神殺し兄妹と女神様 作:ダッソー
騎士であるリリアナ・クラニチャールは、『魔王』と謁見していた。
室内は静まり返っていた。
だが、その静けさは安らぎではない。猛獣の檻の前に立たされたかのような、肌を粟立たせる緊張に満ちていた。
「君がクラニチャールの孫娘か。四年前の『儀式』で会ったはずなのだがな。悪いな。君の顔には見覚えがないのだよ。ああ、物覚えの悪い老人だとは思わないでくれ。君たちの世代は成長が早いのだよ。私でなくとも、似たようなことになるだろうさ」
一見すると、大学で教鞭を執っていそうな老人にしか見えない。
だが、その本性には『獣』という言葉こそが最もふさわしい。
神殺しを果たし、『権能』を簒奪したカンピオーネたちの中で、最古参に君臨し続ける者。
サーシャ・デヤンスタール・ヴォバン。
魔王の中の魔王と、恐れられ続ける男だった。
その穏やかな口調に騙されてはならない。
目の前の老人は、人の理も秩序も、己の興に比べれば塵ほどにも思わぬ暴君なのだから。
「無理もございません。あの時の私はまだ小さく、候とお会いした時間もほんのわずかでした。どうか、お気になさらぬよう」
「それは結構だ。さて、私は気が短い性分でね。さっそく本題に入らせてもらおうか。君をわざわざ呼び寄せた理由についてだ」
ヴォバンは、エメラルド色の瞳を細めた。
「四年前の儀式を、もう一度やろうと思うのだよ。まつろわぬ神を招来する、あの儀式をだ」
ヴォバンは、多くの犠牲者を出したあの儀式を、もう一度やろうと言い出した。
「まつろわぬ神の招来には成功したが、サルバトーレに掠め取られてしまった。私の無聊の慰めになるどころか、腹立たしい結果に終わってしまったのだ!」
リリアナは、四年前の儀式の顛末を思い返していた。
サルバトーレ・ドニが、その名を轟かせるに至ったあの儀式を。
あれは、老魔王の気まぐれひとつがどれほど多くの災厄を招くかを、まざまざと見せつけた出来事でもあった。
「あと三月もすれば、儀式のための星の配列、地脈の流れが四年ぶりに整うらしい。私はその手の知識には疎いのだが、詳しい者に確かめさせた。――そうなのだろう、カスパール?」
ヴォバンはリリアナの背後へ視線を向けた。
その瞬間、ぞくりと背筋に冷たいものが走った。
リリアナがはっと振り向くと、そこには蒼白く虚ろな表情をした黒衣の老人が、音もなく立っていた。
老人は機械じみた動きで、こくりと頷く。
生者の気配は微塵もない。
にもかかわらず、命令を待つ従者のように整然とそこに在る姿が、かえっておぞましかった。
――『死せる従僕の檻』。
自らが手にかけた人間を、死後もこの世に留め置き、忠実な従僕とする権能だ。
――何とむごい。
思わずリリアナはそう思った。
勇敢にも魔王に逆らい、立ち向かったであろう勇者の末路が、魔王の下僕に成り果てることだなど。
それは名誉も尊厳も踏みにじる、あまりに悍ましい仕打ちだった。
「クラニチャール。あの時、最も優れた巫力を見せたのは誰か、覚えているかな? あの時に思い知らされたのだよ。量より質だと。有象無象を集めるよりも、選りすぐりの巫女を集めるべきだったとな」
リリアナはすぐには答えられなかった。
その名は知っている。
いや、知らぬはずがない。あの少女は、ただ優れた巫女であるというだけではない。今や『双王』と近しい者として、魔術師たちの間ではあまりに有名だった。
ここで名を口にすれば、何が起きるか。
考えたくもない未来が脳裏をよぎる。
だが、この場で黙っていても、老魔王は別の人間に話を聞くだけだろう。
ならば、せめて少しでも思い止まるよう諫言するくらいしか、自分にできることはない。
