「それで、どうじゃった? 『ノラ・エディソン』は」
白いひげの老人は入学名簿をパラパラと捲り、開いたあるページで一人の少女の名前をなぞる。間違いなくオーグリーの羽ペンで書かれた名前。生まれた時から記されるはずの名前が突如描かれた瞬間を見た時はさしもの老人も半月眼鏡を持ち上げた。
「君の主観で構わんよ」
マクゴナガルは目の前の恩師、この世で最強と言っても過言ではない、いや、そのような言葉では足りない程の才能の塊。様々な魔法の研究に貢献し現代のマーリンとも呼ばれる。のちに伝説になるであろうことを確約された魔法使い、アルバス・ダンブルドアに問いかけられ、少し思慮した後に口を開いた。
「聡明な少女でした。少し小難しい質問をしてみたのですが少し悩んだ後に質問の答えとして本質的な部分を答えました。あの様子だと授業に入ると化けると思います」
「そうか。ミネルバがそう思うのであればそのような少女なのじゃろうな」
「あの、どうしてそこまで彼女を気にかけるのです? 確かに境遇が他の生徒達と違う点はありますが」
そこまで気に掛ける必要はないように思います。とマクゴナガルは続ける。
「知り合いに……ちと似ておってな」
「お会いになったことが?」
「いいや。……いいや。わしは彼女に会ったことがない」
「ならばどうして」
「……例えば。これは例えばの話じゃが。彼女にヴォルデモートのような影は感じ取ったかの?」
その言葉でマクゴナガルは思い出す。魔法省から今の変身術の教授に転職したばかりの、新任だった頃の事を。
マクゴナガルは、純血主義が嫌いだ。
魔法省に勤めていた当時、マクゴナガルは順調にキャリアを積んでいたが、周囲の純血主義的な偏見や無理解に心をすり減らしていた。マグルである父ロバートを尊敬し、マグルの男性ドゥーガルを今も密かに想い続けていた彼女にとって、それは耐え難い日々だった。
そんな彼女の頭をよぎったのは動物もどきを習得する時、長い期間アドバイスや的確な指示をくれた恩師アルバス・ダンブルドアだ。ダンブルドアにホグワーツで教鞭を執る事ができないかと相談を持ちかけると、その数時間後には変身学の教授の席があると返事があり、念願叶ってホグワーツ魔法魔術学校の変身学の教授に就いた。
まだ教師としてひよっこ、席について背筋を伸ばして自分の言葉を待っている子供たちに自分が教師として映っていることにどこか可笑しいような、面映ゆいような、誇らしいような様々な感情がマクゴナガルを支配していた。
最初の授業はおっかなびっくりで声が震えながらの授業だったが、後に廊下を歩いていた時にレイブンクロー生から「マクゴナガル教授の授業って分かりやすい」と褒め言葉を聞いた時には不意に涙が出そうになるくらい喜んだ。
それと同時に教師という仕事に対して恐れを抱いた。教えられる立場であった時はこれが正しい知識だと教わればそれを覚えれば良かった。疑問を問いかければ答えが返ってきた。時にはダンブルドアやスラグホーンの様に一緒に考えてくれる教授もいた。
だが、マクゴナガルが教えている知識は本当に正しい物なのか、間違った知識だった場合生徒を危険に晒すかもしれないという事に気づいた。
その不安をダンブルドアに話すと嬉しそうに笑って、語りかけてきた。
『知識とはその時代においてだけの真実じゃとわしは考えておる。かつてガリレオ・ガリレイによって天動説を唱えるまでの人間の知識は地動説であったかのように。風邪薬が開発されるまで喉の痛みはベーコンで巻けば治ると信じられていたように。古い知識は新しい知識へと更新されていく。もしかするとわしらが教えている物は後の時代の人間にとって間違った知識なのかもしれない』
ダンブルドアはそう言って紅茶のカップをとって一口含む。
『じゃが、それは必ず必要な事なのじゃよ。わしら教師が教える事に対して誰かが疑問を持ち、新しい理論を取り出す事が正解に繋がることじゃろうて。もし君がそれで悩んでいるのであれば、わしらが教えている知識を疑ってかかれと、生徒たちに教えるとよいかもしれん。必要なのはただ知識をため込む事だけではなく、その知識に対して疑問を持つことなのじゃ。──ミネルバ、君は良い教師になったのぉ』
