授業が始まる前から、どこか空気が重いことには気づいていた。理由は分からない。ただ、こういう日は決まって、何かがうまくいかない。
「ミス・エディソン。ドゥアルガーについて答えなさい」
「はい、北欧神話に登場するドワーフです」
「先日の注意を忘れたようね。ドワーフについてもっと補足を入れないなんて、みんなへの嫌がらせかしら。自分だけ良い点を取ろうとする、随分と身勝手な生徒ね」
「いえ、先生。そんなつもりでは」
「じゃあ最初から細かく伝えるように。レイブンクローから二点減点」
指摘は短く、説明はなかった。ノラは一度だけ瞬きをして、その言葉を受け入れた。納得する前に、判断はすでに下されていた。
反論しなかったのは、正しいと思ったからではない。ただ、そうする以外の選択肢が思い浮かばなかった。
そんなノラに一番腹を立てているのはライバル認定をしたジェームズである。拳を握り、怒りに震えている。居るのは普段の悪戯っ子の顔をしているジェームズではない。彼は正義と憤怒に囚われた一人の少年だ。
少年はバンッと机を叩き、ベンチを蹴飛ばしながら驚く程勢いよく立ち上がりまっすぐに腕を伸ばし指を指して、どこぞの弁護士のように「異議あり!」と、教室に響くほどの声で叫んだ。
ちなみに、同じベンチに座っていたシリウスはその勢いで転がった事に納得のいかない顔で地面に転がっている。
「なぁにが嫌がらせだ、なぁにが自分だけが点数を良くしようだ、他の生徒が教科書通りに読んだ時には何も言わない癖に! なぁにが先生だ、自分勝手なのはあなたじゃないか!」
「ジェームズ! 何を──」
普段は前の席に座るがこの授業だけは後ろに座るノラが制止のために伸ばした手は、彼の勢いに追いつかなかった。
「何を⁉ 何を、って君がいびられるのをただ見ているだなんてもう無理だ! それに赤毛のおちびちゃんだって点数を引かれてる!
「おちびちゃんって呼ばないで!」
「ミスター・ポッター。私の授業の仕方に文句があると?」
「だからボクは今文句を言っているんだ!」
「なら貴方は授業を受けなくて構いません。ただ単位が出ないだけです」
「あぁ、あぁ! それでもボクは結「私が文句を言わせました‼」
ジェームズの声を遮ったのは、ノラだった。ジェームズと同じくベンチを弾き飛ばす勢いで立ち上がり、隣のベンチに座っているジュディは「座る」が過去形となりベンチから転げ落ちていた。
シリウスと同じ視点で目が合ったらしく肩を竦めあっている。
「なにを」
「私がローズベルト先生に文句があっただけです!私が……私が言うのが怖かったので代わりにジェームズに言ってもらいました──あの、私が言わなければ減点されないと思ったので」
何を言っているのか分からないと言ったようにジェームズは眼鏡を滑り落とした。
「私が言うのが怖かったんです。だから、代わりに言ってもらいました。ジェームズが文句を代わりに言ってくれてとてもスッキリしたんです。──私が悪い事をしてしまったと分かっていますが、それでも腹が立ったから。私が怒られるのが嫌だったから……」
「違う! 僕が文句を言いたかったんだ!」
ジェームズの声は耳に届いていないと言わんばかりにローズベルトはこれでもか、という程満面の笑みを浮かべながら立ち上がっているノラに近づいていく。
「まぁ、そういう事だったのね……」
パシン、と乾いた音が教室に弾けた。クラス中が息を呑む。ローズベルトとノラ以外は。
赤く腫れた頬を見てローズベルトは満足した表情でノラを見つめるが、ノラが水色の瞳を逸らさず真っ直ぐに見てくるのを悔しそうに睨んだあと、大きな声で言った。
「罰則です。ミス・エディソン。今週は毎晩、罰則室で掃除をしなさい。勿論魔法無しで。そうね、二十時五十分までにしましょう」
二十一時には外出禁止時間が訪れる。スリザリンの地下からレイブンクロー塔の最上階まで十分後に寮に戻れるとは思えない。それは罰というより、逃げ道を塞ぐための時間設定だった。罰則が遅くともせいぜい二十時が限界、追加で罰則、そして減点させるつもりなのは目に見えていた。
「……」
「それでは席に着きなさい。次の問題は──」
もう誰も口をきこうとはしなかった。ジェームズもこれ以上にないぐらい睨み付けているが、ノラが自分の為に犠牲になった事を理解し黙りこくる。
静まり返った教室に、ローズベルトの声だけが残った。
「杖を此処に」
