月城柳エーテル浸蝕連載「Recording you」 作:あまき.
「当時の状況は把握しました。お忙しいなか、度重なる聴取へのご協力感謝します」
朱鳶が感謝を述べると、スズランのような飾りを身につけた女性が「お気遣いありがとうございます」と物腰柔らかに微笑んだ。彼女が顔を傾けると、深緑の葉に伝う露光のような前髪が揺れる。店名の朝露とはここから由来したのではないかと朱鳶は思った。
「他に私たちに伝えておきたいことなどはありますか?」
「そうですねぇ。サビザンボンプがすごく落ち込んでいて」
「はぁ……なるほど」
「毎日励ますのが大変なんです」
店主のランは頬に手を添えた。夕闇が濃くなるルミナスクエアの喧騒に紛れる彼女の嘆息には、はっきりと疲れが滲んでいた。
ひと月ほど前、ガーデンニングショップ朝露で盗難事件が発生した。犯行は深夜。店主のラン、従業員のサビザンボンプともに帰宅の途についたあとのことだった。盗まれたのは“ニネヴェ”という希少種の株が数点。生育が難しいことから高価であり、現在は朝露のみで販売しているという条件が揃ったため狙われたのだろう、という報告を朱鳶は初動捜査班から引き継いでいた。
「犯人は本当に見つかるのでしょうか?」
朱鳶が捜査用タブレット端末を起動していると、ランが声音を落として尋ねてきた。画面に向けていた視線をランへと移して眉を下げた。捜査が長引けば長引くほど、被害者側の不満が募るのは道理。その噴出口に立たされるのは自分たちのような捜査員だ。
朱鳶は、いくら相手を安心させるためとはいえ詭弁を弄することなどできない性分だった。代わりに心に寄り添った声掛けと真摯な眼差し。そして、ほんのりと希望が見出せる事実を添えるようにしていた。
「一刻も早く犯人を捕えられるよう捜査を進めています。すでに犯人の目処も」
「最近、モッキンバードの模倣犯が流行していますね。うちの被害も彼等が?」
こちらの話を遮ってきたにも関わらず、ランの声は落ち着いていた。彼女の妙な鋭さに朱鳶は小さく息を飲んだ。疲れた様子は変わらないのに、澄んだ泉を映したような瞳からは底知れぬものを感じた。
これは、班長の勘、というものですが。
以前、ビデオ屋の兄妹がひとり、朝露を手伝っていたことを朱鳶は思い出した。ブリンガーの件で信頼していた彼等に裏切られていたという事実が露呈したのを、今でも鮮明に思い出せる。大きな亀裂が入ったにも関わらず、和解を果たし、互いの立場から事件解決に至るという幸運に見舞われたことも。結果論だが、あの兄妹の人柄と類稀なる技術があってこそ今があると朱鳶は思っていた。
それに、盗まれた“ニネヴェ”も、士官学校の同期からその名を聞いたことがあった。虚狩りという栄誉ある勲章を胸に、日々ホロウに入る彼女は、最近、仲間が負傷したらしい。もとより切り札として単独任務に当たっていたこともあってか、他の課と彼女とでエーテリアスの討伐任務をこなしていると、後輩のセスから耳にしていた。
たとえ朱鳶が彼女──星見雅本人とゆっくり話がしたくても簡単には時間が合わない。互いの活躍はこうやって人伝に聞くことが殆どだった。加えて、治安局と対ホロウ行動部において互いに長を務める身分の二人が、裏で頻繁にやりとりしていることが間違った方向に広まらないとは言い難い。
物事には表と裏がある。自分自身でさえ、そうであるように。もしかしたらこの店もまた、朱鳶とは相対する役割を裏で抱えていたりしないか。
ダメダメ。なにごとも憶測で判断してはいけない。それにしても、セスくんは雅の様子を一体誰から──いや、これも今は考えなくていいこと。
「模倣犯の疑いはありますが、まだ断定はできません」朱鳶は思考を振り払うように頭を振った。「今回の再聴取は、これまでの被害と共通点があればと思い伺っている次第ですので」
「そうですか……いえ、そうですよね。すみません、こういったことは初めてで、つい気が急いてしまって。ニネヴェはとても高価な花でもあるので」
