「ねえあずにゃん、私に飼われてみない?」
寒い寒い、冬の話だった。
空調設備を持たない、放課後の音楽準備室。彼女達、放課後ティータイムの部室。平沢唯は何の前置きも無しに、長椅子の隣に腰掛ける中野梓にそう言った。
外は冬の晴れ間。日は短く、綺麗な茜色が街を、学舎を染めている。そのあかりは窓より入りて、ふたりの顔も同様に染めていた。
「……なんですか、急に」
梓は、唯の発言を受けて訝しげに目を細める。
「だから、私に飼われてみない? ほらほら~」
唯は携えていた愛用のレスポールを脇に置くと、右手で手招きをした。おいでおいでをするその姿は、どこか本物の仔猫を手招いているような印象を受ける。
「もう……ふざけてないでください。練習するんじゃなかったんですか?」
他の部員は、今日はいない。何故いないのか、梓にはわからない。梓が来た時には、部室には唯しかいなかったのだ。
「他のみなさんは?」と尋ねた梓に「用事だって」と端的に答えた唯が、何故か珍しくギターを弾きたげであったこともあり、無用な詮索などせずにふたりで練習に励んでいたのだが。
──それがもし、唯先輩がこんなことを言い出すために仕組んだのだとしたら──
梓はかぶりを振る。いくらなんでも、考え過ぎだ。
梓はムスタングを構え直すと、唯にもレスポールを再度携えるよう促した。
されども唯は、それに従おうとはしない。
「え~やだ~あずにゃんを飼うまで練習なんかしたくないよ~」
とんでもない駄々っ子である。梓は思わず、溜息をこぼしてしまった。
「だいたい、飼うってなんなんですか、飼うって。ひとを猫か何かと勘違いしてませんか?」
「してないよ、あずにゃんはあずにゃんでしょ?」
その『あずにゃん』と言うあだ名が、既に唯の中では自分と猫との融合体の固有名詞と化していること、それを唯に説明するにはどれだけの言葉を尽くせばいいのか。梓は一応考えてみたものの、すぐにそれが徒労に終わるだろうことを悟ってしまった。
それに、いまはわりとどうでも良いことだ。いや良くは無いが、目下の最優先事項はレールを外れた唯先輩を再び練習の道へと引き戻すこと。ただそうなると──一筋縄ではいかなそうな様相ではある。
唯はおとぼけた感じでありながらどこか頑固な一面もある。例えば……梓は考えるのをやめた。思い浮かぶ例が、全て自分に関係するものだったからだ。
可愛がってくれるのは有り難い。それは梓とて拒みはしないが、さりとて相手は『可愛がる』のベクトルが一般人と若干ズレている唯だ。過度なスキンシップが、どのような感情に由来するものなのか、梓ではその本心を図ることはできない。単純に好いてくれているのか、それとも……。
「──あずにゃん、どしたの?」
「え? ……ああ、すみません」
ついつい考え込んでしまったせいで無言になっていたようだ。怪訝そうに見つめる唯に謝りを入れ、三度梓はムスタングを構える。
「ほら、練習しましょ」
しかし唯の態度は変わらない。
「いや。あずにゃんを飼うの」
頑なだ。何がここまで、唯を頑なにさせるのか。梓はやはりわからなかった。
「……もう、私帰りますよ」
わからない以上は、付き合いきれない。と言うより、練習しないのならここにいる意味が無い。お茶も、お菓子も、談笑もない音楽準備室に。
ギターをしまい、席を立つ。荷物を持って、梓は出入り口の方へと歩を進めた。
「あ、待ってあずにゃ……!」
慌てて立ち上がる唯。しかし慌て過ぎたせいか、自分で自分の足に蹴躓いては盛大に前のめってみせる。ドテン、と非常に気持ちいい、しかし痛そうな音が音楽準備室内に響く。
「いたた……」
なんとか、と言った具合で唯は膝立ちをする。あまりのことに、梓は踵を返して唯の元へと駆け寄った。
「大丈夫ですか、唯先輩?」
同じく膝をつき、唯と同じような高さになる。
「……うん、なんとか大丈夫だよーっと!」
うにゃあ──っ梓が上げた悲鳴は、唯の胸の中に消えていった。
「隙アリだよ、あずにゃん」
梓の頭の上に顎を乗せ、唯が「してやったり」と満悦そうに笑った。
近づいてきた梓に抱き着こうと、唯が考えたのはいつの話だろう。もしかしたら転ぶ前から、この展開を目論んでいたのだろうか──しばらくは我が身に何が起こったのかを理解出来ずにいた梓は、数分経って後、まずそんなことを考えた。
……抵抗は、しない。するだけ無駄だ、と思った。
唯は、暖かかった。夏に憂は言っていた。お姉ちゃんはあったかいって。確かにそう思う。そしていまは、そのあたたかさがとても心地の良いものだった。
「ふふっ、あずにゃんだぁー」
後頭部から背中の辺りをしきりに撫でる唯は実に満悦そうだった。
これが、『飼う』ってことなのだろうか。普段のスキンシップと何等変わりがない、この行為が。
梓は考える。しかし、答えなど浮かぶはずがない。あたりまえだ、梓は唯ではないのだから。
しかしながらこれが唯の言う『飼う』だとしても、梓は噛み付いたり引っ掻いたりするつもりは毛頭無かった。人肌を感じながら発展途上の膨らみの間に顔を収めているこの状況が、何と無く安心出来たからだった。
寒い寒い、冬の部室。唯と梓だけの、音楽準備室。茜色は自身に照らし出す室内で、飼い猫と女の子を、その時まで彩っていた。
唯はずっと『あずにゃん』を抱きしめていた。