君はニコポ・ナデポを覚えているかい?   作:あばなたらたやた

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32話2章④

 

 

 空は裂けていた。

 雲を突き破るように降り注ぐワイバーンの群れは、黒い鱗を陽光に濡らし、腐敗した血の雨のように王都を覆った。

 

 翼の音は遠雷ではなく、死の宣告だった。

 王宮の玉座の間では、王女が唇を噛み、宰相が額に汗を浮かべる。誰もが息を殺し、ただ空を見上げることしかできない。

 その沈黙を切り裂いたのは、ただ一人。

 

「安心されよ。この私が、全て焼き払おう」

 

 ルーファス・ブレイブ

 金色の髪を風になびかせ、蒼い瞳に雷を宿した青年は、玉座の前で膝をつくこともなく、ただ立ち上がった。

 

 聖剣《クサナギ》を抜く音が、静寂を震わせる。

 

 光が奔った。「聖剣よ、福音を鳴らせ。草薙聖剣・雷霆墜ちる世界に邪悪なし(クサナギブレード・ケラウノス)

 

 剣身を包む雷光は、聖なるものではなかった。

 それは、神が忘れた怒り。世界を焼き尽くすための、純粋な破壊。

 ルーファスは自らを雷霆に変え、空へ舞い上がる。一直線に、ワイバーンの群れへと突き進む。 爆発は、音を失った。

 

 光が膨張し、空を塗り替える。雷鳴は遅れて届き、王都の石畳を震わせた。一瞬で、ワイバーンは消えた。灰さえ残さず、ただ空に焦げた臭いだけが漂う。

 

 王宮のバルコニーから見上げる貴族たちは、息を呑んだ。頼もしさ?  いいや、それは恐怖だった。 あの力は、人間のものではない。

 ルーファスは戻ってきた。雷の残光を纏い、微笑みすら浮かべて。だが、その瞳の奥に揺れるのは、勝利の喜びではなく。

 

「次は、誰が敵になるのかな」

 

 呟きは、風に消えた。

 誰も聞こえなかった。

 聞こえてはいけなかった。 王女は、初めて気づいた。

 彼が守っているのは、王国ではない。

 彼自身が、滅びの象徴なのだと。 空は再び青く、静かだった。

 だが、それは嵐の前の静寂に過ぎなかった。

 空はワイバーンの襲来がなかったかのように晴れ晴れとしていた。

 

 その夜、王宮の大広間で行われた歓迎パーティーは、華やかさと緊張感が入り混じった場だった。

 シャンデリアの光が水晶の杯に反射し、貴族たちの笑い声と音楽が響き合う。だが、その裏では、陰謀と疑惑が渦巻いていた。

 

 ルーファスはアルファとクレアを従え、貴族たちと談笑する。

 神祖に仕込まれているので、こうした場での振る舞いに長けていた。貴族の令嬢が彼に微笑みかけ、商人の代表が聖教皇国の技術提供を懇願する。

 

 ルーファスは表面上、完璧な騎士を演じるが、内心で貴族たちの諂いに嫌気が差しつつも、それを自分の地位維持に利用する計算を働かせていた。

 

 アルファはルーファスの傍らで、貴族たちの動向を観察する。彼女は微妙な空気の変化を見逃さない。ある貴族がルーファスに近づき、ジェノバの汚染隠蔽に関する噂を耳打ちする。

 

「ユフィリア嬢が資金を横領し、反政府勢力を支援したと……アルガルド王太子がそう確信していますよ」

 

 アルファは即座にその情報が「ジェノバ眷属」の偽情報である可能性を疑うが、証拠の検証には時間がかかる。

 

 王宮の大広間は、死んだ星の欠片を削り出したようなシャンデリアが吊るされ、冷たい光を床に撒き散らしていた。

 

 水晶の杯が鳴るたび、貴族たちの笑い声が波のように重なり、音楽はどこか遠い葬送曲のように響く。華やかな仮面の下で、誰もが牙を剥いている。

 ユフィリアは一人だった。

 婚約者であるはずのアルガルド王太子は、彼女の存在など最初から眼中になく、他の令嬢を連れている。

 金色の髪を振り乱し、笑顔を振りまくその姿は、王座に座る前の予行演習のようだった。

 ユフィリアは壁際に立ち、背筋を伸ばし、瞳を伏せていた。十五歳の少女が纏うドレスは、白すぎて痛いほどだった。

 

