大厦高楼の街・ヴィルトシュヴァイン、と人は謂う。
石畳で舗装された直線の道路が直角に交差し、区画の長さが一定の町並み。電線は路面電車のトロリーでだけ、車道に行き交うのは左側通行の馬車。
――この街はパリの香りがする。
つまりはその……消せない糞臭があるということだ。パリに来ると「この街はいつ来ても犬の糞の臭いがするな」と思う。一方のヴィルトシュヴァインは馬車を引く輓馬のポロリがあるので、仕方ないものだ。
そんなポロリをコボルトの道路清掃人が手早く片づけていくのを何度も見たが、清掃人より馬車の数の方が圧倒的に多い。
石炭の煤煙で空気が灰色になる前のヨーロッパはこんなものだったというし、だからこそ香水が発達したのだろうし、オークたちはほとんど感じてないのかもしれない。
欧州人は日本に来ると空気が魚臭いと感じるらしい。その類の差異を異邦人が申し立てするのは逆スメハラの類だ、止めておこう。
道すがらヤクソン氏はなぜ己が作家を志したのか? を私に語ってくれた。
数年前、オルクセン王国は大きな戦争を起こしたという。
北にあるベレリアンド半島にあるエルフ族の国家・エルフィンドとの外交問題から発生し、同国の併合に至ったオルクセン王国の戦争だ。
……ヤクソン氏は戦場に馳せ参じる事が出来なかった。
正確に言えば、兵役にあった彼が配属された部隊には西方の大国・グロワール帝国を警戒する任務があった。北方の戦争にかまけ、側面を脅かされ外交的な譲歩を引きずり出される不覚を、王国は由としなかったのだ。
ヤクソン氏の『戦争』は国境の陣地をパトロールし、グロワール兵が挑発を行わないかを監視する――同時にこちらの軽挙で相手に揚げ足を取らせない、と気を使うものだったという。
それは勤務評定ではプラスになっても、戦功とは数えられない働きだ。祖国は犠牲を乗り越えても偉大な勝利を収めた。だがその時、我は国境線を睨んでなにをしていたのだ――?
ヤクソン氏の兄二人は、エルフィンド戦争で功績を上げた。それに引き替え三男の彼は、軍人一族の実家に戻っても胸に提げる勲章もない惨めさを味わう身の上となった。
彼は軍隊内で出世することに、すっぱりと見切りをつけた。
どうせこの先は戦争はない、武門の栄達は赫々たる戦功をひけらかす輩共の狭き門と成り果てた――我が往く長き道は江湖にこそあり、と。
復員した彼は大学に通い直し、戦争から遠い分野で活躍を見いだした――それが飲食と文筆の世界であった。
「まだ実家の脛をかじっている様なもので、なかなか筆一本で食べていくというのは難しいものですなぁ」
ヤクソン氏が照れたように笑う。
――その転身を決断出来たのは、彼が優れたオークだからなのだと思う。
もしゃっとした髪と髭のヤクソン氏は愛嬌のあるオークだった。牙の生えた豚面の相撲取り、という風格のオークは、ヒョロい人間にしてみれば、威圧感がすごい。
だがヤクソン氏はその手の押し出しが若干、弱い。
「デビューさえすればなんとかなる、とは駆け出しの頃には思うのですが、そこからがまた大変なもので……」
「いやいや、異国へと見聞を広げる作家先輩のご意見はありがたいものですな。さぁ、こちらが――」
ヤクソン氏が、芝居めいた大仰な身振りで建物を示す。
ゴルドシュヴァイン、と読める看板の綴り。盾にジョッキとイノシシの横顔を模したエンブレム。並ぶガラスの窓と庇、飾り窓に飾られた赤い薔薇の植え込み。
まだ昼前なのに、ビアホールの賑わいが外まで伝わってくる。
「都雀の謂う『ヴィルトに来てゴルドを飲み忘れることなかれ!』、首都で一番のビアプラストですな!」
「プラハの『金の虎』みたいな感じですね……あ、こちらの話で」
つい別世界の話を出してしまったので、私は手を振ってごまかす。
道洋の婦人を連れたオーク紳士の組み合わせは周囲に奇異に見られるかと思ったが――妙に「わかる」という雰囲気のうなずきと視線を感じていた。
昼酒を嗜む者に種族の隔たりはない。
乾杯をする時、我らは兄弟たりうるのだ! と。
「えっへっへ、では早速オルクセンのビールを頂きたいと……」
私は揉み手して、ヤクソン氏にお願いをする。この道洋の仕草が通じるかどうかは定かではない。
――オルクセンのビールは、たぶん美味しい。
かつての私は、ファンタジー風の異世界で造られるビールはどういう味がするのかを真剣にシミュレートしたことがある。結果は『十中八九不味い』だった。
ビールは工業の酒である。三大発明――発酵の作用解明と酵母の単離と冷蔵技術――がなければ、クォリティの向上は望めない。さらモルト製造の規格化やホップの品種と銘柄が確立してる可能性も低い。
それ以前に、ビール純粋令に当たるモノが存在するかも怪しい。そうなると「麦醸造酒」は存在していても、それは我らの知るビールやエールと懸け離れた物になるのではないかと推測される。
しかし街を見る限り、このオルクセン王国は工業がかなり進んでいる。であればビールのクォリティは期待してもいいのではないのか?
