神殺し兄妹と女神様   作:ダッソー

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十八話

アテナは手に持った漆黒の大鎌をフレイヤに振り下ろした。

 

それをフレイヤは、余裕をもって後ろへ飛び退くことで回避した。

 

だが、アテナは止まらない。

漆黒の刃を翻し、そのまま追撃に移る。

 

フレイヤは笑みを崩さぬまま、ひらりと身をかわした。

 

「ふふ。そんなに夢中で追いかけてくれるなんて、逢い引きみたいでとっても嬉しいわ!」

 

「戯言を抜かすな」

 

アテナの声は苛立ちを孕んでいる。

黒き大鎌が唸り、空間ごと断ち切るように横なぎに振るわれた。

 

アテナは踏み込みをさらに深くした。

大鎌を今度は下から掬い上げるように斬り上げる。

 

フレイヤはそれを後ろへ跳んでかわす。

だが、その着地点へ先回りするように、アテナの影が滑り込んだ。

 

漆黒の刃が喉元を薙ごうとした、その瞬間、足元の石畳が割れ、樹木めいたものが噴き上がった。

 

絡みつくように伸びたそれが大鎌の柄にまとわりつき、ほんのわずかに軌道を逸らす。

フレイヤはその隙に羽毛のような身こなしで離れた。

 

「いい動きね、でもわたしには分かるのよね」

 

「未来を垣間見たか」

 

アテナが目を細めて問うと、フレイヤは楽しげに肩をすくめた。

 

彼女は厳密にはフレイヤそのものではない。

後に北欧でフレイヤとフリッグという二柱の女神へと分かれてゆく、その源流にあたる、より古い神格だった。

 

古いゲルマン信仰において想定されるのは、「愛・豊穣・運命」を一身に含む単一の女神である。

フレイヤとフリッグは、その巨大で曖昧な神性が、時代とともに分化した姿にすぎない。

 

そもそも名からして、その名残を残している。

フリッグ(Frigg)はゲルマン祖語 *Frijjō に遡るとされ、「愛」あるいは「自由」に関わる意味領域を持つ。

一方でフレイヤ(Freyja)は固有名というより、「貴婦人」を意味する称号に近い。

すなわち、後世において「フレイヤ」と呼ばれたものも、元来は特定の個神名というより、女主人・高貴なる女を示す呼び名であった可能性が高い。

 

後にフレイヤと呼ばれる側は、性愛、豊穣、魔術(セイズ)、さらには死者の受容といった、境界的で流動的な領域を担う。

対してフリッグと呼ばれる側は、結婚、母性、王権的秩序、そして予知といった、社会的に制度化された領域を担う。

 

それは単なる役割分担ではない。

もとは一柱の内にあった神性が、人間社会の構造や信仰体系の変化に応じて分かたれた結果なのだ。

 

ゆえに、今ここにいるこの女神は、豊穣と母性を宿し、死と魔術に触れ、さらに運命の兆しを先んじて感じ取る、古い大地母神そのものだった。

 

フレイヤが未来を読むというのも、決して突飛なことではない。

フレイヤが卓越したセイズの腕を持つために未来を予言することが出来るのだ。

 

「あなたのセイズは厄介よな……!」

 

アテナが取るべき行動は、ただ攻め続けることだけだった。

 

予知も完璧ではない。

ある程度集中して、ごく短い時間見られる程度だろう。

ならば、魔術を使う暇もなく攻め続ければよい。

 

アテナは闇の中から、体長五、六メートルほどの極彩色の鱗を持つ毒蛇と、幾羽もの梟を呼び出し、自らもそれらと共に襲いかかった。

 

毒蛇は地を滑るように這い、梟たちは頭上からフレイヤの視界を塞ぐように急降下する。

そこへアテナ自身が漆黒の大鎌を振るい、正面から喉元を断ちにかかった。

 

だが、フレイヤは笑みを崩さない。

 

「ふふふ。急かしちゃダメ」

 

袖を払うように腕を振るうと、甘い香りを含んだ花粉めいた光がふわりと広がった。

梟たちはたちまち軌道を乱し、酔ったようにふらつきながら石畳へ墜落していく。

 

だが、アテナは意に介さない。

梟など最初から牽制に過ぎぬとばかりに、さらに踏み込みを深くした。

 

黒き大鎌が唸る。

横薙ぎの一閃はフレイヤの胴を断ちにゆき、かわしたその先には毒蛇が牙を剥いて待ち構えていた。

 

