エンゼルランプの天籟   作:星の海1961

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病の鐘を聞け

「──」

 

 ジェームズの呪文が途中で終わってしまったので一ミリも動けないどころか、十分に呼吸すらできない体でファースを見る。

 

「うーん。エリオットが杖を持っていた事に対して危機感を持てたのは花丸だったんだけどもう少し悪意に対する解釈が足りないにも程が無いかしらぁ……。私の気のせいじゃなければ私の論文、見せてあげたわよねぇ。どうして私がヌンドゥの病を広めたって考えないわけぇ? 危機感の欠如? 主人公力、もっと見せてもらわないと困るのよねぇ」

「……」

 

 言葉の意味が理解できなかった。いや、理解しないように脳が拒んでいた。だが、ファースの言葉をそのまま受け取るなら──まるで、全ての黒幕が彼女であると告げているようだった。

  そんな馬鹿な、と言いたかったが、今それを否定する材料もない。そもそも、ノラはエリオットに杖を向けたばかりだ。エリオットがジュディを殺そうとしていたことを「褒めた」ような発言をしたということは、そもそも医務室の主であるミス・ファースがそれすらもファースは黙認していた。あるいは最初から織り込み済みだった。

 

「はぁ……やっぱり人工物に期待した私が良くなかったのかしらぁ……」

 

 ファースはノラに話しかけるのを止めたようで飛んできた紙を引っ掴んで読み直すのに必死だ。もう既にお前には用はない、と言わんばかりである。 完全に油断しきっている今が勝機だ。だが、今のノラは言葉通りの路傍の石である。そんなノラに出来る事、といえば石化の呪文を自力で解くしかない、という事だ。

 ──出来ない話ではない。アフリカ最大の魔法学校ワガドゥーでは杖無しの魔法を教えるらしい。曰く、杖とは西洋の文化である。と。同じ魔法使いに出来るのであれば、ノラにできない理由はない。

 なら、やるしかない。

 今でこそ放置されているが、彼女の手下であるエリオットがジュディを殺そうとしていたのであれば全ての準備が終わった後に再びジュディを殺そうとするかもしれない。絶対にダメだ。

 呼吸で無理矢理呪文を呟きながら、指先に意識を集中させる。全身を動かすのではない、指先の、毛細血管を一つ一つ動かしていくイメージを作り上げていく。繰り返し、繰り返し、行っていく。固まった身体に強引に流し込まれる魔力による痛みで思わず悲鳴をあげそうになるが、幸いノラの喉は石になってしまっている。これ幸いにと強引に体を動かしていく。

 ブチ、ブチ、と魔力の流れで血管が切れる嫌な音がした頃、ノラは手首が動くことに気づいた。

 まだ石から戻ってきていない固まった皮膚に引っ張られる痛みを感じながらも無理矢理杖を振りながら、声にもならない呼吸で魔法を紡ぐ。

 

「──フィニート(終われ)

 

 ようやく自由になった身体で静かに大きく呼吸をする。石から生身の体に変わった事で痛みは増しているが然したる問題ではない。足先からゆっくりと筋肉を動かして大きな血管を傷つけていないことを確認する。

 全身の悲鳴(いたみ)は聞こえないふりをして、壊れかけのからくり人形のようにぎこちなく身を起こしながら、ノラはファースを見据える。ただ起き上がる、その動作にこれだけの筋肉を使う事なんて知りもしなかったな、なんてことを頭の片隅で考えながら。

 先程は魔法を撃ち込んだのが悪かった。で、あるとするなら。

 

「は……ぁ、あづ……何が──ゲホッ──目的、なの」

 

 口から出た声は普段とは全然違う枯れた声だった。筋肉が動いていないだけで実際どれほど叫んでいたのだろう。身体が勝手に咳き込んで喉の調子を整えようとする。不快感に覆われた体を無理矢理地面に縫い付けて会話を引き出す為に前を見る。

 ファースは驚きも怒りも見せず、ただ純粋な子供のように目を輝かせた。

 

「……すごい!」

 

 ぱぁっと喜色を浮かべる。何か新しいものを見つけた時のように弾んだ声だ。事実、ノラが起き上がるとは思っていなかったのだろう。

 

「すごいわ!自分で起き上がったの⁉ すごい! それってどうやったのかしら! 魔法? 魔法よね! 魔法を解除するには魔法しかありえないもの!」

「……石化してたとしても呼吸は出来るわ。呼吸で無理矢理呪文を呟いている事にして」

「魔力を自身の体に流したってわけ! あは、だからあなたの体、あちこち内出血してるのねぇ! 凄い!うん、凄いわ!」

「やろうと思えば誰にでも出来る事ですから」

「やろうと思った事を実現するのはなかなか難しい事よぉ。夢はほら、叶わないっていうじゃない?」

「でもファース。貴方は何かの目的(ユメ)を実現させようとしている、違うかしら……?」

「別に? 御大層な夢なんかじゃないわぁ。ただ人を今より強くしたいだけ。進化させたいだけよぉ。弱い人間(マグル)を捨てて強い人間へと、ね」

 

 ファースの言葉にノラは理解できないと眉根を顰める。その様子にファースは愉悦を頬に載せて話をする。

 

