完結「嫌な公爵家」   作:埴輪庭

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厭な王国④

 ◆

 

 ヘルゲート公爵家の腕は長い。実に長い。それはもう物理的な限界を超えて、大陸全土の主要都市の、それこそ場末の酒場のカウンターの隅から貴婦人の寝室のベッドの下にまで届いていると言っても過言ではない。

 

 だが彼らがその長い腕で掴み取るのは国家機密だとか軍事情報だとか、そういった退屈で陳腐で、そして何より「高くつく」情報ではなかった。彼らが求めるのはもっと些細で、取るに足らないゴミのような情報である。

 

 例えば隣国の財務大臣が最近、愛人へのプレゼントとして高価な宝石を買い漁っている、とか。あるいは聖都イドラの枢機卿が、実はカツラであり、しかもそのカツラが最近ズレがちである、とか。はたまた、王都で一番人気のパン屋の主人が、小麦粉の量を少しだけ誤魔化している、とか。

 

 そんな聞いても何の得にもならないような、実にしょうもない情報ばかりだ。

 

 なぜか。理由は簡単である。第一にコストが安い。国家機密を探るには高度な訓練を受けたスパイを潜入させ、危険な任務を遂行させなければならない。それには莫大な費用と時間がかかるし、失敗すれば国際問題に発展するリスクもある。実に面倒くさい。

 

 それに比べて、噂話やゴシップの収集ならば、その辺の飲んだくれや、おしゃべりな商人を小銭で雇えば済む話。リスクは皆無だし、コストパフォーマンスは最高だ。

 

 第二にそしてこれが最も重要な理由だが、その方が「面白い」からである。

 

 レドラム・ヘルゲートという男は根っからの愉快犯であり、同時に恐るべき合理主義者だった。彼にとって、情報はそれ自体に価値があるのではない。それをどう「料理」するか、どう「悪用」するかにこそ価値があるのだ。

 

 スパイ活動(Espionage)の語源は古フランス語の「espier(監視する)」に由来する。歴史的に見れば、その手法は常に技術の進歩と共に変化してきたが、その本質は変わらない。敵の意図を探り、自陣営を有利に導くこと。だが、レドラムのアプローチはそれらとは一線を画していた。彼は情報を「点」ではなく「面」で捉える。一見無関係に見える無数の些細な情報──塵芥の山の中からきらりと光る金の粒を見つけ出すことに彼は天才的な才能を発揮した。

 

 例えば、先の財務大臣の宝石の話。普通なら「ふしだらな奴め」で終わる話だが、レドラムは違った。彼はその宝石の出所を調べ上げ、それが帝国の闇市場でしか手に入らない希少なものであることを突き止める。そしてその闇市場の元締めが、実は財務大臣の政敵である軍務大臣と繋がっていることを暴き出すのだ。

 

 あとは簡単だ。その情報を匿名で軍務大臣にリークすれば、二人は勝手に疑心暗鬼に陥り、足を引っ張り合い、やがて共倒れになる。レドラムは高みの見物で、その滑稽な悲劇をワイン片手に楽しむだけ。実に効率的で、そして邪悪な手法である。

 

 破壊工作、陰謀、悪行──そういった分野において、レドラムの右に出る者はそうはいない。彼は生まれながらのトリックスターであり、この世界という舞台を引っ掻き回すことを至上の喜びとする、迷惑極まりない存在なのだ。

 

 ◆

 

 ではなぜレドラムはこのタイミングで、この場所に現れることができたのか。それは数日前のヘルゲート公爵邸の書斎での出来事に遡る。

 

 レドラムは積年の埃と革表紙の匂いが染み付いた書斎で、今日も膨大な量の報告書に目を通していた。それは大陸各地から集められた、実にしょうもない情報の束だった。

 

「ふむ……南方の商業都市連合では魚の顔が徴税官に似ているという理由で暴動が起きているのか。実に興味深い。人間の集団心理とはかくも脆弱で面白いものだな」

 

 彼は報告書を一枚めくり、次の情報に目を移した。そしてその手がぴたりと止まる。

 

「……ほう?」

 

 それはルミナス王国の王都にある、とある高級仕立て屋からの報告だった。

 