ランの口からさらに深いため息が零れる。
「お気持ちはお察しします。ですので、犯人逮捕に尽力してまいります」
「頼りにしています」
朱鳶が胸を張って応えると、ランのため息が不安から安心へと変わった。こちらのアプローチが伝わったことで自分自身もほっと胸を撫でおろす。 朱鳶は手にしていたタブレット端末に目を落とした。相変わらずロード画面から進んでいない。端末用のペンで画面を突いてみる。やはり変わり映えしない。
旧式モデルといっても一つ前ってだけなのに。
今朱鳶が持っている端末は、代替品として支給されたものだった。普段使用しているものは、先日起こったホロウ災害にて機器不良を起こしたモデルだったため回収されていた。点検後、異常がなければ返ってくる予定だ。
何度を突いても無反応を貫く有機物の板に、今度は朱鳶がはぁと疲労の混じった嘆息を吐いていると「あら」とランが声を上げた。「いらっしゃいませ。今日は珍しい人がよく来ますね」
珍しい人。そんな感想を口にされるとは一体どういう人物かと朱鳶は振り返った。
そこには、一人の青年が気まずそうに立っていた。
彼は暗闇のなかでも目立ちそうな金色の瞳と、襟足と前髪を少し伸ばした柔らかそうな黒い髪をしていた。服はワイシャツにスラックス。いつも身につけている黄色いハチマキも、腰に巻きつけた青緑色の羽織もないが、雑誌や報道番組で何度も見たことのある整った顔立ちで、知る人が見かけたならすぐに分かる。つい先ほど思い出していた友人の同僚。
朱鳶は記憶を辿った。彼の名前はたしか──浅羽悠真。
「奇遇ですね。シュエン班長」
近づいてくる悠真の足取りはどこか重たそうだった。「お仕事お疲れますです」
「お疲れ様です。本日の業務は終了ですか?」
「まぁ、そんなところ、ですかねぇ」
歯切れ悪そうに悠真は応えた。「お邪魔そうなら出直しますよ」
「いえ、構いません。こちらはちょうど終わったところですので」
ただ、少し問題が、と朱鳶が手元を見下ろすと、悠真も同じく視線を移し「なるほど」と、何かを察して相槌を打った。
「聴取って、盗難事件の?」
「よくご存知ですね」
「たまたまですよ。モッキンバードとか聞くと、つい色々調べちゃって」
悠真は人当たりの良い笑顔を向けてきた。なるほど、これがアイドル六課、と朱鳶は納得する。彼が持つもともとの性分もあるのか、自分の後輩とは違って人の懐に入るのが上手そうな青年だった。絆されて仕舞えば要らぬ情報も彼に伝えてしまう人間はきっといるだろう。H.A.N.Dで第一線で活躍する人間なら、奸計もお手のもののはず。隙もなく、食えない男性だと思った。きっと他の人間からも彼はそういうレッテルを貼られているだろう。
「確かに私が追っているのは模倣犯についてです。けれど、あなたは今私と雑談するためにこちらに来たわけではないですよね?」
「ごもっともです。僕はこれから上司のお見舞いですよ」
だから、と悠真はランへと視線を移した。「それ用の花を一つ見繕ってもらえます?」
「畏まりました。何か、ご希望の花はございますか?」
「希望の花……」
悠真の横顔は目元までかかる前髪のせいで朱鳶からは表情がよく伺えない。それでも彼の声色からは、迷いと憂いが滲んでいた。
「あれは売り物じゃない、ですよね?」
悠真は腕を組み、店先に並んだ植木鉢に視線を移した。そこには、立てられた支柱に青々とした蔦を這わし、心形の葉を広げ、白く大振りなラッパ型の花をいくつも咲かした植物が植えられていた。
彼の視線を辿ったランは「あちらですか」と残念そうに返事をした。
「すみません、夕顔は一日花ですので咲くと翌日には萎れてしまいます。販売はしていますが鉢植えのみで、お見舞いには適しません」
「なるほど、夕顔ね」
悠真の口振りは、購入できるかどうかより花の種類に注目しているように朱鳶には聞こえた。