「あなたがヌンドゥの疫病だって突き止めさえしなければこのまま静かに去るつもりだったのよぉ? ヌンドゥの疫病の強毒化は済んだし抗体の作り方のサンプルもこの半年で十分集まったもの。今ホグワーツに居る子供たちは弱毒のヌンドゥの疫病なんて気にかからない程の抗体を手に入れてるんじゃないかしらぁ。ヌンドゥさえ居なくなれば全ての生徒が抗体を手に入れる。そして抗体を手に入れた子供たちが大人になったらその子供もヌンドゥの疫病の抗体を持つ。確かに正規のルートじゃないけどぉ、私は正しい事をしたつもりよぉ」

「……え」

 

 つまり、ノラがヌンドゥの疫病の可能性を見つけた事自体が間違いだった、と目の前の女性は言っているのだ。お前のせいで今、ジュディは殺されかけ、ジェームズは意識を刈り取られ、ノラ自身もボロボロの体で立っている。この状況は全てお前のせいなのだと。

 その一言に絶望しそうになった。余計な知恵をため込んだだけの肉袋が余計なお世話をしてみんなを窮地に陥れたのではないか、と。

 ──けれども、ノラは知っている。普段周囲からも落ちこぼれと呼ばれていても友人の風邪を治してあげたくて一人雪の深い森の中に行こうとした少年(ピーター)の事を。結果的にドクシーとピクシーを間違えて森で迷いかけただけだったとしても、あの優しさと勇気を余計なお世話、と呼ぶことはしたくない。そしてそれはノラの行動にも言える事だ。自分で自分の擁護をするだなんて、と思うけれどこの場で絶望するなんて楽な道に逃げる事はしたくない。

 

 あぁ、とノラは微笑む。ノラの事を勇気づけてくれたジェームズもきっと同じ気持ちだったのだろう。結果的に間違っていたとしても足を留める程愚かなことは無い、と。

 

「それで()は私たちをどうするつもり?」

「あらぁ膝でもついて許しを乞うかと思ったのだけどぉ」

「私には、辛い時にも隣に居てくれる友達がいるから。膝を着いている暇はないわ」

「へぇ」

 

 慈母のようなたおやかな笑顔を浮かべるファースは杖を振り上げる。それを見たノラも再度杖を構えた。

 舞うように放たれる閃光を別の呪文で受け流す。エリオットとの戦闘と同じく、ファースが余裕をもって無言呪文で攻撃してくる。先程は手心が無いと思った。実際にその通りである。だが、その分呪文に集中しなくてはならないというデメリットも同時に存在しているのだ。

 視線はファースから動かさず、瞬き一つすら惜しみ、真っ直ぐに見つめながら、ファースが撃ち込んでくる呪文を避けていく。

 最初はただの偶然だった。二度目は狙って避けてみた。そして、三度目を避けた時、確信する。──ファースは動き回る相手に呪文を当てるのが苦手なのだと。

 疑問に思ったことは無いだろうか。銃身とは何のためにあるのか、と。火薬で打ち出した最高速度そのままで相手を攻撃できれば威力が高まるのではないかと。動きを固定する銃身など無駄なものではないかと。

 けれども事実は逆である。スナイパーライフルなどは特に銃身が長い。その理由の一つに、静止状態にある弾丸を急激に加速させると弾丸本体と被甲の間に莫大なストレスがかかり、最悪の場合には両者が剥離して弾道が不安定になる事が挙げられる。それを回避する為に長い銃身の中に施条を作り弾軸を安定させるのだ。

 つまり、一言でいうと『強い力を制御する補助輪(銃身)が長ければ長い程、逆に弾道は安定する』。

 

 そして魔法界でも同じ理由で杖が使われている。例えダンブルドア程優秀な魔法使いであっても杖無しの戦闘と杖在りの戦闘では杖在りの戦闘の方が指向性が上がる。これは魔法族なら当たり前の事実だ。

 ファースはその安定させる補助輪()が短い故に狙い(エイム)を付けるのが苦手なのだろう。

 その隙をついてノラは先ほどの轍を踏まないようキャスター付きの衝立をジュディとジェームズ、そして動けずに微笑みを浮かべているエリオットの方に投げ転がしながらファースの放った呪文を地を這うような姿勢で走り避ける。

 意識のない彼らの盾となっている事を横目で確認しながら、ノラの動きに目を盗られたファースの隙をついて呪文(フリペンド)を放ってトランクをファースの近くの窓ガラスにぶち当てる。バリンッといっそ小気味良い程の音を立てて窓ガラスが割れてトランクが窓の外に飛び出した。窓ガラスの破片がファースの白い肌を切り裂く。

 

「いったぁ……一手やられちゃったわねぇ」

「……遠距離魔法が苦手、って言ってたの本当だったのね」

「あら、嘘つきだと思われてたの?悲しいわ。……でもね遠距離魔法が苦手でもこういう事は出来るのよ」

 