そう言われて素直に杖を厳重に施錠された小箱の中に入れる。魔法を使えないようにするための箱だ。小さな鍵で箱に鍵を掛けるとその鍵を真っ赤なコートのポケットの中に入れた。その後、この罰則室を綺麗にするようにと告げる。
「それじゃあ、これをどうぞお嬢様」
ふざけたように口を開くローズベルトが差し出したのは、あまりにも汚らしい古びた雑巾だった。
真っ黒く既に酷い油の臭いをさせている。ノラは一度目を瞑ってから諦めた様子で雑巾を受け取った。その様子を見つめてローズベルトは満足そうに立ち去った。
「さて、どこから手を付けようかしら」
罰則室は明らかに綺麗とは言えない。積み上がった本、天井から吊り下げられている小さな檻、他の教室とは違う小さなシャンデリア。普通の子供なら、ここに入っただけで泣き出すだろう。なんならノラも若干怖い。
自身で言うのもなんだが、これまで罰則室と縁遠い生活を送ってきた。現在では肉体的な拷問が行われる事はなくなったが、数世紀前にはそのような事が行われていたようなような雰囲気が残っている。聞こえる筈のない悲鳴が聞こえてくるようだ。
しかし、泣き言を言っても始まらない。ジャージと運動靴できたので後は髪を結いげる。袖まくりをして自分に活を入れた。
最初に雑巾を洗いたいが魔法を使うなと言われている以上、水をどこからか持って来なくてはならない。床に転がっていたバケツに雑巾を放り入れてから持ち上げ、地下のトイレに向かう。
真鍮の取っ手に手を伸ばし、『故障中』と書かれた掲示を無視して扉を開く。
大きな鏡はひび割れてシミだらけ、あちこち欠けた手洗い場が並んでいる。湿っぽい床には、溶けかけた蝋燭が転がっている。流石にと動いて蝋燭を入れ替えた。
「マートル。こんにちは。居る?」
「私はいつだっているわよ。知ってるでしょう? 私、私はここで──死んだんだから!」
「……なら、なおさら挨拶しなくちゃ。今から私はここで少し用事をするの」
そう言いながら少しだけ──本当に少しだけ明るくなった空間でノラはバケツに水を入れ始めた。水が金属に当たる音を立てているものの蛇口が壊れているのかあまり水が出てこない。
「何をしているの? バケツだなんて旧時代のものを」
「罰則を受けたの。魔法無しで綺麗にしなくちゃいけなくて。バケツに水を入れて運ばないといけないの」
「……罰則! あの子たち、ぜーんぶ私に押し付けて! ひどい、ひどいわ!」
悲劇的な泣き声を上げながら、マートルはトイレの奥へ消えていった。いつものように困った顔をして、罰則って押し付けられるものなのね、と見当違いの疑問を浮かべながらようやくバケツの中に水を入れ終わる。
「よいしょ、と」
重さに転びかけながらも踏みとどまり、「よいしょ、よいしょ」と一歩一歩慎重に運び出す。ここから階段を登りしばらく歩くのか、と思うとまた気分が落ち込む。
魔法なしで動くというのは、思っていた以上に学ぶことが多い。
そんな時だった。
「やぁやぁ辛気臭い顔をしているね」
「ジェームズ!」
こんなところで何をしているの? と問いかけながら首を傾げる。恨み言の一つくらい、言われてもおかしくない。そう身構えていたジェームズだったが、ノラはそれを口にしなかった。──いや、最初から、そんなものは彼女の中になかった。
ジェームズのせいで罰則を受けたという怒りも、責める気持ちも、そこには見当たらない。
ただ「助けてもらった」というその事実だけを、静かに受け取る瞳だった。
そのことが、かえってジェームズを戸惑わせる。視線が合った瞬間、彼は思わず目を逸らしてしまった。
「ごめん、僕が──」
「いいの」
遮るように、けれど柔らかく、ノラは言った。
「私、分かってるわ。ジェームズが、私のために立ち上がってくれたってこと」
だから、と続ける代わりに、ノラは微笑んだ。
「本当に嬉しかった」
地下だというのに、その笑顔は不思議なほど明るかった。ジェームズは一瞬、言葉を失い、それからつられるように笑ってしまう。ノラは、最初から誰も責めていない。
そう理解したとき、胸の奥に残っていた重さが、少しだけ形を変えた。
「それでジェームズ、こんな地下で何をしているの?」
「あぁ、実はボクも罰則でね。噛みつきフリスビーをフリットウィック先生に使おうとしたらバレて罰則室で書き取り。いやぁ、うっかりさうっかり」
やっちゃったなぁ!なんて言うジェームズにノラはどこか心強さを感じる。一人ではなく二人ならあの部屋も少しはましに見えるのかもしれない。
