先輩とあずにゃん   作:如月ミナト

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雨の七夕。


雨の七夕。

「遅くなっちゃったねー」

「もう……わざとのんびりしてたくせに、何言ってるんですか」

 

 えへへーと笑う唯に対し、梓はただただ、嘆息した。

 時刻は午後の七時を回っている。本来なら、彼女たちがこんなに遅くまで練習に励むことなど無いのだが、今日ばかりは様子が違った。

 

 

 

 ◇

 

「あ、私居残って練習していくよ」

 

 ティータイムと練習を終えた後に、珍しくもそう言い出す唯に、他の四人の部員たちは一様に目を見開いた。

 

「……何か悪いものでも食べたのか?」

 

 ついそう口走ってしまった律に対してしかめっ面をする唯だったが、律の言い分は、他の三人には共感する部分があったのは間違いなかった。現に澪と紬は苦笑いをし、梓は至極真面目な顔をしてみせる。

 ついでに言えば、梓にとっては何か思う部分もあったのだろう。

 

「なら私も、唯先輩の練習に付き合います」

 

 すると梓は言った。

 

「え、いいの?」

「はい。先輩が上手くなって下さるなら、私は尽力を惜しみませんから」

 

 きっぱりと言い切る梓に、唯は苦笑しつつはにかむ。嬉しいのだろうと言うことは、他の三人にも容易に想像が出来た。

 律、澪、紬の三人が部室を後にする。しばらくした後、唯は唐突に梓へと抱きついた。

 

「……練習するんじゃ無かったんですか」

 

 されど梓が驚愕することは無く、苦しくない、程よく心地よい抱擁をうけてなお冷静に言葉を発する。ある程度の予想がついていたためか、もしくは始めからわかっていたためか、どちらかだがこの際それはどちらでも同じことだった。

 

「すると思った?」

 

 いたずらっぽく訊ねる唯に対して、しかし梓はきっぱりとこう述べる。

 

「思いませんでした」

 

 だから、梓はムスタングを構えていない。唯ならきっと、まずこうするだろうと思ったからだった。

 

 ──抱きつかれたことは何度もあったけれど、抱き締められたことは、あの冬の日が初めての体験だった。

 

 唯先輩の体温を強く感じた、あの日。

 梓は、それを懐かしんだのだろうか。

 もう一度抱きすくめられたくて、自ら唯に付き添おうとしたのだろうか。

 あの真面目な表情は、あの日を回想していたがゆえのものだったろうか。

 しかし梓は胸中、かぶりを振った。

 結局のところ、わからないのだ。

 あの冬の日に、抱き締められた日に、なぜそれを振り払わなかったのか。唯ならもし振り払っても、きっといつもどおりに接してくれただろう。

 彼女の体温が安堵出来るものだったことは認める。それはまるで、頭まで羊水に浸かり眠る胎児を思わせる、深い、深い慈愛に満ちたものに思えた。梓はそれを、望んだのか。

 

 ──まどろっこしい話は抜きにしても、結局、梓は唯が好きなのか──それが、明確ではなかった。

 

「唯先輩」

 

 梓は、問う。

 

「先輩は、私のことが好きですか?」

 

 唯は答える。

 

「うん。大好き」

 

 その“大好き”は、果たして恋愛感情に起因するものなのか。

 梓についていないのは、つまるところその部分の区別なのだ。

 

「あずにゃんは」

 

 今度は、唯が問う。

 

「私のこと、好き?」

 

 梓は、躊躇いがちに答えた。

 

「……多分、そうなんだと思います。ごめんなさい、実は良くわからないんです」

「そっか」

 

 しかし、唯は満足そうだった。

 

「少なくとも、嫌いではないんだよね。私はそれだけでも嬉しいよ」

 

 口先だけでは何とでも言えることを、先輩は忘れているのではないか。梓がそう思うほど、唯は素直だ。

 さりとて梓が唯を嫌っているならば、勿論だが抱きつかれたまま問答するなどあり得ないことである。

 行動で立証されていることを、わざわざ口に出して言う意義は、なんだったのだろう。梓は考えたが、すぐにやめた。

 否、やめさせられてしまった。

 

