悠真が柳に名前を書くだけの婚姻届を渡したあとの話
ジューンブライド用に書いた悠柳
茶封筒から取り出した書類のせいで、月城柳の貴重な休暇は半分潰えてしまった。
ダイニングテーブルに広げられた白い上質紙には、細長いタイルのような記入欄が整然と並んでおり、ほとんどの項目が同一人物の筆跡によって埋められている。あまり几帳面ではない人間が書いたそれは、達筆といえば聞こえはいいが、ようは視認性の高い走り書きだ。
唯一残された項目は左上。本書類名称と各種年月日の下。「浅羽悠真」と書かれた項目のすぐ隣。ぽっかりとした空白に「月城柳」という麗しい氏名を記入して完成となります。さぁどうぞ埋めてください、とばかり待ち構えている。しかし柳は到底お気に入りの万年筆を握る気にはなれなかった。
通常ならばこの手の署名だけで済むタスクはすぐに片付けてしまう。ただし、それはあくまでも仕事上の話。
現在、休暇をまるごと潰す勢いを持つその用紙は、如何せん、婚姻届だ。
しかも、“夫になる人”はただいま不在である。
* * *
「月城さん。これ、サインしたら僕に返してください。あ、なるはやでよろしくお願いします」
久しぶりの休暇に心が緩んだ退勤直前。悠真が柳に一枚の茶封筒を差し出してきた。
「これは、隠していた報告書ですか?」
「うぅん。報告書じゃないんですけど、隠していた書類です」
妙な返事をした黒髪の青年は、指で肌荒れ一つない頬を掻いた。「職場で書くようなものでもないんで」
同僚から貰った書類なのに職場で書くようなものではないとは、どんな代物だろうか。柳は蒼角が持っているナゾナゾ絵本から難問を出題されたような心地になった。とはいえ手渡してきた悠真からは遊び心を忍ばせている気配はない。むしろいつもより神妙な面持ちをしている。こういうときは大抵彼が抱えている問題について柳に頼りたいときだ。もし、持病に関わるものなら、断る理由などない。そう判断した柳は、茶封筒を受け取り帰宅した。
結果は違った。想像の遥か先。もはや異次元の領域だったわけだが。
「……まったく」
柳は嘆息と呆れ声を混ぜた。今日は久方ぶりの一人時間を悠々と過ごそうとしていたのに、あの軽妙な男はとんでもない問題を寄越してきた。こんなことなら、まだ仕事を持ち帰ったほうがマシだ。とっくに片付けて映画でも観ていただろう。
なにが「なるはやで」ですか。イタズラや冗談にしても限度があります。
この紙が簡単に署名していいものなら、こんな格式ばった項目の羅列にはなっていない。そもそもの話、証人の二人は何故このような不可解な婚姻届に署名をしたのか。“妻になる人”の欄が空白なことになんの疑念もなかったのか。それとも彼が必死に説得したと、まさかそんなこと。
柳は右側にある項目を見やった。夫側にはビデオ屋を経営しているプロキシの名前。妻側には我らが対ホロウ行動部第六課の課長、星見雅の名前が連なっているではないか。
信じられません。二人とも一体どうして。柳はテーブルに肘をついて頭を抱えた。頭痛がする。
たしかに、浅羽悠真という男と柳は特別な関係にある。この特別な関係というのは、なにも杓子定規に、あるいは世間一般的に“恋人”と呼称するようなものではない。
同僚と呼ぶには近く、家族と呼ぶにはむず痒く、友と呼ぶには熱を持つ。そういう類だ。
抱える感情も、情念と呼ぶには憎しみが足りず、愛はゆらいでいる。
インクは、紙に垂せばじわじわと滲む。染まった境界を完全に囲うことはできない。それと同じように、完全に線引きできないこの関係は、暖かくもあり、温くもあった。
数年間、二人してこれに言及することなく甘んじてきた。ありとあらゆるところで。
