殺人鬼達に救われる道はあるのか? 作:コミカド
なぜクリスティーヌは病院の屋上から身を投げたのか?
有森祐二は絶望に苛まれながら夕暮れ時の町を徘徊していた。
祐二は地元の高校、不動高校に通う高校2年生である。
成績は普通で、部活では演劇部に所属し専ら小道具係として裏方から部を支えていた。
飛び抜けた才能が有るわけでもない。かといって目立った欠点が有るわけでもない。
そんな何処にでもいる普通の高校生である祐二だが、彼は現在親元を離れアパートで独り暮らしをしている。
両親は祐二が中学生の時に離婚していた。
小学生に上がった頃には既に両親は互いに無視しあっており、以来祐二には家族3人が仲良くしていた記憶はない。
今では2人とも新たなパートナーを見つけ、それぞれの家庭で仲睦まじい生活を送っているらしい。
だが祐二はそのどちらの家庭とも上手く馴染む事が出来なかった。
決して両親の事を嫌っている訳では無いのだが、物心ついた頃から無視しあう2人を見るうちに自然と祐二も両親に対して無関心になっていった。
両親も言葉にはしないものの、どこか息子を疎ましく思うような気まずさを祐二は感じていた。
だから、祐二は高校に上がるのと同時に独り暮らしを始めた。
幸い学費と生活費は十分に振り込まれるので経済的な苦労は無い。
ただそれでも、「ただいま」も「お帰り」も無い生活に時折寂しさを覚える日も少なくなかった。
そうした日々に変化が起きたのは、同じ演劇部の月島冬子と恋人になってからである。
冬子は演劇部が誇る看板女優で、舞台上では圧倒的な存在感で見る者を魅了した。
しかし舞台を降りると優しく控えめな性格で、誰にでも気を遣える少女であった。
そんな冬子と祐二は恋に落ち、周囲に配慮し密かに愛を育んでいた。
冬子と心を通じ合わせた日々は、祐二にとって何物にも替え難き宝物である。
冬子の存在が冷たかった祐二の日常に暖かみを与え、周囲の景色に彩りをくれた。
冬子こそ、祐二の人生に希望をくれた女神とさえ言って良かった。
だけど彼女は、月島冬子は自ら命を絶った。
演劇部で上演する「オペラ座の怪人」のヒロイン「クリスティーヌ」を演じる筈だった冬子は、学校で硫酸を被る事故によって顔に大火傷を負い、その後入院先の病院の屋上から身を投げて若い命を散らせた。
警察は彼女の死を「顔に負った火傷に悲観した事による衝動的な自殺」として処理した。
「………いや、違うっ!」
冬子はただ自殺したんじゃない。自殺に追い込まれたのだ。
祐二は知っている。
冬子の才能とカリスマ性に嫉妬した同じ演劇部の女子達が、質の悪い悪戯で冬子を脅かそうとした結果、冬子は誤って硫酸を浴びてしまった事を。
冬子は3人から悪戯を受けた事を誰にも言わず、人知れず彼女等を許そうとしていた。
にも関わらず!
3人は謝罪も、反省すらもせず、祐二と冬子に聞かれてるとも知らず、冬子を嘲笑う言葉を口にしていた。
冬子が自殺したのはその翌日である。
「………復讐しかない。」
祐二の瞳の奥に憎しみの炎が燃える。
冬子を死に追い込む絶望を味わわせながら、今も呑気に生を謳歌する3人を、このまま野放しにしておける筈がない。
だがアイツらのやった事を警察に言ったところで、大した罪には問われないだろう。
そんなの許せる訳がないっ!
