完結「嫌な公爵家」   作:埴輪庭

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厭な家族団らん

 ◆

 

「ああ、なんて素晴らしい朝でしょう。窓の外では断末魔のような鳥のさえずりが響き渡り、陰鬱な湿地帯からは腐敗した生命の芳香が漂ってくる。そして何より、私の愛する二人が今日も完璧なまでに絶望的な表情で食卓についている……すべてが、耐え難いほどに幸福で、陰惨で、だからこそ、ヘルゲート家の輝かしい一日を始めるに相応しい光景だわ」

 

 デスデモーナ・ヘルゲート公爵令嬢は、広大で、そしてこの上なく陰気なダイニングルームを見渡してそっと囁いた。最高級のマホガニーのように重厚で、磨き上げられた断頭台の刃のように鋭利な──美しくも不穏な声だ。

 

 ヘルゲート公爵邸の朝は常に濃厚な死と隣り合わせの緊張感に満ちている。壁には歴代当主が拷問の末に殺害した敵のデスマスクが芸術品のように飾られ、天井からは錆びた鎖と用途不明の鉄枷がシャンデリア代わりに吊り下げられている。

 

 そんな素敵な空間で、デスデモーナはまるでこれから始まる素敵な惨劇を祝うかのように、血のように赤い朝食用のドレスを纏い、幸福感に打ち震えていた。

 

 彼女の視線の先にいるのは、二人の哀れな……いや、愛すべき同居人たち。彼女の婚約者であるエリアス・セラ・ルミナス元第一王子と、彼女の親友となった元隣国の間諜、リリアーナ・フローレットだった。

 

 エリアスはかつて眩しかった金髪も今や精彩を欠き、抜けるような青空の瞳は常に何かに怯えるように泳いでいる。あの忌々しいほど単純明快だった正義感は、この数ヶ月のヘルゲート家での生活によって、見事に粉砕されつつあった。

 

 そしてリリアーナ。一流のスパイとして鍛え上げられたはずの彼女の精神は、デスデモーナの純粋で、混じり気のない、だが致命的な「友情」によって、もはや修復不可能なまでに摩耗していた。虚ろな瞳で虚空を見つめるその姿は、まるで魂を抜かれた精巧な人形のようだ。

 

 ──ああ、なんて愛らしいのかしら。二人のこの憔悴しきった姿! 恐怖に震え、希望を失い、ただただ絶望に身を委ねるその表情……これこそが、生きている証! 凡庸な幸福など、私たちにとっては腐った肉よりも価値がないもの

 

 デスデモーナは心からの愛情を込めて二人に微笑みかけた。

 

「ごきげんよう、エリアス様。そして、愛しのリリアーナ。昨夜はよくお休みになれたかしら?」

 

 エリアスはビクリと肩を震わせた。彼の寝室のベッドは、ヘルゲート家特製の「安眠妨害装置」が仕掛けられている。真夜中に突然傾いたり、床下から不気味な呻き声が聞こえたり、天井から水滴(時には血のような液体)が落ちてきたりするのだ。これはもちろん、将来の国王として、いついかなる時も暗殺の脅威に備えるための訓練の一環である。

 

「あ、ああ……デスデモーナ。おはよう……」

 

 エリアスは引き攣った笑顔で答えた。その声はかすれ、生気がない。

 

「まあ、お疲れのようね。やはり昨日の『模擬毒殺訓練』が効きすぎたかしら。でも、あれでまた一つ、致死性の毒物への耐性がついたはずよ。喜ばしいことだわ」

 

 デスデモーナが言う訓練とは、食事にランダムに毒を盛ることである。もちろん、すぐに解毒剤を投与するから死ぬことはないが、死の淵を彷徨う苦しみは本物だ。

 

 エリアスは青ざめた顔で頷くしかなかった。

 

「リリアーナはどう? 貴女のために用意した新しいお友達、『人面瘡のジョージ』とは仲良くなれたかしら?」

 

 リリアーナの頬がピクリと動いた。彼女の寝室に届けられたのは、不気味な老人の顔が浮かび上がった、蠢く肉塊だった。それは夜通し彼女に呪いの言葉を囁き続けるという、実に愛らしいペットだ。孤独なスパイ生活を送ってきた彼女への、心からのプレゼントだった。

 

「……ええ、デスデモーナ様。ジョージは……とても、おしゃべりですわ……」

 

 リリアーナは感情のこもらない声で答えた。一流のスパイとしての矜持が、辛うじて彼女の精神崩壊を食い止めている。だが、それも時間の問題だろう。

 

「それは良かったわ! ジョージは寂しがり屋だから、貴女のような素敵な話し相手ができて喜んでいるはずよ」

 

