月城柳エーテル浸蝕連載「Recording you」 作:あまき.
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夜空に浮かぶ月さえホロウに喰われている。闇と月面が溶け合い、世界を照らす1.3光秒の輝きは、在りし日に比べるとおおよそ半分となってしまった。
それでも皆、あの月を美しいという。
悠真が思うに、この星に生きている者の月に対する認識は、半分になってしまったという絶望ではない。まだ半分もあるという希望的観測だ。突如現れ、世界を飲み込まんとする悪魔の住む空虚。それに抗う意思が感じられる。
抗う──それは死に
死に叛く──それは生への執着ということ。
生への執着──それは悠真の強い願いと同じということ。
多かれ少なかれ誰もが抱いている感情は、前へと進むための駆動力となり、世界を、社会を、残された楽園を、今まさに回して続けている。
諦めるにはまだ早いんだ。苦しくても、生きているならチャンスはあるはずだから。
柳が目覚めて三日が経つ。彼女の記憶は未だ戻っていない。
* * *
悠真は柳の病室に訪れていた。対ホロウ六課の副課長が入院するともなれば、当然のように個室。おまけにホテルのように広々といていて病院らしさはなく、ベッドの対面には小上がりの和室があった。近づけば閉ざされた襖の向こうから僅かにい草の香りが漂ってくる。柳が入院してから今日まで、蒼角はそこで寝泊まりしているらしい。ノックノックで連絡したときには、病院にいるというメッセージが返ってきたが、彼女の姿は見当たらない。どこかへ出掛けているようだった。
悠真はペットボトルのお茶とクラフト紙の袋をベッドテーブルに置いてベッド近くの丸椅子に腰掛けた。後ろにある窓は開け放たれていて、風が吹くたび消毒液によって上塗りされた患いの匂いを薄めていく。上の階だからか、ずいぶんと涼しい風が室内に入ってきていた。
「あんぱん買ってきましたよ。しかも副課長が好きなやつ」
悠真が室内に入ってきたときから、柳はベッドから起き上がっていた。彼女はテーブルに置かれた紙袋を持ち、描かれたロゴマークを親指で撫でた。
「これは、ルミナスクエアの隅にある小さなパン屋さんの早朝限定あんぱん、ですね」
「そう。さすがだなぁ。食欲があればどーぞ」
悠真が促すと彼女は「わざわざありがとうございます」とよそよそしいお礼を告げて、あんぱんを取り出し丁寧に両手で持って小さな口を開けた。ぱくりとひと口。ほんのり恍惚とした表情を浮かべ、口内でじっくり味わったあと、こくんと飲み込む。
「どうです?」
「相変わらずおいしいです」柳はペットボトルのお茶を飲んでから応えた。
「……それは良かった」
悠真はぎこちなく笑うと体ごと振り返り外を眺めた。
今日はまだ陽が昇らぬうちから憎らしいほどよく晴れて暑かった。開店前のパン屋に並ぶだけでほんのりと汗が滲むほどに。夏だから仕方ないと思うものの、もう少し手加減があってもいいじゃないかと悠真は思った。今は太陽が空の天辺を過ぎ青々しさがより一層濃くなる。この病室は見晴らしがよく、遠くにある大小のホロウが幾つか見えた。風が吹き抜け若草色のカーテンが靡く。
味覚は正常で、パン屋は記憶を失う前から来店したことがあったわけか。悠真は穏やかな室内には似つかわしくない分析をした。大腿部の裂傷から侵蝕を受け意識を失ったにも関わらず、この症状に留まっているのだ。これを幸運と言わず何と言う。後遺症が記憶喪失だけで済んでいるのなら、何かのきっかけで全部思い出すかもしれない。理性はそう訴えかけてくる。しかし、この身から外に出ようとする困惑を押さえ込むことに悠真は必死になっていた。ファンからの熱烈な声援や、上司の機嫌をとるために用意している外面を、今さら彼女に向ける想定などしているはずがない。それに、いきなり出会ったばかりの態度に戻ることなど、そう簡単なものでもない。
心満たされた記憶が多ければ多いほど、共に過ごしてきた時間が長ければ長いほど、リセットされてしまうと心は掻き乱されるものだ。
受け入れられないなんて文句を言ってられない。今は受け入れないと。
