せるシイコ。端末を見せる。──5月27日未明、ジオン共和国管内・ガーディアン・バンチにて、地球連邦軍第54連隊の駐屯部隊が、士官学校徒の武装集団により急襲され、主要な武器保管庫ならびに通信設備を一時的に掌握され──駐留軍は私財徴発のち完全撤退──連邦軍上層部は本件を「事実上の敵対行為」とし、再発防止のための兵力再配置を検討──「人は宇宙に適応する中で、意志と意志が直接触れ合い、新たな精神領域へと至る。ニュータイプとは、単なる変種ではなく、人類の未来そのもので」──抽象的理想主義と見なされていたこの言説が、いまや一部過激派により旧来体制からの決別を象徴する言葉として引用され始め──。

 

「これはただの願いでしょう。私はこんなのじゃないよ」

「私はこれだって思ったけどな」

「友軍の悪評で? オリガってけっこう不真面目」

「わたしの道徳には背いていないから」

 

 ニュータイプ。新しいやつ。では我々は? 旧人類でオールドタイプか。宇宙に上がって一世紀も経たずして、ヒューマンビーイングは有利な変異アレルを獲得したらしい。オールドは淘汰されるのか、それともオールドが新しく変質するのか。いずれにせよ、隔たりは大きい。

 

 NTはこうやって言葉を交わす必要もなく、思惟によってのみコミュニケーションをとるのだろうか。さすれば、これは彼女にとって偽物の、言葉遊びに過ぎないのか。

 

 そうであっても、触れ合ってくれる彼女を想うと、少し心温が高まった。

 

 

 

 

 感情は、ある日突然に輪郭を持ったわけではない。ただ、長い間、何かの影のように傍らにあって、見ないふりをしてきたものが、ふと光の角度のせいで露わになる──それだけのことであって。

 

 シイコと肩を並べて食事をとる。訓練で同じ隊列に入り、彼女の何気ない笑みを受け取る。胸の奥で温かく膨らむものがあった。それが何であるかを認めるのは簡単だったが、認めてしまえば、もう自分は、かつての自分ではなくなると解している。

 

 祖母が存命だったころ、正教の聖像が壁にかかっていた。イイススの産まれにちなんだ西暦を脱した時代でも、ルビノフセクターは旧世紀の正教会の影響がカビのように定着していた。信心は年を重ねるごとに薄れているが、生まれ育った環境を否定することは困難である。

 

 男と寝るように女と寝てはならない。正教会は、結婚とは一人の男性と一人の女性の結びつきであるという、これまで常に教えてきた教えをこれからも宣べ伝え続けなければならない。彼らは同性愛への情熱に"苦しむ"人々に、揺るぎない貞潔と悔い改めの人生へと呼びかける。それは、キリストにおいて全人類が召されているのと同じ、貞潔と悔い改めの人生である。

 

 成長するにつれ耳に入るのは冷たい現実だった。幼いころ、同性への情愛を口にした若者が広場で石を投げられ、夜道で殴られ、二度と戻らないことがあったと聞いた。法律は黙殺し、共同体はそれを秩序の維持と呼んだ。リンチという言葉すら、咎めを帯びた響きを持たなかった。

 そもそもの話、コロニーには連邦が定めた同性愛規制法が課せられている。表向きは「公序良俗の維持」を目的としたもので、実際には婚姻や養子縁組の権利を奪い、職務上の配属や昇進に制限をかける暗黙の差別が含まれていた。

 それらは、法文の端に小さく刻まれた注釈のように、生活のどこかで突然、牙を剥くのだ。

 

 自分が彼女に向ける視線は、神の戒めにも、共同体の慣習にも、法にも触れると知っている。分かっている。それでも、胸の奥で彼女の笑みがやさしく瞬くたびに、心の奥の冷たい部分がほんの少しだけ溶けることを自覚した。オリガは存外に己がウェットであると自嘲した。

 

「いけないんだよ、こんなの」

 

 オリガは膝を抱える。ふくらはぎに埋もれた頬がじっとりと濡れているのを感じた。自分が、自分のままではいられなくなるような。恋ではない。恋であってはいけない。友情だ。戦友だ。同じ志を持つ者だ。そう思いこもうとするたびに、シイコの手の温度が思い出されてしまう。

 

 ──これは、どうしても抑えられない。

 

 諦念だった。シイコの声は耳に柔らかく、彼女の手が自分の腕にふと触れるたび、内側の血がせり上がってくるように感じられた。だが、その熱を表に出すことは許されない。出せば、すべてが壊れると分かっているから。