 デスデモーナは満足げに微笑んだ。

 

 そこに、音もなく執事が現れた。青白い顔をした、まるで幽霊のような男だ。

 

「奥様、旦那様がお見えになりました」

 

「あら!」

 

 次の瞬間、ダイニングルームの重厚な扉が凄まじい音を立てて吹き飛んだ。爆破したのだ。レドラムは爆発物のグランド・マスターである。扉のみを限定して爆破することなど赤子を四肢を引きちぎるよりも容易い事だ。

 

「グッド・モーニング、我が愛しき家族たちよ!」

 

 陽気で、それでいて腹の底に響くようなバリトンボイスが響き渡る。硝煙と血の匂いを纏って登場したのは、ヘルゲート公爵レドラムその人だった。手にした血濡れのサーベルを隠そうともせず、満面の笑みを浮かべている。

 

「おっと」

 

 レドラムの隣にいつのまにかウェネフィカ公爵夫人が静かに立っていた。レドラムの背をナイフで突き刺そうとした所、レドラムが後ろ手にナイフの刃をつまんだのだ。まあ、ちょっとした挨拶の様なものである。

 

「あなた、朝からお元気ね」

 

「ああ、ウェネフィカ! いやはや、庭を散歩していたら、実に新鮮な暗殺者の集団に出くわしてね! 朝食前の良い運動になった!」

 

 レドラムは上機嫌でサーベルについた血をナプキンで拭き取った。ヘルゲート公爵邸には、公爵の首を狙う暗殺者や、秘宝を狙う盗賊が後を絶たない。彼らは皆、公爵家のおもてなしの対象となる。

 

「父様、母様!」デスデモーナが歓喜の声を上げる。

 

「おお、デスデモーナ! 我が愛しの小さな毒蜘蛛! 今日も最高に邪悪なオーラを放っているな!」

 

 レドラムは娘の頬にキスをした。そして、食卓についている二人の若者に目を向けた。

 

「ほう、これはこれは婿殿と、我が家の新しい友人ではないか! どうだね、ヘルゲート家の生活には慣れたかね?」

 

 エリアスとリリアーナは、恐怖のあまり椅子から転げ落ちそうになった。この国の暗部を牛耳る化け物夫婦。彼らの前では、王族の権威もスパイの技術も何の役にも立たない。

 

「あ、あの、公爵閣下……」エリアスが震え声で言った。「も、もてなしていただいております……」

 

「そうかそうか! それは何より! 遠慮はいらんぞ! 我が家は常に、刺激と恐怖と絶望を提供することを使命としているのだからな!」

 

 ウェネフィカは氷のような視線でリリアーナを捉えた。

 

「リリアーナさん。貴女、少し痩せたんじゃないかしら。間諜は体が資本でしょう? もっと栄養を摂らないと」

 

「は、はい……」

 

「さあ、朝食にしましょう!」デスデモーナが手を叩いた。「今日は特別メニューよ。父様が仕留めてくださった新鮮な暗殺者たちの……いえ、それは冗談。西方の湿地帯で採れた、実に珍しい『絶叫マンドレイク』のオムレツよ」

 

 銀の皿に乗せられて運ばれてきたのは、毒々しい紫色をしたオムレツだった。フォークを刺した瞬間、皿の上で断末魔のような叫び声が響き渡る。

 

「素晴らしい!」レドラムが感嘆の声を上げた。「この悲鳴! 実に食欲をそそる!」

 

「ええ、ダーリン。このマンドレイク、相当な恐怖を味わって死んだようですわ。最高の味付けですわね」

 

 ヘルゲート一家が楽しそうにオムレツを口に運ぶ中、エリアスとリリアーナは顔面蒼白で固まっていた。

 

「さあ、二人とも召し上がれ」デスデモーナがにこやかに勧める。「これを食べると、一日中、素敵な幻聴と被害妄想に苛まれることができるのよ。精神修養には最適だわ」

 

 エリアスは泣きながらフォークを握りしめた。断れば何をされるか分からない。彼は意を決してオムレツを口に運んだ。瞬間、彼の脳裏に恐ろしい光景がフラッシュバックし、彼は椅子から転げ落ちて泡を吹いた。

 

「まあ! 効き目が早いわ! さすが殿下、感受性が豊かね!」

 

 デスデモーナが嬉しそうに拍手する。

 

 リリアーナも震える手でオムレツを口にした。彼女は必死に平静を装おうとしたが、その瞳孔は開き、全身が小刻みに震えていた。

 

「素晴らしい! 二人とも見込みがあるぞ!」レドラムが豪快に笑った。

 

 ・

 ・

 ・

 