  ──唯が、梓を離したのだ。

 

「……唯先輩?」

 

 途端に襲いかかってくる不安を払いつつ、梓は声を上げた。

 

「うん?」

 

 しかし唯は、訊き返すのみで何も答えない。

 

「……いいえ、何でもないです」

「へんなあずにゃん」

 

 変なのは唯先輩です、と言いたい衝動を抑えて、梓は、ムスタングを手にした。

 唯が、愛用のレスポールを手にしたためだった。

 

「じゃあ、練習しよっか」

 

 あまりに態度が豹変している唯に疲労を感じながらも、梓は否応を言わずにそれに従った。

 

 

 

 ◇

 

 さわ子先生がやって来て、

 

「音がするから来てみたら、あなたたちまだ残ってたの? 練習熱心なのは歓迎するけど、今日はもう遅いから帰りなさい」

 

 と告げ、唯と梓を音楽準備室から強制ログアウトさせたのがつい先程の話。

 夜の七時は、普段ならまだ日の出ている明るい時間帯ではあったが、今日は上空を厚い雲が覆っていたため、暗かった。

 校舎を出るまではその顔に笑顔を覗かせていた唯も、外気と触れ合いだしてからは表情が全く冴えない。

 折しも今日は、七夕だ。

 

「晴れないかなあ」

 

 唯は呟く。

 

「……難しいと思います」

 

 梓が答える。

 梓だって、晴れて欲しいとは思っていた。七夕に特別な思い入れがあるわけではない、だが一般論として、鈍より曇り空よりは、見渡す限りの星空の方が気分が良いし、ロマンチックだと思う。

 ただ、こうも街が明るいと、それを十分に堪能出来ないのが残念ではあるが。

 

「……あ」

 

 唐突に声を上げたのは唯。理由は、空から落ちてきた、いまは至極ありがたくない自然の恵みに起因した。

 

「雨……」

 

 ぽた、ぽた──と。それはまるで、頬を伝う涙滴に等しい。

 事実、今日の日の雨は催涙雨と呼ばれる。それを織姫と彦星が流す涙と捉えれば、些か幻想的かもしれない。

 されど、

 

「空が、泣いてるのかな」

 

 唯は、そうは捉えられなかったらしい。彼女が催涙雨についての知識を持ち合わせているかどうかは定かでは無いが、七夕の雨に対して、良い印象を抱いていないことは明白だった。

 天を仰ぎ……ぼおっと、その先を眺め続ける。ギターが濡れてしまうことなど、お構い無しの様子だ。

 

「唯先輩、傘は?」

「持ってない」

「私、傘持ってますよ」

 

 言うと梓は、自分のバッグの中から折り畳み式の傘を取り出して広げる。そして唯の横に密着する形で、傘をふたりの頭上に掲げた。

 小柄で華奢な梓に見合った傘のため、どれだけふたりが近づこうと、その全てを雨粒から守りきることは出来なかった。

 雨が比較的小降りであることが幸いしているが──そのまどろっこしさはどこか、織姫と彦星を連想させる。

 

 そのまま、ふたりは、無言で歩いた。

 話すことが何も無かったわけではないが、傘より下に滞る雰囲気が、梓の口に鍵をかけてしまっていた。

 唯もまた、何かを口にすることはなくただただ歩いている。了解を得ずして傘を差してしまった梓だったが、唯はそれについても何も言わなかった。「ありがとう」とも、「やめて」とも。

 

 ところで雨脚は時間が経過するごと強くなっていった。梓の傘では唯と一緒に歩くことすら難しくなるほど強く降り頻った。

 たまらずに、梓は近くにあった雨宿りが出来そうな軒先へと唯を誘導する。唯は梓に続き、豪雨を向こう側へと追いやった。

 並んで立ちつくすふたり。ギターを大事そうに抱える唯の表情は、やはり冴えない。

 

「あずにゃんはさ」

 

 ややあって、唯が口を開く。

 

「こんな天気でも、織姫と彦星はちゃんと会ってると思う?」

 