「……ありがとう、ジェームズ」
「ただ罰則を受けた僕にそんな言葉は要らないよ」
そう言いながらジェームズはサッとノラからバケツをぶんどる。少しローブに水がかかるが知った事ではないと言わんばかりに。
「ジェームズ、ソレ重たいわ。返してちょうだい」
「おや、レディがジェントルマンに恥をかかせる気かい?」
「普段からジェントルな動きをしているようには見えないけれど?」
「ならボクは今からジェントルマンさ。ほら、気にせずに行こう。罰則はすぐに終わらないぞ」
そういってジェームズは歩き出す。せっかくの好意、なんてことをノラは知っていた。決闘のプロであるフリットウィックの前で嚙みつきフリスビーなど一年生でも実行しない悪戯をジェームズがする筈がない。なのに、ここに居るという事は、きっと、ノラを気遣っての事だろう。ジェームズは汚い雑巾を目にして申し訳なさそうな声を上げる。
「ごめん。この雑巾を綺麗にしたら君が魔法を使っていると思われてしまう」
「大丈夫よ。ありがとう、ジェームズ」
「いやはや、書き取り罰にどれだけの時間を要するのかボクには理解できないね」
「ふふ、そうね」
和気あいあいという程の話ではないがジェームズと話をしながらする罰則はそれなりに楽しかった。そんな時。ギィと扉が開く。足音には気を付けていた筈なのにと二人の心臓が飛びあがる。
「よぉ二人とも。辛気臭い顔を──してないな。もう少しこの場の雰囲気に見合った顔をした方が良い。あの
「シリウス」
パァとジェームズは顔を明るくした後でシリウスを睨みつける。シリウスは知らないと言わんばかりに何かが書かれた紙を机に載せる。
「だからわざと足音を消してきたな? 驚かす為に」
「心臓が止まっただろう? ジェームズが書き取り罰だなんて可哀想な事になっているって聞いてな。俺も罰則室に来たわけだ。するとどっこい、嫌いな女までいやがる。想定外の事態だ」
「想定内の事態でしょう。あなたほどの頭脳を持った人が今日の事を忘れるはずないもの」
「あぁ、勿論さ。マグル式暴力を振るうなんて事はまさかまさかの想定外の事態だ」
そう言いながらシリウスは手元にあった本を並べ始める。理解が追い付かないとノラはその様子に一瞬押し黙ってしまった。
「シリウス、何を」
「もうすぐクリスマスだから、これ以上あの
「……! うん! そうするわ!」
シリウスとジェームズの冗談に笑いながら本の山を一旦崩しABC……と並べていく。問題はまだAの列が終わっていないところだが、シリウスが本棚から本を取り出してくれるので片付けやすさが段違いだ。
空になった本棚を雑巾で拭ってその雑巾をバケツで洗う。本に何らかのネトネトした液体が付いているのを見てシリウスがうげぇ、という顔をしたり、突如現れる萎びた蜘蛛の残骸にノラが飛び上がったりを繰り返していく。
ジェームズが罰則の羊皮紙が終わったのか袖まくりをして片付けに加わる。もはや暗い雰囲気等既に無くなっていた。下手な談話よりもワイワイとしながら罰則室を片付けていく。そんなこんなしているともう夜の二十時になり、部屋の時計が鳴り響く。シンデレラより早く、魔法は解ける。
「……僕らは帰らなくちゃいけない。ノラ、ここに君一人を残して」
「大丈夫、此処まで手伝ってくれたんだもの。ローズベルト先生はきっと驚くわ。後はこれらを端に片付けるだけだもの。五十分もあれば余裕だわ」
「君が言うなら、うん、そうなんだろう。早くも闇祓い達が学ぶ身体強化を学んだんだろ、急いで帰るんだ。これ以上ローズベルトに口を挟む原因を作らせちゃいけない」
「えぇ、分かってるわ。ありがとう、ジェームズ」
「それじゃあ、また明日」
「また明日」
シリウスは前もって書いていたのであろう罰則誤魔化し用の羊皮紙をポケットにしまい込んで歩きだし、ジェームズもその後を追った。一人ポツンとなった罰則室はやはり静けさがあるが先程の時間を思い出してノラは片づけをする。
本を置きたい床を箒で掃いてブラシと雑巾で床を磨きあげてから羊皮紙で水を吸い取り、本を置く。尋常ではない数だが五十分もあれば余裕だ。二十分ほどでその片づけを終わり、ローズベルトに文句を言われないように罰則室の全体を箒で掃く。雑巾で机を拭いていると扉の外からスキップするようにゴキゲンな足音が近づいてくる。また二十時半だ。ギィと蝶番の音を立てて扉を開く。