「名は万里谷祐理。日本人です。東京の出身と聞いております。ですが候。無礼を承知で申し上げます。彼女は、かの『双王』と親しい仲にある者と聞いております。危害が及ぶとなれば、かの兄妹が黙ってはいないでしょう。加えて、兄妹と共に在る『まつろわぬアテナ』がいます。宿敵である御身に戦いを挑むことも考えられます。どうか、ご再考を」
「ああ、そのことならば心配はいらない。むしろ好都合だ」
リリアナは驚いた表情でヴォバンを見た。
「アテナが現れたと聞いた時は心が踊ったが。聞く限りでは『まつろわぬ神』としては不完全なのだろう。そうでなくては、神殺しと共に在るなどありえん」
落胆したものだ。ヴォバンはそう言った。
ヴォバンは、長年の経験から神というものがどういうものか理解しているのだ。
ゆえにこそ、その見立てには単なる憶測以上の重みがあった。
「確か君たち魔術師は、我々に神を殺すことを求めているのだったな。……だが、私にはいくつかの特権がある。私の狩る獲物を選ぶ権利はその一つだ。このヴォバンが狩るに値する獲物は強者のみ。ネズミ狩りの趣味はないのだよ」
ヴォバンは、さも当然のことのように言った。
「だが、たまには勤勉になってみるのも悪くない」
ヴォバンは獰猛な笑みを浮かべながら続けた。
「私は不完全な神とは戦わん。私の獲物に相応しくはないからだ。だが、未熟な『王』二人と不完全な神ならば、私と釣り合うだろう。ふふ。私も二人の同族と神を同時に相手取るのは初めてのことだ」
その声音には、狩りを前にした獣の愉悦があった。
「候、まさか――」
「巫女の確保のついでに、若造たちと神に戦いを挑むのもいいだろう。こういうのを向こうの言葉では一石二鳥と言うのだったかな?何。老人の老婆心を見せてやるだけだとも」
ただ、己の退屈を紛らわせるために災厄を撒き散らそうとする、魔王の気まぐれがそこにあった。
これが、兄妹の神殺しと一柱の『まつろわぬ神』が、最古参の神殺しと激突する大事件の幕開けだった。
学校の昼休みになると、護堂は屋上へと向かった。
ここ最近は、昼休みになると屋上で妹の静花、祐理、エリカと昼食をとるようになっていた。
もっとも、エリカに関しては相変わらずマイペースで、今日はまだ学校にすら来ていない。とはいえ、学校に行くとはアリアンナから連絡があったので昼休みにはしれっと姿を見せるのだろう。
そう思うと、あの奔放な少女に振り回されているアリアンナは苦労しているのだろう。
……いや、アリアンナも主人に似てかなりマイペースなので、案外気にしていないのかもしれない。
屋上に辿り着くと、そこにはエリカ以外のメンバーが揃っていた。
「エリカさんは、まだいらっしゃらないのですね」
祐理が護堂にそう声をかけた。
「ああ。でも、学校には来るって連絡があったし、そのうち来るとは思うぞ」
「そうですか」
「お兄ちゃん! いつの間にエリカさんと普段から連絡するようになったわけ!」
静花が護堂に問い詰めた。
「前に、エリカが学校休む時は俺にも連絡入れてくれって言ってきたことがあったんだよ。で、それからわりと連絡を取り合うようになったんだよ」
「くっ! いつの間にそんなことになってるなんて……!」
静花が悔しげに唸ると、祐理は少し困ったように眉を下げた。
「草薙さん、その……もう少しお気をつけになった方がいいかと」
「え、俺か?」
思いがけず矛先を向けられ、護堂は目を瞬かせる。
「はい。草薙さんは、少し無防備ですから」
祐理は控えめな口調のまま言ったが、その声音にはわずかに咎めるような響きがあった。
「エリカさんのような方と、あまり自然に連絡を取り合っていると……その、周りが色々と誤解してしまいますので」
「ほら! 万里谷先輩もこう言ってるじゃない!」