 形容しがたい不快な何かが折れる音が癒務室に鳴り響き慌てて音の方向を見る。

 その顔は、口角を挙げて目じりを下げていれば笑顔だという無理矢理(ペイント)を張りつけたピエロのような笑顔だった。

 エリオットの腕が蜘蛛の脚の様に動き、地面から自分の体を押し上げる。ただし、肘を中心として手を体の外側に曲げながらとりもちを強引に腕力で引きはがしにかかっている。

 あり得ない人体の動きにノラの呼吸が思わず止まった。悲鳴を上げるよりも先に脳が状況を理解することを拒む。けれども状況は説明が不要な程明快で。

「ほらぁ、良く言うでしょ? 人間は常日頃から100%の力を出してないって。物語にも良くある事じゃない? うんうん。弱い人間が強くなる。これも浪漫よね」

「ッ──タラントアレグ(踊り狂)ゥあッ!」

 ファースを止めようと杖を振り上げるも重たい質量(エリオット)がノラの杖腕を掴んで引っ張り上げる。手加減のない持ち上げ方に両足が地面から離れた。雲梯に自分で捕まるのなら握力がそれを支えてくれるだろう。だが、今のノラの全体重を支えているのはギリギリと音を立てる程強く握られた片手首のみ。

痛みで泣いてしまいそう、いや、涙ならもう既に零れ落ちていた。ジタバタと足で蹴飛ばしても掴まれている腕を叩いてもびくともしない。邪魔だと言わんばかりに折れた手で暴れるノラの頸を掴む。

 

 その様は壊れた人形同士で遊んでいるように見えたのかファースは楽しそうにケラケラとひとしきり、思いついたように手を叩く。乾いた音が鳴ると同時にファースの目の前に如何にもな一メートル程あるトランクがポフンと可愛らしい煙を立てながら現れる。ファースはまるで筆箱を開けるような気軽さでそのトランクの蓋を開き、蓋が開くと中から獰猛な獣の唸り声がビリビリ響く程の轟音で響く。

 

「あらあら、ゴキゲン斜めねぇ。フリペンドからのぉ、モビリーコーパス(こちらにおいで)

 

 ノラが咄嗟に置いた衝立は軽く吹き飛ばされ、その奥に転がっていたジェームズが露わになる。ジェームズの体が浮かび上がったかと思うと開いたトランクの上で高級品の時計みたいにクルクルとその場でゆっくりと回転し始めた。そのまま魔法が切れたら、と考えると背筋が凍る。

 

「やめて! 下ろして‼何を、何をするつもりなの⁉」

「何をするって、この状況を見ても分からない?お腹が空いた獣に餌を与える慈善事業だけれどぉ……。意識がないならそれは加工された肉も同然だしねぇ」

「そんなことないわ!ジェームズは生きてるじゃない!」

「今から死ぬもの。加工された肉だって元々は生きていたものなのにどうしてそんなに忌避するのかしらぁ……。あ、それじゃあ、主人公なノラ・エディソンさんにチャンスをあげるわね」

「チャンス……?」

 

 ノラの問いかけにファースは答えない。その代わりの答えだ、というようにジェームズの体が獣の口の様にだらしなく空いたトランクの中(トランクケース)に落ちていく。思わず叫び声を上げようとして失敗する。理由は単純でノラも同じように地面に落とされたからだ。ノラの腕を掴み上げていたエリオットの手は何も掴むつもりはない、という意思表示なのか真っ直ぐに開かれたままで動きもしない。

 片手は杖で塞がっている。躯のあちらこちらが限界だ休めと休憩を求めている。絶対絶命。──だが、もう片方の手は空いている。生命線である杖を握りしめ、少女は一つの選択肢を無意識に無自覚に選んで落とされた少年の後を追って飛び込む。

そんな生を選んだ愚者は暗闇の世界に落ちる。

 

 

 

 

 

 そんなこんなで始まった無策の垂直落下(フリーフォール)

 外から見た時は真っ暗闇だったのにも関わらず中に落ちてみると意外と明るいモノで。どこまでも続くような足元には森が広がっている。変種の移動魔法なのか拡大呪文なのかは知らないが外側が真っ黒だったのは誰かに見られてもバレにくい様にしているのかもしれない。

 体に加わるGに気持ち悪くなるがこの状況で目を瞑ってもこのまま箒も翼もない以上肉ミンチである。体を下に向けて自由落下していくジェームズに手を伸ばす。一度目、手が掠る。二度目、風圧で手がすり抜けていく。三度目──手を、伸ばす。

 

「届い、てぇぇぇっ!」

 

 声を出したところで結果は変わらないが思わず声が出ていた。三度目の正直。ジェームズの手の甲をノラの手のひらが捕まえた。しかし、歓喜する間もなく次の行動に移行する。絶えず落下しているのだから当たり前である。意識のないジェームズを強引に引き寄せながら杖を振る。

 

ヴェーディミリアス(足場よ現れろ)ッ! スポンジファイ(柔軟になれ)! スポンジファイ! スポンジファイ!」

 

 落下地点に杖を向けて六角形の透明な足場を形成し、それを更に柔らかくする事で衝撃を吸収させる。ただし、これではまだ(ぬる)い。これだけの落下、ただのトランポリンを用意したところで怪我では済まない。

 ノラの頭の中には一つの考えがあった。最速時速530㎞を軽く超える速度で走るドラッグマシーン。そのブレーキのかけ方。

 

ウィンガーディアム・レヴィオーサ(浮遊せよ)!」

 

 一年生の前半で習う単純な呪文を自らの服にかける。グンッと服の縫い目のある個所が体に食い込み痛みが走る。だが、その分僅かにだが浮いている。といっても若干空気抵抗増しましたか? というぐらいである。

 けれども若干でも積み重ねればその効力は増していく。

 

「ウィンガーディアム・レヴィオーサ。ウィン、ガァゥ……ウィンガーディアム・レヴィオーサ。ウィンガーディアム……レヴィオーサ!」

 