それが突然、ひとピースだけ埋めれば完成する関係性の模式図を片方が持ってきたのだ。あまりに過程を飛ばし過ぎている。こちらが困惑する姿を、月城柳という女をよく知る浅羽悠真という男ならば容易く想像できただろうに。
天才と騒がれる佳容な青年の思考が、過去と病魔の礎によって年齢にそぐわない合理性で固められていることを、柳はよく知っていた。それと同じくらいイタズラが好きで、少年のような顔を見せることも。両極端な悠真たらしめる天秤は、いつ均衡が崩れるかしれない。
柳は彼が抱えていたものを知ったときから彼を支えたいという気持ちはより一層強くなっていた。もう少し早く知りたかったと思えば拍車がかかる。
気持ちは嬉しい。大手を振って傍にいられる大義名分が生まれるから。
しかし悠真のためには、このまま答えを出さずぬるま湯につかって過ごしたほうが幸せなはずだ。誰にも縛られず自由に生きる。生き様を優先するならここではっきりさせるのは、違うのではないか。
やっぱり何も書かずに彼に返そう。柳が紙を折りたたんでいると、外がゴロゴロと唸った。顔を上げ窓を見る。いつの間にか外は分厚い雲に覆われており、まもなくして窓を叩くほど土砂降りの雨が降り始めた。ぴかっと眩い稲光が新エリー都に降り注ぐ。柳の薙刀や、悠真の双刀から迸る紫電とは異なり、自然から放たれる極性の刃は、刹那のうちに世界の断絶と修復を繰り返した。
ここまで悪天候ではないが、最近は雨が続いていた。天気予報によれば不安定な前線が上空に停滞するせいでしばらく続くらしい。
この知らせにウェディング市場が自らの幸先を案じたのか、各有名結婚式場がレイニーウェディングを喧伝し、将来を誓い合った人々が見事に乗せられ、インターノット上で大流行りしていた。
懐古主義のプランナーでもマーケティング部門にいたのだろう。いくつも展開されるキャンペーンには、どれも「ジューンブライド」という文字が艶やかに飾られていた。かつて旧文明にも似たような風習が盛んだった地域があり、該当する時期が六月であったがゆえにそう呼ばれていたらしい。式場企画らしく抜かりのない験担ぎをしているというわけだ。
件の婚姻届を目の当たりにした柳は、一瞬だけ純白のドレスに身を包む姿を夢想したが、結局のところ当事者に返却すると決めた今となっては、霞となって掻き消えた。
洗濯物はしばらく乾燥機を頼るしかないか。
現実離れした書類を封筒に戻すと、あっという間に生活感のある思考が戻ってきて脳を占有した。乾燥機を使うなら今から洗濯しても夕方には乾くだろう。天気が良ければ外干しを考えていたが仕方がない。蒼角が外勤から帰ってくるまでに食事が用意できれば今日は十分だ。あとはゆっくりしよう。ああ、その前に水でも飲もうかな。テーブルに向かって紙と睨めっこしていただけだというのに、疲れがどっと押し寄せていた。
少しぼーっとして、さぁ気を取り直して日常を始めますかとテーブルに両手をついて柳が立ち上がったとき、インターホンが鳴った。今日は悉くこちらの思い通りにはいかない。
今度はなんでしょうか。せっかく上がった肩がすとんと下がる。
柳はため息をつくとモニターのスイッチを押した。「はい」と応答して映し出された光景に目を見開いた。
「浅羽隊員!?」
「月城さん、すみません。雨に降られちゃって」
雨宿りさせてもらえません? 濡羽色の髪に金色の瞳が目立つ青年が、申し訳なさそうにへらりと笑う。
全身ずぶ濡れの悠真がホールカメラの向こうに立っていた。
* * *
柳が脱衣所に入るとバスルームからシャワーが床を叩く音が聞こえ、磨りガラスの向こうから悠真のシルエットがぼんやりと見えた。
