「普通の風邪、って言いたいところだけどぉ、少し症状が重い様ねぇ」
「……」
ミス・ファースの声を聴きながらノラは静かにベッドの横の椅子に座っていた。ジュディは苦しそうに呻いている。レイブンクロー寮から運ばれて既に三時間。薬を飲んだが回復しない。相変わらず意識を失ったまま。ジッと座っているノラを見ながらミス・ファースは口を開く。
「そろそろ外出禁止時間よぉ。得点、減らしたくなかったら帰りなさぁい?」
帰りたくない。心配で心配で仕方ない。寮に帰ったところで眠れるだろうか。いや、きっと無理だろう。けれども。他の生徒もここに運び込まれている友人、同室、先輩、後輩、恋人。全員が心配しているのに、全員帰っている。何もできないからだ。
ここに居なくてはならない理由はない。むしろ、理論的には邪魔である。隣に人が居てマジマジと見られていたらどうだろうか、安らかに眠る事など出来ないだろう。そういう論点だけで言えばノラはお邪魔虫だ。
その二つの思想がグルグルと頭の中を回り、ノラは結局理論の方を取る事にして
「分かりました」
そう返事をして顔を上げた時にはミス・ファースは居なくなっていた。どこに行ったのだろう、と周囲を見回すもその姿はどこにもない。自分がずっと黙り込んで考えていたから呆れて、自室に帰ってしまったのではと思いながらソフィア・ファースと名の書かれた扉がある方向に眼を移す。
赤くて、青くて、緑色で、それなのに昏い闇がこちらを凝視するように、ほんの少しだけ扉が開いていた。
扉の奥から不思議な音が聞こえてくる。思わず踊りたくなる程テンポの良くて音の一つ一つは何も問題はないのに、全て集まって成る事でどこか背筋が凍るような音楽。
身体のすべてがあの扉に奪われている。唯一残った理性すらもその音に溶かされていく。それが毒餌だと分からずに食べてしまう蟻のようにノラは扉に近づいていく。
近づいていくほどに闇は深くなる。中には誰も居ない。ミス・ファースが居るとは思えない。
この音楽を邪魔してはいけないように思えて静かに足を忍ばせる。
おとをたててはいけないよ。そうしたらこわーい、ばけものがくるからね。
ノブに手を掛けた。数秒、どうするか悩んで、ゆっくりと扉を開ける。医務室の光が扉の中に入り、中のモノが否応なしに目に入る。なんてことはない、普通の私室だった。
私室と言うにはあまりにも狭いように感じる。ノラ達の私室の、三分の二程度の大きさだろうか。家具としては大きなソファが一つ、クローゼットが一つ、本棚と机が一つ。ソファの上には白衣が脱ぎ捨ててある。
完全ではない、それ故に人の営みを感じる部屋だ。普通の、部屋。
さっきから流れている音楽もよくよく聴いてみればそこまで不気味なモノでもないように感じる。最近の流行りではないが、それでもどこかノスタルジックを感じさせる良い音楽だ。──けれどもなんだかあの音楽は好きではない。蓄音機の針を退ける為にもう一歩足を踏み出しながら扉を押す。普段は大きく開かないのか急に扉が重くなり、ギィィィ、と耳障りな音が響く。
更に開いた扉は光を招き入れ、光たちは見えていなかった場所を更に表舞台へと持ち上げる。
「蓄音機は」
あった。本棚の横の、光が当たり辛い少し歪な手編みのレースが掛かった丸テーブルの上。暗がりの中でこけたりしないように足を進める。こうしている間にもノラの頭の中では不思議な音が躍っている。
蓄音機に近づいて、真っ直ぐに手を伸ばす。そうして、
「……え?」
ノラは、ノラのしている行動が理解できない。ノラは確かに蓄音機を止める為にこの部屋に入った筈だ。けれども自分の体が止まらない。本のタイトルを誰かの──自身の指がなぞる。
普通の本ではない。論文が収録された本である。出版年はまだそこまで古くもない。1947年。おおよそ二十年程前、第二次世界大戦が終結した直後だ。けれども作者達の名前が書かれた部分破られており、どのような集団かが分かり辛い。
