静筆の魔術師 ~音と秩序の辺境譚~   作:Magical forest

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官僚は国民のために奉仕する

今は、午前3時。

 

中央合同庁舎第3号館。つまるところ、国土交通省のオフィスでは、この時間では流石に人もまばらになる。

 

都市局 地方再生推進室の政策企画官補佐である篠崎修は、深夜にも関わらず、その部屋の隅で黙々と手を動かしていた。

 

山間部の限界集落統合計画案。その三次修正。今週末の大臣への企画発案を行うための資料。しかし、まだ完全には、見せられる水準には至っていない。

 

モニタとキーボードを片手に黙々と資料作成を行う。

 

眠気覚ましのコーヒーはすでに5杯目。4時の一番きつい時間に向けて、エナジードリンクに手を出そうかと考え始める。

 

「・・・よし、ここで集落Cを除外すると、上限人数は・・・。」

 

彼は必死に考えて、数字を確認する。

 

周囲に誰も居ない夜のオフィスで、彼の手によって、「生きる制度」の原案が生まれようとしていた。

 

彼は、先輩の指導を受けて、現場主義を貫いていたが、声だけではなく、同時に数字で客観的に判断するリアリストの側面も持っている。

 

今日も該当する集落への現場確認の出張の後に、そのまま庁舎に入って資料を作成している。

 

時計の針が3時10分を指す。 そこには、表計算に算入される小さな数値とグラフの線。 ただの数値ではあるが、これが沢山の人の人生を決める一因ともなりえる「声を持たない人達」の代弁とも言える。

 

彼の沢山のクラシック曲が詰まった携帯音楽プレーヤーから、ショパンのノクターンOp.9-2が流れ始める。

 

ショパンの甘いメロディーに癒されつつもキーボードを打つ手が、ふと止まる。 そしてほんの一瞬視界が歪んだ。

 

「あれ?・・・・・。」

 

体に異常を感じた修は、立ち上がろうとしたが足元がぐらつく。

 

キーンとした耳鳴り、そして冷たい汗。 心臓から締め付けられるような強い痛みを感じる。

 

彼はガタガタと痙攣すると、そのまま膝から崩れ落ちて、床の上で言葉にならない叫びを発した。

 

倒れる時に、机の端に肘が当たり、書類の束が床に滑り落ちた。

 

彼がこの世界で最後に見たのは、白い紙が、ひらひらと舞う光景だった。 まるで羽根や枯葉のように、まるで、誰かの想いが彼を包み込むようにして視界がブラックアウトした。

 

もう彼は、倒れたまま動かない。音もなく、ただ静かに、蛍光灯がその姿を照らしていた。彼を看取ったのは、ショパンの美しい旋律だけだった。

 

彼の遺体が発見されたのは、当局の警備の人が見回りに来た4時半の事で、そのまま救急車が呼ばれたが、運ばれた病院で医者が死亡を判断した。

 

死因は、過労による心停止だった。

 

周囲の同僚や上司は、誰も大げさな反応はしなかった。「よく働いていた」とだけ言われた。真面目な人など、この霞が関には掃いて捨てるほど居る。

 

結局、誰かがやらなければいけなかった仕事であり、運が悪ければ同僚である自分達のうちの誰かが過労死していた事だろう。

 

ただ、将来を期待していた若手のホープだっただけに、彼を育てていた先輩や上司の落ち込みは大きかった。

 

彼の葬式の後も、巨大国家の中枢である日本の霞が関は、篠崎修という微小な歯車を失いつつも、正確にいつもと変わらずに国家を回し続けていた。

 

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