完結「嫌な公爵家」   作:埴輪庭

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厭な世界②

 ◆

 

 異端認定の知らせがルミナス王都に届いたのは、王国の空が一番高い初秋の昼下がりのことだった。

 

 リチャード国王は開封された羊皮紙を読み上げるガンジャの声を聞きながら、大きくため息をついた。

 

「よって、イドラ教会はここにヘルゲート一族の思想と行為を光神に対する冒涜たる異端と認定し、大陸全土の信者に対し、ヘルゲート文化の即時排斥を命じます──とありますな」

 

「……正式な異端認定か。ゴルロイスの奴、とうとうやりおったな」

 

「以前のような抗議使節団ではなく、完全な敵対宣言でございますな」

 

 ガンジャの声は平静だが、眉間の皺は深い。

 

「あの時ユキムラ殿が論破したのが相当堪えたのでしょう。今回はルミナスとの直接外交を避け、イドラ教の権威で各国を動かす方針に切り替えたようです」

 

 リチャードはため息をついた。

 

「各国の反応は」

 

「二分しております。教会の権威を重んじる北方の小国群はヘルゲート文化の禁止令を発布。一方、我が国との交易で潤っている南方の商業都市連合は教会の命令を黙殺しております」

 

「……そして残りの国は」

 

「国内で意見が割れて混乱しておりますな。特にドゥームズガル帝国の旧領では、ヘルゲート・シックに染まった若者たちと教会に忠実な保守層の間で激しい対立が起きているようです」

 

 リチャードは再び溜息をつく。胃痛はそこまででもないが、どうにも気鬱で仕方がなかった。

 

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 ・

 

 この事態にヘルゲート家がどう反応したかは、想像に難くない。

 

「まあ! 異端ですって!」

 

 デスデモーナが歓喜の声を上げた。両手を胸の前で組み、頬を紅潮させ、まるで最愛の人から求婚されたかのような恍惚とした表情を浮かべている。

 

「わたくし、生まれてこの方、これほど光栄な称号をいただいたことはございませんわ!」

 

「異端は称号じゃない」

 

 エリアスが呟いたが、その目はすでにヘルゲート色に澄み切っている。彼の脳裏では、この「異端認定」をいかにして政治的に利用するかの計算が高速で回転していた。

 

 レドラムは異端認定の書状を額縁に入れ、大広間に飾ることを即座に決定する。

 

「素晴らしい! これは家宝だぞ! ウェネフィカ、見てくれ。『光神に対する冒涜』だと! こんな最高の賛辞は二度ともらえまい!」

 

「ええ、あなた。素敵ですわ」

 

 ウェネフィカは微笑みながら、新しい毒薬の調合を続けていた。彼女にとって教会の動向は、毒キノコの分類と同程度の関心事でしかない。だがふと、手を止める。

 

「ねえ、あなた。宗教とは何だと思う?」

 

 レドラムが振り返る。珍しい問いかけだった。

 

 ウェネフィカは試験管を光にかざしながら続けた。

 

「要するに物語なのよ。人々が必要としている物語。複雑で、理不尽で、残酷な現実を、何か一つの単純明快な解釈で包み込んでくれるもの。今まではイドラ教のそれが最も広く受け入れられていた。でも今、人々が必要としている物語が変わりつつある」

 

 二百年以上を生きた魔女の言葉には、年月だけが与えうる透徹した重みがある。

 

「お母様は、どちらの物語がお好き?」

 

 デスデモーナが尋ねた。

 

「どちらも嫌いよ」

 

 ウェネフィカは淡々と答える。

 

 ◆

 

 イドラ教が「聖戦」を宣言したのは、異端認定から二ヶ月後のことである。

 

 ゴルロイス大司教は聖都イドラの大聖堂に数千の信者を集め、荘厳な演説を行った。緋色の法衣が聖堂の黄金色の光を受けて血のように輝いている。

 

「光神の子らよ! 闇は我らの世界を蝕みつつある! ヘルゲートの邪悪なる教えは若者を惑わし、秩序を乱し、信仰を穢す毒である! 今こそ立ち上がれ! 聖戦の旗の下に集え! 光の名において、闇を討て!」

 

 信者たちの喝采が大聖堂の天井を揺るがす。

 

 しかし現実は演説のように華々しくはない。

 