静花がすかさず便乗する。
「いや、誤解って言われてもな……ただの連絡だぞ?」
「草薙さんは、そういうふうに何でもないことのようにおっしゃいますけど……」
祐理はそこで少し言いよどみ、しかし小さく息をついて続けた。
「ご自分がどう見られているのか、もう少し自覚を持たれた方がよろしいかと思います」
静花はふんと鼻を鳴らした。
「ふんだ。お兄ちゃんはそういうところ、ほんと鈍いんだから」
「そんなに責められるようなことなのか……?」
護堂が釈然としない顔で言い返すと、祐理と静花はなぜか揃ってじとっとした目を向けてきた。
その反応に、護堂はますます納得がいかなくなった。
だが、自分以外の全員が同じような顔をしているあたり、どうやら本当に自分の方に問題があるらしかった。
「みなさん、ごきげんよう。にぎやかで楽しそうね?」
すると、エリカがやって来て声をかけた。
「護堂と私の関係を勘繰っても、何も出てこないわよ。でも、悪い気はしないわね。『王』であるカンピオーネですら、このエリカ・ブランデッリの魅力には抗えないということになるのだから」
エリカは自信に満ちた笑みを浮かべて言った。
「へー。その魅力たっぷりのエリカさんに、お兄ちゃんはメロメロだって言いたいわけ?」
静花がじとっとした目をエリカへ向ける。
エリカは、その視線を真正面から受け止めながら、わずかに肩をすくめた。
「少なくとも、嫌われてはいないと思うわね」
「うわ、自信満々……!」
静花が半ば呆れたように言うと、エリカはふっと笑みを深めた。
「当然でしょう? 私だもの。それに、護堂はこう見えて、案外女の子に押し切られるところがあるもの。私みたいなタイプに弱くても不思議ではないわ」
「勝手なこと言うな」
「あら、違うの?」
エリカが面白がるように小首を傾げる。
その声音には、からかいと挑発が半分ずつ混じっていた。
「エリカさん。あまりそのようなことをおっしゃってはいけません。お二人とも、困っていらっしゃるではありませんか」
祐理がぴしりと言った。
「仕方ないじゃない。護堂ったら、からかうと面白いんですもの。……そういえば護堂、あなた、ティシュパクから権能を簒奪できなかったのよね?」
「そうなの?」
静花はそう護堂に問いかけた。
護堂はティシュパクと戦い、勝利したはずだった。
だが、なぜか権能は簒奪できなかったのだ。
「ああ。ティシュパクを倒した手応えはあったんだけど、権能は増えなかったんだ。アテナは掠め取られたとか言ってたな」
「まだまだ、カンピオーネには私たちの知らないことが多そうね……」
エリカは、わずかに目を細めながら呟いた。
「……そういえば、お兄ちゃん。ニーズヘッグの権能で歳を取らなくなったんだっけ?」
静花が、ふと思い出したように尋ねる。
「ああ。おかげでますます面倒な体になったけどな」
護堂がうんざりしたように答えると、静花がじとっとした目を向けた。
「そういう感想が出てくるあたり、お兄ちゃんってほんとデリカシーないよね」
「同感ね」
エリカもまた、呆れたように肩をすくめた。
「老いない肉体なんて、どれだけの人間が羨むと思っているのかしら。それを面倒の一言で済ませるなんて、贅沢にもほどがあるわ」
「いや、だって実際そうだろ。普通に生きてる分には、歳を取らないなんて面倒なことの方が多そうじゃないか」
「ふん。たとえ面倒でも、若くいた方がいいに決まってるじゃん。あたしも不老の権能が手に入らないかなぁ。どうせ、権能を簒奪するなら便利なのがいいし」
静花があっけらかんと言うと、今度はエリカが呆れたような顔をした。
「便利な権能が欲しいなんて発想が出てくるあたり、あなたも十分おかしいわね」
