静筆の魔術師 ~音と秩序の辺境譚~ 作:Magical forest
予想以上に上手く行ったビールとは対照的に上手く行かなかった商品がある。
それが白パンだ。
ビール工場の酵母を流用して、小麦粉の発酵を促したフワフワのパン。
まさに幸せの白い食品である。
僕は、白パンのフワフワ感と芳醇な味わいに、誰もがひれ伏すと思っていた。
しかし、街の声はこんな感じだった。
「なにこれ?ふにゃふにゃしていて変な触感。」
「このパン、膨らませて嵩増ししているだろ。セコイ。」
「なんで、こんなフニャフニャしたパンの値段が普通のパンの3倍はするんだ?」
「このパン、酸っぱい匂いがする。腐っているんじゃないのか?」
僕は、市場テスト用に開店したパン屋の様子を見て、悔しくて歯ぎしりをした。
「ぐぬぬぬぬっ。」
パンの様子を見ると、街の人に全く受け入れられていない。この世界で発酵の技術が進まなかった理由が良く分かる。
「どうしてだ! こんなに柔らかくていい匂いがするのに!」
「あれいい匂いなのですか? ちょっと酸っぱそうな匂いがしませんか?」
「確かに。ちょっと腐りかけの食品を焼いて誤魔化しているように見えます。新鮮な食品を好む獣人族なら忌避するでしょう。」
護衛の二人が言った。特に獣人のバルフの言葉は重い。普通の人にもそんなに受け入れられないのに、家族に獣人の人が居れば、もっと避けられるだろう。
ちなみに、パン用の単一酵母ではなくて、ビールからの酵母の代用だから、地球のパンに比べても匂いに雑味が多くて、確かに酸っぱい匂いもする。
「うーん。カルチャーショック。」
パン屋の匂いというのは、みんなが好むのだと思っていたのに、どうも子供の頃から美味しい物だと思っていたが故の刷り込みだったみたいだ。
こちらのパンは無発酵パン。インドのチャパティやトルティーヤのようなパンで、肉を撒いたり、豆の煮ものなどと一緒に食べる。
チャパティやトルティーヤを食べる地域の人も、別段、発酵パンを食べて次のような感想は抱かないだろう。
「発酵パンすげー。もうチャパティやトルティーヤなんて食べられたものじゃないよ。」
なんて改心する人が沢山居るとは思えない。発酵パンが万能なら、無発酵パンは地球では駆逐されたはずだ。
というか、メキシコの人を相手に発酵パンでトルティーヤにマウントを取ろうとしたら、血みどろの展開になる事は容易に想像が付く。
この地域の人もチャパティやトルティーヤを主食とする人と一緒だ。
発酵パンと無発酵パンの価値が一緒であれば、工程に多くの時間がかかって、発酵する分、味が安定しない難しい発酵パンを作る理由がほとんど無い。
発酵パンが地球のスタンダードだからって、日本人に向かって、「カルフォルニアロールが世界でメジャーだから本物の寿司。日本で今食べられているカルフォルニアロール以外の寿司は全部亜種で偽物。」と主張した所で、誰も聞く耳を持たないだろう。
正直、価格競争力では、白パンは全く相手にならない。 そして、こちらの世界の人には、3倍ものお金を払ってまで柔らかいパンを食べるぐらいなら、3倍の量の無発酵パンをお腹いっぱい食べる。
そして発酵パンは日持ちも悪くて、すぐにカビて、常温で長期間置いておく事もできない。
去年まで、ずっとお腹を空かして、ひもじい人思いをしてきた人達に、3倍の値段を払って、発酵パンを食べろと言う選択を迫るのは間違いだ。
僕が売り出した白パンは、どうやら市場競争に勝てないようだ。地球でパンから進化したビールがこの世界に無かった理由も分かってしまった。
前段階である発酵パンが普及しないのであれば、そこからさらに発酵させて派生するビールも存在しないよね。
「ん? でも、白パンは匂いが変って避けられるなら、ビールの匂いもだめじゃないの?」
僕は護衛の二人に聞いてみた。
「あれはお酒じゃないですか。お酒なのですから、少し変な匂いがするのは当たり前です。」
「その通りです。高価なお酒が飲めるのですから、多少の匂いなどに気になりません。 ちょっと前までは、ワインなどは上級近衛でも、年に数回飲めれば良い方だったのですが、今では上級近衛の給料であれば仕事終わりにビールが飲めます。ビールも最初は匂いに違和感がありましたが、何回か飲むと虜になって、今では美味しい匂いに変わりましたよ。こんな素晴らしい酒を作っていただいて、シュウ様、ありがとうございます。」
発酵パンを一番忌避するのが獣人族だけど、ビールの一番の愛好者も獣人族だ。彼らは野性的にアルコールを楽しむ。大麦をベースに大地の味がするビールはすごく大好評だ。結局、ようは慣れと好感度という話だ。
くさやの干物だって、好きな人には良い匂いなのだ。
どこの世界の人にもダブルスタンダードは存在するのだなと、人間社会の真理に気が付く今日この頃だった。