「ミス・エディソン。ちゃんと罰則室の掃除は」
ローズベルトは、そこで言葉を失った。ローズベルトは認めたくない事実を突きつけられていた。叩き伏せるために与えた罰が、逆に彼女の力量を証明してしまったことを。魔法を奪ってもなお、彼女は秩序を崩さず、手を抜かず、逃げもしない。それは教師である自分よりも、よほど「模範的」だった。呆然としたその表情に、ノラは穏やかに笑いかける。
「……ちゃんとしていたようね」
「勿論です。先生」
「それじゃあ杖を返すわ。この形を覚えておくから明日の自分が楽しないようにしなさい。私はもう行くから二十時五十分になったらこの罰則室を出て良いわ」
そう言い残し、苛立ちを隠しきれない足音を残して去っていった。手の中に戻った杖の重みが、ひどく安心できるものに思える。ノラは残っていた黒板を静かに消しながら、五十分を待った。
「よし、五十分ね」
五十分と同時に練習ついでに呪文無しで足の血管に魔力を注ぎ込んで教室を飛び出す。一歩が五メートル、それを二歩、三歩と繰り返し並の陸上選手が目を疑う速度でノラは走り出す。八つ曲がり角、二十三の階段を三分で登ってみせる。スリザリン寮の入り口の前、ケルピーの像の前、最後の二十四個目の螺旋階段は一度止まってゆっくりと。レイブンクロー塔の階段を登って疲れたのだろう、荒い息が聞こえる。それを聞かなかったふりをしてコツリ、と木の床に足を載せた。
その先には驚いた表情で見つめるローズベルト。
「おやすみなさい、ローズベルト先生」
と余裕で着きましたよ。と言わんばかりにブロンズの鷲の前に立ち謎を待つ。
「私は常にあなたの前を走り、あなたが止まれば私も止まる。しかし、あなたが私を追いかけても、私は決して捕まえられない。私はなんでしょう」
解けないのではないか、そう思ったのであろうローズベルトの瞳が少し輝きながら見ているのを無視しながら、鷲の出す問題を聞き逃さないように静かに聞き遂げる。
「あなたの影。影は常にあなたより先に伸び、あなたが動けば動き、止まれば止まる。でも追いかけても掴めない」
鷲の鳴き声と共にドアを閉じていた翼を閉じ、扉が開く。これ以上ローズベルトにかける言葉はない。ノラはそのまま談話室に登っていった。
「「ノラ!」」
待っていたのはトゥアハ姉妹だ。二人が揃ってソファに座ってこちらを見詰めている。
「マーサ、アラクネ、待っていてくれたの?」
「えぇ、えぇ。間に合わなかったことで減点したらあの
「まぁ、その心配はいらなかったみたいね」
太すぎる棍棒を手でポンポンと叩いたローラがそう言った時、二十一時の音が鳴る。外出禁止時間だ。
「良かった。二人が罰則を受けなくて」
「ノラ、私考えたの。気つけ薬を半分こしたらいいんじゃないかって」
「大丈夫よマーサ。半分しか飲まなかったら二人とも役に立たなくなる可能性があるわ。それにね──」
「それに?」
ジェームズ達が助けてくれてた、なんてことを言ったらいけないかもしれない。これは黙っておくべきだ、と口を閉ざした。
一方ローズベルトは追いかける理由は、すでに失われていた。彼女を罰しても、減点しても、見下しても、そのすべてが自分の小ささを露わにするだけだ、と、ローズベルト自身が一番よく分かっていたからだ。だがその事実を受け入れたくなくて近くのトランクケースを蹴飛ばした
その翌日、ノラは心臓が裏返るような光景を目にすることになる。
罰則室に十人以上の生徒が集まり、大盛況だ。ジェームズやシリウスを筆頭にトゥアハ姉妹、メアリー・マクドナルド、マーリン・マッキノン、リリー・エバンズ、ドリーン・アベカシス……。全員が示し合わせたようにジャージ姿だった。
「みんな、何を」
「決まってるでしょ。全員、罰則を受けたのよ」
リリーの一言に、ノラは言葉を失った。ガリガリと羽根ペンを走らせる音だけが部屋に響き、天井から吊られた檻が、まるで驚いたかのように微かに揺れていた。
「書き終わったらこの部屋で薬草の本を探したくて来たんです」
「私もここで百八十七不思議の一つを聞いたんだ! なんでも、昔ここで拷問された生徒たちの怨念の声が聞こえるらしいのよ!」
メリーとマーリンが口々に話し始め、罰則室は一気に騒がしくなった。しばらくした頃パンと破裂音が聞こえて全員がビクリと震える。ローズベルトの例の行動を思い出したのだ。その音の中心となったリリーは少し笑って言った。
