数えきれぬ世界、無限に広がる可能性を。
君たちの住む宇宙とは異なる、だが確かに存在するもう一つの現実を。
そこには、君たちが知る“あの”ヒーローたちがいる。
だが、これは彼らの物語ではない。
マルチバースは無限の枝分かれを生み出す。
同じ英雄が立つ世界もあれば、まったく別の者たちが日々を生きる世界もある。
多くの人々は戦わず、ただ日常を紡ぎながら生きている――君たちと同じように。
この物語の主人公は、一人の青年。
東京に暮らす、ごく普通の大学生だ。
彼はヒーローに憧れ、そして絶望し、それでもなお歩みを止めずにいる。
これは、君たちの知るあの宇宙の、ひとつの可能性。
2018年 東京
EARTH-616 神聖時間軸
その日は、何の前触れもなかった。
春の柔らかな陽射しが、東京の街に降り注いでいた。ビルの谷間をすり抜けるように風が吹き、アスファルトの隙間に咲くタンポポがわずかに揺れる。新年度を迎えたこの都市は、相変わらずの喧騒と慌ただしさに包まれていた。
通勤ラッシュを終えたばかりの駅前では、学生たちが新しいリュックを背負い、スマートフォンを片手に構内を行き交う。自動販売機の下で硬貨を拾う子供の声、自転車のブレーキ音、コンビニの袋が風に揺れる音。日常のノイズが満ちていた。
大型の街頭ビジョンには、海外ニュースが字幕付きで流れている。
「──ニューヨークにて大規模な事件発生。宇宙からの脅威と思われる存在が確認され、アイアンマンことトニー・スターク氏が対応に当たりました。現在スターク氏は行方不明とのことで──」
通行人のほとんどは足を止めず、ニュースの音声は雑踏に紛れてかき消される。非現実的すぎる映像は、ここから遠く離れた“アメリカの話”としてしか映らなかった。
そんな東京の片隅、高城遼は大学の最寄り駅で電車を降り、人波に紛れて歩き始めていた。
まだ慣れない構内の地図を頭に思い浮かべながら、彼は改札を抜ける。坂道を上がった先に、大学の正門が現れる。
門の向こうには、新しい季節の色が広がっていた。桜はすでに散り際だったが、構内には新入生たちの足取りと空気の緊張感が漂っていた。石畳の道、少し埃をかぶったベンチ、曇ったガラス窓──すべてが新しく、そしてどこか懐かしかった。
高城遼はその光景の中に、静かに一歩を踏み入れた。
それが、彼にとって最後の春になることを、まだ誰も知らなかった。
新設されたばかりの講義棟のガラス面が春の陽光を反射し、まばゆく輝いている。植え込みのツツジが花を咲かせ、その間を歩く学生たちの足取りには、どこか初々しさと緊張が混ざっていた。
キャンパス内はにぎやかだった。新入生歓迎の看板や立て看が並び、サークル勧誘のチラシを持った学生たちが声を張り上げている。笑い声、呼びかけ、スピーカーから流れる軽音サークルの演奏。春の午後の、大学という場所が持つ“始まりの空気”がそこにあった。
高城は、掲示板の前で立ち止まり、法学部の時間割を確認する。その視線の先には、びっしりと書き込まれた講義名の数々が並んでいる。だが、彼の顔には特別な緊張も焦りもなかった。
その目には、世界のすべてがまだ、未来へと続いているように映っていた。
その時だった。
風が、止んだ。
人の声が、遠ざかった。
スピーカーの音も、木々のざわめきも、まるで誰かがボリュームを一気に絞ったかのように、消えていった。
ふと空を見上げた。
空は、変わっていなかった。ただ、あまりに静かだった。
そして、彼の視界がゆっくりと揺らぎ始めた。
足元から、身体が崩れていく。粒子のように、光の塵のように。
恐怖も、痛みもなかった。ただ、その現象があまりにも自然すぎて、彼は抵抗すらできなかった。
世界の一部が、静かに剥がれていく。
掲示板の前から、高城遼は音もなく姿を消した。
そこには、もう誰もいなかった。
2018年の春。東京の午後。ひとりの青年が、何の痕跡も残さずに、世界から消えた。