アイツらには死を以て償わせるしか無い。
冬子の無念を晴らすにはそれしか…
「こんにちわ。いや、もうこんばんわの方が良かったかしら?」
突如として面前から話し掛けられ有森は仰天する。
ずっと下を向いて歩いていたせいで目の前に人がいる事に気が付かなかった。
目線の先にはダークスーツを着た女性がいた。
明るいセミロングの髪を後ろで纏め、うっすらと口元に笑みを浮かべた、左手にビジネス鞄を持ったキャリアウーマン風の女性である。
祐二は復讐を口にして誓った事を聞かれたのではと焦り、小さく黙礼をすると再び目線を下にし早足で女性の横を通り抜けようとする。
すれ違いざまに女性が口を開く。
「有森祐二君ね?」
「えっ?」
名前を呼ばれ祐二は思わず立ち止まる。
横を向けば、相変わらず口元を軽く上げつつも、芯の強さを感じさせる真っ直ぐな視線が祐二の顔を注視していた。
「急に声をかけてごめんなさい。月島冬子さんについて、お尋ねしたい事があるんだけど、少々お時間を頂いても良いかしら?」
「『古舘法律事務所 弁護士 野々宮珠樹』…」
「うん。気軽に珠樹先生って呼んでね。」
差し出された名刺を口に出して読む祐二に珠樹は微笑みながら答える。
祐二は珠樹に連れられ近くのファミレスに入っていた。
冬子の名前を出された以上、せめてこの女の目的だけでも知らなければならない。でなければ、復讐計画に支障が出てしまう。
祐二はこの弁護士を名乗る怪しい女に対し、警戒心を以て臨んでいた。
「すいませーん!ドリンクバー2つお願いします。」
そんな祐二の心の内を知ってか知らずか、珠樹は名刺を手渡し自分の身分を明かすと、勝手に注文を済ませていた。
「…その、まだちょっと事情がよく分からないんすけど、どうして弁護士さんがふ、月島さんの事を?」
「端的に言うと、月島冬子さんの御両親から依頼を受けたからなの。冬子さんの事故に関し、学校側の責任が無いか調べて欲しい、と。」
「学校側の責任ですか?」
「ええ。冬子さんは硫酸により大火傷を負ったわけだけど、この硫酸は学校で管理していた物。それを生徒が容易に持ち出せた事に関して、冬子さんの御両親は学校側に管理責任があったのでは無いかと疑問に思って、私の事務所に調査を依頼したの。場合によっては訴訟も視野に入れてるそうよ。あっ、この事は一応守秘義務も関わって来ることなんで他言無用でお願いね。」
茶目っ気含ませた物言いで珠樹は祐二に手を合わせる。
だが祐二はそれを気にした素振りを見せず、腹の奥から沸き起こるフツフツとした怒りを抑えるのに必死だった。
珠樹の説明は、祐二には冬子が勝手に硫酸を持ち出したとでも言うように聞こえた。
今すぐにでも「そうじゃないっ!」と叫んでやりたかった。
だが、珠樹は全く予想外の言葉を口にした。
「………と此処まで話したけど、私にはどうにも冬子さんが自分で硫酸持ち出したとは思えないのよね。」
「…えっ?どうしてそんな。」
祐二は思わず素で問い掛けてしまう。
いつの間にか、珠樹から冗談めいた軽い雰囲気が消えていた。
「まず何より理由が無いわ。何故演劇部の冬子さんが硫酸なんかを持ち出したのか、納得出来る理由は御両親には皆目見当もつかないそうよ。警察や学校は舞台のヒロインに選ばれた重圧からあんな真似をしたんじゃないかと考えているようだけど、御両親の話では冬子さんはナーバスになっていた様子は無く、むしろヒロイン抜擢を心から喜び気合いが入っている様子だったそうね。」
珠樹は一旦言葉を止めると、反応を確かめるように祐二の方をじっと見つめる。
いつの間にか、祐二の背筋は伸び拳は膝の上で握られていた。
「…無論冬子さんが我々では伺い知る事の出来ない悩みを胸に秘めていた可能性もあるけれど、それでも全く痕跡を残していないというのはあり得ないわ。そこで許可を得て冬子さんの私物を拝見させて頂いたのだけど、そこで興味深い物を見つけたの。」
「……なんなんですか、その物って?」
「…便箋よ。」
「便箋?」
