空は裂けていた。
雲を突き破るように降り注ぐワイバーンの群れは、黒い鱗を陽光に濡らし、腐敗した血の雨のように王都を覆った。
翼の音は遠雷ではなく、死の宣告だった。
王宮の玉座の間では、王女が唇を噛み、宰相が額に汗を浮かべる。誰もが息を殺し、ただ空を見上げることしかできない。
その沈黙を切り裂いたのは、ただ一人。
「安心されよ。この私が、全て焼き払おう」
ルーファス・ブレイブ
金色の髪を風になびかせ、蒼い瞳に雷を宿した青年は、玉座の前で膝をつくこともなく、ただ立ち上がった。
聖剣《クサナギ》を抜く音が、静寂を震わせる。
光が奔った。「聖剣よ、福音を鳴らせ。
剣身を包む雷光は、聖なるものではなかった。
それは、神が忘れた怒り。世界を焼き尽くすための、純粋な破壊。
ルーファスは自らを雷霆に変え、空へ舞い上がる。一直線に、ワイバーンの群れへと突き進む。 爆発は、音を失った。
光が膨張し、空を塗り替える。雷鳴は遅れて届き、王都の石畳を震わせた。一瞬で、ワイバーンは消えた。灰さえ残さず、ただ空に焦げた臭いだけが漂う。
王宮のバルコニーから見上げる貴族たちは、息を呑んだ。頼もしさ? いいや、それは恐怖だった。 あの力は、人間のものではない。
ルーファスは戻ってきた。雷の残光を纏い、微笑みすら浮かべて。だが、その瞳の奥に揺れるのは、勝利の喜びではなく。
「次は、誰が敵になるのかな」
呟きは、風に消えた。
誰も聞こえなかった。
聞こえてはいけなかった。 王女は、初めて気づいた。
彼が守っているのは、王国ではない。
彼自身が、滅びの象徴なのだと。 空は再び青く、静かだった。
だが、それは嵐の前の静寂に過ぎなかった。
空はワイバーンの襲来がなかったかのように晴れ晴れとしていた。
その夜、王宮の大広間で行われた歓迎パーティーは、華やかさと緊張感が入り混じった場だった。
シャンデリアの光が水晶の杯に反射し、貴族たちの笑い声と音楽が響き合う。だが、その裏では、陰謀と疑惑が渦巻いていた。
ルーファスはアルファとクレアを従え、貴族たちと談笑する。
神祖に仕込まれているので、こうした場での振る舞いに長けていた。貴族の令嬢が彼に微笑みかけ、商人の代表が聖教皇国の技術提供を懇願する。
ルーファスは表面上、完璧な騎士を演じるが、内心で貴族たちの諂いに嫌気が差しつつも、それを自分の地位維持に利用する計算を働かせていた。
アルファはルーファスの傍らで、貴族たちの動向を観察する。彼女は微妙な空気の変化を見逃さない。ある貴族がルーファスに近づき、ジェノバの汚染隠蔽に関する噂を耳打ちする。
「ユフィリア嬢が資金を横領し、反政府勢力を支援したと……アルガルド王太子がそう確信していますよ」
アルファは即座にその情報が「ジェノバ眷属」の偽情報である可能性を疑うが、証拠の検証には時間がかかる。
王宮の大広間は、死んだ星の欠片を削り出したようなシャンデリアが吊るされ、冷たい光を床に撒き散らしていた。
水晶の杯が鳴るたび、貴族たちの笑い声が波のように重なり、音楽はどこか遠い葬送曲のように響く。華やかな仮面の下で、誰もが牙を剥いている。
ユフィリアは一人だった。
婚約者であるはずのアルガルド王太子は、彼女の存在など最初から眼中になく、他の令嬢を連れている。
金色の髪を振り乱し、笑顔を振りまくその姿は、王座に座る前の予行演習のようだった。
ユフィリアは壁際に立ち、背筋を伸ばし、瞳を伏せていた。十五歳の少女が纏うドレスは、白すぎて痛いほどだった。
「ほら、見てごらん。あのユフィリア様」
「婚約者がいるのに、一人ぼっち」
「性格がキツイからね」
「厳格すぎるのよ。融通が利かない」
「アルガルド様も嫌気が差したんでしょう」
嘲笑は、毒々しい花の蜜のように甘く、粘ついて彼女の耳に絡みついた。ユフィリアは唇を噛み、指先を震わせながらも、表情を変えなかった。完璧でなければならない。
公爵家の娘として、王太子の婚約者として、誰よりも高潔で、誰よりも強く、誰よりも――。
そのとき、ルーファスは彼女を見ていた。使節団の席から、静かに。金色の瞳に、怜悧な光を宿して。
彼は立ち上がり、ユフィリアに近づこうとした。足取りは確かで、ま決意そのものが形を成したかのようだった。
だが、次の瞬間――
「駄目よ、ルーファス」