この三日間、仕事云々、体調云々に関わらず、悠真は常にぐらぐらと体の内部が揺さぶられているような心地だった。たいそう気持ちが悪い。ふいに吐き気を催すほどに。
──今の、ギリギリだったな。
悠真は口元を手で覆った。よそよそしい感謝のあと、素直にあんぱんを頬張って喜ぶ柳の姿に動揺した自分が確かにいた。変わった部分と変わらない部分を同時に見たからだ。窓の外から遠くにある小さなホロウが見える。口元から手を離し、そのホロウが飲み込めるくらい大きな欠伸をしながら悠真は伸びをした。体に取り込んだ爽やかな風が、
窓が開いていて良かった、と安堵する。こうして外を眺めていれば、困惑した顔を見られたりしない。ガラスにも反射されない。
「あの、浅羽執行官。いくつか質問してもよろしいでしょうか?」
浅羽執行官。懐かしくも聞き慣れず、心の柔いところを容赦なく切り裂く声が耳に入り、悠真は口から肺へと空気を取り込んだあと、ゆっくりと柳のほうを向いた。大丈夫、落ち着いて。悠真の背中を勇気づけるように風が病室へと入ってくる。
「いいですよ。ただ、僕が答えられることなら、ですけど」
さぁどうぞ、と悠真は手のひらを返した。
柳は「はい」と小さな相槌を打ったあと、口を開きかけ、そして閉めるを二度。
「一昨日、星見執行官。いえ、課長から様々な資料をいただきました。対ホロウ特別行動部第六課に関する過去の任務と戦果。皆さんのパーソナルデータです。それに、蒼角はたくさん勉強したノートと、素敵なイラストを見せてくれました。全てに目を通して、私は、私の知らない間にとてもかけがえのない時間を過ごしてきた、そう思ったのです」
質問というより、日記だなぁ。悠真は目を瞑って柳の話に耳を傾けていた。本当に訊きたいことを先延ばしするため、あるいは、他の者は自分お知りたいことを教えてくれたと予め伝えておいて、悠真からも知りたい情報を迅速に手に入れるためか。
きっと前者だろうな。悠真は腕を組んだ。柳はまた言葉を選んでいるのか、なかなか話が再開されない。病室が静寂に包まれる。
悠真は俯いて柳のほうを見ないようにしていた。きっと今の彼女はこちらの一挙一動を観察して情報として
「せっかく二人に色々と教えてもらったというのに、一向に思い出せないままです。ですので、手間をとらせてしまうと承知の上で、貴方にも協力をお願いしたいのです」
「だから、いいですよって言ってるでしょう?」悠真は瞼を持ち上げ柳を見た。「そんなご丁寧に理由を説明しなくても分かってますよ」肩を竦めてへらりと笑う。
「では、貴方は──私にとって、どのような人だったのでしょうか?」
「っ、」
悠真は声を詰まらせた。どのような? そんなの僕が一番知りたいよ。うっかりまろび出そうになる本音を悠真は唾と共に飲み込む。
「雅課長から渡された資料に書いてありませんでしたか? 僕らは同期だったけど、あなたが出世したことにより上司と部下になった。それ以外ないと思いますけどね。蒼角ちゃんや、雅課長より、よっぽど線の薄い関係ですよ」
事実を並べているはずなのに、心臓の半分を抉られるような心地がした。柳は・黙って悠真を見つめていた。本当にそうでしょうかと疑いの眼差しが彼女の瞳に宿っている。そういえばパン屋の軒先に咲いていた朝顔はこの
「そんなに見つめても僕の返答は変わりませんよ。資料以上のものは、僕らにはない」
悠真は低い声で柳に告げた。ちゃんと考えれば資料以外のことを言えるだろうが、正確に、かつ、彼女が満足する返答になりえるとは思えなかった。ただエゴだけを押し付けてしまうような気がした。
「貴方の遅刻と欠勤日数、それと持病の記述も相違ないと」
「当然でしょう。でも、それは知られたくなかったかな〜」
とぼける。普段なら「もう」と呆れ顔でも見せてくれるものだが、柳は瞼を下げて自身の手元を見た、病衣から覗く彼女の手は元々細さからさらに骨が浮き出ていた。
あ、と悠真はそこで重要なことに気がついた。頬がこけてやつれているのは、ストレスによる影響も考慮してある程度は仕方がない。けれど末端が細ってきているということは、栄養不足による痩せが考えられる。
もしかして、本当は食欲なんてなかったのに、僕に気を遣ってあんぱんを食べたりしたわけ?