「ほら、私たちは今罰則中よ。いつローズベルトが来るか分からないんだから、静かにね」
そう言った十分後にローズベルトが乱暴な様子で教室に入ってきた。そして罰則室の盛況ぶりに目を見張る。
「あなた達……」
「罰則を受ける事になったんです。ローズベルト先生……」
リリーの言葉に、皆はいかにもショックを受けたかのような表情を作り、書き取り罰を続けた。つまらなさそうな顔をしているのはシリウスだけだ。とはいえ手は止まらず、整った字で『僕は馬鹿です。今後は良い子になります』と延々書き続けている。
「……では皆さんが魔法を使わないように杖を没収しておきましょう。箱の中に一人ずつ杖を入れて」
小箱の中にほいほいとみんなが杖を入れているのを見て、最後にノラの前に小箱を持ってきたので小箱の中に杖を入れる。不機嫌さを隠そうともせず、ローズベルトは罰則室を後にした。中で見張る事は出来るが、どうもこの埃臭い空間に居座る事はしたくないらしい。
ノラは一先ず邪魔にならないようにと部屋の隅っこで本たちを並べ始める。この教室の本の多さは異常だ。書き取り罰の本も混ざっており、それを本の間から引き抜くのにも苦労がかかる。うんしょ、どっこいしょと本を運んでいるとリリーが一番に書き取り罰を終えた。
「ほら、ノラ。こっちの本の山は私がやるからそっちの本の山はあなたが見てちょうだい」
「……うん! わかったわ!」
そうしてだんだんと書き取り罰を終えた生徒たちが順にノラの手伝いを始めた。
「こっちの拘束具は錆びついているわ」「拘束具なんてもう使わないなら捨ててしまえばいいのに」「生徒を威圧する為に置いてあるんだろ」「天井から吊り下がっている檻も頭にぶつかりそうで怖い」「魔法族なら何とか助かるっていう思考なんじゃないかな? ボクとしては推奨しない思考回路だけど」
十人がかりで掃除していると想像以上に素早くあちらこちらが片付いていく。
「こっちの書き取り罰の本、机の上に置いておくわ」
「分かったわ。ありがとう」
「もう、お礼は良いって。私たち、探し物があるから片付けているだけなんだもの。別にノラの為でもノラのせいでもないんだから」
そうだそうだ、と教室中から同意の声が上がる。良い学友たちを持ったな、と思わず涙が零れそうになる。それを見たシリウスがノラを嘲笑い、横からリリーに頭を本でぶん殴られていた。
色々な物語が綴られた後、再び二十時で魔法が解ける。昨日とは違い、リリーが船頭取っていた為、掃除の後片付けをノラがすることは無かった。二十一時になるとマクゴナガルが罰則室の扉を開け、しんみりとした十人の顔つきと、その後ろで微笑みながら残念そうな顔をしているノラを見てため息をつく。ノラを除く生徒たちに杖を返した後、ノラを残して戻って行った。
「もう少しここで探し物をしたいんだけどなぁ」
「外出禁止時間を過ぎてしまったら大変だもの。今日はありがとう」
ノラにおやすみを告げた後、みんなは好き勝手喋りながら歩いて行く。この様子だと床を綺麗に片付けるまでそこまで時間がかからないんじゃないかと思いながら昨日と同じく箒で掃く。どこまで綺麗に手入れをしたのだろう。綺麗に磨き上げられたどころかニスまで塗られ、可愛らしく端に四つ葉のクローバーが書かれた拘束具がピカピカと輝いて並べられている、という違和しかない状態に笑ってしまう。
今日のローズベルトの攻め方は違った。四十五分に現れてからくどくどと五十分を過ぎてもお説教を続けるという。そういう魂胆らしい。これにはさすがのノラも困り果ててしまった。このままだと流石に外出禁止時間を過ぎてしまう。
「人の気持ちが分からないらそれでいいけれど、そろそろそういう事になるわよ」
「一体どういう事になるのでしょうかフレイラニア。それよりも──生徒の外出禁止時間を過ぎてしまう事を考えた方が良いでしょう」
「……フィリウス」
「エディソン。三十分だけ外出禁止時間を伸ばします。一筆書きましょう。しかし、寄り道はしない事。寮に帰るまでの道のり以外であなたを見かけたら減点と更なる罰則を科します。夜も遅いですので早く眠るように」
「はい。フリットウィック先生」
フリットウィックがローズベルトにくどくどとお説教するのを横目で見ながらノラは素早く立ち去る。このままここに居ては間違いなく苛立ちの白羽の矢がノラに立つ。それもう驚く程素早く、駆け抜けていった。