『注文番号382番、カスパリウス・ヴォル・ガイア元帥閣下より依頼のあった旅行用マント五十着、及び携帯用食料(特注の塩漬け肉)百キロ、本日納品完了。代金は全て現金にて支払い済み』

 

 一見、何の変哲もない取引記録だ。だが、レドラムの目はその裏に隠された不穏な匂いを嗅ぎ取っていた。

 

「カスパリウス元帥が、旅行用マントを五十着? しかも、代金を現金で?」

 

 レドラムは愉快そうに口髭を捻った。カスパリウス元帥はその謹厳実直な性格と、そして絶望的なまでのケチで知られている。彼が仕立て屋にツケ以外の方法で支払いをすることなど、天変地異の前触れのようなものだ。

 

「これは面白いことになってきたぞ」

 

 レドラムはすぐに部下に命じ、カスパリウス元帥の周辺の情報を集めさせた。もちろん、些細な情報ばかりを。

 

 元帥お気に入りの酒場の主人が、「最近、閣下は妙に機嫌が悪く、しかも『この国の未来は暗い』などと愚痴をこぼしていた」と証言した。

 

 元帥邸の馬丁が、「最近、馬車が頻繁に出入りしており、何か大きな荷物を運び出しているようだ」と報告した。

 

 そして決定的な情報がもたらされた。元帥の側近たちが、次々と長期休暇を申請しているというのだ。その数、実に五十名。

 

「ビンゴだ」

 

 レドラムは確信した。カスパリウス元帥は国を捨てるつもりなのだ。あのプライドの高い老将が、ヘルゲート化する祖国に絶望し、亡命を決意したのである。

 

「素晴らしい! 実に素晴らしい決断だ! あの頑固者が、ついに現実から逃げ出すとは! これほどの悲劇、これほどの滑稽劇、見逃す手はない!」

 

 レドラムは腹を抱えて笑った。彼にとって、カスパリウス元帥は「お気に入りのおもちゃ」の一つだった。あの凝り固まった秩序への執着、あの融通の利かない正義感、そして何より、自分に向けられる純粋な嫌悪と殺意。それら全てが、レドラムにとっては最高の娯楽だったのだ。

 

 だが、そのおもちゃが勝手に舞台から降りようとしている。それは断じて許されることではなかった。

 

 レドラムはすぐに彼らの目的地を予測した。秩序と規律を重んじるカスパリウスが逃げ込む場所など、一つしかない。

 

「聖都イドラか」

 

 レドラムは忌々しそうに呟いた。彼にとって、イドラ教団は最も嫌悪すべき存在だった。あの偽善、あの欺瞞、あの俗悪な金儲け主義。そして何より、あの絶望的なまでの「悪趣味さ」。

 

 経済学において「情報の非対称性」という概念がある。取引において、一方の当事者が他方の当事者よりも多くの情報を持っている状態を指す。イドラ教団が行っている「浄化ビジネス」はまさにこの非対称性を利用したものだ。彼らは「浄化」という技術を独占し、その効果や持続時間について意図的に情報を操作することで、莫大な利益を上げている。実に合理的だが、美学がない。

 

「あの禿鷹どもの巣窟に私の大切なおもちゃが自ら飛び込むとは。実に不愉快だ」

 

 レドラムはすぐに聖都イドラの情報を集めさせた。これもまた、些細な情報ばかりを。

 

 枢機卿たちが最近、最高級のワインの注文量を増やしている。異端審問局が、新しい拷問器具を発注した。そして教皇庁の財務担当者が、ルミナス王国からの亡命貴族の受け入れに関する予算を計上した。

 

 それらの情報からレドラムは一つの結論を導き出した。イドラ教団はカスパリウスたちを歓迎するだろう。だがそれは彼らを利用し尽くした後、使い捨てるための歓迎だ。あの偽善者どもはカスパリウスの正義感を利用してルミナス王国への干渉を強めようとするだろう。そして用が済めば、適当な理由をつけて異端として処刑するに違いない。

 

「それは困る」

 

 レドラムは真剣な顔で呟いた。

 

「カスパリウス元帥は私のものでなければならない。彼を壊すのは他の誰でもない、この私でなければならないのだ」

 

