「ロンドンに行こうと思うの」
特に否定の言葉を誰も発さなかった。聞いていたのはステヴだけだったし、彼女はそもそもノラの言うことに口出しなどしない。
ライの人々とは特に交流をする意味が見いだせなかった。あちらがこちらを訪ねてこないのであればこちらも向こうを訪ねる理由など無い。
服を並べる。どのような服が良いだろう。ズボン? スカート? コートは必要? 不必要?
選んだのは金糸で刺繍の描かれた白いワンピース。腰に細い水色のリボンを巻き付けて、靴は歩きやすいようにサンダルではなく茶色の皮のブーツを。ブーツの色に合わせた茶色のハンドバッグを持ってライ駅へ。ロンドン・セント・パンクラス駅までは乗り換え含めて約一時間二十分程度。
『ロンディウム』ローマ人にそう呼ばれた時代から現代に至るまで、世界有数の長い歴史を誇るイギリスの首都、ロンドン。
ノラが目指すのはその中心部。東と西、その中間にはロンドンきっての豪華なエリア、ソーホーやゴヴェント・ガーデンがある。
大きな声で言うと自慢にとられかねないが、ノラは自分の容姿には自信があった。一度見たら忘れないであろう、と。
ロンドンの整地された道を一人の少女が闊歩する。少しでも人目に入りやすい様に人通りの多いところを歩いて行く。一ミリも興味の無い商品を無視しして次から次へと店を渡り歩く。ありとあらゆる道を一歩一歩丁寧に。その様子を俯瞰的に見たらきっとバグを探すデバッガーの様だと思うだろう。
結論だけ先にいってしまおう。人に見られただけで特に知り合いらしき人間から声をかけられる事は無かった。
ピカディリー・サーカスからコヴェント・ガーデンまで手当たり次第歩き回ったものの、当然、自分自身について手がかりを得ることはできなかったのである。
つまり、無駄足。意味の無い行為をし続けていたのだ。
「──全部無駄だったな」
たった一日、たった一日歩き回っただけで誰が見つけてくれるのだろうか。当たり前の事実である。だが、その当たり前は幼く孤独な少女の心を折るには十分だった。
きっと、きっと、街を歩けば、お姫様のように誰かに見つけてもらえると思ったのだ。
「あぁ、ノラ。君はこんなところにいたんだね」と。
だが、そんなものは夢物語であった。愚かさへの罪は絶望という形を以て罰を与えられる。
人通りの多い道から少ない道へ。特に当てもなく右へ左へ。やがて人気の無い住宅街へと入っていく。
ノラの心の動きに合わせるようにしてポツリと雨が降ってきた。その雨はやがて夕立へ。イギリスは雨が多い。その事実すら忘れていた。
「傘、なんて、はは」
ノラはただ呆然と立ち尽くす。もう、何処に行ったらいいのかも分からず、どうしたら良いのかも分からない。
細やかな水滴が空から舞い落ち、黒いアスファルトに波紋を描く。街は灰色のベールに包まれる。木の葉を伝うしずくがポタリと落ち、冷たい風が頬をかすめる。水が跳ねる音があちらこちらで響き、雨の独特な匂いが鼻孔を満たす。世界はしっとりと、まるで時間が緩やかに流れるかのように変わっていく。その中で何も変わらぬ少女がただ一人。濡れることすらない彼女は世界から孤立していた。
「大丈夫ですか?」
その声は澄んでいて、どこか頼りなげだった。その傘に気づいたのは、そう、声をかけられてからだった。
「大丈夫ですか? 怪我でもしましたか?」
自分より幼い顔つきの少年だ。曇天の空を閉じ込めたような静かで深い瞳で誰かを心配そうに覗き込んでいた。
「──え?」
少年の髪と同じ色の黒い傘を差しだして一滴も濡れていないノラを不思議がる様子もなく、それでも濡れないようにと傘を差しだしてきていたのだ。
「……」
なんと答えたら良いのか分からず、押し黙る。怪我をしたわけでもない。家族は居ないが、亡くした訳でもない。分かりやすい悲劇など、何処にもなかったのだから。