一週間。段々と教室に座る人数が増えてきたのでこれは困ったとリリーが順繰りに来るようにと指示を出す。かつてノラに助けられた上級生たちも顔を見せるようになった。
「そもそもボクが発案者で始めた事だぞ。おちびちゃん」
「おちびちゃんって呼ばないで! それにあなた、最近は手伝わずに遊んでばかりでしょう? だったら、手伝ってくれる人がここに来てくれたらいいの!」
「手伝いに来てるんじゃありませ~ん。罰則を受けに来てるんですがぁ~」
その言葉にリリーが書き取り罰の本でジェームズを叩き、バシンと強い音が教室に響き渡る。それを見て周囲のみんなはケラケラと笑っていた。
こうして振り返ると、一週間はあまりにも短かった。別に、誰かでこうしようと集まったわけでもないのにいつの間にか罰則室は大盛況となり、書き取り罰を終えるとノラの手伝いをしてくれる。地下で窓もなく湿っぽいことを除けば、もう立派な部屋だった。風でも吹かせば後は気持ちの良い罰則室になるだろう。気づかれれば撤去されるだろうが、扉の脇にはティーポットとカップが置かれていた。生徒たちが集まっていることを知った屋敷しもべ妖精が補充してくれるだろう。
いつも通り二十時に雁首揃えて『またやっちゃいました』の顔を並べている生徒たちの前にローズベルトは口の端を引きつらせながら、無言で杖を返していった。他の教授が命じた罰則をローズベルトが拒否するわけにはいかない。
ローズベルトと同時に出ていく皆が頑張れよ、という顔つきで出て行った後、ノラは再びツヤツヤと光沢を放っている床に頰を擦り付けながら机の下の埃を取ろうと身をかがめて対面していた。その時、パチン、と何かが破裂するような音がした。
むっと顔をあげるとそこに元々は白いリネンであったのだろうが灰色になり、あちらこちらがシミまみれになっている服の上に赤い襷のような布をかけているという出で立ちの、白い垂れ下がった耳が特徴的な屋敷しもべ妖精だった。ノラに気づいていない様子でティーポットを浮かせて洗い始めた。
ルールルと楽しそうな様子で歌いながら仕事をする彼女──声色からだが──思わず微笑みを零す。このまま静かにしておこう。彼らは人の気配を察知するとすぐにどこかに行ってしまう。
だが、その判断は間違っていた。
先ほどよりも強く叩きつけられるように開いた扉は、通常よりも大きく開き屋敷しもべ妖精を弾き飛ばした。ガシャンという音と共に小さな体が挟まれる。
「こんなところに居ると邪魔でしょ!」
整えられた部屋を目にした瞬間、ローズベルトは鼻息を荒くし屋敷しもべ妖精を蹴り飛ばす。綺麗になった棚にぶつかって棚がバラバラと屋敷しもべ妖精の上に降り注ぐ。
「──っ」
覆いかぶさる余裕はなかった。体で屋根のようになるように本を背中で受け止める。ゴツン、と棚の一部が頭を直撃して暖かい何かが垂れていくのを感じる。それを見下ろしながらローズベルトは綺麗になった罰則室を見て更に鼻息を荒らげる。
「大丈夫?」
「私は、私が大丈夫だと報告しまピ!でも、お嬢様が」
「私は大丈夫。あなたは」
「えぇ、そうよね、大丈夫よね。どうしてあなたってそんなに癪に障るのかしら。やる事成す事が全てがヒーロー。私に向けられるべき優しさが全てあなたに向けられているのは一体どういうことなの? 今回の件で懲りたかと思ったら皆を洗脳して自分を手伝わせるなんて、まるで悪魔のようじゃない!」
「……」
「何とか言ったらどうなの!」
一人で盛り上がり堪忍袋の緒が切れたローズベルトはノラに向かって本を投げつける。間違っても屋敷しもべ妖精に当たらないようにと今度こそ覆いかぶさり目を瞑る。当たるなら背中頭はこれ以上当ててはだめだ。パチン。が、当たらない。
「……?」
目を開けると自分の周囲に薄く青い膜が張っている事に気が付いた。──プロテゴだ。だが、今のノラは魔法が使えないのにいったい誰が。
「お嬢様は怪我をされておりまピ! これ以上怪我をする事は良くない事だとわたくしは思いました!」
「屋敷しもべ妖精如きが生意気に……!」
再び落ちている本を拾おうとするローズベルト。その動作すら腹立たしいのかガサツな動作だ。ノラはその隙に素早く指示を出す。
「早く厨房に帰りなさい! これは命令よ!」
「わたくしは少し不安に思いながらもお嬢様の命令に従いまピ。良い夢を、とわたくしはお二人にご挨拶してから立ち去りまピ」
