それから一週間後、屋敷の家紋の下には「
両親の部屋の一つや二つはあるだろうと考えていたのだが。しかし、あるのはいかにも魔法使いが使いますと言わんばかりの、大人一人入れそうな程大きい鍋に、多数の薬草と思われるものや粉、乾燥したイモリやその他諸々知りたくないものが詰め込まれた瓶がたくさんある部屋。何をするのか意味が分からないクッションだらけの部屋もあれば、人の模型や大量の棒が置かれた部屋もある。その他は使われた形跡のない客間が片手の指では数えられない程。数家族住めるのではないかと思ったりもした。
地下といえば調理場であるが、調理場も一般的な食材だらけで特別人肉があったりなどのハプニングの一つも無い。強いて言うなら少し古めかしい調理場と言うことだろうか。メイド──つまりステヴのことだが、使用人専用の屋根部屋を覗いてみても、ステヴのあまりにも簡素な部屋やそれに類似する屋敷の中とは違う、木と漆喰のみで作られた部屋、それに銀食器などが仕舞われた部屋が一つがあるだけで、ステヴの私生活を覗く事はできなかった。
そして、ノラは一つの部屋に入る。三階まで続く吹き抜けの部屋だ。こんなデカい部屋に何があるのだろうか、と問われてみれば答えは一つ。書物だ。書物が集められた部屋、図書室。他の部屋にはない年代を感じさせる程の古い書物からステヴが買い集めたのか新しい本まで存在している。国中の本が集められたのではないかと思いながら背表紙を一つ一つなぞってみる。
一冊の本を手に取った。その中には『世界』が閉じ込められていた。自分の知らない『世界』が確かにそこにあった。一つの出会いである。
何、特別な事が書かれていた訳ではない。ただの歴史的な本、イギリスの歴史の書かれた一冊の本。
キョロキョロと机と椅子を探して本だらけの図書室の中を彷徨う。特に迷った訳ではない。マホガニーで作られた机と椅子に座り、ランプをつけてからノラは一人本を開く。
その本の内容は自分以外の人を感じる事ができて。ノラは本に夢中になっていた。
何冊もの読み終えた本が積み重なり、時間はすでに夕暮れになっているにも関わらずノラはそれに気づくことはない。本に取り憑かれた瞬間であった。
夜ご飯ができたとステヴの声かけによってようやく顔を上げた時にはもうすでに十二時を越していた。
次の日もノラは図書館へと通う。自分の知らないことを全て知りたいと思ったのだ。そしたら『欠けている』自分が埋め尽くすことができるのではないかと。
次の日も次の日もそのまた次の日も、図書室で本を読み漁る。そのうちに食事の時間すらも惜しいと感じるようになってきた。最初は本を読みながらでも食べることのできるサンドウィッチを食べていた。しかし、どうしても睡眠はとらなくてはならない。そこでノラは魔女であるステヴに一つのお願い事をした。
「眠らなくても良いようにして」
と。ステヴはその命令にも眉一つ動かさずに頷いた。
魔法薬を差し出され、その魔法薬は泥のような色と粘度をしていたがノラは構わず飲み、本を読み進める。トイレや風呂、着替え、一日に必要な運動以外は図書館で過ごすことしかなくなった。そのうち目が疲れない魔法薬もほしいと魔法薬と魔法薬を混ぜ込んだスープなどを飲むようになった。味は、最低だったがノラが気にすることはない。
総記、哲学、歴史、社会科学、自然科学、技術・工学、産業、芸術・美術、言語。そして、魔法書。
フィクション作品以外の本なら何でも読んだ。読んで、読んで、それでもまだ読んで。ノラの頭には着実に知識が詰め込まれていった。
普通であればそんな状況を咎める人間は一人や二人は居るだろう。それは両親や友人であったり、他者からの干渉である。しかしノラにはその『他者』が居ない。ステヴもノラが望むならとそれ以外の事は思考の隅にすら置かない。彼女は指示に従うただのメイドで在り続けた。
人間の適応力というものは、想像以上に恐ろしいものだった。
そんな日々が二年経った。三日に一度、ベッドに入れば良い方で酷いときには五日にしかベッドに入らないこともあった。しかし、それでもまだこの図書館の本は読み終わらない。それでも順調で快適な日々であると胸を張って言える。別に、誰にも迷惑をかけていないのだし。
いつも通り図書館に向かおうとベッドから起き上がった時だった。窓の外の景色が目に入る。
何処までも澄んだ青色の空。その下には丁寧に整えられた庭、荘厳な壁を超えた先に見えるのは様々なレンガ色で構成された街。導かれるように窓を開く。
柔らかな心地の良い風が少女を包み込み、金色の髪を持ち上げる。空から降り注ぐ太陽の光は少女の肌に熱を持たせる。人々の生活する音や小鳥の囀り、木々の葉が当たって揺れる音。
二年前の、あの時と同じ変わらぬ光景だった。
「あ……」
でも分かる。世界が分かる。あの時とは違う。あそこに生えているのはトネリコ。あの場所に咲いているのはラッパ水仙。あの建物はセント・メアリズ教会。あの川はストランド河畔。今なら、何か分かるかもしれない。