もうすぐで外出禁止時間だ。ローズベルトは相変わらずノラから減点をしたくてたまらないようで、夕方に呼び出されたかと思えば資料を闇の魔術に対する防衛術の教室から職員室まで持っていけというのだ。その重さは尋常ではない上に大きく、数がある。何度も階段を上がっては降りていく。手伝ってくれる生徒もいたが一往復させればもう後は流石に頼めない。そんなこんなで今は一人で職員室にいた。職員室に置かれた柱時計がさしている時刻は八時三十分。
ノラは職員室の扉を開ける。職員室の外は、普段の喧騒が嘘のように深い静けさに包まれていた。
今から大広間でご飯を頼むわけにはいかない。寮の誰かにおやつをカンパしてもらおう。紅茶はきっと温かいものが残っているに違いない。晩御飯を食べ損ねたことにため息をつき、寮へ向かって足早になろうとした、その瞬間だった。
「きゃっ」
扉の陰に居た誰かとぶつかる。そんなに強い勢いだったわけではないが何も居ない空間のはずのところから何かにぶつかったのだ。思わず転がりノラのカバンの中身が散らばった。ぶつかった相手の荷物もひっくり返って、本や羽ペンが散乱した。
「ごめんなさい。大丈夫?」
ぶつかったのは女子生徒らしく、どうも体の大きさから上級生のように見えた。
「えぇ、大丈夫よ」
ノラは顔を上げる。ライトブラウンの髪を柔らかく肩に落としていた。灰色の瞳からは温かみが溢れていて、その瞳の奥にはランプの光が反射し、小さな灯りが灯っているいるようにも見える。ただ、それはランプの光だけではなく、彼女自身の優しさから生まれた、穏やかな光にも感じられるのはきっと気のせいではない。彼女はノラが立ち上がれるように手を差し伸べてくれている。
「手を」
「ありがとう。アンドロメダ」
アンドロメダ・ブラック。七年生のスリザリン生だ。分家ではあるもののブラック家の中でもマグル生まれ以外には、群を抜いて優しい彼女は純血主義者から厚い支持を得ている。
「気にしないで。……私が見え辛いところから出てきたのが原因だから」
「そういってもらえると気が楽になるわ。荷物、片付けましょうか」
そうしましょう。そう言いながらなぜかアンドロメダは何かを探そうとしているようにしながら荷物を集めていく。なにか見られて困るものでもあるのだろうか。ノラは自分の荷物しか見ないようにしていたが、自身の荷物ではないものはどうしても目に入る。そして、一冊の本に気づいた。
「マグル学の、本?」
自分はそんなものを借りた記憶はない。しかし、目の前に居るのはブラック家の人間だ。マグル学の本を借りる人間では──。
ノラがチラリとアンドロメダを見ると、顔を真っ青にしたアンドロメダが目に入る。彼女は喉をヒュッと音を鳴らし、ノラの手の中にある本を凝視している。
不自然な沈黙が、その場に落ちる。ノラがどうしたものかと悩んでいたら、ポツリと言葉を漏らした。
「マグルの世界に興味があるの」
それが悪いことだとは思わなかった。むしろマグルの世界に興味を持たずに生きていくのもある意味ではマグルを意識した行為とも言える。
「だけど、どこでも読めなくて。その、人の目線のあるところだと」
だからか、とノラの頭の中で合点がいく。こんな職員室に近いところでこんな外出禁止時間ギリギリまで本を読んでいる人物が居ると誰が思うだろう。しかもアンドロメダが座っていたと思われるベンチは本当に暗いところにある。
「黙っていて欲しい。代わりに私にできる事ならなんでもするわ。お金でも構わない。私に許される範囲のお金なら全部あげる」
「アンドロメダ……」
ノラは一瞬言葉を失う。本を読んでいただけで、そこまで言わせるほど
「マグルに興味があるの?」
「……えぇ、そう。私はマグルの世界に興味がある。悪いことだって分かっているのに。どうしてか彼らに惹かれてしまうのよ、私は」
「なら、一つお願いがあるわ」
「何?」
ノラの言葉にアンドロメダは有罪判決を受ける前の囚人のような表情をする。
「私にマグルの世界を教えてくれない? アンドロメダから見たマグルの世界を聞きたいの。もちろんあなたがマグルの本を読んでいる事がバレないようにする。マグルの本を読んでどう思ったのか──私に教えてほしい」
「それって私にマグルの本を読んで良いって言うの? ブラック家の私が」
「勿論。私は、誰であってもマグルについて興味を持つことを悪いなんて思えない。それに、私ならもっと良い隠れた場所を知っているわ」
「隠れた場所?」