ふいと目を逸らして「着替え、ここに置いておきますね」と告げてその場を離れた。水跳ねの音で聞こえなかったかもしれないが、わざわざ聞こえるほど声を上げるものでもない。
浅羽隊員の着替えがあってよかった。
廊下に出て、ドアに寄りかかり胸を撫で下ろす。件の問題児がしとどに濡れて登場しては驚くほかない。たまに彼がこの家に泊まるおかげで、部屋着が残っていたのが幸いした。急いで濡れた服を乾かす必要はなかったからだ。体が冷えれば彼が養生すべき肺と心臓に負荷がかかるが、温めた服があれば回復するのも幾分早いはずだ。
きっと、なぜ付き合ってもいない男の着替えが家にあるのかと他人に訊かれでもしたら、返事に困るだろう。着替えだけではない。悠真は多くの私物を柳の家に置いていた。歯ブラシ、マグカップ、色鉛筆、インスタントカメラ、エトセトラエトセトラ。
柳が彼から貰ったもの多い。今まさにバスルームで彼が使っているであろうヘアコンディショナーもそうだが、先ほど握れずにいた万年筆も、去年の誕生日に貰ったものだった。
悠真の気配だけをこの家から完全に消すことはもはや困難だった。
あ、と声を上げ、柳は急いでリビングへと戻った。婚姻届を片付け損ねていたのだ。それに、今日は気を緩めて過ごすつもりだったため、悠真が普段訪れるときよりも部屋が散らかっている。
片付けておかなければ、「副課長どのにもこういう姿があるんですね」と彼は笑うだろう。あの封筒をしまっておかなければ、「サインしてくれました?」と問われるだろう。
どちらも困る。見栄は張っておきたいし、彼の突飛な要望を広げて半日も悩んでいたことを知られたくもない。良いところを見せたいということなら恋する少女と見紛われそうだが、実際のところ自分の中にあるちっぽけなプライドが強く訴えかけてくるだけだ。
柳はソファの背に掛けられたブランケットを手早くたたみ、流しに置きっぱなしにしていたコップを洗った。ダイニングテーブルを拭いて埃一つなくす。例の茶封筒は、キャビネットの上に置いてある「近日中」とラベルが貼られた書類ケースの中へ滑り込ませた。一応、まだ検討中ということにしておく。
カウンターキッチンに入り悠真のためにコーヒーを淹れる用意をしていると、まもなくして彼がリビングへと入ってきた。白無地の半袖に黒のハーフパンツ、首にタオルを巻き「助かりましたぁ」と間の抜けたお礼を口にする。
夏に差し掛からんとする今、いくら雨に降られた体とはいえ、シャワーで温めれた体にホットコーヒーは暑い。「アイスにしますか?」「お願いします」そんなやりとりをして、柳は水を沸かしていた電気ポットを手に取った。ハンドドリッパーにセットされたコーヒー豆に向かって円を描きながら熱湯をゆっくりとそそぐ。濃いめに淹れて、氷を入れるつもりだ。
遅れてやってきた休日の香りは、職場で同じものを飲んでいるとは思えないほど心を豊かにする。柳はつい嬉しくなってそそぎ終わったドリッパーを覗き込むと、メガネが湯気で曇ってしまった。一瞬の視界不良から解放されると悠真と目が合う。外でまた雲が唸る。なぜ彼は座りもせずにこちらを見ているのか、なんだか気まずくて柳は話題を探した。咄嗟に出てくるとなれば、それはやはり仕事のこと。
「そういえば、浅羽隊員は夜勤シフトでしたね。終わってから出かけていたのですか?」
「そう。副課長どのに渡したいものを渡せたんで、ちょっと下見に」
悠真がいきなり本題に入ろうとする気配を察知して、柳は口を引き結んだ。彼は今なんと言ったか、下見とは一体なんの。文脈からして、おそらく渡したいものに準ずる行為なのだろうと予想できる。けれども下見ということはつまり、断られるという算段をしてないということにならないか。呆れるほどの傲慢さではないか。それとも自信か。その思考が湧き出てくる根源はどこに。