「ほら、見てごらん。あのユフィリア様」

「婚約者がいるのに、一人ぼっち」

「性格がキツイからね」

「厳格すぎるのよ。融通が利かない」

「アルガルド様も嫌気が差したんでしょう」

 

 嘲笑は、毒々しい花の蜜のように甘く、粘ついて彼女の耳に絡みついた。ユフィリアは唇を噛み、指先を震わせながらも、表情を変えなかった。完璧でなければならない。

 

 公爵家の娘として、王太子の婚約者として、誰よりも高潔で、誰よりも強く、誰よりも――。

 

 そのとき、ルーファスは彼女を見ていた。使節団の席から、静かに。金色の瞳に、怜悧な光を宿して。

 彼は立ち上がり、ユフィリアに近づこうとした。足取りは確かで、ま決意そのものが形を成したかのようだった。

 だが、次の瞬間――

 

「駄目よ、ルーファス」

 

 アルファの声は、氷のように冷たく響いた。彼女の細い指が、ルーファスの腕を掴む。拒絶ではなく、忠告の形を成して。

 

「今、ここで彼女に声をかけるのは、あなたのためにも、王国との交渉のためにもならないわ」

 

 ルーファスは足を止めた。アルファの瞳は、全てを見透かしているかのように静かだった。

 

「……俺はただ、彼女が可哀想で」

「その同情は、確かに尊い。しかし、英雄であり聖騎士たるあなたが、たった一人の少女のために動けば、それは使節団全体の立場を危うくするわ。アルガルド殿下は既にあなたを警戒しています。貴族たちは隙あらば噂を増幅させるでしょう。――『ルーファスはユフィリアを奪うつもりだ』と」

 

 ルーファスは唇を結んだ。口惜しそうに、ユフィリアの方をもう一度見た。少女はまだ立っている。背筋は伸び、瞳は伏せられ、唇は噛みしめられている。

 壊れる寸前の人形のように。

 

(可哀想に)

 

その思いは、胸の奥で熱を帯びた。だが、同時に――

 

(でも、俺は代表だだ)

 

 そう自分に言い聞かせた。世界平和復興支援使節団の長として、英雄の聖騎士として、王国との交渉を優先しなければならない。

 

 個人の感情など、復興の妨げにしかならない。理性が、そう告げていた。しかし、視線は離せなかった。

 ユフィリアの白いドレスが、シャンデリアの光を受けて、まるで雪のように儚く輝いている。彼女は誰にも触れられず、誰にも救われず、ただ一人で立っていた。

 

(俺が立っていた場所みたいだ)

 

 ルーファスは目を伏せた。アルファの手は、まだ離れていない。

 

「英雄聖騎士は、誰かのために剣を取る者よ。けど、今は剣ではなく、言葉と信頼で王国を救うとき」

 

 アルファの言葉は、静かだが、重かった。音楽が一段と高まり、貴族たちの笑い声が波のように押し寄せる。その中で、ユフィリアは毅然としている。

 ルーファスだけが、それを見ていた。そして、見ていることしかできなかった。

 

王宮の大広間は、精霊の灯火が揺らめく幻想の庭だった。

 水晶のシャンデリアから零れる光が、床の大理石に無数の星を散らす。

 オリアナの貴族たちは、芸術の名の下に集い、舞踏と絵画で自らの高潔さを競い合う。

 絹のドレスが波打ち、精霊の加護を受けた楽器が甘い調べを紡ぐ。

 誰もが仮面を被り、誰もがその仮面を信じていた。 だが、その華やかな仮面は、一瞬で剥がれ落ちた。 「――ユフィリア・マゼンタ。貴様の婚約を、ここに破棄する。」 アルガルド王太子の声は、氷のように冷たく、しかしどこか壊れた響きを帯びていた。

 15歳の少年の瞳には、狂気と正義が同居している。

 姉への歪んだ愛と、貴族の腐敗への絶望が、彼をここまで突き動かした。

 その手には、ミッドガル製の高精度スキャナーが握られていた。

 灰色の筐体に、聖教皇国の紋章が小さく刻まれている。 「異能兵器の汚染隠蔽。市民からの搾取。反政府勢力への資金提供――これが、貴様の『芸術』か?」

 少年の声は、広間に響き渡る。

 「ジェノバ災害の復興物資を横流しし、汚染された異能兵器を闇市に流したのは誰だ?