「そうね、明日のお昼時、できるだけ人が少ないタイミングで図書館の一階、暖炉の前で待っていてくれない? 今から教えると遅くなっちゃうから」
「ノラ……」
「ほら、早く荷物を片付けてしまいましょう」
「──えぇ。そうね」
ノラとアンドロメダの二人で急いで荷物を片付ける。マグルの本を返す時間は無くなってしまったのでノラが一旦預かることにした。
そして次の日の昼間、ノラは暖炉の前でソファーに座って本を読んでいた。特に話しかけられもしない上級生用のただの呪文学の本。カバンの中にはそう、昨日アンドロメダから預かった本といくつか面白そうなマグルの本を入れていた。
「こんにちは……」
こそこそとアンドロメダが本棚の陰から現れる。
「来てくれてありがとう。アンドロメダ」
「いいえ、気にしないで。それで──場所って?」
「この暖炉にグレイシアスを掛けてみてくれない?」
ノラは立ち上がって背後の暖炉を指さした。
「グレイシアス? そんな事したら暖炉が凍っちゃうわ」
「それでいいのよ。ほら」
アンドロメダはノラのいう事にとりあえず従うことにした。司書にバレないように無言呪文でグレイシアスを掛けたことにノラは感嘆する。グレイシアスは上級生になって習うものだが、そう簡単に扱える呪文ではない。それを無言呪文で使えるのだ。とんでもない技術力である。
「ほら、暖炉は凍って──あら?」
凍った暖炉を見てアンドロメダは困惑した様子だったが、炎の様子を見ようと屈んで、気づく。そこには小さな部屋があった。
「凍っているうちに入って。早く」
「え、えぇ」
二人で素早くその部屋に入る。ノラは入るとほぼ同時にインセンディオ、と火の呪文で暖炉に再び炎を点した。
小部屋というにはあまりにも狭すぎる部屋。部屋の横幅は縦は人ひとり寝転がることができるかできないか、ぐらいの幅、横は九歩ほど歩けば反対側の壁にぶつかってしまう。しかし──秘密の読書の場所としては最適だった。
「この部屋、良く気づいたわね」
「私が気づいたわけじゃないわ。上級生のディーダラス・ディグルに教えてもらったの。星空観察に付き合ったお礼だ、って言いながら」
「ディグルが……」
「でも彼はこの場所は好きじゃないらしいわ。星空が見えない上にあまりにも狭すぎるってね。ただ、静かにしたいならこの場所は最適だと思った。ディーダラスはそう言っていたわ」
「確かに、そうね。ここなら入ってくるにもグレイシアスを使う必要があるから誰かが入ってくるタイミングが明確に分かるし、その間に本を隠してしまう事だってできる」
「この場所が合ってるかなって思ったの。あ、そうだ。この本、返すわね。あとこっちがいくつかオススメを持ってきてみたわ」
「ノラ、あなたって本当に優しいのね」
アンドロメダは嬉しそうに笑いながらノラから渡された本を撫でる。
「いいえ、優しいわけじゃないわ。私がアンドロメダから本の感想を聞きたいんだもの。欲望の一つよ」
「それでも優しいわ。私がブラック家であることを考慮してこの場所に連れてきてくれた。私が安心して本を読めるように」
「この場所は知っている人も多いから完全に安心して読めるとも限らないけれど……」
「それでも、よ。先程も言った通り、この場所なら誰彼構わず見られる場所じゃない。職員室の前で読むよりもずっと安全な場所だわ」
ノラはアンドロメダの言葉を受け、ほほ笑んだ。優しい、と言われて嬉しくない人間はどこにも居ない。
そうして二人の間に、静かな読書の時間が流れ始めた。この場所にはレギュラスとの秘密の部屋と違い、紅茶がない為、ノラは水筒に入れて来た紅茶を二人で分けて飲む。アンドロメダの落ち着いた微笑みは本当に嬉しそうだ。
どれだけ時間が経っただろうか。この場所には時計がない。ノラが時間を気にした様子なのが分かったのかアンドロメダはポケットから時計を取り出す。
「気が付けばもう晩御飯ね。大広間に行きましょうか」
「えぇ、そうね。ステーキ・キドニーパイが食べたいと思っていたところだったの」
周囲に人の気配がないことを確かめてから、二人は外へ出た。本は自分が返してくるわ、そう言いながらノラはアンドロメダから本を渡してもらう。本を返し終えて二人で大広間に向かうことにした。
大広間は相変わらず人でごった返していた。スリザリン寮の席にアンドロメダが座り、ノラもその隣に座る。別に珍しい話ではない。スリザリン寮の席では少ないが他の生徒も式典などがない平時であれば他寮の生徒と食事をとったりする。アンドロメダはブラック家という上品な家系の為、しゃべりながらご飯を食べたりすることはない。だが、食べ終わってからかぼちゃジュース片手に普段の授業の話を聞いたり、カバンから取り出した宿題の分からないところを聞いたりする。