「っ」

 

さしものフレイヤも、今度は完全には避け切れない。

身を捻って毒牙を外したものの、蛇体が鞭のようにしなってその脚へ絡みついた。

 

その瞬間、アテナの大鎌が再び振り下ろされる。

 

だが、フレイヤは左足を地へ強く踏み込んだ。

 

石畳がめきりと鳴る。

次の瞬間、その足元から草木が爆発するように噴き上がり、蛇ごと大鎌の軌道へ割って入った。

 

斬撃は植物と蛇体をまとめて断ち切った。

毒蛇の胴が弾け、青い血が花弁のように飛び散る。

 

「乱暴よ」

 

そう言ったフレイヤの声には、しかしわずかに熱が混じっていた。

 

大地から力を汲み上げたのだろう。

彼女の細腕とは不釣り合いな膂力が宿り、そのまま踏み込みざまにアテナの柄を握る手首へ打ち込まれる。

 

「くっ!」

 

鈍い衝撃。

アテナの腕がわずかに跳ね、大鎌の軌道がぶれた。

 

その隙を逃さず、フレイヤは懐へ潜り込む。

華奢に見える肩が、しかし大地の力を乗せたままアテナの胸元へ叩き込まれた。

 

アテナは後ろへ飛び、衝撃を逃した。

 

だが、完全には殺しきれなかった。

胸元へ叩き込まれた一撃の余韻が、鈍い痛みとなって全身を走る。

 

「今のを受け流すなんて。流石ねぇ」

 

フレイヤは感心したように笑った。

だが、その目は少しも緩んでいない。軽薄に見えて、戦いの最中だけは相手の技量を正確に測っているのだ。

 

「その程度で妾を崩したつもりか」

 

アテナは冷たく言い捨てると、フレイヤへ飛び込み、踏み込みの勢いそのままに大鎌を翻した。

黒き刃が斜めに閃き、フレイヤの肩口から腰へと断ち割るように走る。

 

フレイヤは身をひねってそれをかわす。

だが、今度の一撃は浅くその羽衣の端を裂いた。

 

「……あら」

 

裂けた布地が花弁のように舞う。

その一瞬、フレイヤの笑みがほんのわずかに深くなった。

 

「ふふふ、ますます欲しくなってきたわ。乱暴なあなたを虜にした時、どんな風に躾けてあげましょうか。愉しみになってきたわ!」

 

「不愉快だと言っている!」

 

アテナは眉をひそめる。

 

フレイヤは愉しげな笑みを浮かべていた。

 

「愛らしき我が戦車よ、わたしを運びなさい」

 

次の瞬間、花と金の装飾を施された戦車が虚空より姿を現した。

それを引くのは、二頭の馬ほどの大きさがある巨大な猫だ。

 

しなやかな四肢。

柔らかな毛並みの下に潜む筋肉は獣そのもので、琥珀色の双眸には甘やかな愛玩らしさではなく、神獣めいた獰猛さが宿っていた。

 

フレイヤは軽やかに戦車へ飛び乗る。

 

「行きなさい、可愛い子たち」

 

猫たちは甲高く鳴くと、石畳を砕きながら一気に駆け出した。

 

速い。

しかも、ただ速いだけではない。

戦車そのものが巨大な質量を持つ凶器だった。車輪が火花を散らし、正面から迫るそれは、轢き潰すことを前提とした神の乗り物そのものだ。

 

アテナは漆黒の大鎌を構え、真正面からそれを迎え撃つ。

 

「そのようなもの、妾に通じると思うな!」

 

黒き刃が唸りを上げ、車輪ごと断ち割るつもりで一閃した。

 

だが、戦車はその直前で飛んだ。

 

「っ?!」

 

アテナの大鎌は空を切った。

 

そのままアテナの頭上を飛び越えながら、フレイヤの手に握られていた種から樹木が飛び出してきた。

 

それはただ芽吹くのではない。

神気を帯びた種子は一瞬で発芽し、幹を膨らませ、枝を蛇のようにしならせながらアテナへと襲いかかる。

 

「小細工を――!」

 

アテナは咄嗟に身を翻し、大鎌で正面から伸びてきた幹を断ち切った。

だが、一本ではない。二本、三本と、枝と蔓が頭上から、背後から、足元から一斉に絡みつこうと迫る。

 

戦車は飛び越えただけでは終わらない。

着地した猫たちはそのまま石畳を抉りながら旋回し、今度は背後からアテナを轢き潰すべく再び駆けてくる。

 