 それは独占欲であり、同時に彼なりの奇妙な愛情表現でもあった。

 

 ◆

 

「というわけで、だ」

 

 レドラムは大広間のロングソファに腰かけながら彼の隣のウェネフィカに話しかけた。ちなみにリリアーナも同席させられている。

 

「カスパリウス元帥が、家出をした! これは由々しき事態だ! 我々ヘルゲート家の大切な友人が危機に瀕している! だが、問題は行き先だ。彼は聖都イドラに向かったらしい」

 

「イドラ……」

 

 ウェネフィカが静かに眉をひそめた。

 

「あの俗悪で、退屈で、そして致命的に悪趣味な場所。あんなところにいたら元帥様の精神も腐ってしまいますわ」

 

「同感だ、ウェネフィカ!」

 

 レドラムは同意した。

 

「あの偽善者どもに我々の大切な玩具を渡すわけにはいかん! よって、私は彼を迎えに行くことにした!」

 

 そして現在──。

 

 ・

 ・

 ・

 

 阿鼻叫喚の地獄絵図である。

 

「ハックション!」「ぶぇっくしょい!」「へっくし!」

 

 聖騎士団の威厳はもはや欠片もない。彼らは剣を取り落とし、地面をのたうち回っていた。彼らの誇り高き甲冑は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっている。信仰心でくしゃみは止められない。それは人体の生理現象という、最もプリミティブで、最もフェティッシュで、最フィジカルな反応だった。

 

 聖騎士団長は比較的軽症だったが、それでも連続するくしゃみに耐えきれず、片膝をついている。

 

「おのれ……ヘルゲートの悪魔め……ハックション! こんな卑劣な……ハックション! 手を使うとは……!」

 

 上空ではレドラムが腹を抱えて笑い転げていた。

 

「はははは! 傑作だ! これほど滑稽な光景は滅多に見られるものではない! 特にあの聖騎士団長の顔! 怒りと屈辱とくしゃみが入り混じった、実に複雑な表情だ! 芸術点が極めて高い!」

 

 彼はゆっくりと高度を下げ、地上に降り立った。燕尾服の裾を翻し、まるでパーティーの主催者のように優雅に歩み寄る。

 

「ごきげんよう、諸君。楽しんでいただけているかな?」

 

 その声に聖騎士たちは憎悪の視線を向けたが、くしゃみのせいで迫力は皆無だった。

 

 レドラムはカスパリウスの前に立った。彼もまた、くしゃみに苦しんでいたが、その目は死んでいない。

 

「はハックション! レドラム……貴様……ハックション! 何を企んでいる……!」

 

「企む? とんでもない!」

 

 レドラムは陽気に言った。

 

「私はただ、旧友の危機を救いに来ただけですぞ!」

 

「誰が貴様などの……ハックション! 助けを借りるか! ハックション! こんな屈辱を受けるくらいなら……ハックション! 死んだ方がマシだ!」

 

 カスパリウスは怒りと屈辱で全身を震わせていた。彼の誇りはズタズタに引き裂かれていた。だが、その姿こそが、レドラムが最も見たかったものだった。

 

「そう言わずに!」

 

 レドラムはカスパリウスの肩を親しげに叩いた。

 

「貴殿がここで死んでしまっては私がつまらないではないか。貴殿にはまだまだ、私を楽しませてもらわねば」

 

「貴様の玩具では……ハックション! ない!」

 

 その時、聖騎士団長がよろよろと立ち上がった。

 

「ヘルゲート公爵……ハックション! 貴様の行為は神への冒涜だ! ハックション! 必ずや、神罰が下るであろう!」

 

「神罰?」

 

 レドラムは愉快そうに笑った。

 

「それは楽しみだ! ぜひ、神とやらにお伝えいただきたい。ヘルゲート公爵レドラムはいつでも歓迎すると!」

 

 彼は聖騎士団長に近づき、その耳元で囁いた。

 

「ところで、団長殿。貴殿の部下たちが、実に興味深い秘密を暴露していたぞ。あの副団長、実は貴殿の妻と……おっと、これは失礼」

 

 聖騎士団長の顔が、怒りで真っ赤になった。

 

「貴様ァ! ハックション!」

 