「じゃあ、向日葵を必ず入れてもらえたら、あとはそれに合うやつを見繕ってください。できたら明るい色で。予算は特にないです。何の花を使うかはお姉さんのセンスにお任せで」
悠真の注文を受けたランは「分かりました。用意して参ります」と応えると店の中へと入っていった。
「あの花に何か気になることでも?」
朱鳶が問う。悠真はちらりとこちらを見たあと、ゆっくりと向き直った。
「大したことじゃないですよ。花束にできたりするのかなって、単なる思いつきです」
じっと朱鳶を見据える悠真からは、先ほどの迷いや憂いは感じられなかった。
「雅は今、単独で任務に出ていると伺っています」
「そうですね。課長を前線から外すなんてできないんで」
「……月城副課長の件は、お見舞い申し上げます」
月城という名前を朱鳶が口にした瞬間、悠真の眉がぴくりと動き、顔色が変わった。
「丁寧に挨拶まで、ありがとうございます」悠真は淡々と応えた。
「今は、あなたが彼女の代わりを?」
「優秀な副課長の代わりが務まるほど優秀じゃありませんが、たしかに今は僕が事務方です。そのせいでオフィスからなかなか出られなくって」
大変ったらない、と悠真は苦々しげに語ってきた。
月城副課長か、と朱鳶は以前ポートエルピスにて交流したときの様子を思い浮かべた。彼女は、常に背筋を伸ばし凛とした立ち姿をしていた。よろしくお願いしますと柔らかな声で握手を求められ、朱鳶も快くそれに応えた。論理的思考で話しも合った。食事に行けば楽しいかもしれない、そう思わせる女性だった。
「僕らの状況を知ってるってことは、セスくんから聞きました?」
「ええ、まぁ」後輩の名前を悠真から耳にして、朱鳶はなるほど、と合点がいった。「雅たちの話はあなたからでしたか」
「情報交換ですよ。ほら、この間のニムルドホロウで起こった災害。彼は救助班に参加したって言うから色々と話を聞いてたんです。通信障害のこととか」
「その件は肝を冷やしました。市民の救助がほぼ完了した段階で発生したのは幸運としか言いようがありません」
「逆にこっちはアレのせいで副課長と連絡が途絶えたから、こんなことになっちゃってたりして」
皮肉、そう思ったが、朱鳶はすぐに考えを改めた。それまでこちらをじっと見つめていた悠真の視線が足元に向いたからだ。仲間がエーテル侵蝕に遭い入院なんて不安に思わないわけがない。朱鳶は、幸運という言葉を使ったことを後悔した。
ああ、彼はきっと本気で通信障害のせいで六課がこのような事態になったとは思っていない。
終始隙がなく、食えない男だという印象だったが、さすがに今回は動揺を完全には隠しきれないのだろうと朱鳶は思った。少なからず自分に落ち度があったとき、何かのせいにするというのはよくある話だ。
悠真になにか声をかけようと朱鳶が口を開きかけたとき、「おまたせしました」とランが微笑みながら店から出てきた。彼女の手には悠真の注文どおり向日葵の花が入れられた小柄なブーケが抱えられていた。
「こちらでいかがでしょうか?」
「うん、良いと思います」
頷いた悠真は花束を受け取ると、朱鳶に「それじゃあ、失礼します」と告げ、フラワーショップから離れて行った。あ、と朱鳶は小さく声を上げたが、彼が振り返ることはなかった。
斜陽に照らされて橙に染まる悠真の背中を、ルミナスクエアの雑踏の幕がを覆い隠すまで、朱鳶はただ彼を見送った。
[newpage]
悠真が見舞いの花を病室の窓際に飾った途端、蒼角が腕を引っ張ってきた。「なに、どうしたの」と訊ねても、「いいから」と焦った様子で彼女は廊下をぐんぐんと進む。力の強い彼女にうっかり腕を折られないように必死に着いて行くと談話室に辿り着き、ソファに座らせられた。
「ごめんね、ハルマサ。あのレコーダー、勝手に貸しちゃった!」
悠真の隣に座るなり、彼女は尻尾と眉を下げてそう口にした。
「貸したって、誰に?」悠真は眉間に皺を寄せた。
