完結「嫌な公爵家」   作:埴輪庭

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厭な大戦争③

 

 ◆

 

 勝利とは酒のようなものである。適量ならば心地よい高揚をもたらし、過剰ならば理性を溶かす。そしてこのルミナス王国においては、その酒は常に適量を超えて注がれる運命にあった。

 

 緒戦の完勝を祝う宴は王宮の大広間で盛大に催されていた。楽団は不協和音を巧みに織り交ぜた祝賀曲を奏でている。貴族たちは競うように黒い正装を身に纏い、互いの衣装の「不吉さ」を褒め合っていた。

 

「聞いたかね? 帝国軍の将軍があまりの恐怖に白髪になったそうだぞ!」

 

「素晴らしい! それこそ芸術的敗北というものだ!」

 

 歓声と笑い声が絶えず響き渡り、赤い噴水(染料)を模した酒が惜しげもなく振る舞われる。だがその狂騒の渦中にありながら、東塔の最上階──エリアスとデスデモーナの私室には、不思議な静けさが漂っていた。

 

 部屋の装飾は相変わらず常人の理解を超えていた。壁には見る者を不安にさせるという理由で選ばれた抽象画が並び、天井からは乾燥した薬草と、用途不明の骨製オブジェがぶら下がっている。窓の外には宴の喧騒が漏れ聞こえてくるが、この部屋だけは別の時間軸に存在するかのようだ。

 

 デスデモーナは窓辺に佇み、微かに表情を陰らせている。

 

「デスデモーナ?」

 

 エリアスが不思議そうに彼女の傍らに歩み寄る。

 

「どうしたんだい? 今日は我々の完全勝利だ。もっと喜んでもいいんじゃないかな」

 

「ええ、勝利は素晴らしいわ」

 

 デスデモーナは声こそ穏やかだったが、そこには熱狂の欠片もない。

 

「でも、少しだけ……もったいないと思ってしまうの」

 

「もったいない?」

 

 エリアスは眉をひそめた。

 

「何がもったいないんだい? 敵は壊滅し、我々は圧倒的な勝利を収めた。これ以上望むべきことがあるとは思えないけれど」

 

 デスデモーナはゆっくりと首を横に振った。その仕草には、幼子に難しい概念を説明する教師のような忍耐が滲んでいる。

 

「エリアス様。死と苦しみは、全く別のものなのよ」

 

 彼女は窓から離れ、部屋の中央へと歩みを進めた。その足取りは優雅で、まるで舞踏会の前奏曲を踏むかのようだ。

 

「苦しみとは、生きているからこそ味わえる甘露ですわ」

 

 デスデモーナの瞳が、蝋燭の炎を映して妖しく輝く。

 

「絶望の淵に立ち、それでもなお生き続けなければならない苦悶。希望が潰えた後もなお、明日を迎えねばならない残酷さ。自らの無力を噛みしめながら、それでも呼吸を続ける拷問のような日々。それこそが人間という存在の最も美しい側面ではなくて?」

 

 エリアスは黙って聞いていた。彼女の言葉は彼の理解を超えていたが、同時に、どこか腑に落ちる部分もある。

 

「でも、死んでしまえば──」

 

 デスデモーナは溜息をついた。それは悲しみというよりも、惜しむような響きを帯びている。

 

「そこで全てが終わってしまうのよ。苦しみも、絶望も、そして……わたくしたちが彼らに与えられるはずだった、全ての素敵な体験も」

 

 彼女は書状を机の上に置き、エリアスに向き直った。

 

「今日の戦いで、何千もの命が一瞬で消えたわ。彼らはこれから味わうはずだった絶望を、恐怖を、後悔を、何一つ経験することなく逝ってしまった。それは……とても、とてももったいないことだとは思わない?」

 

 エリアスは意外そうな表情を浮かべた。ヘルゲート家の美学は死と隣り合わせの刺激を追求するものだと思っていた。だがデスデモーナの言葉は、それとは微妙に異なる哲学を示唆している。

 

「つまり君は……敵を殺すよりも、生かして苦しめる方が良いと?」

 

「正確には、生かして『体験させる』方が良いのよ」

 

 デスデモーナは微笑んだ。その笑みには慈愛とも残酷ともつかぬ、複雑な感情が込められていた。

 

「死は終着点。でも苦しみは旅路ですわ。長ければ長いほど、深ければ深いほど、その人生は豊かになる。わたくしたちヘルゲートの使命は、人々にその旅を存分に味わわせてあげること。死という安易な終わりを与えることではないの」

 

 この世には「苦痛嗜好」とでも呼ぶべき精神傾向が存在する。自己への苦痛を求めるマゾヒズムとは異なり、他者の苦悶を美的体験として鑑賞する性向だ。だがデスデモーナのそれは、さらに一段階捻れていた。彼女は苦しみそのものを──与える側も、受ける側も含めて──人間存在の本質的価値と見なしているのである。

 

「それに」

 

 デスデモーナが付け加えた。

 

「お父様も同じ考えのはずよ」

 

「レドラム公爵も?」

 

 エリアスは驚いた様子で聞き返した。あの陽気で悪趣味な公爵が、このような繊細な死生観を持っているとは思えなかったからだ。

 

「ええ、お父様は『人間』たちをあまり減らしたくないそうなの」

 

 デスデモーナは何気なくそう言った。

 

「デスデモーナ、その言い方だとまるで公爵が人間じゃないみたいに聞こえるよ」

 

 エリアスが指摘すると、デスデモーナは小首を傾げた。

 

「あら、そう?」

 

 その問い返しには、肯定も否定もなかった。ただ、謎めいた微笑みだけが浮かんでいる。まるで、その答えを知っているのは彼女だけであり、それを明かすつもりは毛頭ない──といった風情で。

 

 エリアスはしばし彼女の顔を見つめていた。ヘルゲート家には多くの秘密がある。彼はその全てを知っているわけではないし、知る必要もないのかもしれない。重要なのは目の前にいるこの女性を愛しているということ。そして、この狂った世界を共に生きていくということだけだ。

 

 やがて、デスデモーナがふと表情を和らげた。

 

「うふふ」

 

 彼女は小さく笑い、エリアスに向かって優雅に手を差し伸べる。その仕草は完璧な貴婦人のそれであり、同時にどこか蠱惑的な誘いを含んでいる。

 

「踊りたい気分だわ。よろしくて?」

 

 エリアスは一瞬きょとんとした。階下では盛大な宴が催されているというのに、ここで二人きりで踊るというのか。

 

 だが、彼はすぐに微笑んだ。それこそがヘルゲート流なのだろう。大勢の中で浮かれ騒ぐよりも、暗い部屋で二人だけの時間を過ごす方が、遥かに甘美で、遥かに退廃的ではないか。

 

「喜んで」

 

 エリアスはデスデモーナの手を取った。その指先は冷たく、だが不思議と心地よい。

 

 二人は音楽もなしに、ゆっくりと踊り始めた。窓の外から漏れ聞こえる宴の喧騒が、遠い世界の出来事のように感じられる。蝋燭の炎が揺らめき、壁に二人の影を長く伸ばしていく。

 

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