 彼は剣を振り上げようとしたが、その瞬間に激しいくしゃみに襲われ、再び地面に倒れ込んだ。

 

「さて、カスパリウス殿」

 

 レドラムは振り返った。

 

「いつまでもこんな埃っぽい場所にいるのもなんだ。我が家へ帰ろうではないか」

 

「断る! ハックション!」

 

「そう言わずに。我が家には貴殿のために特別に用意した部屋があるのだぞ。最高に居心地が悪く、不快で、そして絶望的な部屋を!」

 

 レドラムは有無を言わさず、カスパリウスを抱え上げた。老将とはいえ、鍛え上げられた体は重いはずだが、レドラムは軽々とそれを持ち上げている。とんでもない膂力だ。

 

「離せ! ハックション! 離さんか!」

 

 カスパリウスは暴れたが、くしゃみのせいで力が入らない。

 

「さあ、行こう!」

 

 レドラムはカスパリウスを担いだまま、ヘルゲート号に乗り込んだ。彼の部下たちも、手際よく気球に乗り込む。

 

「待て! ハックション! 私を置いていくな!」

 

 カスパリウスの側近たちが、必死に叫んだ。

 

「おお、そうだった」

 

 レドラムは思い出したように言った。

 

「貴殿らも一緒に来るがいい。もうすぐ我が手勢がやってくる。全身黒ずくめの格好良い騎兵団だ。彼らとともにノコノコと亀のように地上から来るといい」

 

 そう言いのこして、レドラムは気球に乗り込んで去って行ってしまった。

 

 ◆

 

 嵐は去った。だが、後に残されたのは静寂ではなく、実に間抜けで、そしてこの上なく不衛生な音のシンフォニーだった。

 

「ハックション!」「ぶぇっくし!」「へっ、へっ……くしょん!」

 

 荒野の真ん中で、二つの集団が互いに距離を置きながらひたすらくしゃみを繰り返している。片や神の威光を背負うはずの聖騎士団。片や王国最強の武人に付き従うはずの精鋭たち。そのどちらもが今や、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにし、威厳の欠片もなく地面に蹲っていた。

 

 くしゃみとは鼻粘膜への刺激に対する反射運動であり、その噴射速度は時速三百キロを超えることもあるという。これは新幹線並みの速度であり、これを連続して行えば、当然ながら肉体には多大な負荷がかかる。レドラムが開発した「くしゃみ爆弾」はこの生理現象を強制的に、かつ劇的に引き起こす。殺傷能力こそないものの、人間の尊厳を破壊するには十分すぎる効果を発揮するのだ。実に悪趣味で、ヘルゲート家らしい兵器と言えよう。

 

 カスパリウスの側近たちは主君が拉致されたという事実よりも、この止まらないくしゃみの方に意識を奪われていた。

 

「ろ、肋骨が……ハックション! もう限界です……!」

 

 一方、聖騎士団も同様である。彼らの怒りと屈辱は頂点に達していたが、それを表現する術がくしゃみしかない。

 

「おのれ……ヘルゲートの悪魔め……ハックション! この屈辱……必ず……ハックション!」

 

 聖騎士団長が血走った目で、カスパリウスの部下たちを睨みつけた。公爵本人を取り逃がしたが、せめてこの残党だけでも捕らえなければ、彼らの面目は丸潰れだ。

 

「総員、立て! ハックション! 奴らを捕らえるのだ! ハックション!」

 

 団長の号令一下、聖騎士たちがよろよろと立ち上がる。その足取りは覚束なく、剣を握る手も震えていたが、それでも彼らは神の名の下に、目の前の敵に襲いかかろうとした。

 

 その時だった。

 

 ──ズシン……ズシン……ズシン……

 

 地響きがした。それは単なる馬の蹄の音ではない。もっと重く、もっと不吉で、そして決定的に邪悪な響きを帯びている。

 

 聖騎士団もカスパリウスの部下たちも、くしゃみの合間に音のする方を向いた。

 

 砂埃の向こうから現れたのは悪夢がそのまま形を持ったかのような軍団だった。

 