もし外れたらどうしようかなー、なんとかヤクソン氏を失望させない文学的修辞を練らないとなー、などと思いながら、私はビアホールに招かれるままに入る。
わっと、ビアホールの喧噪が私の身体を揺すった。私を包み込む甘い麦芽と肉の香り。
「おじゃましますぅ……あ、昔のホフブロイハウスっぽい!」
広く取られた柱間を渡す漆喰塗りのヴォールト、磨かれたオーク材の胸板、ガラスの間仕切りにヘラジカのオーナメント、飾られた絵画の数々、誇らしげに交わされた旗竿に垂れるオルクセンの国旗と、ゴルドシュヴァインの紋章旗。
ドイツ風のビアホールが、私の眼前にある。
銀座ライオンの五丁目店や新橋のビアライゼ'98、あれに近いが――巨漢のオークに合わせた造りなので、三十%増しくらいですべてがスケールアップしている。
そうだよなぁ、オークの人が有楽町ガード下のバーデンバーデンに来たら、天井もテーブルも狭くて辛そうだもんなぁ、などと観察しながら思う。
「さぁさぁアラモード嬢、こちらにどうぞ!」
オークのウェイトレスとヤクソン氏に招かれ、私はテーブル席に着く。ここでは標準サイズなのだろうけど、四脚がゴツくて高く奥行きも深いので、大人用の椅子に子供が座ったみたいにぷらーんと足が浮いてしまう。
ヤクソン氏が向かいに座る。オークが大柄なオーク用のテーブルに着くのは、重厚で絵になるなー、どこかで役に立つかもしれないので記憶しておこう……と思う。
ぴかぴかの木製テーブルの上を、きょろきょろと見る。
「あの、メニューがあれば拝見したいのですが……」
「はっはっは、アラモード嬢? 道洋のご婦人はご存じないかもしれないのですが、このゴルドシュヴァインの戸を潜った者には――」
ヤクソン氏の笑いは、悪戯をした子供のようでもあった。
座ると間髪をおかず、先ほどのオークのウェイトレスが両手に一リットルくらいありそうなマースグラスに、並々と注がれたビールを持ってくる。
「シュヴァインのラガーを飲まぬ法はないのですよ」
――『金の虎』方式だコレ。
客に一杯目の注文を伺うなどというナイーヴで迂遠なことはしない、ここに来たからには貴様はまずコレを飲むよな? という自信ゆえのサービングだ。
目の前にどーんと据えられる、濃い金銅色の外観のビールと白い泡の冠をかぶったジョッキ。その迫力に私は震えていた。
「お、おおう……?」
いやオークじゃない人間族の私にこのサイズはちょっとキツくないですか? 無茶する酒飲みだってケイ先生にいわれますけど? と言おうと思ったが、思いとどまる。
……おそらくコレは――このビアホールの標準、いや下手すると最小のサイズのジョッキだ。
相撲取りのごとき巨漢ぞろいのオークなら、これくらいはコップで水を飲むようなものだろう。オークサイズの本物のフェス用マースジョッキはきっと、私が頭をすっぽりとつっこめる容量のものになるだろう。
――腹ァくくれ、ユイ・アラモード。
深呼吸して、ジョッキを持ち上げる。
みっちり入ったオークサイズジョッキは、両手で支えないといけないほど重い。酒飲みの見せる、根拠のない自信に満ちた笑顔を作る。
「これは祖国に戻って旅行記に書けばバカウケ間違いなしですね――乾杯!」
ヤクソン氏はタンブラーを扱うように、ひょいと同じサイズのジョッキを掲げた。ゆるんだ頬に笑みがある。
「勇気ある道洋の旅行者、尊敬すべき同道の先輩、そしてビールを愛する婦人に――プロースト!」