先に動いたのはジュディだった。呆然としているノラの手を引いて温室の教室の中に飛び込んだ。それでもなおローズベルト=クィンタペッドに手を伸ばそうとするノラの頬を、ジュディは迷いなく叩いた。
「殺されるぞ!」
その言葉にノラは意識を切り替える。人を救うのも泣き事を言うのもやれることを全部やってから。もとよりローズベルト教授には、はっきりとした殺意があった。凶暴化したクィンタペッド状態ならもう意思は固いだろう。まずは生き延びるために、逃げ続けるしかない。
扉の隙間から見るローズベルト=クィンタペッドはまだ躰に慣れてないらしくよたよたと歩いている状態だ。「このままなら」という甘い期待は、数分も経たずに打ち砕かれた。
ローズベルト=クィンタペッドはノラと眼が合うとけたたましい音を鳴らしながら扉の方にぶつかってくる。思わず悲鳴を上げそうになるのを堪えた。少しでも情報を得る為にローズベルト=クィンタペッドを見つめる。その行為が気に入らないのかノラの拳ほどもある大きな歯を鳴らして威嚇してきた。それと同時に自分の体が自分の思い通りに動くことに気が付いたのだろう。
冷静に考えれば、当然のことだった。躰が異常についていけないのであればマクリアート家は怨敵を化物の体に仕立て上げたまま、未だに優雅な生活を送っていただろう。
ドン、ドン、ドン、と体当たりをして扉を開けようとする。鍵なんてものはないしあったとしても無意味だろう。金属性の扉だが元々こういう使い方をする物ではない。ガラスは割れ、扉を支えるフレームは既に歪んでいる。既に二人のささやかな守りは歪み、軋んでいる。
「……逃げ回るしかない、かしら」
「あの巨体を考えると悪夢でしかないな」
二人揃って杖で体をなぞり丁寧に身体強化する。魔力を丁寧に流さなければ、ほんの少しの油断があれば、死んでしまう事を本能で理解していた。用意していた二人だったが、不意に体当たりの音が止んだ。
「助けが来たのか?」
「それにしては静かすぎる」
「は────ぁ」
嫌な息遣いが聞こえ咄嗟に二人はその場から飛び退る。そこからドゴン、と派手な音がした。
「最悪だな……ッ」
ジュディは二階の手すりに飛び乗りながらそう口にした。返事はしなかったもののノラも同意見であった。
ヌンドゥの時はただの食べる為に行われていた行動である程度の行動予測は出来た。そうでなければ人間による狩りという言葉は存在しない。動物という本能には、ある程度の規則性がある。
しかし、今回は明確な殺意を持ってノラたちを襲いに来ている。その行動には全て意思が介在している。つまり、不確定要素だらけだ。
避けられたこと自体を楽しんでいるかのように、その口元には愉悦が浮かんでいた。きっとローズベルト=クィンタペッドにとってこれは遊びなのだろう。本気になればお前なぞ一撃で殺せるぞ、とその目が語っている。ノラとジュディはローズベルト=クィンタペッドが入り込んできた入り口に向かう。
「なんでこの入り口こんなにデカいのかしら!」
「巨人が入学してきた時の事を考えてだろ!」
思わず悪態をつきながら二人は二手に分かれて移動する。五本脚の怪物は、壁と地面を滑るようにして姿を現した。
「やっぱり狙いは私──!」
尋常ではない速度で駆け抜けてくる。動きを意識的に不規則にしながら。動きに規則性を見せた瞬間、それは死を意味する。地面を滑り、壁を駆け上がり、空間を立体的に使用する。あの自由自在にすばしっこく移動する相手に平面的に動き回るなど命が幾つあっても足りない。
「弱らせた方が速いんじゃないか?」
「どうやって!」
二人近づいて作戦会議をするわけにもいかずローズベルト=クィンタペッドにも聞こえるように大声で作戦会議を始める。
それを余裕と受け取り不満があるのか、先程の笑みは消えて再び歯をカチカチと鳴らしている。気絶の一つや二つ狙えないだろうか。そう考えノラは杖を振り上げる。
「
しかし、ノラの魔力はその強固な外殻によって文字通り弾き飛ばされる。見た目通りの耐久力に奥歯を噛みしめる。その顔には余裕など存在しない。表情は切迫し呼吸は千々に乱れている。混乱する意思を強引に手繰り寄せている。落ち着く為に一度大きく深呼吸した。
運のいい事にレギュラスとの勉強会の後なのでしっかりと糖分を取った後である。魔力に対して問題があるわけではない。