 両肩、お腹といった大きな縫い目の箇所が中心に体に食い込み、巨人に掴まれたのではないかと言う程の圧迫感を感じながら呪文を唱え続ける。だがそのおかげでかなりの勢いをそげた。ふわり、とまではいかないが十分に着地出来る程だ。

 後十メートル、八メートル。

 ノラはぎゅっとジェームズの体を抱え込み、足を下にして着地の瞬間を待つ。

 五メートル、三メートル、一メートル──。

 パルクールの動画を見ると必ずと言っていい程、パルクールを使える彼らが高いところから着地する場合着地と同時に前転する。その理由は着地と同時に足を曲げて衝撃を吸収し、更に前転することによって着地の負荷を全身に分散することで怪我をしないようにする為である。

 

 ボヨン、とギャグマンガの様に一度跳ね、転がりながら二回目、三回目、と繰り返していくうちにだんだんと落ち着いていく。中央の窪んだ場所で意識のないジェームズと団子になってようやく動きが止まった。

 

「──ッ、ぁ──重たい」

 

 重たいし兎に角痛い。胸の上から足の先まで重さを感じているという事はどこかがバラけたり潰れたりという事はなかったのだとは思うが未だに上に引っ張ろうとしている服が相変わらず痛い。まずは、とジェームズの脇の間から強引に杖を持ち上げる。

 

フィニート(浮遊よ終われ)

 

 服の引っ張りがなくなり、自由に動けるようになってからジェームズの体を押し退ける。少々乱暴になって申し訳ないなと思いつつも同年代の少年を優しく脇へ置く程の筋力は持ち合わせていない。

 ドサリ、と置いてしまったジェームズの胸を見る。規則正しく上下しているところから見るにいったんの心配はない、と思いたい。本来であれば失神呪文も逆呪文であるリナベイト(目覚めよ)を使いたいところだが流石のノラも未取得である。次の手段は出来る限りジェームズが目覚めるまで放置しておく、という事だが──。

 ノラがそう考えると同時に地の底を震わす獣の咆哮が響く。

 

「ここは、のんびり待っている暇はないわね。ごめん、ジェームズ」

 

 フィニート、とノラは呟いた。あくまでフィニートは呪文を終わらせるためのモノ。強制的に失神を促していた人体電気を終わらせるだけであり、意識を取り戻すように指示までするリナベイトとは経緯が違う。つまり、意識を取り戻すこと自体はジェームズに行ってもらうしかないのだ。

 脳に異常があるわけではない為揺すったとしても問題はない、筈だが多少揺らさなくてはならない。癒療従事者ではない為正しい対処法ではないだろうが、それでも何もせずにヌンドゥの餌になるよりかは百倍いいはずだ。両肩を叩きながら声を掛ける。

 

「起きて、ジェームズ! 起きて頂戴!ジェームズ・ポッター!」

「んー……むにゃ、まだボクは寝れる……よ」

「睡眠は睡眠でも永眠の方になっちゃうわよ!」

「リーマス……? もう朝かい?」

「リーマスでも無ければ朝でもないわ! 目を覚ましてジェームズ・ポッター!」

「なん……は? 待ってくれノラ、キミどうやってグリフィンドール寮の、なか、にぃ……?」

 

 ノラの声に反応して目を覚ましたジェームズはノラの顔を見てギョッとした後、声が尻すぼみになっていく。キョトンとした榛色の瞳を見てノラは安堵すると同時に、あまりの嬉しさにジェームズの首に飛びつくようにしてハグをする。

 

「良かった! ジェームズ! 目が醒めたのね!」

「ちょ、ちょっと待ってくれ! 状況が! 状況が理解できない。ここはどこなんだい?」

「えぇ。そうね。ここは、多分検知不能拡大呪文の中かしら……。うん、状況の説明もするわ。でも先にジェームズ。痛いところはない?」

「無い、っていうと嘘になるけど……そうだね。動けない程の痛みじゃない」

 

 良かった。と呟いてノラはスカートのポケットから純白のハンカチを取り出す。骨が見える程深いわけではないがそれでも額から出血しているのは見過ごしておけない。ハンカチを広げて包帯代わりに軽く巻く。

 本当は抑えておいた方が良いのだろうが、今はあまり杖から長時間手を離しておきたくない。ジェームズの手当てをしながらノラは今までの状況を説明する。

 ジェームズが気絶した後ろからファースが現れた事、ファースの語った『人間を強くしたい』という願望、強制的に操られたエリオット、箱の中からする獣の声、そして箱の中に落とされたジェームズを追って飛び込んだノラ。その話を聞いたジェームズは自然と拳を握っていた。

 

 今ジェームズの頭の中にある言葉は一つだけ『悪を許してはいけない』。出来る事ならばファースを殴りに行きたいところだが現段階でそれが出来る状況ではない事も理解している。怒りで沸騰しそうになる頭を強引に冷静に切り替えてジェームズ・ポッターは口を開く。

 

「これからどうするか考えているかい? 僕からの提案はこのまま上空で待機する事だ。僕が足場を作るからもう少し高いところに居ても良いと思う。ヌンドゥの運動神経がいくら良かったとしても更に上空に逃げてしまえば手出しは出来ないだろう。幸いボクらがあの話をした後だ。マクゴナガルもボクらがいないことに違和感を抱くだろう。あの医務室での乱闘を考えるとそろそろ事態が発覚していてもおかしくないと思う。ボクはともかくキミの友人たちは今まで授業をサボった事のないキミが授業にいない事に違和感を抱くだろうからね」