順調で快適? 冗談ではない。ただ円滑に過ごせていただけなのだ。あの日、あの時、目覚めた瞬間から何かを探して生きていた。ただひたすらに知識を叩き込んだのはただの興味ではない。孤独を、知識で埋めようとしていたのだ。
だが、それは結局底なしのコップに水を注いでいるだけの行為で何の穴埋めになるわけでもない。
仮に、孤児院に居たら家族が居ないということは理解できただろう。しかし、幸運な事にも、不幸な事にも、彼女は恵まれた環境に居た。働かずともご飯が出てきて、暖かいベッドで眠ることができる。
この状況。
誰かに庇護された状況でなければできない環境である筈なのに、誰かが庇護してくれている訳ではない。その矛盾に甘えることができずノラを孤独に突き落とした。どこかで自分を守ってくれる人間を空想し、探し求め、結局見つからない。
そして、それが分かっていながらも、大勢の中から自分を見つけだしてくれるだろうと砂漠の中でただ一粒の砂金を探す様な奇跡に縋りついた。
結果は無惨に無情に無駄に惨敗。彼女はただ単に孤独に立ち尽くすことしかできなかった。
まだ、十歳にも満たない少女が味わうには十分すぎる絶望だった。
「何があったのか分かりませんが……泣かないでください」
泣いていたのか。少女はそのことすら気づいていなかった。少女は問いかける。少年の行動の理由が理解できなかったから。
「どうして、そんな言葉をかけてくれるの?」
家族でもないのに、と。
「──どうしてだろう」
少年は自分でも分からないと言ったように首を傾げるも、何か良いことを思い出したように笑顔になる。
「人に優しくすると優しさが返ってくるんだって、聞いたんです」
「人に優しくすると優しさが返ってくる?」
少年の言葉を反芻する。そして少年はその言葉に対して、頷いた。
「うん。誰かに優しくされたら嬉しいですよね? 幸せな気持ちはひとりじゃなくってみんなで分け合いたい。だから貰った優しさを誰かに渡してあげるんです。そしたらその誰かも優しさを誰かにあげる。そうしたら、きっと、世界はみんなに優しくなるんです。優しさを繋いで人は誰かの大切な人になる。優しさは人と人を繋ぐから!」
大人が聞いたらどれだけ単純な事だと笑っただろう。例え全人類の行動が善意に基づくものであったとしても人が個である限り、必ず善行になるわけではない。子供の描く絵空事だと。現実味のない夢物語だと。──だが、その少年の絵空事は酷く、少女の心を動かした。
家族という関係性にのみ縛られ、それ以外の関係を築こうとしてこなかった事にようやく気がつき、問いかける。
「私も、なれるかな? 誰かにとっての大切な人に」
少年は傘を差しだしたまま笑顔を浮かべる。
「なれますよ! だって、君も僕から貰った優しさを誰かに渡してあげるでしょう?」
「……うん!」
「ほら、このリボンを君にあげます」
ゴソゴソとポケットから少年は一本の空色のリボンを取り出した。
「このリボン、君の瞳と同じ色だから、似合うと思います」
だから、僕の優しさを忘れないでくださいね。少年はそう言いながら少女に、ノラにリボンを渡す。ノラは口元を綻ばせながらそのリボンを受け取った。
孤独な少女は今、ようやく孤独から抜け出す方法を知った。ノラに天啓にも似た救いを与えたことに気がつかぬまま名前のない少年はノラの顔を見て満足げに微笑む。空はもう、晴れていた。
「坊ちゃま! 何処に居ますか!」
誰かの声がどこからか響く。はっきりと聞こえたのにどこから聞こえたのか分からない。
「あ、僕、呼ばれてます! それじゃあ!」
少年は傘を畳むとパッと駆けだしていった。
「待っ──」
言い終わる間もなく少年の姿は溶けるように消えていた。見えない。夢だったのだろうかと思い、手の中を見てみるとそこにはちゃんと、水色のリボンがあった。