  市民の税金を私腹に肥やし、反政府勢力に武器を渡したのは誰だ?

  ――すべて、貴様だ。ユフィリア・マゼンタ!」 スキャナーのホログラムが、空中に展開される。

 暗号化された通信記録。

 金銭の流れ。

 異能兵器の取引記録。

 すべてが、ユフィリアの名を指していた。

 ――いや、指しているように見えた。 「違う……違うの、アルガルド様……!」

 ユフィリアの声は震えていた。

 生真面目で、遊ぶことを知らず、すべてを婚約者と国に捧げてきた少女。

 その仮面も、今、崩れ落ちる。

 彼女は一歩踏み出し、必死に声を張り上げた。 「私は、そんなことはしていません!

  異能兵器の汚染隠蔽? そんな記録は偽物です!

  復興物資の横流し? 私は、被災地に直接物資を届けるために奔走しただけ!

  反政府勢力への支援? 証拠を見せてください!

  ――これらは、すべて捏造です!

  私の名誉を汚すための、卑劣な策略に過ぎません!」 彼女の声は、理路整然としていた。

 貴族教育で鍛えられた論理。

 王妃候補としての弁明。

 しかし―― 

 

「ふん、言い訳か。これが証拠だ」

 

 提示される捏造された証拠の羅列。

 ユフィリア・マゼンタは、ただ立ち尽くしていた。

 精霊の灯火が、彼女の蒼白な頬を照らす。

 その瞳は、かつての輝きを失い、ただ深い、深い水底のように沈んでいく。

 

(私は、――何を、間違えた?)

 

 記憶が、走馬灯のように過ぎ去る。 五歳のとき。

 母の膝の上で、彼女は誓った。

 

「私は、王妃になる。だから、誰よりも正しく、誰よりも強く、誰よりも――皆の、規範にならなければ」

 

 十歳のとき。

 王宮の図書室で、夜通し規範を学び続けた。

 「遊ぶことは、許されない。私の時間は、すべて――アルガルド様と、国と、民のために」

 

 十三歳のとき。

 被災地を訪れ、泥まみれの子供たちに、笑顔で手を差し伸べた。

 

 「私は、皆の希望になる。だから、どんなに辛くても、どんなに苦しくても――泣かない」

 

 十五歳の、今。

 すべてが、崩れ落ちる。

 

 「――異能兵器の汚染隠蔽。市民からの搾取。反政府勢力への資金提供」

 

 アルガルドの声は、遠く、遠く。

 まるで、別の世界から聞こえてくるようだった。 

(違う。――違う。私は、そんなことは、していない。) 

 

 だが、証拠は、完璧だった。

 彼女の直筆。

 彼女の声紋。

 彼女の、顔。

 

 (これは、――誰の、仕業?)

 

 混乱が、彼女の精神を蝕む。

 ――私は、誰よりも正しくあろうとした。

 ――私は、誰よりも国を愛した。

 ――私は、誰よりも、アルガルド様を――だが、今。

 すべてが、否定される。

 

 「裏切り者!」

 「オリアナ王国の恥!」

 「市民の血でドレスを染めた女め!」 貴族たちの嘲笑が、彼女の耳を貫く。

 

 ――規範に準じ、責任を持って生きていた全て。

 すべてが、崩れ落ちる。

 

(私は、――何が、起きて)

 

 彼女の心が、砕ける。

 ――責任感。

 ――それが、彼女を縛っていた。

 ――それが、彼女を、壊した。

 

 「――やめて……」

 

 彼女の声は、誰にも届かない。

 