「私は……」

 

ノラが少し口ごもる。数秒黙り込んでノラは口を開いた。

 

「私は降りたほうが良いと思うわ」

「正気かい?」

「ジェームズ。貴方言ってたわよね。私たちがお昼食べた飴玉のカロリーはあくまで飴玉程度しかないって。私たちは既にかなりの魔法を使っているわ。だからいつ魔力切れを起こしてもおかしくないと思うの。正直なところ、私も後二割程の魔力しか残っていない……こんなに魔力を消費したことないから感覚でしかないのだけれど。ジェームズ、貴方も武装解除呪文を使っていたし出血もしているわ。それに私とあなたの寮が違う事が良くないと思うの。確かに私の友達は私が居ないことを気にしてくれるとは思うけれど私の寮監はフリットウィック先生よ。私が居ない事との関連付けが出来るのはもう少し後だと思うわ。マクゴナガル先生と話をし終えたのが四時間目の終わり頃、あれからまだ一時間は経っていないはずだからみんなが揃う夕食まで見積もっても二時間ほどあるわ。窓ガラスを割って異常を知らせてみたけれどそれもあくまで保険。気づいてもらえるとも限らない。その長時間一度も集中を切らさずに魔法を使い続けられる自信はある? 私ももう一度は高所からの落下に対応はできない」

 

「……なるほど。でも下に降りてどうするつもりなんだい? ヌンドゥには対魔力が備わっている。近くからでは身体能力で中距離からでは毒の息で。遠距離からの攻撃しか通用しないと言ったのはキミだぜ」

「魔法での攻撃は確かに効かないかもしれない。でも──」

 

 ノラの言葉にジェームズは目を見開いた。

 ローブの右ポケットの中にはチョコレートの包みが二つ。自分の口の中に一つ放り込み、もう一つはジェームズの口の中に放り込む。

 ブレザーのポケットにはリップクリームと鏡と櫛、そして小さなソーイングセットだけだ。……鏡も使えるかもしれないのでスカートのポケットの中に移動させ動きを阻害するローブとブレザーは脱ぎ捨てる。自身の三つ編を解いて動きやすいポニーテールにする。そして最後に──大切なリボンはローブの中にしまった。このリボンを見るだけで元気が出てきた気がする。胸がぽかぽかと暖かい。

 体をほぐす軽い運動を終え、同じくローブとブレザーを脱いだジェームズがこちらを振り向く。

 

「準備は出来たかい?」

「えぇ。お願い、ジェームズ」

 

 ノラの言葉を聞いたジェームズは満足そうに頷いて杖を掲げる。指揮者の様にも見えるその動作の後、足元に杖先を振るい呪文を杖に載せる。

 

ヴェーディミリアス(足場よ現れろ)──マキシマ」

 

 ジェームズは一度だけしか杖の動きをしなかった。けれども。

 

「凄い……階段だわ……」

 

 適切で繊細な魔力操作とその強いイメージ力でジェームズは半透明の螺旋階段を作り上げる。グリフィンドールの天才、その才能の一端である。

 

「もう少し華麗な模様とか付けられたら女の子にはモテると思うんだけどね。まだ今の僕にはシンプルな四角形の階段が手一杯さ」

 

 一歩、足を降ろしてジェームズは自分の生成した足場に違和が無いことを確認し、ノラに手を差し出す。

 

「それじゃあお姫様。お手をどうぞ」

 

 エスコートするのは男の役目だからね。くすくすと笑いながらノラはその手に手のひらを置く。少年と少女はヌンドゥが待ち受ける地上へと階段を踏みしめて降りて行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

「本当は僕がその役目をやりたいんだけどね」

 

と申し訳なさそうに言うジェームズにノラは首を横に振る。

 

「いいえ。さっきも言ったけど私はギデオンやフリットウィック先生からこの技術を教わっているの。森で跳ぶのは初めてだけど……でも、私の方が成功確率が高いから」

「分かってる。……十分気を付けて、ノラ」

 

 ジェームズの言葉にコクリと頷きながら魔法を詠ってノラは木の上に向かって跳び上がる。なんてことはない。身体能力の底上げである。

 ジェームズが透明マントを被っているのを横目で確認しながら黄金の影は青い空で跳躍する。太めの枝から太めの枝へ。その衝撃で枝が折れるより先に次の枝へ。

 重力に従い、引力を従える。衝撃を預け、衝撃を受け取る。その応酬を繰り返す。

 箒が使えたらもっと楽だろうに──いや、その場合はノラは箒に乗れないからジェームズがこの役目をすることになる。それは。

 途中で余計な事に思考を割くのを止めて速度を落としながら更に太い枝に着枝する。ジェームズの居る位置から五十メートルは離れただろうか。ヌンドゥ相手に安堵出来る距離ではないだろうが、あまり離れすぎても狩られてしまう。

 