加えて、ノラのオーダーは去年と特に変わってはいない。救援が来るまで待つ。結界は張られたもののレギュラスがフリットウィックを呼びに行くまでさほど時間はかからないだろう。去年の様にいつになるか分からない耐久をするよりかは精神が安定している。その安定が精神の余裕にも繋がってきていた。しかも一緒に居るのは肉弾戦においてこれ以上はない程の逸材。この空間を飛び回る事に関して二年生の誰よりも得意だろう。
「
ジュディの杖から放たれた衝撃呪文はローズベルト=クィンタペッドの体の軌道を一瞬逸らしたに過ぎなかった。しかし、それに少しの希望を見た。まだ成り立て《・・・・》であるが故にまだ完璧ではないのだろう。
しかし確実にローズベルト=クィンタペッドはその速度を増してきている。それに加え、一番気を付けなくてはならないのは。
「──ッ」
その五本脚を使いこなした突撃である。五本脚を曲げて伸ばす。その屈伸運動にクィンタペッドとしての筋力を乗せるだけでこのような爆発的な威力を出せると誰が思おう。
足を元に戻すのすらめんどくさくなったのか、ジャンプした時と同じように伸びた足よりも先に大きな口が先に行き、その口でノラを喰おうとしている。その様子は、無邪気に菓子へかぶりつこうとする子供のそれに酷似していた。人を食べることをスナック感覚としか考えていないようだ。
直撃はしていない。それでも、その衝撃は決して無視できるものではなかった。その突撃だけで温室のガラスにヒビが入りフレームが崩れようとしている。三メートル弱の魔法生物の突撃は車がこちらに向かって走ってきてるのと変わりはないだろう。食われなくとも当たるだけで致命的だ。
もぞもぞと起き上がるその行為自体にもどこか嫌悪感を抱かざるを得ない。
「っ──は」
その一撃一撃を丁寧に、しかし大胆に躱しながらジュディの隣に着地する。息をする余裕などない、と気張っているノラをジュディが後ろから背中を叩いて強引に息を吸う事を思い出させる。
「関節だ」
「は」
「お前を追いかけている間に見つけた。あの硬い体毛、膝? 肘? いや、今は問題じゃない。その部分だけ柔らかい。当たり前だな。関節として存在している以上柔らかくなけりゃならない」
「──狙うなら数の多い関節。運が良ければ目か口の中、ってこと。囮は私、狙撃手はジュディ」
「あぁ、その通りだ。それじゃあ、信じるぜ」
返答はしなかった。正確に言うならばしている暇が無かった。再びあの巨体が突撃してきていたのだから。
飛び回りながら目くらましになりそうな魔法を考える。ノラが考え付いたのは根源的な恐怖の一つ。
「
即ち、焔である。
近づいてくるローズベルト=クィンタペッドに向かって呪文を放つと距離を置くのを見て取れた。実際のところ、今の彼女に呪文程度の火が、炎が効くかどうかは疑わしい。
その瞬間を狙ってジュディが溜めていた簡単で、強力な呪文を撃ち放つ。
「フリペンド──マキシマ!」
脆い構造物なら容易に打ち壊す一撃。その魔法は青い光となってローズベルト=クィンタペッドの肘に吸い込まれる。
「ギ? ギィィィッ‼」
最初は驚き、そして現状の理解と痛み、腹立たしさ。全てを踏まえてローズベルト=クィンタペッドは叫び出す。杖を構えるのをやめるわけにはいかないので肩で片耳を塞ぐ。今の一撃で腕を痛めたのだろう、腕の一本はダランと重力に従って垂れている。しかしそんなことはお構いなしでその場で地団駄を踏んでいた。
ノラとジュディは同じ感想を抱く。今はまだ四本。移動するにはまだ問題ない数である。しかし三本ではどうだ。二本脚の人間が四つん這いになって歩くことは出来る。事実、ローズベルト=クィンタペッドは移動時には一本の腕は少し持ち上げていた。ただし、三本となると話が変わってくる。いくらクィンタペッドの体に慣れたからと言って日常生活を送っているわけではない。
ならば、三本にまでしてしまえば
怒りという激情に身を任せたローズベルト=クィンタペッドを引き連れてノラは桜の木の中まで飛び退る。そして、ローズベルト=クィンタペッドはノラを追っていつも通り突撃を──。
「ギャァァァァァァァァァァァァァッ‼」
木の中、即ち枝が沢山あるところに自ら飛び込んだのだ。目に木の枝が入り込む。人間の姿であれば手で顔を覆えただろうに。無数の針のような痛みに襲われ、ローズベルト=クィンタペッドは地面に転がり落ちる。