病院もとい、研究所生活が長く、かつ難病と折り合いをつけてきたおかげで頭に入った半端な生体知識が柳の抱える問題を悠真に理解させた。
何故早く気がつかなかったのか。理由は一つ。自分のことしか考えていなかったから。
一旦出直そうかな。
不甲斐なさと、重たく押しつぶされそうな部屋の空気に耐えられず、悠真は椅子から立ち上がった。
「月城さん、僕──」
部屋を出る旨を柳に告げようとして、小気味よいノック音が三回聞こえた。悠真は外の扉を見た。
「失礼します」落ち着いた男性の声がして、壮年の医師が扉を開けて部屋へと入ってきた。
「月城柳さんの担当医を務める友田と言います」
自己紹介をした恰幅のある男は、茶色い前髪を右に七、左に三ほど分けて、うなじはサッパリと刈り上げており、メガネを掛けていた。糸目なせいで真剣な面持ちなのか笑っているのかはよく分からない。彼は白衣姿で首に聴診器を巻き、バインダーを手にした如何にもといった風体で、穏やかそうにゆっくりとこちらに近づいてきた。
「どうも」悠真は軽く会釈をした「僕は彼女の同僚で」
「対ホロウ行動部第六課の浅羽悠真執行官、ですね。お会いできてよかったです。ちょうど貴方か、星見雅執行官にお話がありましたので」
執行官。医師という身分であれば、それが誰であれ一人の人間として扱うために平等な敬称をつけたりするのではないか、そんなことを悠真は思わなくはない。ただそれは一般的な話。男が悠真たちの組織における役職をつけたのは、ここがH.A.N.D.と業務連携先であることをもちろん、彼自身が悠真や雅の存在をどう認識しているかということを伝えるには十分だった。少なくとも組織内で呼ばれ慣れた名前と役職の羅列を、一塊のファンが愛称として呼んだりはしない。
「別室まで来ていただけますか」
医師がわざわざ関係者にしたい話。しかも別室ともなれば本人にも聞かれたくないもの。悠真は少し顎を引き、「分かりました」と応えると彼と共に部屋を出た。部屋を出る前に後ろを振り返る。柳が会釈のように小さく頷いたのが見えた。あとでまた話したい、悠真にはそんな意図があるように思えた。
ナースステーションの隣に設けられた小部屋は、机にノートパソコン、デスクチェアが二脚だけという簡素なものだった。病院特有の込み入った話をするためだけに設けられているのだろう。
「月城柳さんのここ三日間の病状についてですが」
自らはノートパソコンの前にある椅子に座り、その向かいの椅子に悠真が腰掛けた瞬間、医師は早速とばかりに柳のことを話しはじめた。電子カルテが開かれているのか、彼はこちらを見ずに画面に向かい上から下へと視線を動かしている。
「どちらにしろ長い話になるのですが、良いお知らせと、悪いお知らせ、両方あります」
どちらが先に聞きたいですか? そう質問を投げかけた友田は画面から目を離し悠真を見た。ふざけて映画の真似がしたいといった雰囲気ではない。眼鏡越しの糸目は僅かに開かれ、神妙そうに眉を寄せている。
「悪いほうで」
悠真はすぐに応えた。どちらにしろ情報の価値は変わらないが、気分が上がる話は後にしたほうが希望を見出せる。
「分かりました。少し振り返りますが、今回、彼女のエーテル侵蝕は海馬を中心としています。これは、意識が戻ってすぐに判明したことですね。記憶喪失が分かりやすい所見でした。これは暫く続くと考えられます」
医師の声は抑揚がない。悠真は唾を飲み込んだ。柳が目覚めたときに困惑した表情でこちらを見た光景が思い浮かぶ。胃のあたりがきりきりと痛んだ。
黙り込んでいる悠真を見ながら医師は話をつづけた。