 ノラは杖を上にあげる。魔法ではない。ただの魔力爆発(かんしゃく)。嫌だと思う気持ち(魔力)を杖に乗せて打ち上げる。ボンッ、と制御のされていない不自然な音がノラの上空から響き渡る。本来はソレが作戦の合図。けれども、これだけではヌンドゥの気を引くには弱い。餌が音を立てて自分の場所を教えているだけなのだからヌンドゥとしての状況は変わらないだろう。ヌンドゥの本能を刺激しなくてはならない。例えばそう、血の匂いをさせる、とか。

 そしてポケットから入れておいたソーイングセットから小さな糸切りはさみを取り出し自分の右の手の甲に向ける。

 痛みは一瞬遅れて走った。痛いというよりかは熱い気がする。ワインよりも紅く暗い液体が純白の肌を流れて落ちていく。

 ボタリと世界に赤黒い孔が開いた後、甘美な餌の匂いを感じ取った獣の歓喜が箱庭に響いた。

 高所に居るノラからは不自然な木々の動きや音が目に入り、そこには巨躯を自動車よりも早く走らせるヌンドゥが。

 

「……やっぱり」

 

 違和感ならあちらこちらに埋め込まれていた。例えばトランクを無防備に開け放った事。例えばこの箱庭の小ささ。例えば、ヌンドゥの疫病にしては弱すぎた事。

ノラとジェームズがエリオットが無症状キャリアだと思っていた理由はソレだ。本体から直に受けた菌は活動力が強く、抗体を上回るほどの強さを持つ。しかしノラとジェームズは発症せずにいる。つまり、無症状キャリアが感染させたから弱毒性で菌の活動力が弱い、と考察していたのだ。

 けれどもヌンドゥは明らかに弱っていた。餌もしっかり貰っていなかったのかもしれない。あばら骨も浮き出て皮膚病も患っているように見える。栄養失調により筋肉も衰えているのか本来であれば足音一つ立てないはずのヌンドゥが音を立てて走っている。

その状況が制御しやすかったのか、それとも子供に強毒を与えるとすぐに死んでしまうと判断したのか。どちらにせよ、邪悪な考え方である。ノラが思わず同情しそうになったその時、十数メートル先に居る二つの凶眼と視線が合った。

 

「ひ……」

 

 緩まっていた意識が急激に引き締まる。

 濃厚な死の気配、そういう言葉では言い表せない程の恐怖がノラを襲った。図鑑や映像などではみた事がある。しかし今、檻や柵がない状態でアレと遭遇する恐怖を身を以て実感していた。その恐怖は人間同士での魔法と魔法の凌ぎ合いなどとは釣り合わない物だった。

 同じ生物(いきるもの)としての格上に対する畏怖。

 異なる生物(いきるもの)としての意思疎通に対する無理解の再確認。

 産まれて六か月の子犬ですらたやすく人間の皮膚に穴をあける事が出来るだろう。その何十倍もする体格。歯が少しでも触れようものなら自分の体はいともたやすく千切れてしまう。それを意識ではなく本能で察知する。

 

「──馬鹿ッ」

 

 思わず足が竦んで動けなくなりそうなのを右の手の甲を叩いて否定する。痛みで正気を取り戻す。

 

「そんな事は、理解していた筈だわ。でも──」

 

 それでも、許せないことがあった。

 誰かを殺させてしまったらあのヌンドゥは絶対に殺されてしまう。でも今はまだ誰も殺していない。少なくともノラの眼の前では誰も殺していない。ならば、このまま操られて人に危害を加えてしまった可哀想な動物のポジションを失わさせてはいけない。

 一秒後、躊躇一つなく黄金の髪が飛び出した。

 

 

 

 

 

 

 

 ジェームズ・ポッターは天才である。

 これは自慢だがジェームズは才能ある両親の元に産まれた。父は直毛薬を開発し数世代先──少なくともジェームズの子供が大人になるまでは遊んで暮らせるほどの資産を手に入れている。その息子であるジェームズの才能は子供のころから発揮されていた。魔力を発現させたのは一歳のころだったし。子供用の補助()付きの箒を操ったのは三歳の頃だった。学問は勿論、魔法に関しても知識から遠ざけるのは違うという両親の教育方針の元、勉強をさせてもらっていた。優秀な頭脳、裕福で学びのある環境。天才に育つのはある意味当たり前だったとも言える。

 

 魔法を使えない子供たちが居る事を知った時は少し可哀想だな、と思った。こんなにワクワクすることだらけなのに知らないなんて勿体ない。

 

「ボクは魔法を世界中の人に知ってもらいたいんだ」

 

 そういったジェームズに両親が困った顔をしてしまったのは凄く印象に残っている。まだその時のジェームズはマグルの歴史なんかに興味を持ってなくて、マグルの世界では魔法ではなく科学という力が生活を安定させているとは思いもよらなかった。世界を安定させている力とは別種のものがあると知った時、人がどう思うかなんて知らなかったから。ジェームズは肩を落とした。誰もが幸せになれると思ったのに、と。

 けれどもずっとマグル達は魔法を知らないわけでもない事も教えてもらった。所謂マグル産まれ。両親ともどもマグルで魔法の存在は御伽話だと思っていたのにある日魔力を発現する存在。どれだけワクワクするんだろう、とジェームズは目をキラキラさせて彼らの存在を知った時にそう思った。これまで決まった法則に則った世界で生きていたのがある日を境に法則に縛られない第二の世界を知ることになる。ジェームズが魔法族だから故に味わえない感動。マグル産まれ故に味わう事の出来る感動。

 

