なぜ車内で引き返す努力をしなかったか、ユイ・アラモード?
放心した薄ら笑いを浮かべながら、ヴィルトシュタイン中央駅の大天蓋を見上げていた。憲兵さんに不審人物扱いされてちょっと詰め所にカモン? されそうだったけど、周りの人はこんな私を避けて通っていく。
人、というかオーク。
人の肩の上に豚の頭が乗っている。男女ともども力士を思わせる恰幅の良さだが、大きな豚頭と身体のバランスは存外に整っている。服装は古風な欧州の、モノクロ映画の登場人物のようでもある。
オークだけではない。直立した犬人のようなコボルト、身長は子供のように低いががっしりとした体格のドワーフも、みなクラシカルな洋服を来て闊歩している。
その中にたまに、ほっそりとしたモデルのような容姿の黒い肌のエルフもいる。自然と目が追いかけてしまう美貌だ。不思議なのは、エルフに男性が居ないこと。格好良さそうなのに、ちょっと残念だった。
そんな駅でやせっぽっちの道洋人女性が帽子を膝に心ここにあらずな顔で佇んでいるのだから、周りは奇異に思って避けるだろう。私がこの国の婦人オークならそうする。
客車に降りるときにコボルトのポーターに渡された、一抱えもある皮製の旅行鞄に腰掛け、私は途方に暮れていた。
「どうしたもんかな、これ……」
上着のポケットからスマホを取り出す仕草をしかけ、止める。
何かをしようとは思うがスマートフォンがないので、この場所の情報が取得できない。情報がないと動けず、二日酔いの頭で呆然としているしかないのだ。
昨今の若者はスマートフォンをばかり見て現実を見ない、とか言われ、私もそんな中毒に陥ってはいないと思っていた。いやはや、異境の地で取り上げられると、本気でなにも出来ない。
旅行案内書の類は持ってなかったか? いや、ここで鞄を開いて中身を物色し始めれば、不審者ぶりにもほどがある――。
「道洋のご婦人、なにかお困りですかな?」
「ひゃひっ!?」
良く響く声で呼びかけられ、私は跳ねるように立ち上がる。
異邦人の窮状を見かねたのか、三つ揃いのストライプ・スーツを纏ったオークが紳士的――オークなのに――に話しかけてきたのだ。
――もじゃっとしたオーク。
彼への第一印象は、こんな感じだった。オークの頭頂部の毛と顎髭が縮れ毛。身長は大人のオークの平均からは若干低く、丸い目で眼鏡を掛けているものだから、獰猛さはなく滑稽さを覚えてしまう。
お調子者がナンパしてきたという雰囲気はない。物腰が落ち着いており、声色が穏やかだ。見る見かねて声を掛けてくれたのだろう。
「あーはい……ええと、困っております、実際のところ」
帽子を頭の上に載せ、私はオークの彼を見つめて答える。こういう時はどうしたものか、と迷いながら頭を下げ、名乗る。
「ユイ・アラモードと申します。あの――」
「ほう、拙はミヒャエル・ヤクソンと言います。道洋の方とお見受けいたしましたが、グロワール風のお名前なのですな?」
オーク――ヤクソン氏もお辞儀を返し、穏やかな声で聞いてくる。
ヤクソン氏のもしゃもしゃした髪を見るでもなく見つめながら、私は答えた。
「まぁ、いろいろありまして。この名前の方が仕事には便利なもので……」
「ほほう? 失礼でなければ、お仕事をお伺いしても?」
「作家……物書きです。つまらない物ばかり世に送り出しておりますが」
ヤクソン氏に苦笑しながら言う。
謙遜がすぎる様に聞こえるが、そもそもまともな作家は、酔っぱらって終電を乗り越してオルクセン王国に来ない。いや、昭和の睡眠薬をオーバードーズしていた破滅型文豪なら余裕かも。乗り越してあの世に直行もするけど。
顔を上げたヤクソン氏は、喜色満面という表情であった。私の手を握り、力強くぶんぶんと上下に振る。
「なんとなんと! ご同業とは! 女性旅行家にして文筆家とは意欲的な在り方ですな、おみそれいたしましたぞ!」
「ヤクソンさん、同業というと……」
「ええ、拙も駆け出しながら物書きをしておりましてな。いずれはオルクセンの素晴らしいビールに関する著書を書いて、広く星欧世界に送り出したいと――」
ヤクソン氏が興奮した早口で私に話す。
「え? ええ?」
腕の動きにがくがくと上半身を引っ張られながら、私はヤクソン氏をまじまじと見つめ直していた。
縮れ毛・丸目で眼鏡。ビールの本を書く目指している作家志願。名はミヒャエル・ヤクソン。
――これ、オークのマイケル・ジャクソンだ。
キング・オブ・ポップス、『スリラー』の方のマイケル・ジャクソンではない。ウイスキーとベルギービール研究の大家のマイケル・ジャクソン。おそらく大家になる前の、駆け出しの頃の彼のオーク版が、目の前にいる。
――なんたる奇縁か!
両手を添えて、彼の分厚い手を握り返す。
「まぁ、それはすばらしい志ですわ! いずれ貴方の著書は、我が故郷のアキツシマでも多大な影響をもたらすことになるでしょう」
お世辞が過ぎるように聞こえるかもしれないが、こっちの世界でマイケル・ジャクソン無くしてベルギービールの定着はない。
日本でセゾンスタイルをどのブルワリーでも標準的に醸造してるのは、三割くらいはマイケル・ジャクソンのおかげである。三割はサマーセゾンスタイルの確立者・デュポン醸造所で、四割くらいはベルギー伝統のスタイルを弄り倒したアメリカのいかれぽんち、もといクラフトブルワリーの影響だと思ってる。
ヤクソン氏は、縮れた顎髭を引っ張りながら笑う。
「そのような日が来ることを祈っておりますぞ! 貴方のお国であるアキツシマでは、米を使った酒を醸造していると聞きますが、星欧では口にすることも未だ叶わず――」
アルコールの話になると、好奇心が疼いて仕方ないような、ヤクソン氏の饒舌ぶり。
流れが酒に向いている。これはチャンスだ。
――異邦に至りてビールを飲まず、なんのビールクズ、じゃなかったユイ・アラモードか!
「ええ、世にも稀な単式複発酵ですね。アキツシマの清酒の話もよろしいのですが――」
二日酔いの女が生み出しうる最良の笑顔を作り、話しかける。
あんたはオークをナンパするのか? とかケイ先生に呆れられそうだけど、この機会を逃す訳にはいかない。
「オルクセンの素晴らしいビールの話を、お聞かせ願えませんか? もちろん、現物があれば申し分ないのですが」
朝から飲むつもりかこの女? とかいうごく真っ当で社会的な非難が脳内に響くが、ケロっと無視する。
昼酒は文筆稼業の特権だと観音さんも言ってるしね!
「もちろん、もちろんですとも! ビアパラストはもう開いておりからな!」
「それはありがたい……」
「こちらこそ、同道のご先輩にとぜひ共に一献願いたい物です」
どんとチョッキの胸を叩き、ヤクソン氏が請け負う。
旅行鞄を持ち上げようとするが、重くてよろけた。ヤクソン氏がひょい、と片手で持ち上げ、エスコートしてくれる。
東京に帰る手段がぱっとは思い浮かばない。ならば、ヤクソン氏の好意に預かり、異世界ビールをキメるしかない――。