 それはある意味では唯らしい、メルヘンチックな問いだった。

 

「ええ、きっと」

 

 梓はそれを肯定する。

 

「そっか」

 

 唯はそう言うと、先程のように視線を斜め上方向へと投げる。雨粒と、黒い雲の遥か彼方、織姫と彦星が座す天体の小さな、小さな輝きたちを、唯は無心で見つめ続ける。

 

 ──否、見つめ続けたかったのだろう。

 

 それは、現状では叶わぬ夢に等しかった。

 少し時間が過ぎ去れば、唯もとうとうそれを諦めて、ギターを地面へと置いた。

 そして隣の梓を抱きすくめた。

 

「──!?」

 

 今度ばかりは梓とて予想の外にある唯の行動だった。瞬時に息を飲み込み、鼓動が高鳴る。息苦しさを感じながら、さりとてそれも数秒程度の話であり、唯の体温は、梓に安堵感をもたらした。

 

「先輩……?」

「わからないの」

 

 唯の声は、心無しか若干の振動を伴っているように感じた。

 

「わからないことが多くて、結局、何もわからないの」

「なんですか、それ」

「……わかんない」

 

 けど、と唯は続けた。

 

「不安、なのかな……これからのこととか、いろいろ。いままでは、ずっと、ずっと、こんな時間が続くと思ってて……でも三年生になって、ああもう最後なんだって思うことが増えてから、よくわかんないことも多くなって」

 

 ぎゅっ、と。梓を抱く腕の力が強くなる。

 

「それにあずにゃんのことだって……大好きなのに、卒業したらもう会えなくなるのかなって思うと、辛いんだよ? すっごく……あずにゃんは、織姫と彦星は雨のなかでもちゃんと会ってるって言ってたけど、なら私は……どうなのかなって。雨が降ったら、もう会えなくなるような気がして……怖い、のかな」

 

 いつになく弱気な唯は、一度抱擁を解いた。

 

「こうして離したら、あずにゃんに、もう触れられなくなるのかな……」

 

 対して梓は、

 

「──そんなわけ、ないじゃないですか」

 

 淡く、笑った。

 

「ひとつだけ、わかったんです」

 

 唯がしきりに抱きついてきたり、抱き締めてきたり、頭を撫でたり、頬を擦り寄せたり──雨空をすがるように眺めたりするのは、その胸中で渦を巻く不安と恐怖が原因だった。だから彼女は、“大好き”な梓と、ずっと触れ合っていた。不安を紛らすために。“大好き”だから。

 

「……なあに?」

「私」

 

 では梓は、唯の何なのか。

 ひとりの後輩か、同じパートの女の子か。

 少なくとも、それだけでは収まりきらないと、言い表すことができないと、梓は悟った。

 

 大好きだと、唯は言った。恐らく唯の気持ちは、大好き以上でも、大好き以下でもない。ただただ純粋に、唯は梓のことが“大好き”なのだ。

 梓がわかったのは、唯の本心だった。

 だから、

 

 

 

「──唯先輩のことが、大好きです。大好きだから、例えば雨の降る夜だって、唯先輩に会いに行きますよ」

 

 

 

 そして今度は梓の方から、唯の胸に飛び込んだ。

 

「あずにゃん……」

 

 一瞬驚いたような顔をした唯も、気が付けば胸にいる梓を優しく、抱いていた。右腕を背に、左手を後頭部に回して、包み込むように、梓を抱いた。

 

 ──寒い寒い、冬の日から、雨が降り頻る梅雨の季節まで、こうして何度も梓を抱いた。されどここまで、やさしい気持ちになれたのは、初めてのことだった。

 ゆっくりと……唯は手を離した。

 梓は、唯の胸から顔を離すと、先輩の表情を覗き見ようと上を向く。

 その顔は──穏やかな水面を思わせる無表情で、両の瞳は閉じられ、次第に。梓の方へと近寄ってくる。

 梓は、流れに身を任せた。

 

 ふたりの唇が重なるとき。

 

 催涙雨は、峠を越えて行った。

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