「ナギねぇ」
「なぁんだ」
そんなことか、と背もたれに身を預ける。どうして柳がレコーダーを欲しがったのかはもちろん気になる。けれど、今はそれを蒼角に問うよりも、彼女の明るい表情を取り戻すのが先だ。
月城さんならきっとそうする。
「いいよ。気にしなくても。壊れちゃったわけでもないでしょ」
悠真はことさらに明るい声で蒼角を励ました。
「うん。でも、」
溌剌とした性格の蒼角が珍しく口をもごもごとさせる。悠真は彼女の顔を伺い、リンゴのように赤い瞳が左右に動く様子を伺いながら話の続きを待った。
「その……ナギねぇからハルマサのレコーダーをまだ返してもらってないの」
「じゃあ僕が直接返してもらうから、蒼角ちゃんは心配しなくていいよ」
小さい子をあやすような声で相槌を打つ。俯いていた蒼角の顔がぱっと上がった。
「わかった! ハルマサ、ありがと。あとね、まだ言わなきゃいけないことがあって」
「うん。どうしたの」
「ナギねぇから、絶対にハルマサだけに聞こえるところで話してって言われてて、ムズカシイ言葉で、えっと、『シュドウケンの取り合いをしている?』って」
「主導権……?」
どういう意味だろうかと考える。まず蒼角が柳の意図を完全に伝えられているとは考えにくい。仮に正しかったとしても、言葉通りにH.A.N.D内部の派閥争いについて話したかったわけでも、悠真のサボり癖について言及したかったわけでもないだろう。
「たしかに難しいね」悠真は腕を組んで首を傾げた。
「ハルマサでもそう思うんだ! でもナギねぇのことだから、きっと、とっても大切な意味があるよ」
「……そうだね。僕もそう思う。ありがとう、蒼角ちゃん」
他に気になったことはある? と訊けば蒼角は勢いよく首を横に振った。
「ダイジョウブ! 蒼角、あのレコーダーに色々とロクオンしたから、ナギねぇに返してもらったらハルマサも聞いてみて」
「わかった。それじゃあ、ここからは交代。今夜は僕が付き添うから安心して夜勤に行ってきなよ」
悠真が励ますと、蒼角は「うん!」と勢いよく返事をして立ち上がった。しかしすぐに、くるりと振り返る。
「ナギねぇ。今朝からずっと高い熱が出て苦しそうにしてて、でもお医者さんは風邪じゃないから安心して、戦ってるんだよって教えてくれたんだ」
だから、と言いながら息を吐いた蒼角の目元には、うっすらと透明の雫が溜まっている。彼女はまるで何か決心したように両手と握りしめ瞼を閉じると、胸いっぱいに息を吸い込んだ。「蒼角もがんばるね!」
それじゃあ、明日! と言って蒼角が手を振る。悠真も立ち上がり彼女に応えた。
「気をつけてね。怪我しないように」
「うん! 分かった!」
空元気だとしても、強くあろうとする蒼角に廊下は走らないようにねと注意を促すのは野暮に思えた。手を振って、「いってらっしゃい」と見送る。元気よく駆け出した青肌の少女の背が角を曲がったのを見届けてから悠真も病室へと向かった。
* * *
夜になっても柳は眠ったままで、高熱が下がることもなかった。ときどき苦しそうに深い息を吐いては魘される彼女を、悠真はただ見守った。
ときどき見回りに来る看護師から「友田はいない」と聞き病状の詳細を聞くことは叶わなかった。それ以外、病室を訪れる医療従事者は誰一人として悠真に浮ついた声をかけたりもせず、最低限の仕事をすませると足早にその場から去っていった。おかげでアイドル六課の斥候ではなく、一人の人間として佇むことができた。
廊下から人の気配がなくなった頃になって、やっと病室から出て自販機で水を買った。部屋に戻り小上がりに腰掛け、向かいのベッドへと眼差しを向ける。胃腸の蠕動が低下しているのか、最近はあまり食欲が湧かない。鳩尾に何かが痞ていた。
閉め損ねたカーテンの隙間から月が覗いている。ぼんやりとした光が真っ白いシーツの海を青白く照らす。彼女が潜ってできた緩やかな丘が、大きく波打つことはない。窓際の戸棚に上に置かれた時計の針が二本、天辺を指し示していた。