目次を頼りに当たりを付けて適当なページを開いていく。
「マグルの汚染:純血魔法界の純粋性を脅かす非魔法族の脅威、エイブリー……。マグル混血がもたらす魔法の衰退とその防衛策、レストレンジ……。血統の危機:マグル浸透による魔法遺産の汚損と復興の道、マルシベール……。組織的文化に対する変革へのアプローチ、トム・マールヴォロ・リドル……。」
苗字だけなら聞いたことがある。聖28一族に振り分けられる一族たちの名前が何人か見受けられる。些か内容が偏っているように感じるがそれも気のせいではないようだ。それなりに作られているがどうやら同志で作った学生の論文集らしい。
ペラペラと捲っていき、見覚えのある名前が目に入る。
「ミス・ファース! タイトルは何かしら」
知っている名前があるとやはり気になるのが人間の性である。
「えっと、正義の創造と禁忌?」
学生の論文にしては大層な名前である。教授に見せたら質問が飛んできそうだな、と考えながら小見出しを見る為に目を細める。暗闇の中、綴りを読み間違えないようにしながら序文タイトルを読み、次は本文に移行して、その内容に頭が止まった。
なぜ魔法界は「汚れなき正義の執行者」を必要とするのか。その内容はどこか子供の描くヒーロー像を描いているようで可愛らしい。しかし内容としてはマグルをどのようにして倒すのかを描いている。当時のファースが一番気に入ったらしいのは『病気』でマグルを滅ぼすことのようで、如何にすればマグルを殺す病気を作る事ができるのかを描いていた。
現在のファースからは読み取れない、残虐な内容に驚きながらも本を閉じる。学生の趣味の論文集。危険の伴う魔導書とかではないが気分が良くならない本は読まない。基本である。
ノラは本を本棚に戻して、変わらず音楽が流れている蓄音機のリフターを上げて、
「あらぁ、私の部屋に何か用かしらぁ?」
「きゃぁっ!!」
「酷くないかしらぁ。ここ、私の部屋よぉ。悲鳴を上げるなら私の方だと思うのだけれど、最近の若い子は違うのかしらぁ」
振り向くと入り口にミス・ファースが立っている。医務室の光に照らされてミス・ファースの白い姿を強調させる。まるで絵画のように神秘的な反面、ゴーストの様な不気味さも感じる。
「ごめんなさい、その、音楽が掛かってて、止めようと思って思わず入ってしまいました……」
頭を下げて謝る。フローリングの床に目線が移り、ミス・ファースの表情ではなく影が目に入る。少し困ったように体を動かした後彼女が首を横に振るのが見える。
「別にぃ。上級生の男子なら……そうね、ミスタ・プリングルに懲罰を任せるところだけどあなたはまだ子供だものねぇ」
プリングル。ノラも若干苦手意識のあるホグワーツの管理人だ。体罰が非常に好きで卒業後ですら体罰の跡が残っている卒業生も居るという噂が流れており、寮の点数を引かれた方がマシだと囁かれている。最近はダンブルドアとの仲が悪くなってきており、もうそろそろ退職してほしいという話をよく聞く管理人だ。
閑話休題。
自分自身が女子生徒で良かったと思う反面、やはりそれだけ怒られることをしたのだと考えると少し胸が痛む。頭を下げているノラにミス・ファースはため息をついて扉の外に出るように促す。ノラは怒られた子犬の様に歩いて医務室に出た。もう今日は自室に戻ってシャワーを浴びるようにと指示を貰い、医務室の扉に歩を進める。
医務室の扉に手を掛けると真後ろから人の呼吸と、声が耳に掛かる。
「あなたはあの本を読んでどう思ったのかしら?」
ただの学生時代のお遊びの論文集。特に悪いことを見たわけでも何でもない。けれども、思わず息を呑んで後ろを振り向く。
が、ミス・ファースは相変わらず自室の前に立って笑顔でこちらを見ている。何も言ってないという素振りだ。ノラが振り向いたことに不思議そうに首を傾けて片手をヒラヒラと振る。
気のせいかと思ったノラはペコリと頭を下げて医務室を出る。白い女性はそれを静かに見送っていた。