 聖戦軍の編成は難航した。各国への参加要請に対し、反応は芳しくない。ルミナスの魔導科学力を目の当たりにした国々は及び腰で、まともに兵を出したのは教会の直轄領と、教会に経済的に依存する北方の小国群のみである。集まった兵力はおよそ三万。数の上ではそれなりだが、ルミナス王国軍の装備と練度には遠く及ばない。

 

 レドラムは聖戦の報を聞いて大喜びする。

 

「聖戦! なんてロマンチックな響きだ! ウェネフィカ、聞いたか! わざわざ我々のために戦争を起こしてくれるというのだぞ!」

 

「あら、嬉しいこと」

 

 カスパリウスは頭を抱えた。

 

「……また騒ぎが大きくなる」

 

 だがこの聖戦は、ルミナス国境に到達する前にあっけなく瓦解する。

 

 原因は三つ。

 

 第一に、ヘルゲート・シックに染まった若い聖騎士たちが進軍命令を拒否した。彼らは黒い鎧を纏い、「不幸こそ美学!」と叫びながら聖戦旗を逆さまに掲げる。指揮官が怒鳴っても、彼らは「怒りもまた一つの芸術」と平然と返す。教会が長年かけて育てた精鋭が、ヘルゲート文化に汚染されていたのだ。

 

 第二に、リリアーナの仕事である。彼女が再構築した諜報網は、もはや帝都だけでなく大陸全土に広がっている。聖戦軍の各部隊の間に偽の情報を流し、相互不信を煽った。「先鋒のギムレー伯爵はイドラ教に献金した額の三分の一を着服しているらしい」「後方支援のオルファット司教はルミナスの間者だ」。いずれも根も葉もない噂だったが、元々まとまりのない寄せ集め軍にはそれだけで十分である。

 

 第三に、エリアスの外交が致命的だった。彼は参加国に密使を送り、個別に「ルミナスと敵対した場合の経済的損失」を数字で示す。魔導科学技術の輸出停止、影鋼鉄の取引凍結、食料支援の打ち切り。冷徹な計算を突きつけられた国々は、信仰と財布を天秤にかけ、軒並み財布を選んだ。

 

 聖戦軍は出発から十日で半数が離脱し、二十日後には指揮系統が完全に崩壊する。ゴルロイスの下に残ったのは教会直轄の聖騎士団のみ。しかもその聖騎士団すら、三割がヘルゲート・シックの信奉者であった。

 

 残存する聖戦軍の掃討を担ったのは、帝都から急派された黒騎兵団である。

 

 カミィラ率いる漆黒の騎馬隊がルミナス国境付近に展開した瞬間、聖騎士たちは凍りついた。かつてカスパリウスの部下たちの救出時に聖騎士団を完膚なきまでに無力化したあの女が、再び目の前に現れたのだ。

 

「お久しぶりでございます。前回は随分とお手柔らかにさせていただきましたが、今回も同じでよろしいでしょうか?」

 

 カミィラの微笑みを見た聖騎士たちの半数が、問答無用で武器を捨てる。

 

 副隊長のジャガンは遅れて到着し、残りの聖騎士たちに突っ込もうとしたが、カミィラに馬上から蹴り落とされた。

 

「命令を聞きなさい。この者たちは捕虜です。殺してはなりません」

 

「……はい」

 

 ジャガンは地面に頭をめり込ませたまま、渋々従う。

 

 ゴルロイス大司教は孤立した。

 

 

 ・

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 ・

 

 特別外務卿ユキムラが、聖戦の後始末を担当する。

 

 彼は相変わらずのヨレたシャツと猫背で、教会の使節と向き合った。

 

「どうもー。えーと、聖戦、お疲れ様でしたー。で、どうします? こっちは別に怒ってないんで、ぶっちゃけ今なら穏便に済ませられるんですけど」

 

 使節は震えながら和議の条件を聞く。

 

「条件? 特にないですよー。強いて言えば、もうこういうのは勘弁してください、って感じですかねー。めんどくさいんでー」

 

 この脱力系の外交が、結果として最も効果的であった。ゴルロイスの威厳ある演説よりも、ユキムラの面倒くさそうな欠伸の方が、聖戦の虚しさを雄弁に物語っていたからだ。

 

 ◆

 

 聖戦の瓦解から半年。

 

 ゴルロイスは最後の賭けに出る。

 

 彼は聖都イドラの大聖堂で大規模な祈祷を催し、「神の奇跡」をもってヘルゲートの邪悪を打ち破ると宣言した。光神の祝福が下り、世界に蔓延する瘴気を一掃し、信仰の正しさを証明する壮大な儀式。