今夜は月城さんと話すのは無理かな。
柳に寄り添うベッドサイドモニターが示しているのは、規則正しい心電図の波形と底数値のパルスオキシメーター。そしてエーテル粒子測定器の赤々とした異常値。それらが等しく明滅している。薄らとした記憶だが、幼い頃に同じ機器が自分のベッド脇にも置いてあった。あのときはもっと分厚い箱型をしていて、通り道を阻む邪魔くさいだけの代物だったが。
あなたが生きているという証が、あんなつまらない表示だけなんて、誰も望んじゃいませんよ。
悠真は汗をかいたペットボトルを両手で握りしめた。まだ口すらつけていない透明な容器が、ぱりぱりと氷を踏みしめたような音で歪んですぐに元の形に戻る。手のひらで触れている部分だけが微温くなっていく。
発熱は、体内を侵す何者かを排除するために人が持つ武器だ。昼間に蒼角が医師から聞いたように、たしかに柳は戦っているのだろう。過去の幻影を見せられ、仲間のことを忘れても。
なんとかしてレコーダー、返してもらわないと。
月城さんは僕に何を伝えようとしているんだろう。
ぱきんっと最後まで凹んでいた部分が一際大きな音を立てて元に戻る。そのあとすぐに砂嵐みたいな音が耳に入ってきた。それが布擦れの音だと気づいた悠真は、勢いよく顔を上げ、腰を浮かせた。
ベッドへ駆け寄る。柳の瞼が薄らと開いていた。
「つきしろさん?」
悠真の呼びかけに柳が「んぅ」と口を閉じたまま唸る。「はる、まさ?」
「浅羽です。調子は、どうです?」
任務中の通信応答みたいな返事をする。なんだか久しぶりに声を発した気がした。粘性の高い唾液を飲み込む。買っただけで水を飲んでいなかったからか、喉がカラカラに渇いていた。
「調子……」
眼縁が完全に持ち上がり、赤紫色の夜開草が二輪咲く。それを月光が淡く照らす。悠真は柳の瞳を見ていたが、彼女がこちらに焦点を合わせる様子はない。
「すみません」柳の手がふわりと悠真のほうへ伸ばされたが届くことなく宙を掴む。「どういうわけか、眼が、見えなくて」
悠真は思わず彼女の手を取った。細い指先までも高熱を蓄えている。いつだったかホロウの中で幼児を救助した際に掴んだ手と同じ温度だった。
「それって、侵蝕の影響で」
「おそらくは」
悠真の背筋につぅと一筋の冷たいものが伝う。ホロウに長く入った影響で耳が聞こえなくなったり、声が出なくなったり、歩けなくなったりすることはザラにある。耐性のある者なら一過性で安静にしていれば自然回復するが、程度によっては慢性化や、後遺症となる。
どっちだ。
悠真の頭の中では、都合の良いほうと悪いほうが交互に浮かぶ。
月城さんなら、すぐに治る。
彼女の侵蝕は特殊なものだ、安心なんてできない。
今すぐ処置をしてもらえば大丈夫、回復する。
でも、海馬は、視神経を司る間脳に近い。
治るのか、いや、戸惑ってる暇なんてないだろ。
「月城さん、今、ナースコールを押します!」
柳の枕元に転がる小型のスイッチに急いで手を伸ばそうとして「待って」と言って彼女が強く手を握ってきた。
「私の話を聞いてください。時間がありません」
「でもっ」
「貴方ならきっと一番最初に気づいてくれるはずです」
「な、なにを言ってるんですか、こんなときに」
「浅羽隊員。こんな状況だからこそ、本来の出勤時間はちゃんと守ってくださいね」
「は……」
柳の言葉に脳の処理が追いつかず呆気に取られていると、彼女は視線だけを私物が入った棚へと移した。「貴方の欲しているものの鍵は、すでに渡しました」
「月城さん、さっきから支離滅裂ですよ。やっぱり人を呼ぶんで」
休んでください。そう声をかけても柳は悠真の手を離そうとしない。むしろ痛いくらいにきつく握り締めてきた。まるで引き留めるように。
月城さんは、何かを遠回しに伝えようとしてる。誰かに聞かれてはまずいことを。誰に? 何故?