「彼女の病状は寛解と再燃を繰り返しています。しかも日内変動に応じているのです。そして、再燃する度、非常に緩徐ではありますが、増悪しています。ですので、我々は彼女の状態はエーテル侵蝕による不可逆的な後遺症ではなく、今もなお侵蝕を受けている、そのような位置付けのほうが適切です。色々な検査結果についてはこの後話しますが、現状の調査では症例のない、極めて稀な──特殊なエーテル粒子の関与が考えれます」
「悪いどころではなく、最悪じゃないですか」
侵蝕しきった人間の末路がどうなるかなんて、分かりきっているでしょうに。といった皮肉をかろうじて飲み込み、悠真は男を見据えた。まだ良いニュースを聞いていない。文句を言うにしても話が全て終わってからのほうがいい。
そうですね、と応えた医師は細い目でゆっくりと瞬きをした。
「次に、良いお知らせですが、精密検査の結果、この特異的な侵蝕は可逆的ではないか、ということです。……浅羽さんは、エーテルというものが人にとって第二、第三の血液や髄液であるという説をご存知でしょうか?」
「聞いたことくらいは」
悠真は大きな嘘をついた。エーテル適正減退症候群という疾患から脱しようと足掻くなかで、エーテルについての生物学的観点を述べた論文を読み込んだことは何度もあった。
この先生が言う文言を目にしたのって、たしか、免疫分野のことを調べたときだったっけ。
社会において生活の礎となりつつも人の体内を侵すエーテル粒子は、脊髄や血管に関わらず身体中を駆け巡り、詳しい原理は不明だが体内で抗体のようなものを生み出している。その量によってエーテル耐性には個人差が生じている。
つまり(あくまでも生物学、免疫分野において)エーテルについて解釈するなら、身体中を駆け巡るため、血液。抗体を生み出すきっかけになるため、髄液。既存する人間の生態に馴染むよう、そういう例えを用いても差し支えはない、そういう論文はいくつもあった。
全体の認識を統一させるための呼称について述べる内容を主目的としていたが、髄液というワードが出れば悠真に読まないという選択肢はない。
「それで、その説と良い知らせにはどんな関係が?」
悠真の問いに目の前の男は自身の顎に手を添え、まるで髭があるかのようにさすった。
「ニムルドホロウにて、月城さんの体内に侵入した特殊なエーテル粒子は、昼間は海馬に吸着し、日没と共に動き出し、体中を巡っています。しかも一個体の生き物を形成しているかのように粒子同士が凝集しているのです。吸着と凝集を繰り返す性質……これは、とある優秀な教授の仮説ですが、もし条件を満たす抗エーテル剤を作ることができれば、もともとの体内にあるエーテル粒子と、このエーテル物質とを完全に分離し、体外へ排出できるかも知れません」
「そんなことが」
できるわけない、そう腰を浮かしかけて悠真は椅子へと体重を預けた。
可能性はゼロではない。ニムルドホロウはあのメリノエホロウを生み出したプルセナスホロウを原生ホロウとしている。メリノエのエーテル侵蝕は魂と呼ばれるものには侵蝕しない。加えて幻覚作用を持ち合わせている。もし、ニムルドホロウのエーテル粒子も同様の性質を持っているならば、柳の負った傷から海馬に到達し、記憶に関与、そして、本来侵蝕すべき無機物を探して体内を彷徨っている、と言われても──完全に納得はできないが、そうかもしれない、くらいは思えた。
でも、だとしたら。悠真は僅かに震える唇を開いた。
「もしかして、月城さんは記憶喪失ではなく、僕と出会う前の過去の幻覚を見続けている、というほうが近かったりしますか?」
僕と出会う前、私情が混ざった質問をしてしまったことに、悠真はしまったと思ったが、友田はとくに気にするでもなく「そうですね」と応えた。