 「私は……私は、ただ……皆の、ために……」

 

 涙が、頬を伝う。

 ――初めての、涙。

 ――初めての、弱さ。 

 

(私は、何のために)

 

 ユフィリア・マゼンタは、ただ、立ち尽くしていた。

 その時――光は、降り注いだ。

 大広間の空気が、凍りついた。嘲笑の波は途切れ、貴族たちの視線が、一斉にそちらへ向く。

 金色の髪が、灯火に溶けるように輝く。ルーファス・ブレイブは、静かに、しかし確実に、ユフィリアの前に立った。

 聖騎士の軍服は、灰色の影を纏い、その背に、神祖の意志が宿る。だが、今、彼の瞳に宿るのは、神の使徒としての、冷徹な公正さだった。

 その内面は一方的に悪者にされているユフィリアへの同情であり、立場として介入するべきではないと理解していても、感情優先で動いてしまっていた。

 

「各々、静粛に」

 

 声は、静かだった。しかし、それは、広間は広がり従わせる。誰も、動けない。

 アルガルドの瞳が、歪む。

 

(この男は、介入するのか)

 

 ルーファスは、ユフィリアを見た。

 震える肩。

 涙に濡れた瞳。

 壊れかけた、規範の残骸。

 ――可哀想だ。

 だが、同時に、これは、チャンスだ。

 

(格好良く、神の使徒として、善良さをアピールするチャンス)

 

 彼は、一歩、踏み出した。

 

「罪の裁量と罰は、司法機関が与えるものである」

 

  声は、静かに、しかし確実に、広間に響く。

 

「多くの人の目がある場所での告発は、尊厳の破壊に他ならない」

 

 貴族たちのざわめきが、再び始まる。

 だが、それは、嘲笑ではない。

 驚愕や畏怖。 

 

「我々の支援は、復興だけではない。」

 

 ルーファスは、ゆっくりと、剣の柄に手を置いた。

 聖剣は、まだ抜かれていない。だが、その存在だけで、場を支配する。

 

「被災国の人間性の回復を意味する」

 

 彼は、ユフィリアの手を取った。

 冷たい。

 震える。

 壊れかけている。だが、まだ、壊れていない。

 

「俺の手を取ってください」

 

 ルーファスは、静かに呟いた。

 

「ここは、貴方の居場所ではない」

 

 クレア率いる復興騎士部隊が、静かに動き出す。

 十人の影が、ユフィリアを囲む。

 アルガルドは、唇を噛んだ。

 

(追えないか)

 

 だが、それでも逃がしたくない。

 

「――待て」

 

 アルガルドの声は、震えていた。

 

「彼女は、罪人だ。聖教皇国の使節団が、庇うのか? 立派な内政干渉だ」

 

 ルーファスは、振り返った。

 

「罪人かどうかは、司法が決めると言ったはずだ。王太子殿下。内政干渉? そう受け取り、神祖へクレームを入れたければ好きにするが良い」

 

 それですべてが決した。

 貴族たちは、息を呑んだ。

 これは、宣戦布告。いや、介入だ。

 ミッドガルの、内政干渉。

 ユフィリアは、ルーファスの手を、掴んだ。

 ――温かい。初めての、温もり。

 

「私は……私は……」

 

 彼女の声は、震えていた。

 

「私は、何も」

 

 ルーファスは、微笑んだ。

 表向きの、完璧な笑顔。だが、その奥に――計算が、渦巻く。

 

「俺は君を信じよう」

 

  彼は、静かに呟いた。

 

「だから、連れて行く」

 

 大広間の扉が、開く。

 輸送機の「クジラ」へ続く、光の道。

 ユフィリアは、ルーファスの手を、離さなかった。

 壊れかけた規範は、新たな、檻へと、連れていかれる。

  アルガルドは、拳を握りしめた。

 ――姉のローズの影が揺れる。

 聖騎士は、令嬢を連れて、去った。

 公正の名の下に。

 神祖の、計算の内に。

 ユフィリアの瞳にはわずかな、光が、灯った。

 ――初めての、救い。

 ――初めての、希望。

 そしてそれは、優しい奈落への転落だった。

 

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