あなたはいつだって僕の考えていることを見通せる。今だってまだ何も言ってないのにレコーダーの在処を伝えてきた。
でも、今の僕は、あなたのことを分っちゃいない。
歯がゆい。こんなことがあっていいものか。今までこの人のことを誰よりも分っているという、ちょっとした自負すらあった。それが今は見る影もない。それが許せない。肝心なときに役に立たない。なんてくだらない自尊心だろうか。
「私は信じています。たとえ、どんなことがあっても」
「っ月城さん!?」
急に体の力が抜けてベッドへと倒れ込もうとした柳を悠真は慌てて背中を支えた。
気絶したのか。まるで、張り詰めた糸を鋏でぷつんと切ったかのように彼女は意識を手放した。薄桜の髪が舞い上がる。
目を閉じた柳の熱っぽい輪郭を見る。時間がないと言っていたのは、こうなると柳が把握していたからだろう。
もしかして、主導権が、奪われたのか。
じゃあ、これから目の前に現れる、何だ。
悠真は月城柳という存在を真贋鑑定するように熱で赤らんだ彼女を見据えた。まもなくして柳の瞼が再び開かれた。さっきとまったく同じ速度でゆっくりと。
それは、少しぼぅっとしてから悠真を見た。彼女であって彼女ではない存在と視線が絡む。普段なら絶対に向けない表情で柔和に微笑みかけられる。それだけで中身が本物ではないと分かる。あまりに異質で、気味が悪い。こいつは人間じゃない。直感がそう訴えてきた。
「すみません。少し、目眩がして。支えていただきありがとうございます」
「だ、」
誰だ。吐き出しそうになる言葉を悠真はぐっと飲んだ。いきなり剣呑な空気にするな。少しでもこいつから何か情報を聞き出せ。チャンスだ。無駄にするな。冷静な思考が情動を原動力に変えて言葉を選び直せと言いつけてくる。
「いやぁ、ヒヤッとしましたよ。なんとか間に合ってよかった」
ああ、謀りも、詭弁も、隠し事も、取り繕いも、得意でよかった。決して褒められた特技ではない。しかしそうでなければ、今この場に居て、これが目にした資料通りの“部下”という役を演じるのは難しかっただろう。悠真はへらりと笑ってみせた。「まだ話の途中だったでしょ?」
「そうですね。早く続きを話しましょう」
柳の皮を被ったそれが、悠真の頬に触れた。熱った手のひらだというのに背筋が凍る。
「改めて貴方に会って、こうして言葉を交わして少し思い出しました」
「何をです?」
「私たちの関係です。昨日、貴方は嘘をついていたのですね」
嘘なんかじゃない。反論を口にはしなかった。彼女の顔が触れそうなほどに近づいてくる。何をしようとしているのか、大方想像がついた。
「思い出せて嬉しいです。私たちはきっと」
「副課長。それ以上は言わないほうがいいかと」
「そうでしょうか。恥ずかしいのですか?」
「……やめろ」
耐えかねて唸るような声が出た。こちらの口と触れそうになる彼女のそれを手で遮り押し返す。
たとえ何があっても。どんなに感動的な場面でも、月城さんは僕にこんなことはしない。
「彼女の声で僕の名前を呼ぶな」
バケモノ。気づけばそう呼んでいた。医師からまるで生き物のようだと例えられたのだ。意思のようなものを持ち、柳の尊厳を踏み躙ろうとする存在を貶すならこれが一番似合っていた。
「あーあ」
顔から手を離すと柳であることをやめたそれは正体を現した。口を尖らせる。柳には似つかわしくない子供っぽい仕草。そしてにたりと笑った。不自然なくらい口が赤く見える。「うまくいったら帰れると思ったのに」
「残念だけど、僕はそんなに馬鹿じゃないんでね……あんたの目的は何だ」
「この人の体はちょっと特別だから、このまま連れて帰るの。それで、私はお母さんに会いたい」
「あんたの言う母親って何。エーテリアス?」
「お母さんは、お母さんだよ。教えられない」
「彼女は、」悠真はこれでもかと拳を握りしめた。柳の体でなければ殴りたかった。「月城柳は、あんたなんかが奪っていい人じゃない。出ていけ。今すぐ」
喉を絞り低い声を出す。剥き出しの敵意を目の前のそれに向けた。
柳の体に巣食う何かは、「無理だよ。閉じ込められてるんだもん」と拗ねたように告げた。よく知っている佳容な女性が、見たこともない知らない顔で笑い続けている。悠真は全身が粟立った。