アルファの声は、氷のように冷たく響いた。彼女の細い指が、ルーファスの腕を掴む。拒絶ではなく、忠告の形を成して。
「今、ここで彼女に声をかけるのは、あなたのためにも、王国との交渉のためにもならないわ」
ルーファスは足を止めた。アルファの瞳は、全てを見透かしているかのように静かだった。
「……俺はただ、彼女が可哀想で」
「その同情は、確かに尊い。しかし、英雄であり聖騎士たるあなたが、たった一人の少女のために動けば、それは使節団全体の立場を危うくするわ。アルガルド殿下は既にあなたを警戒しています。貴族たちは隙あらば噂を増幅させるでしょう。――『ルーファスはユフィリアを奪うつもりだ』と」
ルーファスは唇を結んだ。口惜しそうに、ユフィリアの方をもう一度見た。少女はまだ立っている。背筋は伸び、瞳は伏せられ、唇は噛みしめられている。
壊れる寸前の人形のように。
(可哀想に)
その思いは、胸の奥で熱を帯びた。だが、同時に――
(でも、俺は代表だだ)
そう自分に言い聞かせた。世界平和復興支援使節団の長として、英雄の聖騎士として、王国との交渉を優先しなければならない。
個人の感情など、復興の妨げにしかならない。理性が、そう告げていた。しかし、視線は離せなかった。
ユフィリアの白いドレスが、シャンデリアの光を受けて、まるで雪のように儚く輝いている。彼女は誰にも触れられず、誰にも救われず、ただ一人で立っていた。
(俺が立っていた場所みたいだ)
ルーファスは目を伏せた。アルファの手は、まだ離れていない。
「英雄聖騎士は、誰かのために剣を取る者よ。けど、今は剣ではなく、言葉と信頼で王国を救うとき」
アルファの言葉は、静かだが、重かった。音楽が一段と高まり、貴族たちの笑い声が波のように押し寄せる。その中で、ユフィリアは毅然としている。
ルーファスだけが、それを見ていた。そして、見ていることしかできなかった。
王宮の大広間は、精霊の灯火が揺らめく幻想の庭だった。
水晶のシャンデリアから零れる光が、床の大理石に無数の星を散らす。
オリアナの貴族たちは、芸術の名の下に集い、舞踏と絵画で自らの高潔さを競い合う。
絹のドレスが波打ち、精霊の加護を受けた楽器が甘い調べを紡ぐ。
誰もが仮面を被り、誰もがその仮面を信じていた。 だが、その華やかな仮面は、一瞬で剥がれ落ちた。 「――ユフィリア・マゼンタ。貴様の婚約を、ここに破棄する。」 アルガルド王太子の声は、氷のように冷たく、しかしどこか壊れた響きを帯びていた。
15歳の少年の瞳には、狂気と正義が同居している。
姉への歪んだ愛と、貴族の腐敗への絶望が、彼をここまで突き動かした。
その手には、ミッドガル製の高精度スキャナーが握られていた。
灰色の筐体に、聖教皇国の紋章が小さく刻まれている。 「異能兵器の汚染隠蔽。市民からの搾取。反政府勢力への資金提供――これが、貴様の『芸術』か?」
少年の声は、広間に響き渡る。
「ジェノバ災害の復興物資を横流しし、汚染された異能兵器を闇市に流したのは誰だ?
市民の税金を私腹に肥やし、反政府勢力に武器を渡したのは誰だ?
――すべて、貴様だ。ユフィリア・マゼンタ!」 スキャナーのホログラムが、空中に展開される。
暗号化された通信記録。
金銭の流れ。
異能兵器の取引記録。
すべてが、ユフィリアの名を指していた。
――いや、指しているように見えた。 「違う……違うの、アルガルド様……!」
ユフィリアの声は震えていた。
生真面目で、遊ぶことを知らず、すべてを婚約者と国に捧げてきた少女。
その仮面も、今、崩れ落ちる。
彼女は一歩踏み出し、必死に声を張り上げた。 「私は、そんなことはしていません!
異能兵器の汚染隠蔽? そんな記録は偽物です!
復興物資の横流し? 私は、被災地に直接物資を届けるために奔走しただけ!
反政府勢力への支援? 証拠を見せてください!
――これらは、すべて捏造です!
私の名誉を汚すための、卑劣な策略に過ぎません!」 彼女の声は、理路整然としていた。
貴族教育で鍛えられた論理。
王妃候補としての弁明。
しかし――
「ふん、言い訳か。これが証拠だ」
提示される捏造された証拠の羅列。
ユフィリア・マゼンタは、ただ立ち尽くしていた。
精霊の灯火が、彼女の蒼白な頬を照らす。
その瞳は、かつての輝きを失い、ただ深い、深い水底のように沈んでいく。
(私は、――何を、間違えた?)