ノラの命令に屋敷しもべ妖精はシュルンと現れた時と同じく消えて行った。ノラは額にまで垂れてきた血を拭いながら口を開く。
「これ以上は見過ごせません、ローズベルト先生」
「なにを」
「私は今からフリットウィック先生の元に行き、これまでの、そして今起こった明確な暴力事件に対してフリットウィック先生にお伝えします。公正な判断を下してくれることでしょう。この箱はフリットウィック先生に開けてもらいます」
返事を聞かずノラは杖が入った小箱を奪い取って走り出す。怒りに任せて杖を折られては大変だ。
「フリットウィック先生。フリットウィック先生。真夜中に失礼いたします」
大階段を駆け上がり教職員塔に登ってからコンコン、と扉をノックすると少しカタカタと音がした後扉が開かれる。まだ寝ていなかったのか寝間着の上に羽織を羽織って眼鏡をちゃんと付けている
「……ミス・エディソン、こんな夜中に出歩くなど、ちょっとお待ちなさい。なんてことです! 頭から血がでているじゃありませんか!」
「あ」
フリットウィックの前に出るとき、血を拭うのをすっかり忘れていたのだ。
「フリットウィック先生、ご報告したいことがいくつかあります」
「医務室に着いてからゆっくりと聞きましょう。まずはあなたの怪我が先です」
ノラは階段を上りながら、これまでに起きた出来事をぽつりぽつりと語った。最初の授業から続いていた理不尽な減点。それを指摘してくれたジェームズへの対応。彼を庇った自分に振るわれた暴力。一週間に及ぶ罰則と、支えてくれた皆のこと。
そして──先ほど起きた、屋敷しもべ妖精への暴力。
「ポピー、真夜中にすみません。診てもらいたい生徒が居るのです」
「フィリウス、えぇ、いつもの事です。エディソン……また誰かを助けて──今回は本人のようですね」
眠たそうな顔のままポンフリーは薬箱の近くのベッドに座らせる。
「痛みは?」
「ズキズキしているぐらいです」
「まぁ、頭ですからね、一応診ておきましょう」
マダム・ポンフリーがそういうとノラの頭の上に白色の光を放つ天使の輪のような物が現れた。思わず眩しくて目を閉じると光が上から下へと動いていくのを感じた。何をしているのだろう、と眼を開けると首のあたりで止まり、また光は上へと登って行く。
「えぇ、頭に異常ありません。健康そのもの。ただの切り傷でしょう。
スゥと頭から痛みが無くなる。まさに魔法の成せる技だ。
「目に血は……入っていませんね。よし、一応これを食べておきなさい」
そう言ってノラの口の中に放り込まれたのはイカのスルメ、というよりもビーフジャーキーのような物だった。前歯で硬い肉を齧り取り、沢山つけられた胡椒の塊と言っても差し支えのない肉を噛み込む。
「モグこれ、なんモグですか」
「食べながら喋らない」
「モグモグ」
至極もっともな指摘に、ノラはむう、と黙り込み、食べることに集中することにした。あまりの胡椒の辛さに水が欲しくなった頃にマダム・ポンフリーが答える。
「それは屋根裏おばけの肉です」
「モググ──ウェッゲホッゴホッ」
身近と言えば身近だができるだけ聞きたくなかった。というか確かに物質として存在はしている。禿げてヌルヌルした──到底食べたいとは思えない──生物だ。
「あ、あれから、これに??」
「肉であれば食材になります。失った血液を補充するには十分。ほら、早く食べなさい」
ポンフリーの暴言に不満げな顔をしながらノラは屋根裏おばけの肉を食べる。話を聞く限り、貧血に効果的な鉄分や、赤血球の生成に必要な葉酸、新しい細胞を作る亜鉛などを一気に摂取できるらしい。一日に多くの生徒が食べる事、保存が楽な事からビーフジャーキー……いや、屋根裏お化けジャーキーという形を取った、と。
それってレバーじゃダメですか。という疑問をマダム・ポンフリーの前で口にするほどノラは愚かではなかった。
「屋敷しもべ妖精の名前はなんと言うのです」
「──!」
ローズベルトから逃す為に厨房に帰るように命令したが彼女の名前一つも聞いていない。
「名前を聞いてませんでした……。その場から離れさせることに必死で……」
「じゃあ、今すぐにでも。ジュヌン」
「お呼びでしょうか、ご主人様」
フリットウィックの言葉にパチン、と音を立てて屋敷しもべ妖精が現れる。白い大きな耳は確かにウサギを連想させる。
「本日、いえ、昨日二十時頃、フレイラニアに蹴られた屋敷しもべ妖精を連れてきてください。できるだけ早く」
「畏まりました。三分ほどお待ちください」