「アン。それにエディソン先輩も。こんばんは」
その二人の前に遅めに現れたレギュラスが座る。
「レジー。夕食には遅めじゃない?」
アンドロメダの言葉にレギュラスは肩を竦める。
「シシーと少し探し物を。シシーがノートをどこかに置き忘れたというのでその手伝いをしていました」
「見つけられたの?」
ノラの問いにレギュラスは縦に首を振って頷く。
「えぇ、無事に。最終的にはマルフォイ先輩が持っていました」
「ならよかったわ。迷惑かけたわね、レジー」
「いいえ、ノートがなくなるのは心配でしょうし、気にしないでください」
そう言いながらレギュラスは上品にテーブルの上にある料理を取っていき、一人静かに食べ始めた。ノラとアンドロメダはその様子を見てからまた話し始める。
「あなたでも分からないところはあるのね」
「私の事をなんだと思ってるのよ、アンドロメダ。私は別に答えを書いてくれる羽ペンじゃないもの」
「下級生なんだな、って安心するわ」
「安心しなくても下級生よ、失礼しちゃうわ」
なんだかんだと話をしていると徐々に談話室に戻るのか人が少なくなっていった。時間は七時半。寝る前の準備をするには確かにそろそろの時間である。
「アンドロメダ。寒いけれど少し外に出ない?」
「えぇ、良いわよ。それじゃあね、レジー」
「えぇ、おやすみなさい。アン、エディソン先輩」
「良い夜を、レギュラス」
二人で大広間を出てなんとなく船着き場の方の階段を降りていく。湖が一望できるところで階段に腰を下ろす。
「アンドロメダは純血主義が嫌いなの? シリウスみたいに」
ノラが問いかけた言葉にアンドロメダは考えるように手を口元に当てる。
「私はマグルの世界が好きなだけ。ただの憧れよ」
「純血主義者はマグルが嫌いなのか、そうでもないのか、私には分からないわ。私は……純血主義者じゃないもの」
「嫌いな人間の方が多いわ。むしろ嫌いな人間しかいない、って感じ。ねぇ、ノラはどうして純血主義を否定しないの? あなたほど優しい人間なら差別なんて許さないのに」
「どうしてかしら、私も純血主義だったらな、って考えるの。昔から魔法族として生きていて、魔法社会を築いてきたのに知らない人たちに荒らされるのも嫌だなって」
「そう、ノラはそこまで分かっているのね」
「過去の歴史から読み取った結果だけれどね。移民問題ってどうしても起こるものだし、意見が分かれるところよ。もちろん差別は許されない。ただ、思想が分かれるのは仕方ないことかもって。──だけど、マグルの世界から入ったらな、って考えることもあるわ。新しく心がわくわくする世界。でも今まで培ってきた常識とはかけ離れていて、先達に助けてほしいって思うもの。私も魔法の世界を知っている側の人間だったから支えてあげたいし。それに純粋に魔法使いの世界に居たってわけじゃないからマグル生まれや半純血の気持ちも分かるの。ただ、だからどうしたものかな、って思うわ。シリウスみたいにはっきりと純血主義を否定するべきだとも、考えないことはない」
「シリウスは、極端に考えすぎているんだと思うわ。それにノラも引っ張られている」
アンドロメダは膝の上に載せているカバンの金具を触り始めた。
「マグルと魔法使い。どちらも存在する。なら、ノラは今までと同じ視点で居ればいい。変わる必要なんてないわ。それを突き通せばいいのよ。結局、純血主義も親マグル派も人の気持ちなんだから。みんなはあれこれ考えすぎ。優越感に浸りたかったり、差別をしたかったり、過激に考えたり。その思考に流されて動いてしまう。情けないことに私もそれにどうしても倣ってしまうのだけれどね」
「アンドロメダ……」
「……もう、遅い時間になったわね。今日は帰りましょうか」
その言葉に頷き中央ホールの分かれ道まで歩きだした。
「今日はありがとう。レイブンクロー寮まで階段、大変だろうけど頑張って」
「こちらこそありがとう。それじゃあ、また」
「えぇ、また感想を聞いてくれると嬉しいわ」
そう言ってほほ笑んだアンドロメダと別れ、ノラは一人で寮に続く階段を上る。冷えた夜気が頬を撫でる。その感覚がどこか心地よかった。凍った暖炉も、マグルの本も、そして──今日交わした言葉も。どれもが誰かを否定するための事柄ではなく、何かを知ろうとして生み出されたものだった。
ノラは自分の歩幅で歩き始める。アンドロメダの言う「変わらない視点」を信じながら。