あぁ私は、今までになく腹が立っているんだ。
感情に任せたとめどない思考の奔流の真っ只中にいては、まともな対話など出来はしない。
柳は一度冷静になろうと悠真から背を向けた。正面にある食器棚からコップを取り出し、冷凍庫を開け氷を入れる。ついでに自分のも。再び振り返りアイスコーヒーを完成させる頃には、手のひら越しに伝わる氷の冷たさで心が幾分と落ち着いていた。
リビングに出て「どうぞ」とテーブルに近くに立っていた悠真にコップを渡す。彼は「ありがとうございます」と言って素直に受け取った。
「災難でしたね」
「眠い目をこすって出かけたのに、この始末なんて。まったく困ったもんですよ」悠真がコーヒーを啜った。
「でも因果応報、ではないでしょうか」
柳は仮想空間の中で寄越した四文字熟語を再び投げつけた。悠真は「ははは、まさか」と言ってコップをテーブルに置いた。
「応報を受けなきゃいけないようなことを、僕は何にもしてませんよ」
「何にも? あれだけで十分です」
「……どうやら、中身をちゃんと見てくれたみたいで」悠真は含みを持たせた口ぶりだったが、声が高く機嫌は良さそうだった。「それで、今どこにあるんです? あれは」
柳はちらりとキャビネットを見やる。ですよね、と言いたげに片方の口角を上げた悠真は「近日中」のケースから茶封筒を摘み上げた。
「ちゃんとタスク認識してもらえてたみたいで良かったです」
「返却タスクですよ。手間が省けました」
「え、ウソですよね?」悠真は目を見開いた。
「そう思うのなら確認してみてください」
柳はダイニングチェアに腰掛け、ゆっくりと瞬きしながらアイスコーヒーを飲んだ。苦味だけが口に広がる。ガムシロップを追加するのをすっかり忘れていた。動揺の味がする。
悠真が茶封筒から中身を取り出して怪訝な顔をした。
「おかしいな。不備はないと思いますけど」
「不備?」柳は片眉を上げた。「そういう問題ではありません。ちゃんと説明してください。貴方にはそうする義務があります」
こつっ、とガラスの底と木板がぶつかる。感情のままにコップを割って中身をぶちまけてしまうような愚かさはないが、つい力が入った。悠真を見据えると彼は「分かりました。分かりましたから」と焦りながらガタガタと椅子を鳴らして向かいに座った。
彼の手によって再度広げられた婚姻届と相見える。こういった構図をドラマで見るとしたら、ここに展開されるのは離婚届というのがセオリーなのでは。いえ、それはともかく、と柳は小さく頭を振った。
「ハァ……ではまず、これは一体どういうつもりか教えてください」
「どういうつもりって、読んで字のごとく、ですよ」
「三回です」
「え?」
「これ以降、同様の言動を三回するようならご帰宅を」
「待って待って待って! も〜こわいってぇ」
はぐらかすな。暗にそう言った。悠真もすぐに理解を示してきた。彼はうぅん、と唸りながら後頭部を掻く。柳はイヤな予感がしていた。
「月城さんのためを思うと、これが一番いいなって思ったんですよ」
「要領が掴めません」
「ほら、僕って独り身だから諸手続きが──親族以外だと大変でしょう?」
「なんのことだか」
「だから、僕がこの世から去ったときに」
「悠真」
柳は咎めるように名前を呼んだ。意図することはよく分かった。それにイヤな予感も見事に的中した。けれど、彼の話を最後まで聞く心構えはできていない。
「そんな理由でサインしてもらえると思っていたのなら、良識不足ですよ」