そこに。
「フリペンド・マキシマ‼」
最後の一撃が与えられた。悲鳴は続き、そして掻き消えた。
「終わっ、た?」
ノラは杖を構えたまま動かない。奥に居るジュディは安心して地面に飛び降りる。
そしてタイミングを見計らったかのように救援さえ来てしまえば問題はないのである。
「……無事ですか!」
結界を解除したのであろうマクゴナガル先生やフリットウィック先生、スラグホーン先生が入ってくる。その後ろにレギュラスの小さな影も見えてホッと安堵した。この三人が揃えばある程度の困難は乗り越えられるだろう。たとえそれがクィンタペッドだったとしても。
ノラは三人の元に向かって飛び出した。ローズベルト=クィンタペッドがその後を追おうとするが三人の教授陣に阻まれる。ノラが三人の後ろに着地しようとしたその時だった。途端真後ろを向いてガサガサと下がり始めた。
「何を……」
ローズベルト=クィンタペッドの視線の先に居る人物を見てゾッとする。
「ジュディ!」
ノラ本人はもう護られている。手の出しようがない。じゃあ、
ダメージを与えるなら何も本人じゃなくてもいい。疲れたと座り込んでしまっているジュディを狙う。それに気が付いたノラは思わず飛び出していた。
「待って、やめて‼」
「待ちなさいエディソン‼」
スラグホーン先生の静止も聞かぬまま滑空する。そして、それがローズベルト=クィンタペッドの策だったことに気が付いたのはローズベルト=クィンタペッドが三本の脚を折り曲げてノラに飛びついた時だった。
「ッ
「
ジュディの呪文では動かず、前へ飛び出してきたフリットウィック教授の呪文でローズベルト=クィンタペッドの体がズレる。しかし、ノラの体に衝撃を与えるのには十分な位置に居た。
気が付いたのは右腕の痛み。焼けるように熱いのにどこか他人事。腕を見やる。右腕は肘より下は無くなっていた。
「あ」
溢れだす血、血、血。赤くも黒い液体が自身の顔に飛び散る。
そんな少女は誰かと同じ、善良で勉強家。全然姿も声も違うのに、どこか似ているように感じる。世界で一番大好きで、一番大嫌いな人にやっぱり似ているのだ。
待ち合わせの場所に向かう。いつものようにコッソリ孤児院を抜け出して裏路地を通っておじさんの所に。
この善良という皮を被っている少女がジュディにしてみれば心配、というよりむかっ腹が立ってくるのである。世界で一番大好きで、一番大嫌いな人に似ているのだ。
「おじさん! 今日もお話聞かせて!」
「勿論だよ
いつものように海外のお話を聞いてジュディはそれじゃあ、と立ち上がった。
「またね、おじさん!」
そういったジュディにおじさんは満面の笑みでジュディを見つめる。
「
「お迎え?」
「ジュディ、私の家の娘にならないか?」
その言葉はジュディにとって間違いなく幸せな一言だった。
「おじさんと、一緒に暮らせるの?」
「あぁ、その通りだ。君という光は僕の心を明るくしてくれる。だから、どうだ?」
「──うん! 私、おじさんの娘になる!」
「じゃあ、ジュディが呼びたくなったら、僕の事を『パパ』と呼んでくれないか? 君になら、そう呼んでもらえると嬉しい」
「パ、パパ!」
「
パパの体は暖かかった。ホッとする暖かさ。今まで感じた事のない安堵にジュディは大きく息を吸う。少し苦い、大人の匂いがした。
「それじゃあ、ジュディの今のお家まで連れて行ってくれるかい?」
「うん! こっちだよ!」
「あ、待ちなさいジュディ、表通りから、どきなさい!」
音は聞こえなかった。パパの体がぐらりと揺れて地面へ倒れ込む。
「パパ?」
腹部からはみた事のない程の血が溢れ始めていた。何が起こったのかすらわからなかった。ただ分かるのはさっきぶつかった人が駆けていくことだけ。そして、パパの目が動かない事だけ。
「パパ? ……パパ?」
「ちょっと大丈夫かい? ……こんなに血が! 誰か! 医者を呼んでくれ! いや、もうダメだ。息をしていない! ちょっとどいて!」
助けようとした見知らぬ男性は胸の上に手を置いて一定のリズム感で胸を上下させているのだった。
結論として、パパは殺された。イギリス病と呼ばれた情勢の中、経済的に回復するのは困難な人も多い。つまり、裕福な人間というのは恨みを買いやすい。男はパパ──おじさんに商売を邪魔されたと言って切れ味のいいナイフを持って無防備なお腹にトスン、と刺した。最初の狙いはジュディだったそうだ。おじさんが大切にしている人を目の前で殺せばおじさんは生きながらにして地獄を簡単に味わえる。そんな寸法で。