「ふふ。真正面から来ると思った?」

 

フレイヤは戦車の上から楽しげに笑った。

その声音には、戦いそのものを愉しむ響きと、相手を翻弄できた喜びが混じっている。

 

迫り来る戦車を前に、裂帛の気合とともに大鎌を大地へ振り下ろす。

その一撃は石畳を深々と断ち割り、戦車の進路に大きな亀裂を生じさせた。

 

車輪がその裂け目へ半ば沈み込み、戦車の勢いが大きく崩れる。

 

猫たちの体勢が大きく乱れた、その一瞬。

アテナは間髪入れず大鎌を薙ぎ払い、二頭の猫の首を刎ねた。

 

「わたしの可愛い子たちをこんな目に遭わせるなんて、酷いわ。あとでお仕置きが必要かしら?」

 

フレイヤはそう言いながらも、怒りに顔を歪めることはなかった。

むしろ愉しげですらある。だが、その眼差しの奥には、先程までよりも濃い熱が宿っていた。

 

次の瞬間、彼女は踏み込み、アテナへと迫った。

その動きと同時に、甘い香りを帯びた花粉めいた光が、空気へ溶けるように広がる。

 

アテナは即座に後ろへ跳び、間合いを切ろうとする。

だが、わずかに足が鈍った。

 

「っ……!」

 

視界が揺らいだわけではない。

身体そのものに異常が起きたわけでもない。

ただ、踏み込むべき瞬間と、避けるべき瞬間、その感覚にほんのわずかな狂いが生じる。

 

そのわずかな遅れを、フレイヤは見逃さなかった。

 

「捕まえたわよ」

 

囁くような声とともに、彼女の掌がアテナの手首へ絡みつく。

細い指だ。だが、そこには大地より汲み上げた怪力が宿っている。

 

強引に引かれる。

 

アテナの体勢が半歩ぶれた。

その瞬間、フレイヤの拳が腹部へと打ち込まれた。

 

「くっ!」

 

鈍い衝撃が走る。

 

アテナは掴まれた手を振り解こうとした。

だが、それよりも早くフレイヤが身を捌く。

腕を引き、腰を入れ、そのままアテナの身体を投げ飛ばした。

 

そのまま、宙へ浮いたアテナの身体へ、間髪入れずフレイヤの拳が叩き込まれた。

 

「がはっ――!」

 

体の中から空気が一気に吐き出された。

 

そのままアテナの幼い身体は吹き飛ばされ、地面を何度も激しく跳ねながら転がっていく。

 

「猛き猪よ、わたしを運びなさい」

 

その言霊と共に、フレイヤの足元に黒い空間が出現し、そこから二十メートルはあろうかという、光り輝く毛並みを持つ巨大な猪が現れた。

ヒルディスヴィーニだ。

 

フレイヤは猪の上に優雅に立っている。

 

次の瞬間、ヒルディスヴィーニは地を蹴った。

 

石畳が砕け、巨体が信じがたい速度で突進する。

 

「っ――!」

 

その瞬間、アテナが倒れ伏していた石畳が隆起し、全長二、三十メートルほどもある石造りの巨大な蛇が形を成した。

 

アテナはその頭上で身を起こす。

 

「猪風情で妾を押し潰せると思うな……!」

 

次の瞬間、石蛇は大きく顎を開き、猪へと噛みつきにいった。

 

石の蛇と光の猪が激突し、周囲の石畳がまとめて砕け散る。

ヒルディスヴィーニの牙が石蛇の首元へ突き立ち、石蛇の顎は猪の肩口へ食い込んだ。

 

猪は低く唸りながら、石蛇を力ずくで押し返そうとする。

硬質な牙が石を削り、その巨体に大きな亀裂が走った。

 

だが、アテナは眉ひとつ動かさない。

 

石蛇の胴が大きくうねる。

次の瞬間、尾が鞭のようにしなり、ヒルディスヴィーニの側頭部を横殴りに叩きつけた。

 

「――ッ!」

 

さしもの神獣も、その一撃には頭を振られた。

巨体がわずかによろめき、踏み込みが崩れる。

 

そこを逃さず、アテナは石蛇の頭上から跳んだ。

漆黒の大鎌が唸りを上げ、フレイヤへ右袈裟に斬り下ろされる。

 