「副課長どの。あなたなら僕の『良識』についてはよーくご存知でしょう?」
「やっぱり家に入れるんじゃなかった」
柳は頭を抱えてため息をついた。今日はよくこの仕草をする。こんな状況では仕方がない。
「突然なんです?」
「浅羽隊員の良識に期待するより、貴方が雷に打たれて冷静さを取り戻すほうが、より良い結果に繋がる確率はまだ高いかもしれません、という意味です」
「なんかすごいこと言ってるんですけどっ。冗談、ですよね?」
「半分ほどは」
「半分ほど!? じゃあ新ネタ? どこから半分か分かりにくいですよ」
「分からなくていいので問題ありません。ありのままを受け取ってください」
「これ受け取りたくないな〜」
受け取りたくないと言いたいのは私です。返事をする代わりに柳は立ち上がった。悠真の脇を通ってその場から離れようとする。
「ちょっと」悠真が目の前に立ちはだかった。「話、まだ終わってませんよ」
「もう十分では。こちらは、お返しします」
「どうして」
「どうして? なんて、」
残酷だとは思わなかったのですか。こんな、始まりと終わりを同時に連想させる行為に及ぶなど。説明を求めないまま黙ってサインなどするわけがない。柳は目的を達成するだけにしても、もう少し取り繕うくらいして欲しかった。
愛していると言わなくてもいいが、代替品くらいは要求したい。別にワガママなことではないはずだ。残りの人生を一人の男と添い遂げるのだから。
「月城さん、真面目に話すから。行かないで」
「悠真、私は」
ぴかり。柳の背後で窓が光った。強烈に世界を引き裂く音がして部屋が真っ暗になる。
停電だ。雷がどこかに落ちたのだ。
柳は、頭の天辺から爪先まで体中の神経系伝達系がビリビリと刺激された。心臓が慟哭しているのか、血潮が体中を駆け巡る。
気づいてしまった。彼を好いている。好かれたいと思っている。代替品でもいいというのは、無償の愛を捧げたいに留まらず、自身も与えれたいと望んでいるということだ。
でも、どうしたら。これは、自己を優先するのは彼のためにはならない。彼が望んでいるのはもっと事務的なものだ。
だから、今言うべきは。
「悠真」柳はまた彼の名前を呼んだ。しかし今度は喉の奥から絞り出した。
「はい」
雷光に応じて明滅する二つの金星は、柳をまっすぐに見つめていた。
「私は、今から当たり前のことを言います」
悠真は黙っていた。柳も目を逸らさない。
「結婚は、本当に大切な人とするべきです」
「……うん。想像通りだ」
「分かっているではありませんか」
「そうです。分かってます。あと月城さんに訊きたいんですけど」悠真がぐいと一歩近づいた。「僕がいつ、あなたを粗末に扱いましたか?」
「そうは思ってません。ですが──っ!?」
柳の言葉は最後まで紡がれることはなかった。悠真に塞がれた。唇を噛んでやめさせればいいのに、抵抗もせずに受け入れる。今しがた気づいた感情が反旗を翻すことを許さなかった。
「やっぱり、あなたは嫌がらない」顔を離した悠真は、眉を寄せ、困った顔をした。なんて表情だ。困りたいのはこちらだというのに。
「じゅ、じゅんばんが」口にしたのは拒絶でも、否定でもなかった。
「今さらでしょう」
見てくださいよ、この部屋。悠真が周りを見るように促す。見ずともわかる。この部屋には彼の痕跡が数多く存在する。
一度混ざったインクは、二度と元の色には戻らない。混ざりあって別の色を生み出して、紙に垂らせば染みとなって残る。一つになってしまうのだ。
悠真だって、はじめから今のようになるつもりはなかっただろう。柳と同じく。
「それでも、欲しい言葉はあります」