そんな言葉を胸に教室で研究に没頭していまい、時間はとうに外出禁止期間になっていた。冬空に満月が浮かび、冷たい光が窓から差し込んでいた。コツコツと反対側から足音が聞こえてた。一瞬生徒かと思いどう説教しようか考えたが、薄ら闇の中で見える影はどうやらマクゴナガルよりも背が高い細身の男性の様だ。
『こんばんは。新しい教師の方ですか?』
少し遠くの距離だったが男が声を掛けてきた。
『こんばんは。えぇ、私は最近採用して頂いたのです』
マクゴナガルがそう言うと男はただ一言返事を返した。
『へぇ』
ただの一言。だが、その一言にマクゴナガルの背中に、ゾクリ、と粟立つものを感じた。どうにもマクゴナガルには相容れないような気がした。
『──優秀なんですね』
『そ、んな事ないです』
言葉が詰まりながらマクゴナガルは返事をする。その言葉と共に男が動き、コツリと一歩分の足音が聞こえた。月明かりに男の姿が照らされ、その姿にマクゴナガルは息を飲み込み、同時にメデューサを見たかのように体が硬直した。心臓の鼓動だけが耳に響く。
月明かりに照らされた、だけでは説明がつかない程不健康に見える青白い肌、鼻をそぎ落としたかのような潰れた鼻。そして暗闇の中で怪しく光る赤い目。まさしく蛇の様な顔だった。だが、蛇にある可愛さなど一切なくあるのは禍々しさだけだ。
『どうか、なされましたか?』
だがその顔は人の良さそうな柔和な笑みを浮かべていた。一瞬安堵しかけたが、危険な色を表す赤い色の瞳だけが笑っていない事に気づき、マクゴナガルは一歩下がる。
『い、いえ。私、忘れ物をしたので失礼します』
マクゴナガルは再び体が硬直してしまったら二度と動けないという確信を抱き、返事すら待たず足を止めることなく教室に飛び込むようにして逃げ込んだ。扉の鍵を閉め、扉から一番離れた壁に背をつけ荒くなった息を整えながら床にしゃがみ、朝までそこを動かなかった。
後にその男性がヴォルデモートと呼ばれる危険な思想を持った過激派の純血主義者を集めている存在であるということを知る事になる。
──あの夜のような「何か」が、ノラにはあったか?
そう問われたマクゴナガルは、首を横に振った。
「いえ、彼のような雰囲気は一切感じませんでした。むしろ真逆です。明るく、他の生徒と変わらない、普通の子供のように見えました。次の生徒を訪ねるという私に彼女は笑いながら言ったのです。『新しい世界を見せてあげてください』と。人の事を気遣える、いい生徒になると私は思います」
マクゴナガルの好評を聞き、ダンブルドアは自らの長い髭を撫ぜる。
「ミネルバが言うなら間違いないじゃろうな。……さて、では書類上の問題を片付けねばならんじゃろうて」
「マグル・魔法省双方の記録を調べましたが、彼女の戸籍には彼女以外の存在がありませんでした。捨て子と見ることもできますが、生活は安定しており、孤児院に送るのは酷かと」
「なるほど。では保護者としての立ち位置を誰かがやらねば」
ダンブルドアはそう言うとミネルバに背を向け、不死鳥の背を撫でる。
「誰に頼みますか?」
「……わしがしよう」
「アルバスが!? アルバスの悩みを増やすような事にはなりませんか?」
「彼女には“繋がり”が必要じゃ。どんな形であれ、誰かとの関わりが」
ダンブルドアがそこまでノラ・エディソンに強い関心を持つとは思っておらず、ミネルバは少し食い下がる。
「しかし、アルバスとノラ・エディソンの間にはなんの繋がりもないじゃないですか」
「教師と生徒という関係性がある。時には親子の絆よりも固い繋がりになることもあるじゃろう」
「保護者になる程の時間の余裕はあるのですか」
「いいや、彼女との面談をすることはわしには許されん」
「ならどうして」
マクゴナガルの言葉にダンブルドアは一瞬の沈黙を返す。ダンブルドアの背中は何も語らない。
「──約束だ」
穏やかな老人の喋り方ではない。珍しく若々しい断定的な言葉遣いにミネルバは目を見開く。しかしその若々しい言葉遣いとは真逆のどこか思い懐かしむような、それでいてどこか懺悔するかのような声色を感じさせた。
「なに、破れぬ誓いとかそういう話じゃないので安心してほしい。今のわしには少しノスタルジックな簡単な約束じゃ。困っている生徒は放ってはおけんからの」
普段の様子に戻ったダンブルドアを少し吟味するように見つめてミネルバは軽いため息を吐く。
「分かりました。では書類はそのように」
「いつもいつも世話をかけるのぉ」
「いいえアルバス。あなたの苦労に比べたらこの程度」