 

 夜、ベッドに横たわり、天井の薄暗い陰影を見つめながら、オリガは祈りの言葉を口の中で転がした。だが、それは神に救いを求めるためではなく、せめてこの感情が夢のように朝には消えていてほしいと願うための、形ばかりの祈りだった。

 そして朝が来るたび、それが消えないことを知る。

 

 

 

 

 

 夏季休暇だった。降下ゲートを抜けた瞬間、人工重力のわずかな変化と、空気の甘い匂いが鼻をかすめた。飛び出すようにコロニーを出て以来、オリガは一度たりとも両親に顔を見せていなかった。その後ろめたさと、生誕から18の年月を重ねた記念性が、オリガを帰郷に導いた。

 

 迎えに来た父は、以前より背筋が丸まっていた。静かな面差しは変わらなかった。なんとなくきまりが悪くなって、聞いた。"元気? " うん、という返事が返る。

 そのまま特筆すべき会話もなしに、サブウェイを利用して、二年ぶりの家へ辿り着いた。相も変わらず手狭な集合住宅だったが、以前ほどの閉塞感はない。私が変わったのか、建物が変わったのか。母は入り口で待っていて、私を見るなり口角をいっぱいに上げた笑顔で抱擁を求めた。オリガは母の情緒的なところが苦手だったが、素直に応じた。

 

 夜。家族の食卓。肉と根菜の煮込み、母が焼いた黒パン。スメタナと手製のぺルメーニ(できあいの冷凍でない!)。軍の金属プレートに飽きていた。2年でこうも変わるか。メインが下がると、母は焼き立てのプリャーニキを食卓に並べた。私が頬張り、紅茶が尽きるたびに、母はサモワールからお湯を淹れてくれた。なんだか気恥ずかしくて、私は母をあまり見れなかった。

 

 食後、父が棚の奥から古びた瓶を持ち出した。ラベルは擦れて文字が半分消えている。オリガには父が酒飲みという印象がなかった。これまで酒という液体に魅力を感じず、また触れてこず、そのために認知できなかったのかもしれない。

 

「飲む?」

 

 父の問いにうなずく。琥珀色の液体が、もう一杯のグラスに注がれる。滑らかに流れ、グラスに溜まろうとも、一定の流れがあるように見えた。鼻を近づけると、少し焦げた木の香りがした。一口含む。熱い。唇を起点に熱が皮膚に浸透し、じわりと舌の奥を焼き、やがて柔らかな甘みが追いかけてくる。思わず咳き込むと、父は笑ってうなずいた。

 

「強いだろう」

「……かなり」

「いずれ、つるりと飲めるようになる。ここの住人ならなおさらだ」

 

 それが冗談か本気か、判じかねたまま頷いた。

 ごくりと再度飲み下す。相も変わらず焼かれるようだった。大人というのはこれを美味く飲み干すらしい。ことによると、これはかつての抜歯とかの、成人になる関門と言えるかもしれない。すくなくとも、今の私にはクワスのほうがよほど好みだ。

 

「私は、もっと早くに飲んでいた……その上で、これだけは言わせてもらう」

「……なに?」

 

 物静かで、されど地に根付いた樹木を思わせる人だったから、なにか叱咤された覚えも、がなられた経験もなかった。激動というよりは、毅然であった。いつにない父の真剣な様子に、オリガは思わずつばを飲んだ。

 

「ウォトカだけはやめておきなさい。あれはヒトとしての質を下げる」

 

 オリガはすこし拍子抜けするとともに、近所に住んでいた呑んだくれを思い出した。思えば、彼の手にはいつも透明な液体で満たされた瓶が握られていた気がする。父にもそのような時期があったのだろうか。

 想像する。若いころの父。日中は機械油に、夜は低品質のアルコールにまみれる。しかしそんな日々のなか、とある女性と出会う。その女性こそ、後のオリガの母親で──気持ち悪くなって、やめた。

 

「まあ、なんだ。一人娘がちゃんと生きているのなら、なんだっていい」

 

 父は優しい。軍属という身を心配してくれている。すこし無愛想ではあるけれど、揺るがない愛情をしっかり抱いていることを理解している。

 お父さん。わたし、男を愛せないかも。こう打ち明けたら、父はなんと返すだろうか。きっとすべて受け入れてくれるだろう。お父さん、あの。幾たびか口を開きかけて、つぐんでしまった。オリガは静かな失望を抱いた。理性とやらが、感情を冷ややかに見ていた。

 