 そうして少しずつ、少しずつ喜びと共に魔法が広がっていけばきっと魔法は第二の世界じゃなくなって、二つの世界は一つになるのだと。そう思ったのだ。

それを邪魔するものが居る事を知ったのはもう少し後だった。父のフリーモントが珍しく家でエールを煽りながら愚痴を吐いていたのを聞いた。ジェームズが寝た後に、フリーモントは聞かせるつもりもなかったのだろう。

 

「純血主義の奴らが邪魔をしてくるんだ……。大口の契約を手に入れられるチャンスだったのに『血を裏切る者』だから、と」

 

 日頃ジェームズに笑顔を向けていた父が悲し気な顔で俯いている。それだけで、許せない、と思った。

 純血主義が何かは分からないが父にそういう顔をさせた奴らが許せない。結局のところ、ソレが原初の理由だったのだ。知っている人に悲しい顔をさせたくない。それだけの純粋な気持ちだったのだ。

 そしてさっきも、また同じ顔を見た。見かける度にいつも太陽のように輝いている女の子。その子が泣きそうな顔をしてジェームズを覗き込んでいた。やっぱり許せない、ともう一度思ったのだ。

 人を傷つけるモノは何がなんであろうと悪である。この状況だからこそ再確認する。

 

「悪は放ってはおけない。──気張れよ。ジェームズ・ポッター。優秀なボクには、この程度寝ていても出来る事だろう」

 

 だから此処から先は絶対に成功させてやる、と胸に刻む。きっと、あの少女はジェームズだけでなくヌンドゥも守ろうとするだろうから。乱暴で横暴で、それでいて優しい考えを天才の自分がそれを達成させてやらなくてどうする。

 杖先に魔力を乗せて。何かを傷つける事への躊躇は消して。悪は許せないという正義感を胸に。グリフィンドール一の天才ジェームズ・ポッターは前を見据えた。

 

 

 

 

 

 後ろから獣が迫ってくる。首筋がぞわぞわと『死』の気配を辿って擽ったい。教室よりも高く、なんなら一軒家よりも高いんじゃないか。そんな高さを月面のウサギの様にピョンピョン飛び跳ねながら目標地点まで向かう。

 幸か不幸か、ヌンドゥはノラの事を獲物だとしか思っていない。獅子は一兎を追うにも全力を出すとは言うが遮蔽物の多いこの場所だからこそ全力を出すことは出来ず、何割の力なのかは知らないが今の所後ろを追いかけてくるので精一杯のようだ。とはいえ、後ろからバキベキボキと心臓に悪い音が聞こえてくるのは実に勘弁していただきたい。木々を避けるのが面倒なら踏みつぶしてしまえ。そんな解決方法を取るのは流石危険度XXXXXというかなんというか。踏み込みだけで地面がえぐられているのを見てしまった。

 

(というかそれが見えているってことはそれだけ近づいてしまっているってコトじゃ──)

 

 若干の焦りを覚えて、足がが少しズレる。

 空中で少し停滞してからガクン、とその負債が体に走って本来飛ぶ筈だった軌道上から放り投げだされる。しまった、と思うと同時に髪の毛を数本引っかけて、何かが通っていった。

 ズドンッッッッッ。とド派手な音を響かせてその何かが着地する。その風圧でまたしても軌道がズレたのを体で感じながら、通り過ぎて行った影を確認した。

 

「は」

 

 驚いて言葉にもならなかったというのが素直なところだ。想像は付いていたが理解はしたくなかった。地上から十メートルは離れているというのにノラの真後ろをヌンドゥが通りすぎていったのだ。十数メートル先にはこちらを振り向いて餌を待ち構えるヌンドゥの姿がよく見える。タイミング悪く別の枝に結び直して居なければそこで死んでいた。宝くじの一等を当てるよりも遙か上の幸運に命を救われた事をいったん無視して、ぐるりとヌンドゥに背を向ける。速度は落ちるがこのまま直線的に進むよりかは生存確率は高い。ついでにヌンドゥが走ってきた道を見て感嘆する。殆ど倒れている木が無い。

 つまり直線距離として捕まえられると判断して突撃してきたのだろう。これまでのノラが通ってきた道からそれを予測し突っ込んできた。何度目か分からない背中に冷や汗が伝う。弱っていたとしてもノラの二十メートル程後ろに居た筈のヌンドゥが直線距離で三十メートル程、それを一秒もかけずに走ってしまうその圧倒的な速度。大質量を動かすにはそれなりの力が必要であるのは魔法界であろうとも変わらない法則であるにも関わらず、である。

 

 加えて先程の直線走行で筋肉のしなやかさが上がっている(準備運動が終わった)のか段々と距離が詰められている。

 そんな時だった。深いため息をつくように、霧がヌンドゥの口から放出された。

 

「何……──っ!」

 

 その霧に入った瞬間、顔に刺激が走った。刺激というレベルではない。その柔らかい肌を針で刺すかのような痛み。痛いという言葉すら口から出てこない。喉にも魚の骨が何十本も刺さったのではないかという程の痛みと違和感が激しく主張している。咄嗟に息をしてはダメだと悟り、吐き気を催す口と鼻を手で覆う。

 目にすらその霧は有害なのか染みて涙で少し視界がぼやけている。それでも足を止めない。止めてはならない。今は何を優先にしてもこの霧を通り抜けなくてはならない。この場に居てはまず痛みで発狂する──!