コーヒーを飲んだばかりだというのに、もう喉が渇いて、声は震えていた。
悠真は少しばかり俯いて、そっと柳の手を取った。ひと回りほど大きな彼の手は、弓を強く握るため無骨だ。
「あなたが嫌と言うなら、海に散骨するのはやめます。一緒に墓に入ります。なんなら骨壷も一つで。どうです? そこまでしたら、きっと死んでも一緒になれる」
「貴方は、それでいいと」
「違う。それがいいんです」
健やかなるときも、病めるときも、と誓いの口上を述べるより、どこまでも胸の深くへと浸透していく。
悠真は柳の左手を取った。薬指へと唇を落とす。
「好きです。月城柳さん。僕と結婚してください」
柳は口をはくはくとさせた。膝から力が抜けそうになって、悠真の服にしがみつく。溺れそうだったが、彼が腰に手を添え支えてくれたおかげで上手く呼吸ができた。
それが彼の真言だというなら、もう否定することも迷う必要もない。
「──……私も、です」
* * *
「実は今日、家に行くつもりはあったんです。はじめから」
手続きを終えて建物から出た頃には、とっぷりと日が暮れていた。昼間の悪天候はどこへやら。すっきりとした宵の口に、星が歓喜に満ちた姿で瞬く。大気は安定し、肌と髪を撫でる夜風は爽やかだった。
二人で駐車場へ向かう途中、柳の隣を歩く悠真はぽつりと零した。
「つきし……柳さんが困るだろうって、分かってたんで」
柳の名前を呼んだ彼は落ち着きなく首を回した。険しそうに眉を寄せなんとも言えない表情をする横顔は、気恥ずかしさの裏返し。涼しい夜に存在を浮かされた熱がこちらまで伝播する。
「そうでしたか。では……いえ」
婚姻届にサインしたあと、柳はこれ以上の追及と苦言を今日のところはやめておこうと決めていた。分かっていたなら何故、という言葉が出ていくのを歯噛みして飲み込む。「下見、というのは?」
「指輪。一緒に買いに行きたいけど、立地によっては色々注意することあるでしょ?」
なるほど。どうやら彼はプライベートでも斥候をしていたらしい。「職業病ですね」と柳が笑うと「まことに残念ですが」と苦笑いで返された。
「提出は、即日でよかったのですか?」
なんの変哲もない平日ですよ。記念日として取り扱うには少々味気ないのでは、と柳は首を傾げた。
「いいんですよ。そのくらいで」悠真は両手を組むと後頭部を支えた。「雨が降ったんで。むしろちょうど良かったです」
「雨?」
「まぁ、ただの験担ぎですよ」
「ジューンブライド」
柳は白昼夢に見た純白のドレスが再び蘇った。
「そうそれ。僕らがマーケティングに参画したら結婚式代タダにしてくれませんかねぇ」
「そんな盛大に執り行うつもりが?」
「まさか。僕はもっと静かなやつがいい。たとえば海辺でひっそりするとか」
「海、ですか……」
「あー、微妙ですかね?」
「いえ、人骨の行先について聞かされているわけではないので。楽しい想像ができますね」
「嫌味でしょ。それ」
「冗談です。マリンウエディングも、悪くありませんね」
なぁんだ。と悠真は夜空を見上げたかと思えば、「ほら」と言った柳に手を差し出す。
「知ってました? 僕ら、まだ手を繋いで歩いたことすらないんですよ」
「当然です」
「驚きですよねぇ」
「でも、今は夫婦、ですから、その」
「そうそう。そういうことなんで、ね?」
促されるままに柳が手を重ねると、悠真が指を絡ませ走り出した。大きな手にぐいと引っ張られ、「あっ」と柳が驚いた声を上げる。
「はるまさっ」
「これからは、たくさん繋ぎましょう。僕、どこまでも着いて行くんで」
「着いて行くって。これは、引っ張っていますよ!」
「あはははは、たしかに!」
振り返った悠真は幸せそうに笑っていた。
了