 全員が漆黒の鎧に身を包んでいる。だがそれは単なる黒ではない。光を吸い込み、見る者の希望すら奪い去るような、絶対的な闇の色。鎧のデザインも異様だ。至る所に鋭利な棘が突き出し、兜は悪魔の頭蓋骨を模している。彼らは皆、岩から削り出したような巨躯揃いだ。

 

 彼らが乗る馬もまた、常軌を逸していた。通常の軍馬より二回りは大きく、その眼は血のように赤く輝いているではないか。

 

 だが、その恐るべき軍団の先頭に立つ人物は周囲の威圧感とはあまりにも不釣り合いな存在だった。

 

 小柄な女性である。

 

 彼女は兜を被っていなかった。腰まで届くような流れる銀髪が、荒野の風に揺れている。その顔立ちはこの世のものとは思えないほど精緻で、美しい。だが、その美しさは人間的な温かみとは無縁のもの。まるで最高級の大理石で造られた彫像のように冷たく、完璧だった。

 

 そして何より特徴的なのはその瞳。右目は燃えるようなルビーの赤、左目は凍てつくようなサファイアの青。

 

 虹彩異色症(ヘテロクロミア)、いわゆるオッドアイ。左右の虹彩の色が異なるこの状態は人間においては稀であり、歴史的にはその神秘的な外見から「神の使い」あるいは「悪魔の印」として畏怖の対象となってきた。この女性の場合、その圧倒的な美貌と相まって、後者の印象を強く与えていた。

 

 黒い軍団が聖騎士団の前に立ちはだかるように停止した。その動きは完璧に統率されており、一切の無駄がない。

 

 そして静寂が訪れた──かに見えた。

 

 次の瞬間、その静寂は実に下品で、狂気に満ちた怒号によって打ち破られる。

 

「殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺すゥ!!!」

 

 一人の黒騎士が、馬上で身を乗り出しながら絶叫した。その声は兜の中で反響し、異様な響きを帯びている。

 

「ギャハハハハ! 新鮮な肉だ! 内臓食わせろ! 目玉をくり抜け!」

 

 別の騎士が、下卑た笑い声を上げながら剣を振り回した。

 

「ヒャッハー! 消毒だァー!」

 

 彼らの言動はその威風堂々とした外見とは裏腹に、まるで知性の欠片もない狂人か、あるいは世紀末の暴徒のようだった。完璧な統率と、剥き出しの狂気。その奇妙な同居に、聖騎士団は完全に気圧される。くしゃみも止まり、ただ呆然とその場に立ち尽くすのみ。

 

(な、なんだこいつらは……!?)

 

 カスパリウスの部下たちも同様だ。彼らはヘルゲート家の異常さには慣れているつもりだったが、これは予想を遥かに超えていた。

 

 その時、狂乱する黒騎士の一人が、ついに我慢の限界を超えたらしい。

 

「待ちきれねえ! まずは手前の白いのから血祭りにあげてやるぜェ!」

 

 彼は巨大な戦斧を振りかざし、最も近くにいた聖騎士に向かって突進する。その動きは恐ろしく速く、聖騎士は反応することすらできない。

 

 誰もが凄惨な光景を予想した、その瞬間。

 

 ──ガキィィン! 

 

 空気を切り裂くような鋭い金属音が響き渡った。

 

 聖騎士の目の前に、銀色の閃光が割り込んでいた。先頭にいたあの銀髪の女性である。

 

 彼女はいつの間にか馬から降り、常人には視認できないほどの速度で移動し、黒騎士の突進を阻止していたのだ。

 

 だが、彼女は剣で受け止めたのではない。

 

「ぐえっ!」

 

 黒騎士が蛙の潰れたような声を上げた。銀髪の女性はその華奢な体からは想像もつかないような強烈な回し蹴りを黒騎士の胴体に叩き込んでいたのである。

 

 鎧ごと衝撃を受けた黒騎士はまるで紙屑のように吹き飛んだ。十メートルほど転がった後、地面に激突する。その衝撃で、彼の被っていた悪魔のような兜が外れ、地面に転がった。

 

 そしてその素顔が露わになる。

 

 聖騎士団も、カスパリウスの部下たちも、息を呑んだ。

 

 それは人間の顔ではなかった。

 