「私は悪い知らせで、寛解と増悪が日内変動に応じている、そう表現しました。というのも、昼間、記憶が欠落した彼女はベッドで静かに過ごしています。しかし、夜間は院内を徘徊をし始めるのです。自ら車椅子に乗って。この三日間は泊まり込んでいる蒼角さんが連れ戻しています。『ナギねぇは、どこかに行きたいみたい』これは蒼角さんが一所懸命に私に教えてくれたことです。海馬からエーテル粒子が離れている状態の月城さんの様子は、彼女が一番よく知っているはずですよ。もしかしたら記憶が戻っているのかもしれません」
「な、」
悠真はその後の言葉が続かなかった。なんで、どうして。後悔に繋がるような言葉をいくら吐いたところでどうにもできない。この三日間、蒼角と会って話す時間などなかった。悠真は柳が本来するべき書類業務をこなしていたからだ。今朝になってやっと隙が生まれて、今にも寝込みたい気持ちを抑えてここに来たのだ。
「今、私からお話できることは以上となりますが、他に何か質問はありますか?」
言葉を失う悠真に友田は訊ねた。
「……僕たちに、何かできることはありますか?」
ほとんど何もできないだろう、そう分かっていながらも悠真は友田に質問した。ホロウ内部のことならまだしも、特殊な抗エーテル剤の開発に関して悠真の知りうる知識が専門家のそれ以上に活用できるとは思えない。
医師は顎をさすっていた手を止めて膝の上に置いた。再び目をうっすらと開きこちらを見据えている。
「プルセナスホロウの共生ホロウということは、非常に特異的な性質を持つホロウと同義です。他のホロウ以上に何が起こるか分からない。抗エーテル剤を急ぎ開発するにしても情報が少なすぎます。今回の作戦、月城さんと最後に通信を行っていたのは、浅羽さん、貴方であるという報告を本部から受けています。もし何か貴方にしか知り得ない情報があれば教えてください」
それと、と言った友田はゆったりと体を背もたれへと預けた。彼の後ろで重たそうに椅子が軋む音がする。
「これは大きなお世話になりますが、貴方も休息をとるべきですよ」
「……そうですね。お話、ありがとうございました」
悠真はそう告げると立ち上がり、「失礼します」と言って部屋を出た。
扉を閉じたとほぼ同時にポケットからスマートフォンを取り出す。蒼角に「今どこにいる? 病院着いたよ」と絵文字付きで送った。「休憩室にいるよ」意外にもすぐに返事がきた。「そっち行くね」また猫の絵文字を選んで送信。「分かった」の返事を待たずに足早にその場を去った。
蒼角に聞きたいことは山ほどある。けれど、それ以上にやらなければならないことが山積みだった。少し話したら帰らなければならない。今は時間が惜しい。
悠真は、腰につけていたテープレコーダーを握った。
蒼角ちゃんからゆっくり話を聞きたいけど、さて、どうしたもんか。
廊下の角を曲がると、休憩室から顔を出し、手を大きく振る蒼角が見えた。悠真は手を振り返しながら病室を出るときに見た柳の顔を思い出していた。
* * *
蒼角は悠真から託されたテープレコーダーをコワーキングスペースの机に置いた。
「蒼角ちゃん、ほんっとーにゴメン。僕、ちょっと急いで出かける用事があるからさっ」
入り口を少し開いて顔を出した悠真は、申し訳なさそうに両手を合わせた。
「ダイジョウブだよ。蒼角に任せて!」
「さっき教えたボタンを押したら、あとは、この三日間あったことや、思ったことを言うだけ。ね。簡単でしょ?」
にこっと悠真は蒼角に向けて笑った。
「うん、やってみる。終わったらハルマサに返したらいいんだよね?」
「そーそー。明日の夜間付き添いは僕が変わるから、交代するときにちょうだい」
じゃあ、僕は行くね。そう言った悠真によって扉は締め切られた。
えっと、ハルマサがこのボタンを押したら録音が始まる言ってたから。きっとダイジョウブだよね!