そう言ってジュヌンと呼ばれた屋敷しもべ妖精が消えると共にカツカツと苛立ちを隠す様子もなくローズベルトが現れる。
「お呼びですか、フィリウス」
「えぇ、呼びましたともフランシア。今日の屋敷しもべ妖精に行った暴力について聞きましたが何か言いたい事でもあるのではないかと思いまして」
「言いたい事も何も屋敷しもべ妖精を蹴飛ばすぐらい許されるでしょう。
「ではあなたはあくまでも彼らを物として扱うのですね」
「えぇ、アレ達はそれを望んでいるのだもの。望むものを望むように。病める者には治療を。聖者には名声を。これは優しさですよフィリウス」
「彼らは生き物です! そんな扱いはやめてください!」
「黙りなさい、エディソン。──では、私としては不服ですが物として考えましょう。貴方はホグワーツの物を器物破損しかけたという事に気が付いていますか?」
その言葉に、ローズベルトは一瞬、言葉を失った。
それはノラも同じ事だった。確かに、そういう言い方をするなら、論としては間違いではない。ただ、
そうしてジュヌンがもう一人の屋敷しもべ妖精を連れて帰ってくるには三分もかからなかった、一分ほど経った頃に再び屋敷しもべ妖精たちが現れる。
「お待たせ致しました。ご主人様、先程ご主人様たちとトラブルを起こした愚かな屋敷しもべ妖精です」
「違うわ。私たちのトラブルに彼女を巻き込んだの」
ノラはさり気なく屋根裏ジャーキーを置きながら二人の屋敷しもべ妖精と目線を合わせる。
「わたくしは先程出会ったお嬢様に出会ったことに嬉しいと感じまピ!」
「あなたの体は大丈夫?」
「わたくしの体は頑丈ラピ!わたくしは自分の強さを自慢に思ってまピ!」
「良かったわ。そうだ、あなたのお名前は何?」
「お嬢様が私の名前を聞いてくださった! わたくしの名前を! わたくしの名前はラビットと申しまピ!」
「ラビット。ご主人様たちの前で騒ぐのはやめなさい」
「はい、と私は落ち込んだ様子で反省しまピ……」
コホン、とフリットウィックは咳ばらいをする。
「それで、貴方に怪我はないのですね?」
「はい! ご主人様!」
「ラビット……」
隣でジュヌンが頭を抱える様子も見えないらしく、ぴょこぴょこと跳ねながらラビットは返事をしている。そんな二人に対してフリットウィックは帰るようにと命令を下すとおやすみなさい、と言いながら二人ともパチン、という音と共に帰って行った。
「それではこの場は解散とします。エディソン、大事を取って寮まで案内しましょう。それにフランシア、貴方には後程お話があります。起きて自室で待つように。このことはアルバスにも相談しなくてはなりません」
ローズベルトは一度、唇を引き結んだ。反論はある。叫びたい言葉も、吐き出したい罵倒も、喉の奥に山ほど詰まっている。
だが──目の前にいるのはフィリウス・フリットウィックだ。自分よりも年上で、立場も上で、そして何より、この場で感情を露わにすれば即座に不利になる相手。
ローズベルトは肩を震わせそうになるのを、無理やり抑え込んだ。爪が掌に食い込み、ぎり、と小さな音がする。
「……ずいぶん、過保護ですこと」
絞り出した声は、努めて冷静を装ったものだった。だがその語尾はわずかに上ずり、隠しきれない苛立ちを孕んでいる。
「少し転んだだけで、ここまで大事にするなんて。最近の生徒は、本当に扱いづらいわ」
フリットウィックは眉一つ動かさない。その沈黙が、ローズベルトの神経をさらに逆撫でした。
──違う。これは私が悪いわけじゃない。
そう言い聞かせるように、ローズベルトは視線を逸らし、そして──その先で、ノラと目が合った。
ノラは何も言わない。ただ静かに、すべてを見ていた。怒りも、侮蔑もない。あるのは、事実を事実として受け止める、澄んだ眼差しだけ。
それが、耐え難かった。
まるで、自分の小さな悪あがきすら、全部お見通しだと言われているようで。ローズベルトは再び唇を噛みしめる。
「……」
言葉は、もう出てこなかった。代わりに残ったのは、悔しさだけだ。
負けを認めることもできず、かといって、これ以上足掻くことも許されない。ローズベルトは、フリットウィックの前で背筋を伸ばしながら、その内側で、静かに、しかし確実に──歯噛みしていた。
「……分かったわ、フィリウス」
明らかに分かった様子ではないローズベルトを一瞥した後、ノラの背中を押してフリットウィックは歩き出した。