沈黙のクジラ、眠る王女灰色の巨躯が、夜の空に浮かぶ。全長二十万メートル。幅八千メートル。流線型の装甲は、月光を鈍く反射し、側面に刻まれた聖教皇国の紋章が、白く浮かび上がる。
「クジラ」――それは、科学と魔術の狭間で生まれた、平和の象徴。だが今、その内部は、静かな絶望に満ちていた。再生カプセルの中で、ユフィリアは眠っていた。
マゼンタの髪が、透明な液体に揺れる。瞳は閉じられ、唇は微かに震える。
――何かを、言おうとしている。だが、声は出ない。脳機能の低下は、深刻だった。あの瞬間、パーティー会場でアルガルドの言葉が降り注いだ時。
汚染隠蔽。資金横領。五百万。反政府支援の疑い。
婚約破棄。
すべてが、彼女の世界を砕いた。
生真面目で、模範的で、すべてを捧げてきた少女の、心が砕け散ったのだ。
茫然自失。
それが、彼女の今の姿だった。
ルーファス・ブレイブは、カプセルの傍らに立っていた。金色の髪が、照明に輝く。蒼い瞳は、穏やかだが、どこか、演技めいている。
(これで、善人アピールは完璧だな)
内心で、小さく呟く。
彼は聖騎士。神の使徒。広告塔。
表向きは、完璧な英雄。だが内心、努力などしたくない。ただ、楽に栄光を手に入れたいだけ。
ユフィリアを庇ったのも、計算であり、感情制御のできない暴走でもあった。
神祖の指示。組織のイメージアップ。
それだけだ。
(それは……本当か?)
心のどこかで、微かな疼き。
凡庸な自分を、呪うような嫌な気持ち悪さ。
そこへ、アルファが現れた。
エルフの少女。金色の髪。蒼い瞳。美人。補佐官として、ルーファスの影のように寄り添う。
「ルーファス。ユフィリア様の状態は、安定しているわ。精神負荷による機能低下ですが、再生カプセルで回復の見込みはある」
声は、静かだった。彼女は忠誠に満ちている。
彼女はルーファスに、心酔している。
肉塊化の過去。数百年、孤独と激痛。
神祖に救われ、ルーファスに守られ。
彼こそが、世界のすべて。
「けど……世界平和復興支援使節団としては、微妙な立場になったわ」
アルファの言葉に、ルーファスは肩をすくめた。
「そうだろうとも。犯罪者かもしれない娘を庇うなんて、正気の沙汰ではない。更には王太子様の告発を遮り、こうして奪ってきた」
皮肉めいた笑み。アルファは、微かに眉を寄せる。
「神祖様からも、連絡がありました。『よくやった』と。でも、使節団の目的は復興。オリアナ王国の内紛に巻き込まれすぎるのは、避けたいと」
ルーファスは、頷く。
演技。
すべて、演技。だが、アルファの瞳は、真剣だ。
「ローズ王女から、対談の要請です。すぐに応じますか?」
「応じる」
会議室。
クジラの内部、革張りの座席が並ぶ広間。
重力制御と空間制御で、快適な空間だった。
だが、空気は重い。
ローズ。
十七歳。第一王女。
明るく、優しい。常識人。責任感が強い。だが、思い込みが激しい欠点がある。
彼女は、ルーファスとアルファの前に座っていた。
魔剣騎士として鍛えられた体躯。
瞳は、強い光を宿す。
「ルーファス様。アルファ様。まずは、感謝を」
ローズの声は、澄んでいる。
「パーティーでの騒動。弟のアルガルドが、ユフィを……ユフィリアを、ああまで糾弾するとは。貴族たちの噂は加速して、ユフィリアの立場は日に日に悪くなってます。まるで何かの意思が働いているように」
彼女の拳が、微かに震える。
姉として。
王女として。
「ですが、あなたはユフィリアを守った。あの場面で、犯罪者かもしれない少女の尊厳を。……信じます。あなたの善性を」
ルーファスは、微笑む。
完璧な、英雄の笑み。
「王女殿下。お気遣い、ありがとうございます。俺はただ、弱き者を守りたかっただけです」
――嘘。
内心、冷めた計算。だが、ローズの瞳は、輝く。
「ユフィリアの状態は?」
アルファが、素直に答える。
「深刻です。精神負荷による脳機能低下。茫然自失。言葉を発しようとしても、出ません。再生カプセルで眠らせていますが、回復には時間が」
ローズの表情が、曇る。
ユフィリア。
十五歳。公爵令嬢。
生真面目。すべてを捧げてきた。
婚約者、アルガルドのために。
国ために。
遊ぶことを知らず。
感情すら、犠牲にして
「あの子は……悪くない。きっと、誤解です。アルガルドの言葉も、貴族の腐敗を正すための正義の行い……でも、手段が」
ローズの声に、苦痛が混じる。
弟への愛。
親友への信頼。
国への責任。
「私は、信じます。ルーファス様の行動を。使節団の善意を。だから、積極的に協力します。周囲の貴族たちにも、働きかけます。復興を。五十万トンの物資。インフラ八十パーセント復旧。生存者五万人の救助。すべてを、成功させましょう」
誓い。
強い、誓い。
ルーファスは、頷く。
「感謝します、王女殿下。俺たちも、全力を尽くします」
アルファの瞳が、ルーファスを見つめる。
「ルーファス様のためなら、何でも」
「ユフィリアを、守ってください。彼女は……私の、友人です」
「ええ、勿論」
思い込みの強い王女。だが、その瞳は善性だった。
会議の去り際、ローズは振り返って、頭を下げて、オリアナ王国の王族のエリアへ戻っていった。
オリアナ王国。
貴族たちの陰謀。
アルガルドのクーデター計画。
ジェノバの眷属である混沌蝿が、悪い噂を広がる。
「ユフィリアは、汚染を隠蔽した」
「資金を横領」
「反政府」
すべて、誇張。だが、人々は信じる。
混乱と絶望が広がっていく。
クジラの内部でユフィリアは、眠る。
夢の中で、何かを叫ぼうとする。
助けて。
信じて。
私は、悪くない。
国に尽くして生きてきた。
だが、声は出ない。
ただ、涙だけが、液体に溶ける。
会議を終えてルーファスは、カプセル前にいた
「世界に裏切られた天才令嬢か……災難なことだ」
独り言。だが、心の奥。
微かな、疼き。
善人など、仕事のための演技。
なのになぜか、胸が痛む。
アルファが、そっと手を握る。
「ルーファス。私は、ずっとそばにいるわ」
忠誠。
愛。
依存。
それにルーファスは、アルファを抱きしめた。