これまでの人生で一番と言ってもいい程の幸せな瞬間は、あっさりと一刺しで消え去った。
だから世界で一番大好きで、一番大嫌いな人に似ているのだ。これだから、一人が良かったのに。
「──」
声にならない声でジュディは叫ぶ。
体は熱えさかる炎の様な
それでも尚、しっかりと握りしめた杖はローズベルト=クィンタペッドへ。呪文は自分であり、自分は呪文。普段とは同じ工程であっても出力が違う。
──即ち、暴走、であった
「死んでしまえ」
十二歳と言えども暴走した魔力はそれだけで恐ろしい脅威となる。まるで大砲の如く撃ち出された一撃はローズベルト=クィンタペッドダランのぶら下がった腕はノラの腕の代わりと言わんばかりに弾き飛ばされる。
そしてそれを見たジュディもその場にバタリと倒れ込んだ。
「エディソン!」
身体強化を使ったのだろう。ノラの着地点に瞬間移動したかのように現れたフリットウィック教授の腕に受け止められる。正しく決闘チャンピオンの名をほしいままにした教授の成せる技だった。
軽く身体強化をしたのであろう素早く走るミネルバとその後ろをトコトコと走ってついてくるスラグホーン教授が薄っすらとした視界の中で目に入る。
今度こそ、ローズベルト=クィンタペッドを沈黙させたのを見届け、ノラは深い沼のような夢に沈んだ。
声が響く。レギュラスは異様な空気に引きずられるようにして温室の中に足を踏み入れる。どうしたのだろう、誰か怪我でもしたのだろうか。こんな遠くにまで匂いが届いた。ツン、とした鉄のような香り。隣を
レギュラスはこの匂いを知っている。血の香り。死の香り。
そこに倒れているのは誰だったか。
サラリと流れる金髪は血に濡れて醜く固まっている。白く美しい人体の一つは壊れた人形のように欠けたままで。呼吸は短くそれでいてせわしない。生きているのは頑丈に出来た魔法族の体故だろう。マグルであればとっくに死んでいる
マクゴナガル教授はクィンタペッドから目を逸らさず厳重に閉じ込めており、駆け寄りたくとも駆け寄れない状態である。手慣れているのか手慣れざるをえなかったのか、スラグホーン教授の手には杖が。
指揮者が指揮棒を振るように軽やかに、治癒呪文を掛けている。
「ダメかもしれない」
「ホラス──」
「まもなくミス・エディソンは亡くなってしまうだろう」
はっきりと、淡々と事実を語る。その間も血は絶え間なく噴き出し続け、まるで噴水のようだ。
「血が、血が足りないんだ」
「そんな、魔法薬や薬草でどうにかならないのですかホラス」
マクゴナガルの焦った声がする。
「あるとしたら医務室だろう。だが、ここから医務室に行って帰ってくるまでたとえ身体強化呪文を使おうとも間に合わないだろうし、今の彼女が例のモノを食べられるのかという疑問もある」
目の前で人が死ぬ。その状況に一歩、たった一歩だけレギュラスは足を後ろに動かした。
その時だった。ガサリ、とポケットから何かの音が。
ラビットの言葉を思い出す。
『この前のラビットの様に血が足りなくなった時に齧ればいいのラピ。すると驚き、一瞬で血の量が回復致します』
ある。この手の中に手段が。
包装紙を強引に剥ぎ取りながら人間の死という恐怖に震えながらも強引に、懸命に、前へ足を動かす。
口の中で胡椒の味しかしないビーフジャーキーを噛み砕く。
そして、口の中に入れたままの柔らかくなったビーフジャーキーをノラの口の中に押し込んだ。
「な」
傍目にはただ突然のキスをしただけの状況に全員が一瞬固まる。レギュラスだって人生初めての口と口の繋がりをこのような形で体験するとは思ってもみなかった。状況はそれだけは終わらない。口の中にあるジャーキーを一通り流し込み、嚥下したのを確認する。たちまち青かった顔に赤みが戻っていく。
「血が回復するビーフジャーキーです」
レギュラスの言葉に場が明るくなった。
「となれば後は私の出番だ。血があるのなら後で再生できるように呪文を変えよう。」
淀みのないその動きは正に音楽を奏でるように。
何度も何度も繰り返しレギュラスが口の中にビーフジャーキーを流し込み、スラグホーン教授が呪文をかけ終え、血が止まった頃にマダム・ポンフリーが先陣を切って表れた。