「私ね、この人が羨ましい」
「なんだとっ」
「そんなに怒らないで。愛されていることを思い知っただけなの。貴方にも、他の人にも」
「やめろっ! 僕は」
悠真が応える終える前に「ま、今日はもういいや。あきらめる」と言ってそれは瞼を閉じた。支えていた腕にずしりと体重がかかる。
寝た、のか……。
悠真は動かず柳の様子を観察した。ゆっくりと胸だけが上下している。本当に眠ったようだった。
完全に起きる気配がないことを確認すると、悠真は柳をそっと横たえてから急いで戸棚を開けた。几帳面に畳まれた着替えが置かれた段の下に小さな貴重品用の金庫がある。扉には四桁の暗証番号を入力するためのテンキーが取り付けられていた。
鍵はもう渡されてる。
柳とのやりとりと思い出す。あの会話の中で思い浮かぶ数字は一つしかない。
まさか、でも本当に? 悠真は半信半疑になりつつテンキーを押した。四桁目を押した途端、ピピピッという短い電子音と共に堅固な箱を開く権利が与えられる。一瞬だけ驚いたが、急いで扉を開けテープレコーダーを引っ掴むとすぐに病室を出た。
舌打ちをする。柳の体を弄ぶ化け物に言いようのない怒りが収まらない。
愛なんて。
大股で歩きながら悠真は歯を食いしばった。
あの人の声で、顔で、軽々しく口にしてくれるな。
ちょっと言葉を覚えただけのバケモノが、勝手に僕らことを判断して決め付けるなよ。
肩で風を切りながら進む。
行き先はもちろん談話室だ。
* * *
手狭なコワーキングスペースのドアを乱暴に開けた悠真は、押さえつけるようにしてテープレコーダーを机に置いた。ポケットに手を突っ込み有線イヤホンを取り出す。取り付けようとしたが、指先が震え何回も差し込む口から外れた。
何を焦っているんだ。落ち着けよ。冷静になれ。
滾りたつ情動がレコーダーの再生ボタンを押すそうとする指先に過剰な力を与えた。胸から迫り上がってくるのは、自分でも信じられないほど凶暴な感情と、何も出来ない無力感によるイラつき。二匹の獣が皮膚の下で暴れている。
なんとか再生ボタンを深く押し込こむ。しゅるしゅるとテープが巻かれる音が窮屈な部屋に響く。レコーダーを持つ手のひらから微振動が伝わってきた。
聞こえてきたのは蒼角の声だった。彼女は断続的に録音していた。思い出しては止めるという方法を繰り返したのだろう。記録は最後まで続いていた。テープを取り出す。A面でなければ、B面か。裏返してレコーダーにセットしなおした。
柳の声は静かな泉のように透き通っていた。まるで小さな子に童謡や物語を聞かせているような声音に、荒れ狂っていた獣たちが宥められ、少しおとなしくなる。
『本が大好きな少女がいました』
『たくさんの本に囲まれるのが夢でした』
『いつまでも本を読んでいたいと思っていました』
『わからない事も本で解決しようとしていました』
『はじまりは全て本に書いてあると信じていました』
『名前すら。自分の名前すら分からないのに彼女は本を読み続けました』
「なんだ、これ」
思わず声が漏れる。彼女はこれを聞かせたかったというのか。何故これを。
悠真は机に肘をつき頭を抱えた。掻き上げた前髪を握りしめる。空いているほうの指で机を突き、思考する。
──でもナギねぇのことだから、きっと、とっても大切な意味があるよ。
蒼角も励ましが頭の中でこだまする。
大切な意味。きっと、アレには聞かせたくなかったことだ。
病室で向けられた薄ら笑いを思い出すだけで獣のような感情が再び暴れそうになった。
エーテルはホロウの中で常々奇妙な現象を引き起こす。異空間で知らない声が聞こえるなどはザラ。彼女を蝕むそれも侵蝕であるなら例外ではないだろう。特殊な侵蝕なら尚更に。もし仮にエーテルが意思を持つことがあったとしたら。信じがたい現象だが、目の前で起こっては信じるしかない。
だとしても。このままあれの思い通りさせたりはしない。
悠真は机を指で叩くのをやめ、再びレコーダーの再生ボタンを押した。
──貴方ならきっと一番最初に気づいてくれるはずです。
本物の柳が口にしていた言葉を思い出しながら何度も何度もテープを再生して聞き入った。時間がないと言った彼女が一方的に話を進めたあの短い時間には、まだ何かが隠されている気がした。
続