月城柳エーテル浸蝕連載「Recording you」 作:あまき.
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分厚い雲に覆われ、月の見えない夜のことだった。浅羽悠真は対ホロウ行動部の羽織を片手に、覚束ない足取りで帰路についた。この上着は責任と同じくこんなに重いものであっただろうか。ぼんやりとそんなことを思いながら、気が付けば自宅へとたどり着いていた。
ベッドに上着を放り投げ、その隣にどかりと腰掛ける。足元には餌を求めて愛猫が擦り寄ってきたが、反応することもできない。俯いて、猫の小さな頭をただ呆然と眺めていた。
どれほど時間が経ったか、悠真は大きく息を吸い、そして吐いた。今まで呼吸を忘れていたような気がした。
動かなければ、記録をとらなければ。あの人が、目覚めたときのために。投げ捨てた青緑色の責任に手を突っ込み、手探りで目的の物を探す。指先に硬い感触がして、悠真はそれを引っ掴んだ。いつも腰に提げている四角い記録媒体──小型のカセットレコーダーをベッドサイドボードに置く。そして、またひと呼吸。
月城さん。あなたのためだと思って、これを残します。あなたの記録です。
ここにはいない
『本日、
淡々と必要な情報だけを列挙すると、悠真は再び大きく息をついた。
『現在時刻、
* * *
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『やむを得ないが、私はまだそっちには行けない。悠真、蒼角と、それから、柳をよろしく頼む』
スマートフォンから聞こえる雅の声はいたって冷静だった。
これもきっと修行の賜物だろうな。あらゆる行動を修行と称する上司の声色に悠真も合わせる。「了解しました。それじゃあ、また明日」
ああ、という雅の短い返事のあと、通話終了を知らせる電子音が聞こえ、悠真は画面に表示された通話終了のアイコンを押した。ふぅと息をつき、空を仰ぐ。
悠真は、柳の搬送された病院の中庭に立っていた。囲うように
──早く行こう。
悠真はスマホの画面が示した時刻を見て、急ぎ時間外出入り口へと向かった。
ヤヌス区管轄下にあるこの大病院は、エーテル侵蝕を受けた患者を多く受け入れられる病床数を誇り、特殊な処置を施せる先進的な設備が整っていた。
数日前、柳はここに運び込まれた。エーテリアスの攻撃による大腿部の裂傷とエーテル侵蝕を受け、意識不明の状態で。
そして今朝、彼女の意識が回復したとの一報が、対ホロウ第六課に入った。しかし悠真たちが駆けつけられたのは、昼を過ぎてからだった。
彼女が欠けていても、対ホロウ第六課としても仕事が減るわけではない。他課から協力を要請された任務をこなしたあと、報告をするために本部へと向かった雅と別れ、悠真は蒼角と共に急ぎ駆けつけたのだ。とはいえ、到着した頃にはとっぷりと日が暮れていた。
自動ドアの前に立ち、自分が通れる幅まで開かれると悠真はすぐに中へと入った。
入院患者や来院者に陰鬱な印象を与えないようにホテルさながらの内装が設られた院内ロビーを足早に横切る。外来診察時間も面会時間も終了していて人影はほとんどない。悠真は入院病棟へと繋がるエレベーターの前に立ち、忙しなく上りボタンを数度押した。銀色の扉の上で光る階数表示すら緩慢に思えて、急いて仕方ない感情を足先に込めて床を繰り返し叩く。
ようやく着いた入院病棟はロビー階と違い、質素で清潔感のある雰囲気が漂っていた。細かい傷の入ったリノリウムの床はアイボリー。壁は一様に白く、入院患者がリハビリで作ったのか、折り紙や絵が白い壁にところどころに飾られている。悠真にとっては懐かしさすら覚える光景だったが、郷愁に浸れる良い思い出は少ない。それに今は、自分の過去を慮っている場合でもない。