 皮膚は病的なまでに白く、そして何より異様なのはその顔中に無数の小さな目が蠢いていることだった。額に三つ、頬に五つ、そして本来目があるべき場所にも、複眼のようなものが収まっている。

 

「いってえな! 何しやがる!」

 

 異形の騎士はまるで何事もなかったかのように立ち上がった。あの強烈な蹴りを受けて、ダメージはほとんどないらしい。

 

 銀髪の女は氷のように冷たい視線で彼を見下ろした。

 

「ジャガン。貴官は命令違反を犯しました」

 

 その声は美しく、しかし感情の欠片も感じさせない。

 

「あァ? 命令違反だと?」ジャガンと呼ばれた異形の騎士が、苛立たしげに顔中の目を蠢かせた。

 

「旦那様──レドラム・ヘルゲート公爵閣下の命令を忘れましたか。『極力、彼らを殺すな』。そのように仰せでした」

 

「ちっ……覚えてるよ。だがよ、こいつらあんまりにも美味そうじゃねえか」

 

 ジャガンは聖騎士たちを値踏みするように見回した。その視線はまるで家畜を見るかのようだ。

 

 銀髪の女は静かに首を横に振る。

 

「自制なさい。貴官の醜悪な食欲を満たすために、旦那様の計画を台無しにするつもりですか。もし次に命令に背けば、その首を刎ねます」

 

 その言葉には一切の容赦がなかった。ジャガンは不満そうに鼻を鳴らしたが、それ以上逆らうことはしない。彼は知っているのだ。この美しい女性が、自分たちよりも遥かに強く、そして残酷であることを。

 

 彼女はジャガンから視線を外し、聖騎士団に向き直った。そのオッドアイの瞳が、彼らを射抜く。

 

「聖騎士団の皆様。ごきげんよう。私はカミィラと申します。ヘルゲート公爵家にて、この粗野な者たちの監督を任されております」

 

 彼女は優雅に一礼した。その仕草は完璧な貴婦人のそれだったが、その場においては不気味な違和感しか生まない。

 

「さて、我々の目的はそこにいるカスパリウス元帥の部下たちを回収することです。皆様にはご迷惑をおかけしましたが、どうか見逃していただけませんでしょうか」

 

 それは丁寧な依頼の形をとっていたが、その実、有無を言わせぬ脅迫である。

 

 聖騎士団長が、震える声で反論した。

 

「み、見逃すだと? 貴様らこそ、神敵ヘルゲートの手先ではないか! それに、その異形の怪物はなんだ! 悪魔か!」

 

「悪魔?」

 

 カミィラは小首を傾げた。

 

「ジャガンはただの人間ですよ。 まあ訳ありではありますが。少しばかり人相が悪いですが、根は素直なんです。そんな事よりも──」

 

 彼女は氷のように冷たい笑みを浮かべた。

 

「もし、ここで我々と事を構えるというのでしたら──」

 

 その瞬間、彼女の周囲の空気が歪んだ。凄まじい殺気が、津波のように押し寄せる。それは先ほどまでの黒騎士たちの剥き出しの狂気とは全く質の異なる、純粋で、濃密で、そして絶対的な「死」の気配だった。

 

「──皆様を一人残らず皆殺しにしなければなりません。よろしいでしょうか」

 

 その言葉はまるで「お茶のお代わりはいかがですか」とでも言うかのように、事も無げに告げられた。だが、その軽さゆえに、かえって恐ろしい。

 

 聖騎士たちはもはや言葉を失っていた。彼らの本能が告げていた。この女には絶対に敵わない、と。

 

 カミィラは彼らの沈黙を了承と見なし、カスパリウスの部下たちに向き直った。

 

「お待たせいたしました。さあ、参りましょう。旦那様がお待ちです」

 

 カスパリウスの部下たちは恐怖と困惑の中で、ただ黙って従うしかなかった。彼らは地獄から逃げ出したつもりが、さらに深い地獄の使者に迎えに来られたのである。

 

 黒い騎兵団はカスパリウスの部下たちを取り囲むように隊列を組み直すと、再び地響きを立てながら去っていった。

 

 後に残されたのは屈辱と恐怖に打ちひしがれた聖騎士団と、荒野に虚しく響く、彼らのくしゃみの音だけであった。

 

 

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