記憶が、走馬灯のように過ぎ去る。 五歳のとき。
母の膝の上で、彼女は誓った。
「私は、王妃になる。だから、誰よりも正しく、誰よりも強く、誰よりも――皆の、規範にならなければ」
十歳のとき。
王宮の図書室で、夜通し規範を学び続けた。
「遊ぶことは、許されない。私の時間は、すべて――アルガルド様と、国と、民のために」
十三歳のとき。
被災地を訪れ、泥まみれの子供たちに、笑顔で手を差し伸べた。
「私は、皆の希望になる。だから、どんなに辛くても、どんなに苦しくても――泣かない」
十五歳の、今。
すべてが、崩れ落ちる。
「――異能兵器の汚染隠蔽。市民からの搾取。反政府勢力への資金提供」
アルガルドの声は、遠く、遠く。
まるで、別の世界から聞こえてくるようだった。
(違う。――違う。私は、そんなことは、していない。)
だが、証拠は、完璧だった。
彼女の直筆。
彼女の声紋。
彼女の、顔。
(これは、――誰の、仕業?)
混乱が、彼女の精神を蝕む。
――私は、誰よりも正しくあろうとした。
――私は、誰よりも国を愛した。
――私は、誰よりも、アルガルド様を――だが、今。
すべてが、否定される。
「裏切り者!」
「オリアナ王国の恥!」
「市民の血でドレスを染めた女め!」 貴族たちの嘲笑が、彼女の耳を貫く。
――規範に準じ、責任を持って生きていた全て。
すべてが、崩れ落ちる。
(私は、――何が、起きて)
彼女の心が、砕ける。
――責任感。
――それが、彼女を縛っていた。
――それが、彼女を、壊した。
「――やめて……」
彼女の声は、誰にも届かない。
「私は……私は、ただ……皆の、ために……」
涙が、頬を伝う。
――初めての、涙。
――初めての、弱さ。
(私は、何のために)
ユフィリア・マゼンタは、ただ、立ち尽くしていた。
その時――光は、降り注いだ。
大広間の空気が、凍りついた。嘲笑の波は途切れ、貴族たちの視線が、一斉にそちらへ向く。
金色の髪が、灯火に溶けるように輝く。ルーファス・ブレイブは、静かに、しかし確実に、ユフィリアの前に立った。
聖騎士の軍服は、灰色の影を纏い、その背に、神祖の意志が宿る。だが、今、彼の瞳に宿るのは、神の使徒としての、冷徹な公正さだった。
その内面は一方的に悪者にされているユフィリアへの同情であり、立場として介入するべきではないと理解していても、感情優先で動いてしまっていた。
「各々、静粛に」
声は、静かだった。しかし、それは、広間は広がり従わせる。誰も、動けない。
アルガルドの瞳が、歪む。
(この男は、介入するのか)
ルーファスは、ユフィリアを見た。
震える肩。
涙に濡れた瞳。
壊れかけた、規範の残骸。
――可哀想だ。
だが、同時に、これは、チャンスだ。
(格好良く、神の使徒として、善良さをアピールするチャンス)
彼は、一歩、踏み出した。
「罪の裁量と罰は、司法機関が与えるものである」
声は、静かに、しかし確実に、広間に響く。
「多くの人の目がある場所での告発は、尊厳の破壊に他ならない」
貴族たちのざわめきが、再び始まる。
だが、それは、嘲笑ではない。
驚愕や畏怖。
「我々の支援は、復興だけではない。」
ルーファスは、ゆっくりと、剣の柄に手を置いた。
聖剣は、まだ抜かれていない。だが、その存在だけで、場を支配する。
「被災国の人間性の回復を意味する」
彼は、ユフィリアの手を取った。
冷たい。
震える。
壊れかけている。だが、まだ、壊れていない。
「俺の手を取ってください」
ルーファスは、静かに呟いた。
「ここは、貴方の居場所ではない」
クレア率いる復興騎士部隊が、静かに動き出す。
十人の影が、ユフィリアを囲む。
アルガルドは、唇を噛んだ。
(追えないか)
だが、それでも逃がしたくない。
「――待て」
アルガルドの声は、震えていた。
「彼女は、罪人だ。聖教皇国の使節団が、庇うのか? 立派な内政干渉だ」
ルーファスは、振り返った。
「罪人かどうかは、司法が決めると言ったはずだ。王太子殿下。内政干渉? そう受け取り、神祖へクレームを入れたければ好きにするが良い」
それですべてが決した。
貴族たちは、息を呑んだ。
これは、宣戦布告。いや、介入だ。
ミッドガルの、内政干渉。
ユフィリアは、ルーファスの手を、掴んだ。
――温かい。初めての、温もり。
「私は……私は……」
彼女の声は、震えていた。
「私は、何も」
ルーファスは、微笑んだ。
表向きの、完璧な笑顔。だが、その奥に――計算が、渦巻く。
「俺は君を信じよう」
彼は、静かに呟いた。
「だから、連れて行く」
大広間の扉が、開く。
輸送機の「クジラ」へ続く、光の道。
ユフィリアは、ルーファスの手を、離さなかった。
壊れかけた規範は、新たな、檻へと、連れていかれる。
アルガルドは、拳を握りしめた。
――姉のローズの影が揺れる。
聖騎士は、令嬢を連れて、去った。
公正の名の下に。
神祖の、計算の内に。
ユフィリアの瞳にはわずかな、光が、灯った。
――初めての、救い。
――初めての、希望。
そしてそれは、優しい奈落への転落だった。