 

 デスデモーナはその話を聞いて目を輝かせた。

 

「奇跡ですって! それなら私たちも参加いたしましょう!」

 

 レドラムとウェネフィカを引き連れ、聖都イドラに乗り込む。

 

 聖都の住人たちはヘルゲート一家の来訪に震え上がったが、彼らは完璧な礼節を守って大聖堂に入った。デスデモーナはむしろ誰よりも敬虔な表情で最前列に座り、両手を組んで祭壇を見つめている。その姿は外見だけなら聖女そのものである。

 

 ゴルロイスの祈祷が始まった。

 

 大聖堂に集まった数千の信者が一斉に祈りを捧げる。聖歌が天井に反響し、聖水が撒かれ、香が焚かれる。ゴルロイスは祭壇の上で両手を天に掲げ、光神に呼びかけた。

 

「偉大なる光神よ! 我らに奇跡をお示しください! この世界を蝕む闇を払い、正しき信仰の力を!」

 

 沈黙が落ちる。

 

 数千の信者が息を呑んだ。

 

 何も起きない。

 

 光は降りなかった。奇跡は起きなかった。天井のフレスコ画の天使たちは相変わらず下界を見下ろしているだけで、そこに神の意思は感じられない。

 

 ゴルロイスの額に汗が浮かぶ。彼はもう一度、声を振り絞って祈った。三度目。四度目。

 

 何も起きない。

 

 信者たちの間にざわめきが広がり始めた。

 

 レドラムだけが、ほんの微かに目を細める。いつもの陽気な笑みの奥に、深い哀しみのようなものが一瞬だけ滲んだ。

 

 当然だ。もう、誰も聞いてはいないのだから。

 

 沈黙を破ったのはデスデモーナである。

 

「猊下。奇跡がお見えにならないのでしたら、わたくしがお手伝いいたしましょうか?」

 

 彼女は立ち上がり、ウェネフィカに目配せした。

 

 大聖堂の花壇、聖なる白百合が植えてあったその場所から、一夜にして咲くはずのない黒薔薇が花開いた。中庭の枯れかけた噴水が水を噴き上げ、聖堂の外で病に伏していた子供が起き上がって走り出す。ウェネフィカの魔術と解毒剤による手品に過ぎなかったが、民衆の目には奇跡としか映らない。

 

 大聖堂の数千人が息を呑む。

 

 ゴルロイスが光神に祈っても何も起きず、ヘルゲートの令嬢がそっと手を差し伸べただけで花が咲き、病が癒える。

 

「本当の奇跡は、どちらなのか」

 

 その問いが、信者たちの胸に刺さった。

 

 ◆

 

 世界が変わり始めていた。

 

 いや、壊れ始めていた。

 

 大陸各地で不可解な現象が相次ぐ。精霊の森が枯れ、魔獣が姿を消し、古代遺跡の魔法陣が沈黙する。海の色が濁り、星の位置がずれ、夜空に見えるはずの月が三日間消えた。

 

 だがそれ以上に人々を苦しめたのは、もっと身近な災厄である。

 

 大陸南部で原因不明の高熱病が流行し、数千人が命を落とした。西方では穀物の大凶作が三年連続で続き、飢饉が農村を覆い尽くしている。漁場からは魚が消え、家畜は原因不明の病で次々と倒れていく。

 

 人々は「天罰」だと囁いた。教会は「ヘルゲートの呪い」だと断じる。

 

 だが真実はどちらとも違う。

 

 学者たちは原因を特定できない。教会自身も異変に見舞われていた。聖水の力が弱まり、祝福の魔法が効かなくなりつつある。イドラ教が誇る浄化の儀式すら、効果が目に見えて低下していた。

 

 ウェネフィカが城の塔から夜空を見上げる。

 

「世界が、薄くなっている」

 

 二百年の生の中で、彼女はこの世界の「層」を感覚的に理解していた。物質の層の向こうにある、もう一つの層。精霊や魔力や、かつてはそこにいた何者かの気配。その層が、日に日に希薄になっていく。

 

 レドラムが隣に立った。

 

 いつもの陽気さはなく、珍しく静かである。

 

「あなた。最近、気配が消えていくのを感じるわ。()()のどんどんいなくなっていく」

 

「……ああ」

 

「教えてくれる? 今、世界で何が起きているのか」

 

 レドラムは長い沈黙の後、妻の手を取った。

 

「もう少しだけ、待ってくれ。もう少しで全てが終わる」

 

 

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