フレイヤは身をひねってそれをかわす。

黒き刃は鼻先を掠めるように空を切り、そのまま返す勢いで今度は横薙ぎに振るわれた。

 

だが、フレイヤはそれすら紙一重で避ける。

舞うように半歩ずれ、刃の軌道から外れる。

 

アテナは止まらない。

振り抜いた大鎌をそのまま流し、今度は柄を滑らせるように持ち替える。

 

刃だけではない。

その長柄そのものが、彼女にとっては近接戦の武器だった。

 

次の瞬間、石突が鋭く突き出される。

狙うのは喉元。

 

「っ」

 

フレイヤは咄嗟に顎を引き、それを紙一重でかわす。

だが、石突はそのまま止まらない。

軌道をわずかに下げ、今度は鎖骨の下を穿つように突き込まれた。

 

フレイヤは身を捻って直撃だけは外した。

それでも石突の先端は肩口を強かに打ち、細い身体をわずかにぐらつかせる。

 

しかも、そのぐらつきは彼女自身のものだけではない。

足元のヒルディスヴィーニが牙で石蛇を押し込み、踏ん張り直した反動が、猪の背を通してそのままフレイヤの足腰を揺らしていた。

 

アテナはその隙を逃さない。

間髪入れず、今度は鳩尾へ強烈な石突を叩き込んだ。

 

「かはっ……!」

 

くぐもった吐息が漏れる。

まともに入った一撃に、フレイヤは吐血した。

 

だが、それでも女神は崩れ落ちない。

鳩尾を打たれて身体を折りかけたその姿勢のまま、逆に一歩踏み込んでくる。

 

「……容赦がないわね。わたしは悲しいわ」

 

「逢い引きに来たわけではないからな、手心など加えん」

 

言葉と同時に、フレイヤの掌が再び大鎌の柄へ絡みついた。

 

だが、その瞬間、アテナは躊躇なく柄から手を離し、手刀を突き出した。

 

「っ」

 

フレイヤは咄嗟に身をひねる。

だが、完全には避け切れない。手刀が脇腹を掠め、浅く赤い線を刻んだ。

 

「まあ」

 

驚いたように目を細めた、その一瞬。

 

アテナはさらに踏み込む。

 

足払いを仕掛ける。

石蛇とヒルディスヴィーニが押し合う不安定な足場の上では、ほんのわずかな足払いでも十分に効く。

 

フレイヤは咄嗟に片足を引いた。

 

その瞬間、アテナは低く身体を沈め、脇腹へ拳を叩き込んだ。

 

「ぐっ!」

 

フレイヤが苦悶の声を上げる。

 

アテナは間髪入れず、逆の拳で鳩尾を打ち抜こうとした。

だが、フレイヤは咄嗟に腕を払ってその一撃を逸らすと、間髪入れずアテナの脇腹へ蹴りを叩き込もうとした。

 

アテナは即座に肘を落とし、その蹴りを受け止める。

 

フレイヤは素早く足を引き戻す。

そのまま指先から植物の種を落とした。

 

種は石蛇の頭上へ触れるや否や瞬く間に芽吹き、蔓と根を爆ぜるように伸ばしながら、アテナの脚と腕へ絡みつこうと襲いかかる。

 

アテナは背から梟の翼を生やし、空へ逃れながら、どこからともなく銀製の長弓と矢を取り出した。

 

「甘いな、フレイヤ。地を這うものが空にあるものを絡めとることはできまい!」

 

「なら、この手であなたを捉えてあげるわ。わたし、空を飛ぶのは得意なのよ!」

 

言うや否や、フレイヤの羽衣がふわりと広がった。

花弁のように翻ったその布は、次の瞬間には猛禽の翼へと姿を変える。

 

細い肢体が一瞬で縮み、代わりに現れたのは、鋭い鉤爪と嘴を備えた巨大な鷹の姿だった。

 

「っ」

 

アテナは即座に弓を引き絞る。

銀の矢は月光のような冷たい輝きを帯び、放たれた瞬間、一直線に空を裂いた。

 

だが、フレイヤはそれを紙一重でかわす。

翼を羽ばたかせて軌道をずらし、銀の矢は羽先を掠めるのみで虚空へ抜けた。

 

「遅いわ」

 

鷹の姿のまま、フレイヤがアテナに迫る。

その速度は鋭い。

 

アテナは翼を大きく広げ、横へ逃れる。

だが、フレイヤはその動きを読んでいたかのように半ばで軌道を変え、真横から掠めるように迫る。

 