悠真は角を曲がる手前で急に足を止めた。リノリウムにスニーカーのゴム底が擦れ、甲高く短いブレーキ音が静謐な廊下に響く。柳の入院している病室はこの先だが、その前に荒くなった息を整えておきたかった。
これ以上、蒼角ちゃんを心配させちゃいけない。しかも僕なんかのことで。
悠真は壁に背中を預け、げほっ、げほっと荒い咳を数度。ひゅっぅと息を吸い、吐けば
何度かの深呼吸でようやく肩の上下運動が収まる。悠真は頭を振った。よし、もう大丈夫。体を弾ませ壁から離れると、足を踏み出し角を曲がった。
「あ、ハルマサ!」
病室の扉をノックしてから入り、最初に耳にしたのは蒼角の声だった。いつもと変わらない明るさはこちらの不安を拭い去ってくれる、漠然と柳の容体が安定して、回復に向かっているのではないかと思うほどに。
「ナギねぇ! ハルマサが来たよ!」
ベッドサイドに両手をつき前のめりになった蒼角が柳に声を掛ける。彼女はベッドのリクライニングを起こしていた。それまで蒼角のほうを向いていた赤紫色の瞳がこちらに向く。桜色の髪をほどき患者衣を着た彼女はぽかんとして首を傾げていた。メガネをしているというのに、その仕草は
そして、悠真の姿を捉えて瞬きを繰り返した柳はたったひと言。
「ハルマサ……?」
「な、名前?」
柳の優しい声が自分の名前を呼ぶ。
名前? なんで? 「浅羽隊員」じゃなくて?
悠真の困惑はすぐに嫌な予感へと変わった。彼女はそう簡単に自分の名前を呼んだりしない。
いや、今のは、呼んだと言うより、確認、みたいな。
ベッドの傍に近づくつもりだった足が、縛り付けられたかのように動かない。せっかく整えてきた呼吸がまた浅くなる。
「ナギねぇ?」
蒼角が不安そうに柳の名前を呼んだ。柳は「大丈夫ですよ。蒼角」と可愛い妹の白い髪を撫でる。
「つき、しろ、さん?」
悠真はその場で柳の名前を呼んだ。口の中はカラカラで、唾を飲み込んでからしか声が出せない。
名前を呼ばれ再びこちらを見た柳だったが、瞼を伏せ何かを考えはじめた。
あ、これは、と悠真は思った。彼女の仕草は些細なものだったが、それだけで覚悟を決めざるを得ない状況であることを理解した。
そして、柳が次に発する言葉をただじっと待った。胃の下がきゅっと縮むような感覚がした。
柳の瞼が開かれ、再び悠真を捉える。彼女はとても申し訳なさそうに眉を下げて──。
「すみません。貴方は一体どなたでしょうか?」
自信なさげな声が悠真の耳に届いた。
* * *
入院病棟の談話室に設けられたコワーキングスペースに入ると、悠真はテープレコーダーを机に置いて録画開始ボタンを押した。
『さて、前回は堅苦しい感じで記録したけど、ここから先はもうちょっと気楽に話そうと思います。だって、実際にこれを聞くのは、月城さん、あなただけでしょうから。それに、僕みたいな情報官でもなんでもないヒラ社員は、当然こういったことに慣れてないわけで。だから、えーっと、つまり、個人の所感にしかならなくて、あなたの参考にはならないかもしれないけど、それでも、記録します』
そこまで一気に話すと、悠真は机の上に置いた手をぎゅっと握った。そうやってしなければ、その場に自分の体を留めておくことができないような気がしてならなかった。
『まず最初に、意識が回復したのはよかったと思います。これは本当に、そう思ってます。それで、医師の話によれば月城さんの記憶喪失の程度としては、僕たち対ホロウ行動部第六課が結成する以降の記憶はほとんど欠落していました。だから、蒼角ちゃんのことは知っていたけど、雅課長は、課長じゃなくて、星見執行官って読んでたし、僕にいたっては──知りもしなかった』
録音ボタンを押して記録を止める。小さな椅子の背もたれ体を預け、悠真は黒く狭っ苦しく真四角の天井を見上げた。前髪を掻き上げる。
肺か、もしくは心臓が苦しい。一度に話しすぎたせいか、それとも発作だろうか。きっとどちらも違う。
「きついって……」
喉を震わせて空気中へと放たれた声は、掠れていた。
続