蒼角が録音ボタンを押す。カチリと硬い音がしてカセットテープが回りはじめた。
『ナギねぇ! 蒼角だよ。あのね、ナギねぇはシンショクのせいで昼間のことは覚えてないかもだけど、蒼角が全部覚えているから大丈夫だよ。夜のことも、忘れちゃっても大丈夫! 今から話すから、全部治ったらこれを聞いて思い出してね』
そこまで話した蒼角は、テープがしっかりと回っているか無性に心配になってきた。レコーダーについた小さな窓を覗き込む。テープがしっかりと回っていることを確認すると、ほっと息をついた。自分にも何かできることがあると悠真に託されたこの仕事は精一杯全うしたい。全うしたいという気持ちが前のめりになり、緊張して、ドキドキと緊張の音が体中に響いていた。
『ナギねぇは、昼間は色々思い出せないみたいだけど、夜になると、全部思い出すんだよ。それで、ボスのことも、ハルマサのこともすっごく心配してる。とくにハルマサが体を壊してないかってずっと言ってるよね。ハルマサはね、今とっても頑張ってるよ。どんな感じか知ったらナギねぇはきっとビックリすると思うな。……うん、ハルマサって、いつも蒼角がフアンになると大丈夫ってたくさん言ってくれる。ホント優男だよねぇ。ナギねぇがシュジュツしているときも、ずっと傍でダイジョウブって言ってくれてたよ。でも、あのときは、ハルマサのほうが全然ダイジョウブって顔してなかったんだぁ』
あっ、と蒼角は思わず声をあげた。慌てて録音停止のボタンを押す。この録音はきっと悠真も聞くだろうということをすっかり忘れていた。悠真のことだ、自分のカッコ悪い話ばかりしていることを知ったら、きっと恥ずかしがって柳に聞かせないだろう。
どうしよう。と、蒼角が手にかいた汗をシャツで拭っていると、ポケットの中に入れた予備のテープを思い出した。すぐに取り出してセットし直すと、再び録音ボタンを押す。一本目はこっそり持っておくことにした。
『あのね、ナギねぇ。ナギねぇは夜になるとたくさん思い出して、蒼角とお話ししてくれるけど、時々、昼間みたいにボーッとしてるんだよ。それで、蒼角がちょっと目を離すと、まだ足も治ってないのに立ち上がって出ようとしたり、立てないって分かったら車椅子に乗って何処かに行こうとするんだぁ。……ねぇ、ナギねぇ。夜に出かけようとしたナギねぇが『お母さんに会いたい』って言ってたけど誰のこと? シンショクのせいかなぁ? でも……、とにかく、怪我してるから会いに行くのは治ってからにしようね。出掛けても、何度も蒼角が連れ戻すからね。無理しちゃだめだよ。蒼角より』
これで、ダイジョウブかな。蒼角は首を傾げながら録音停止のボタンを押した。
続