 

 息というにはあまりにも攻撃的でコレが病か、と理解する。たった一呼吸しか吸い込んでいないのにこの毒性。百人居てようやく抑えられるというのも嘘ではない、それどころか百人で足りるのかすら危うい。ノラがこうして動けている事もなんらかの奇跡だろう。呼吸を押さえた手の平の中で鼻血が垂れるのを感じた。

 とっくに迎えたピークの体に鞭を打って動いている上に、さらに左右交互に飛ぶことで速度が落ちている。こうして逃げ回るしか逃げ回るしか打てる手が無いことに歯噛みする。カッコよくズババーンと豪快に魔法を撃てるならきっと最高だっただろう。けれどもこれが今のノラにできる最善の手順だ。人間は人間であるが故に常に最高の手を打てるわけではない。その時その時で最善だと思った確実に使える手段を行使する他ないのだ。

 

 透明──安全地帯──である空気の中で息を吐いて、ノラはここ一番高く空に飛びあがった。ヌンドゥはそれを油断と見做し、落下地点を予測して落下地点に滑り込む為、四肢に力を籠め跳び上がった。

 獅子は一兎を追うのにも全力を尽くす。けれどもそれは全力が出せる場合であり、栄養失調の獣はその後の体力を温存する必要性がある。先ほどノラが本能で感じたようにヌンドゥも同じくノラの生命規模を感じただろう。一噛みさえすれば死ぬ脆弱な生き物だと。その本能は正しい。

 もっとも──。

 

「ジェームズッ‼」

 

 ノラが一人であれば、の話だ。少女はヌンドゥには見えていない(・・・・・・)第三者の名前を呼ぶ。

 上空で自由落下に身を任せる少女、そしてその落下地点に滑り込んだヌンドゥ。両者の間には横幅二メートル程もあろうかという巨木が不自然に浮いていた。

 これだけ巨大なモノであれば大人の魔法使いであったとしても持ち上げるのには数名で行う。結婚式のテントですら数名の魔法使いが協力して浮かび上がらせる。理由は単純で、大質量を動かすにはそれなりの力が必要であるのは魔法界であろうとも変わらない法則だからだ。大人が数名がかりで行う作業を一人でやり遂げた少年は才能にモノを言わせた魔法を終わらせる(・・・・・)

 その結果、その莫大な質量は重力を伴ってヌンドゥの真上に落下する。

 ドゴンッッ!! と轟音を伴って検知不能拡大呪文の箱庭(せかい)が激しく揺れた。

 

 

 

 

 

 ヌンドゥが気を失っているのを確認したジェームズが透明マントを脱いだ。それを確認したノラは地面に着地すると同時に膝から倒れ込む。これ以上はない限界ぐらいだった。限度という言葉を知らないのかと言わんばかりに全身が痛い。意識を失わずに済む幸運なのか不運なのか、痛覚ははっきりと主張し続ける。

 ヌンドゥの吐息を吸った影響からか鼻からも耳からもボタリボタリと血が流れ出ている。ゲホッと咳き込むと同時に口の中に血の、鉄の味が広がる。凍えそうな程の寒さと関節の痛みもあった。高熱が出る証だろうか。それとも血を失いすぎたのか。

 

 あぁ、死ぬのかな、とか思いながら特に過ぎるわけでもない走馬灯を夢想する。

 そんなものを見るぐらいなら立ち上がらなくてはならない。意味があるかどうかは分からないがまずは水を浴びなくては。霧の中に入り込んだ菌が体中にまとわりついているはずだ。衣服も燃やさないと。リボンをローブに入れたままで良かった、と安堵する。

 連続して現われる極限状態を生き残った余韻(奇跡)を感じる暇はない。たった十歳の二人でヌンドゥを打ち倒したという偉業(奇跡)を成した自負を感じる暇はない。夢も希望もない話だが、奇跡とは、起こるべくして起きるものだから。

 

「ノラ! 大丈夫かいノラ!」

 

 こっちに走ってくるジェームズを動かない腕を動かして制止する。

 

「近づ、かないで」

 

 小さな声だったがジェームズに届いたようだ。ジェームズが止まったのを確認して、地面を見る。なんとか立ち上がろうとするが足に力が入らない。こんな所で寝っ転がっている場合ではないというのに──。

 

「大丈夫だ! もう大丈夫だノラ! 後はボクに任せて寝てろ! 今はキミの体が一番大事だ!」

 

 ジェームズの叫び声が聞こえる。大丈夫とは言うけれどもまだ次が残っているかもしれない。

 次はミス・ファースが現われる可能性も残っている。休んでいる時間はないというのに。体が動かない。

 

「もう大丈夫」

 

 そんな時、その声が聞こえた。安心する声。顔を上げると、ここに居るはずのない人物が立っていた。

 

「ダンブルドア、先生……?」

「わしはここに居る。後は任せて、寝ていなさい」

「幻覚……?」

 

 ノラがそう呟くとダンブルドアはヌンドゥの息で汚れた体を気にする様子もなくノラを抱きかかえる。

 

「ダ、メ……ヌンドゥの、息を浴びました」

「気にするでない。……おやすみ、ノラ」

 

 その子守歌のような一言が最後に聞いた言葉だった。ノラの意識は深い眠りの闇の中へと。下へ……下へ……下へ……。

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