鉤爪が閃いた。

 

「ちっ……!」

 

アテナは銀の弓でそれを受ける。

弓身に爪が食い込み、甲高い音が響いた。

 

だが、その一瞬で十分だった。

アテナは弓を返しながら距離を取り、間を置かず二矢、三矢と続けざまに放つ。

狙うのは直撃ではない。逃げ道を塞ぎ、進路を限定するための射だ。

 

フレイヤはその全てを避ける。

急上昇、急降下、急旋回。

そのすべてが優美でありながら、獣の本能じみた苛烈さを帯びていた。

 

「弓は上手く使うわね。でも、空での舞い方はわたしの方が上だわ。すぐに捕まえてあげる!」

 

「ぬかせ! 妾を捕らえられると思うな! その思い上がり、後悔させてくれる!」

 

空の上で、二つの影が激しく交差する。

 

アテナは真っ直ぐ逃げない。

半ばまで上昇したかと思えば翼を返して斜め下へ滑り込み、そこから今度は急旋回して雲の縁を掠めるように飛ぶ。

 

フレイヤはアテナが右へ切れば、その先へ先回りするように上を取る。

下へ潜れば、自らも高度を落として退路を塞ぐ。

一瞬前まで背後にいたはずが、次の瞬間には頭上にいる。

 

「っ……!」

 

アテナは振り向きざまに矢を放つ。

だが、フレイヤは翼を一打ちしただけでその線を外れる。

矢は羽先を掠めるに留まり、そのまま虚空へ抜けた。

 

そこへすれ違いざまの一撃。

 

鉤爪が肩口を裂き、血が散る。

 

アテナは痛みに顔をしかめながらも、その勢いのまま半回転した。

弓を引き絞る。

今度は真正面ではなく、フレイヤが次に取りそうな上昇線へ置くように矢を放つ。

 

一本。

二本。

三本。

 

空に銀の線が走る。

撃ち落とすためではない。

進路を縫い、飛び方を狭めるための射撃だった。

 

だが、フレイヤはなお速い。

 

矢と矢の隙間へ身を滑り込ませ、翼を畳んで一気に落下する。

その落下の勢いをそのまま旋回に変え、今度は真下からアテナの腹へ食らいつかんと迫った。

 

フレイヤの鉤爪がアテナの太腿を裂いた。

 

「くっ……!」

 

浅い。

だが、確実に削ってくる。

 

フレイヤの飛び方は、決して一撃で仕留めるためのものではなかった。

速度で圧倒し、死角を取り、すれ違いざまに傷を刻んでくる。

 

アテナもまた、ただ追われているわけではない。

 

翼を強く羽ばたかせ、一気に上昇へ転じる。

今度は太陽を背にする位置を取った。

 

逆光の中から矢が放たれる。

眩しさに紛れた一射は、これまでで最も鋭かった。

 

「甘いわね」

 

フレイヤは身をひねって直撃を避けると、そのまま急上昇する。

 

アテナは横へ切る。

だが、フレイヤは一直線に食らいついた。

 

アテナは銀弓で受け止めようとする。

だが、鉤爪はその防ぎをすり抜けるように肩口を切り裂いた。

 

「っ……!」

 

アテナは無理やり翼を打って距離を開けようとする。

だが、フレイヤはぴたりと食らいついたまま離れない。

上を取る。

横へ回る。

死角へ潜る。

そしてまた裂く。

 

空の上で、アテナはじわじわと追い詰められていった。

 

フレイヤは無理に仕留めようとしない。

上を取り、横へ流れ、死角へ潜り込み、すれ違いざまに一撃だけを残して離れる。

その繰り返しだ。

 

深手ではない。

だが、そのひとつひとつが確実にアテナを削っていった。

 

「苦しそうね、アテナ」

 

フレイヤは巨大な鷹の姿のまま、くすくすと笑うような声を響かせた。

 

アテナは答えず、銀の弓に矢をつがえて放つ。

 

だが、フレイヤはそれすら読んでいるかのように、翼をわずかに傾けるだけで外れていく。

避けるたびに距離は縮まり、次の瞬間にはまた嘴か鉤爪がどこかを裂いていた。

 

「っ……!」

 

今度は腕だ。

銀の弓を持つ腕を浅く裂かれ、指先に痺れが走る。

 

アテナは翼を強く打ち、雲の層へ滑り込んだ。

視界を切るためだ。

だが、フレイヤはその程度では振り切れない。

 