「母さんにも、なにか言ってやりなさい。つねにニュースを見て心配がっているのだから」

「まさか……戦争になんてならないよ」

「それならいいけど、ジオンとやらはどうだ。最近キナ臭いらしいじゃないか」

「さぁ、私の学校はサイド3から遠いから」

 

 サイド3の軍備増強で緊張が高まっていることは聞き及んでいたが、誰も大事に、ましてや大戦争になることなど考えていなかった。ましてや、訓練生であれば。

 

 帰省の最終日で、母は布張りの小さな手提げをテーブルに置いた。中には透明な樹脂袋が幾重にも重なり、その中にさらに真空パックの小箱や缶が詰められている。カシャ。水を加えて温めるだけで食べられるから。母は袋を開けずに撫でながら説明した。隣には、黒いラベルの小瓶がいくつも並び、蓋には封印用の赤いバンドが巻かれている。

 

「蜂蜜漬けのクランベリー。これも、ちゃんと真空にしてあるから」

 

 オリガは思わず笑いそうになった。軍の持ち込み規定は、衛生検査や爆発物検知を想定しており、開封済みや自家製の食品はまず通らない。だから両親は、数日前から業者に頼み、すべてを工場封入の体裁に整えていたのだ。

 

「アルコールは……駄目だな」

 

 父が小さく肩をすくめ、代わりに乾燥させたハーブティーの袋を手渡した。父は別の包みを差し出した。重みのある金属缶で、蓋には刻印がある。

 

「コンデンスミルクだ。訓練の合間に少し舐めると元気が出る」

「でも……検疫で引っかからない?」

「製造番号と封印は本物だ。あとはお前の申請の書き方次第だ」

 

 冗談めかして笑うが、その声には少しだけ寂しさが滲んでいた。

 荷物は、軍の規定に従い一つ一つに申請ラベルを貼らねばならない。内容物、製造年月日、原産地、そして輸送経路。母は几帳面な字で記入してくれたが、オリガはそれを見ながら、次にここへ帰る日がいつになるのかを考えていた。

 父が不意に言った。

「ニュースじゃ、またサイド3の情勢が騒がしいそうだな」

 その言葉は、淡々とした口調のまま、壁面パネルの朝焼けよりも冷たく響いた。

 

 

 

 

 

 

 

 恋と呼んでしまえば、あまりにも露骨で、幼稚で、口にした途端に形を失う。けれど、そう呼ばずにいられるほど、冷静でもなく。

 シイコとシミュレータに詰められていた。協同訓練だった。区画の空気は整備油と消毒液の匂いが混ざり、人工光は白く硬く降り注いでいる。基礎操縦課程の繰り返し──指先のわずかな癖まで教官に監視される。退屈でいて苛烈。彼女と並んでこなすだけだった。はずだった。

 

 視線が交わるたび、奥が不規則に跳ねた。シイコの目は淡々と計器を追い、教官の指示を受け、時に私に目くばせし、次の動作に移っていく。何気ない瞬きの一つひとつにオリガは実のところ怯えていた。見透かされているのではないか。知られて、軽蔑されているのではないか。いずれ、拒絶されるのではないか。彼女の"感覚"であれば、造作もないゆえに。

 

 想像は、訓練用コクピットの中で機器音よりもはっきりと響いた。それでも、シイコの口調は以前と変わらず、冷たすぎず、馴れ合いすぎず、必要な言葉だけを差し出してくる。冗談を言う時の間の取り方も、笑うときの頬の動きも、何も変わっていなかった。

 そこに安堵を覚える自分と、安堵してしまうことに恐怖を覚える自分が同時にいて、そのせめぎ合いが一秒ごとに重く積み重なった。

 

 シイコが受け入れてくれたのか、それとも気づいていないのか、その境目は霞がかっている。明確な答えはどこにもない。それでも今、この瞬間、同じ訓練場に立ち、同じ空気を吸い、同じ手順を踏んでいる。身勝手な安寧は疑念を煙に巻き、消した。そうであるよう流れた。

 足元の人工床材の硬さ。背中に回るハーネスの締めつけ。妙に心地よく感じられる。今はただ、今だけに浸かっていたかった。先のことなど、オリガにとっては実悪でしかなかった。それに、もともと人生は害悪で満ちていた。

 

 オリガが浅薄な安堵とともに眠りについたころ、ジオン公国を名乗るスペースコロニー群にて、国家総動員令がほの暗い執務室より発動された。無論、迫り来る争乱の足音を、彼女が察知することはなかった。

 

 

 

 

 

 

 

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