すると祐理が、少し表情を引き締めて口を開いた。
「静花さん。そういうことを、あまり軽々しくおっしゃってはいけません」
静花がきょとんとした顔で祐理を見る。
祐理は静かに、しかしはっきりと続けた。
「神殺しとは、人の身に余る力を得ることです。ただ便利な力を手に入れる、といったようなものではありません」
その声音は穏やかだったが、そこには確かな咎める響きがあった。
「大きすぎる力を持つということは、それだけ多くのものを傷つける危うさも背負うということです。不老の権能も、軽い気持ちで欲しいなどと言ってよいものではないはずです」
万里谷の理路整然とした言葉に、静花は言葉を詰まらせた。
自分たちのストッパーとなっているのは、きっと万里谷なのだろうな――と、護堂は嗜められている静花を見ながら、そんなことを思った。
ひとしきり万里谷に嗜められたあと、不意に静花が口を開いた。
「万理谷先輩。今度、あたしに料理を教えてくれませんか?」
「ええ。構いませんよ」
万里谷は少し驚いたように目を瞬かせたあと、すぐにやわらかくうなずいた。
「静花が料理を教えてほしいだなんて意外ね。そういうのは気にしなさそうだったんだけど」
エリカが、意外なものを見るような顔で言った。
静花はわずかに視線を逸らす。
「……アテナさんに料理の腕で負けたままなのが嫌なのよ」
「あなたたち、女神アテナに料理を作ってもらっていたの!?」
エリカが驚愕の表情を浮かべて言った。
「ああ。家に居候してるのに何もしないのはおかしいだろって、静花と話して作ってもらったんだよ」
護堂が何でもないことのように答えると、エリカはますます信じられないものを見るような目を向けた。
「あなた、もう少しその異常性を自覚した方がいいわよ……? 神話の女神に料理をさせるなんて、普通はありえない話なんだから」
「ええ、私も驚いています。女神に料理をしてもらうなんて……考えられません」
祐理も同意するように言った。
護堂としては、いまひとつピンとこない話だった。
アテナは尊大な女王様気質で、振り回されることも多い。けれど、ああ見えて義理堅いところがあって、不思議と嫌いになれなかった。
「あなたたちといると常識が崩れていくわね……。まあ、退屈はしないわ。むしろ面白いくらいよ。それで、女神アテナの料理の味はどうだったの?」
興味深そうに目を細めながら、エリカが問いかける。
静花はむすっとしたまま答えた。
「すごく美味しかった。普段は態度が大きくて、勝手に人の家のものを食べてるだけなのに……あんなに料理が上手いなんて、納得いかないんだけど……!」
悔しさのにじむ口調ではあったが、その声音にはごまかしようのない本音も混じっていた。
。
「へえ。女神アテナの料理は、そこまで美味しいのね」
エリカが感心したように言う。
「ああ、滅茶苦茶美味かったんだよな。アテナの料理」
護堂も素直にうなずいた。
その何気ない一言が、静花にはさらに追い打ちになったらしい。
妹はぎりっと唇を噛みしめ、それから勢いよく祐理へ向き直った。
「だから悔しいのよ! 万里谷先輩、あたしをアテナさんに負けないくらい料理上手にしてください!」
祐理は一瞬きょとんと目を瞬かせたが、すぐに困ったような、それでいてやわらかな笑みを浮かべた。
「さすがに、いきなりそこまでは難しいかもしれませんけれど……基礎からでしたら、きちんとお教えしますよ」
万里谷が柔らかく微笑みながら、静花に言った。
その様子を、エリカは面白そうに見つめていた。
護堂はというと、静花には悪いが、さすがにアテナのような腕前になるのは難しいんじゃないか、などとかなり失礼なことを考えていた。
昼休みの時間は騒がしく流れていった。