羽毛が霧を裂き、次の瞬間にはもう真横にいた。

 

何とか距離を取ろうとするよりも早く、鉤爪が背を切り裂いた。

 

アテナの飛び方が、ついに大きく乱れる。

高度が落ちる。

立て直そうとして翼を返すが、その返しにも鋭さがない。

 

「これで終わりかしらね」

 

アテナはフレイヤを睨み返す。

 

「まだだ……!」

 

銀の矢が放たれる。

だが、その射には先ほどまでの冴えがない。

僅かに乱れた線を、フレイヤは容易く見切る。

 

翼を畳み、急降下する。

 

フレイヤが一直線に迫る。

 

アテナは横へ逃れようと翼を打つ。

だが、もう遅い。

傷ついた肩が軋み、返しきれぬままその軌道が鈍る。

 

鉤爪が腕を捉えた。

 

鋭い爪が幼い身体に食い込み、鮮血が散る。

 

フレイヤはそのまま離れない。

 

今度は人の姿へ戻りながら、鉤爪から植物を生やしてアテナを捉えた。

 

アテナは振り解こうとする。

だが、植物は意思を持つかのようにさらに強く締めつけ、やがてその身体から力を奪っていく。

 

見下ろせば、ヒルディスヴィーニと激突していた石造の巨大な蛇も、ついに大きく崩れ落ちていった。

 

「あなたと踊るのは、とても楽しかったわよ、アテナ」

 

フレイヤがアテナの頬へそっと手を触れた。

 

「ふふふ、なんて愛らしいのかしら。こんな汚れを知らない無垢な肌、初めて見たわ。ああ、楽しみだわ。どんな声で鳴いてくれるのかしら。どんなふうに乱れてしまうのかしら」

 

フレイヤは悦に入った声で囁いた。

 

勝利を確信しているのだろう。

アテナの呪力も体力も、もはや大して残っていない――そう見えているからこそ、そこに隙が生まれる。

 

「汝にふさわしきは、冷たき石の碑の彫りである。それこそが女神のあたえる恩寵のようなれば!」

 

アテナは言霊を唱えると同時に、『石化』の邪視を放った。

 

《蛇》を取り戻していない今の身では、神の肉体の一部を完全に石へ変えることはできない。

だが、ほんの一瞬、その動きを凍らせるだけなら可能だ。

 

「っ――!?」

 

フレイヤの動きが凍りつく。

同時に、アテナを拘束していた植物もまた石と化した。

 

その瞬間を、アテナは逃さない。

全身の力を振り絞り、石となった植物を砕く。

砕けた蔓が空中へ散った次の瞬間、アテナは一気に踏み込んだ。

 

そして、手刀をフレイヤの胸へ深々と突き刺した。

 

「がふっ――」

 

フレイヤの唇から血が溢れる。

 

アテナが手刀を引き抜くと、胸から血が滝のように噴き出した。

 

「油断……してしまったわね……」

 

「妾を虜にしようなどと、常に考えているからだ」

 

「素っ気ないわね……でも、ますます虜にしたくなったわ。アテナ。あなたは必ず、わたしの虜にしてみせるわ」

 

フレイヤは笑みを崩さぬまま、その場で落ちるように落下しながら鷹の姿へと変じた。

 

「また会いましょう。アテナ」

 

そう言い残し、フレイヤは飛び去っていく。

 

ヒルディスヴィーニもまた、主の力が弱まったためか、その姿を掻き消していた。

それを確認すると、アテナはゆっくりと地上へ降り立った。

 

「アテナ、勝ったのか?」

 

降り立つと同時に、護堂が声をかける。

 

「命は奪い損ねたがな……あなたも勝ったようだな」

 

「ああ、何とかな。大変だったんだぞ……」

 

護堂は疲れきった顔をしていた。

 

「そうか。戦士として、またひとつ高みに登ったわけだな。喜ばしいことだ」

 

アテナはかすかに笑みを浮かべながら言った。

 

「ならば、一つ褒美をくれてやるか」

 

そう言うと、アテナは護堂へ口づけし、治癒の術を口移しで施した。

 

護堂は思わず面食らった。

 

唇が離れた時には、傷の熱も痛みも嘘のように薄れている。

 

「なっ……お、おまえな……!」

 

言葉を失いかけたまま護堂が見上げると、アテナはどこかおもしろそうに口元を緩めていた。

 

その表情にはほんのわずかに悪戯めいた気配が宿っている。

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