 地獄のような朝食の後、午後は「教育」の時間だった。

 

 エリアスは公爵邸の地下にある「帝王学の間」に連れてこられた。そこは、歴代のヘルゲート公爵が王族を「教育」するために使用してきた特別な部屋である。壁には様々な拷問器具が飾られ、中央には電気椅子のような豪奢な椅子が置かれていた。

 

「さて、エリアス様。今日は『裏切りの心理学』について学びましょう」

 

 デスデモーナは教鞭を手に、生き生きとした表情で言った。

 

「国王たる者、常に側近の裏切りに備えなければなりません。そのためには、まずご自身が裏切られる痛みを深く理解する必要がありますわ」

 

「ど、どういうことだ……?」

 

「簡単なことですわ。今から私は、貴方を徹底的に騙し、裏切り、絶望の淵に叩き落とします。さあ、その椅子におかけになって」

 

 エリアスは恐怖に震えながら椅子に座った。デスデモーナは彼の前に立ち、突然、この世のものとは思えないほど優しく、慈愛に満ちた表情を浮かべた。

 

「エリアス様……私、気づいたのです。私のこれまでの行いは、貴方を苦しめるだけでした。本当に申し訳ありませんでした。私は、貴方の望むような、善良で、光に満ちた女性に生まれ変わりますわ」

 

 その言葉に、エリアスは目を見開いた。デスデモーナの瞳は潤み、その声は甘く、真実に満ちているように聞こえた。

 

「ほ、本当か……? デスデモーナ……」

 

「ええ、本当ですわ。もう二度と、貴方を怖がらせるようなことは致しません。この陰気な屋敷も、全て改装しましょう。明るく、希望に満ちた場所に」

 

 エリアスは感動に打ち震えた。ついに、彼女が改心してくれたのだ。この悪夢のような日々が終わるのだ。

 

「おお、デスデモーナ! 君がそんな風に思ってくれていたなんて……!」

 

 エリアスが希望に満ちた表情を浮かべた、その瞬間だった。

 

「──なんて、嘘に決まっているでしょう?」

 

 デスデモーナの表情が、一瞬にして氷のように冷たく、残酷なものに戻った。

 

「あ……?」

 

「まあ、なんて単純なのかしら! こんな見え透いた嘘に騙されるなんて! 貴方のその絶望的なまでの愚鈍さ、本当に愛らしいわ!」

 

 デスデモーナが指を鳴らすと、椅子から高圧電流が流れ、エリアスは絶叫した。

 

「ぎゃあああああ!」

 

「素晴らしい悲鳴だわ! これが裏切りの痛みよ、エリアス様。希望が絶望に変わる瞬間の、この甘美な苦痛を、骨の髄まで刻み込んでくださいまし」

 

 デスデモーナは恍惚とした表情で、感電するエリアスを眺めていた。

 

 一方その頃、リリアーナはデスデモーナの私室にいた。そこは、彼女の趣味である拷問器具のコレクションが所狭しと並べられた、実に素敵な部屋だ。

 

「リリアーナ、今日は私たちの友情をさらに深めるために、素敵な遊びをしましょう」

 

 デスデモーナは、精巧な作りの「鋼鉄の処女(アイアンメイデン)」のミニチュアを手に取った。

 

「これは『尋問ごっこ』よ。貴女が捕らえたスパイ役で、私が拷問官役。さあ、国の機密を吐くまで、徹底的に痛めつけてあげるわ」

 

「い、嫌です……デスデモーナ様……私はもう、スパイでは……」

 

「あら、何を言っているの。一度スパイになった者は、死ぬまでスパイよ。その魂に刻まれた裏切りの匂いは、決して消えないわ。だからこそ、貴女はこんなにも魅力的なのよ」

 

 デスデモーナはリリアーナを拘束椅子に座らせ、様々な拷問器具を取り出した。

 

「さあ、まずは手始めに『爪剥ぎ』からいきましょうか。この器具はね、爪と肉の間にゆっくりと針を差し込んでいくの。想像しただけでゾクゾクするでしょう?」

 

「ひっ……!」

 

 リリアーナは恐怖に顔を歪めた。デスデモーナは本気だった。彼女は純粋に、この「遊び」を楽しもうとしているのだ。

 

「大丈夫よ、リリアーナ。痛みは一瞬。でも、私たちの友情は永遠よ。さあ、一緒に楽しみましょう」

 

 デスデモーナが悪魔のような笑みを浮かべたその時、部屋の扉が開いた。

 

「あら、楽しそうね」

 

 ウェネフィカ公爵夫人だった。

 

「母様!」

 

「私も混ぜていただけるかしら。最近、少し体が鈍っていて」

 

 ウェネフィカはリリアーナの前に立ち、その顎を優しくすくい上げた。その手は氷のように冷たく、微かに毒の匂いがした。

 

「リリアーナさん。貴女、まだ本当の恐怖を知らないようね。デスデモーナの拷問は、まだ生ぬるいわ」

 

 ウェネフィカの瞳が、深淵のように暗く輝いた。

 

「本当の拷問とは、肉体的な痛みだけではないの。精神を破壊し、魂を汚染し、それでもなお生き永らえさせること。教えてあげるわ──その神髄を」

 

 リリアーナは、ついに声を上げて泣き出した。一流のスパイだった彼女の心が完全に折れた瞬間だった。

 

「まあ! リリアーナ、泣いているの? そんなに嬉しいのね!」

 

 デスデモーナは感激したように言った。

 

「母様の直々の指導を受けられるなんて、最高の名誉だわ! 良かったわね、リリアーナ!」

 

 ・

 ・

 ・

 

 その夜。ヘルゲート公爵邸の庭園は、いつも以上に深い闇に包まれていた。

 

 エリアスとリリアーナは、目隠しをされ、両手を縛られた状態で、庭園の中央に立たされていた。エリアスは午後の「教育」で受けた精神的・肉体的ダメージから立ち直れず、リリアーナはウェネフィカによる「指導」によって、もはや自我を保つことすら困難な状態だった。

 

「い、一体何が始まるんだ……?」エリアスが震え声で呟いた。

 

「分かりません……もう、何も考えたくありません……」リリアーナが虚ろに応えた。

 

 その時、二人の背後で、陽気な声が響いた。

 

「ハッピー・サプライズ!」

 

 目隠しが外されると、そこには満面の笑みを浮かべたヘルゲート一家が立っていた。

 

「エリアス様、リリアーナ! 貴方がたが最近お元気がないようだから、特別なイベントを用意したのよ!」

 

 デスデモーナが誇らしげに宣言した。

 

「その名も、『真夜中のデス・ゲーム』! ルールは簡単。この広大な庭園に放たれた、我が家自慢の魔獣たちから逃げ延び、夜明けまでに屋敷の玄関に辿り着くこと!」

 

「ま、魔獣だと……!?」エリアスが絶叫した。

 

「ええ! 父様が世界中から集めた、実に凶暴で、残忍で、愛らしいペットたちよ! 彼らも新しい獲物に飢えているの!」

 

 レドラムが口笛を吹くと、闇の中から無数の赤い瞳が浮かび上がった。地響きのような唸り声が、空気を震わせる。

 

「さあ、ゲームスタートだ!」

 

 レドラムが合図を送ると、魔獣たちが一斉に二人に向かって襲いかかってきた。

 

「ぎゃあああああ!」

 

 エリアスとリリアーナは、絶叫しながら駆け出した。縛られた手でバランスを崩し、何度も転倒しながら、必死に逃げ惑う。

 

「素晴らしい!」レドラムが観客席から身を乗り出した。「あの逃げ惑う姿! 恐怖に歪んだ表情! 最高のエンターテイメントだ!」

 

「ええ、ダーリン。特にリリアーナさん。スパイとしての本能が呼び覚まされたようですわ。見事な体捌きですこと」

 

 ウェネフィカも満足げに頷いた。

 

 デスデモーナは、二人の姿を愛おしそうに見つめていた。

 

「頑張って、二人とも! これは貴方がたの絆を深めるための試練よ! この恐怖を乗り越えた時、私たちは本当の家族になれるのだわ!」

 

 彼女の純粋な声援が、夜空に虚しく響き渡る。

 

 エリアスは、巨大な三つ首の犬に追いかけられながら、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしていた。もはや王族としての威厳など欠片もない。

 

 ──嫌だ……もう嫌だ……! 誰か助けてくれ……! 

 

 リリアーナは、巨大な毒蜘蛛の糸に絡め取られながら、虚ろな目で月を見上げていた。

 

 ──殺して……もういっそ、殺して……

 

 二人の悲痛な叫び声が、ヘルゲート家の庭園に響き渡る。

 

「ああ、なんて素晴らしい夜でしょう」

 

 デスデモーナは恍惚とした表情で呟いた。

 

「恐怖、絶望、そして悲鳴……すべてが完璧だわ。こんなに心が通じ合える相手に出会えて私は本当に幸せ者ね」

 

 彼女はボロボロになりながらも必死に生き延びようとする婚約者と親友を眺めながら、心からの幸福に満ちた微笑みを浮かべた。

 

 ヘルゲート家のいつも通りの素晴らしい日常はこれからも続いていく──彼らの絶望が続く限り、永遠に。

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