「ええ。確認したところ、その便箋は病院の購買で売っている物で、冬子さんが自殺した当日に看護師に頼んで切手と封筒と共に購入した物みたいなの。で、この便箋は50枚綴りが糊付けされて纏められている物で上から剥がしながら使うんだけど、冬子さんは束から切り離さずにそのまま一番上の便箋に手紙を書いたみたいなの。その結果…」
珠樹は鞄からおもむろに紙を取り出した。
「…下に敷かれていた便箋に筆圧による筆跡が残ってた。おかげで鉛筆の芯を横にして擦ってみたら、ある程度文章が読み取れたわ。もちろん全ての文字を読み取る事は出来なかったけど、宛名の『有森』という名字と『三人』『憎まない』という文字は読み取る事が出来るわ。有森くん、君は月島冬子さんが自殺した理由について、何か手紙のような物を受け取っていない?それを確かめる為に私は貴方に会いに来たの。」
珠樹の問い掛けに答える事が出来ず、祐二は目を見開いて白く浮かび上がった恋人の筆跡を凝視していた。
冬子は死ぬ前に手紙を書いていた。
祐二にはそれが、自分宛の遺書であると確信する。
まさか冬子が自分に宛てて遺書を送っているなんて思いもよらなかった。
冬子が死んでから今日まで、祐二は絶望のあまり茫然自失となり、郵便受けを開ける気力すらなかった。
おそらく今も、冬子からの手紙はアパートの郵便受けに眠っているのだろう。
祐二は一刻も早くここを飛び出し、冬子からの最後のメッセージに目を通したかった。
しかし…
「…何か心当たりがあるのね?」
珠樹は祐二の心の乱れを目敏く指摘する。
まだ完全に祐二は珠樹を信用した訳では無い。
それでも、僅かな手掛かりから祐二も気が付かなかった冬子の遺書の存在を明らかにし、それを裕二に教えてくれたことに感謝していた。
だからこそ、裕二は苦悩する。
少なくとも珠樹は裕二が冬子にとって浅からぬ関係、遺書に等しい手紙を送るに足る人物であることを知ってしまっている。
ここで珠樹に対して裕二の知る真実を打ち明ける事は、祐二の復讐心を明らかにするのと同義である。
仮にそれを打ち明けた上で復讐を敢行すれば、動機のある裕二が疑われるのは必定だ。
「………野々宮さん、もし人を自殺に追い込んだとして、どれくらいの罰になるんですか?」
「…仮に『自殺しろ』などと言う様な直接的な言葉で被害者を自殺に追い込んだ場合、『自殺教唆罪』に問われ6ヶ月以上7年以下の懲役または禁錮に処されるわ。だけど怪我をさせた上で、その怪我が原因となり被疑者が自殺したとしても、刑事裁判で死に追い込んだことを罪に問うのは非常に難しいと言わざるをえない。それでも懲役15年以下の懲役または50万円以下の罰金とする『傷害罪』に問うことは出来るでしょうね。」
「懲役15年…」
「けれど、故意に相手を怪我させる意思はなく、結果的に行為によって相手に怪我を負わせてしまった場合は『過失傷害罪』になる。過失傷害罪の法定刑は30万円以下の罰金または科料よ。」
「そ、それじゃあ、刑務所にも行かないってことですかっ!?」
「ええ、そうなるわ。」
思わず大声を上げてしまう裕二に珠樹は冷静な面持ちを崩さず答える。
周囲の客は何事かと裕二たちの席に顔を向けるが、有事にそれを気にする余裕はない。
大した罪に問われる事は無いんじゃないかと思っていたが、まさか罰金だけで済むとは思わなかった。
人を死なせておいて刑務所に行くことも無くのうのうと生き続けるなんて!
………やっぱり殺すしかない。
裕二の胸中で再び地獄の業火が殺意に火を灯した。
「有森くん、不当によって傷付けられた人が最もやってはいけない事を知ってる?」
憎しみに呑まれつつある祐二に珠樹はそう問い掛ける。
祐二が顔を上げると、全てを察した様子の珠樹がほんの少しだけ哀しそうな表情をしていた。
「それはね、不当な手段による復讐よ。それをしてしまうと、あなた達が受けた不当を誰も不当だとは思えなくなってしまうの。それどころか、不当を受けて当然の人間だったと思われるかもしれないわ。」
「そんな、じゃあ泣き寝入りしろって言うんですかっ!」
「いいえ。法に則り冬子さんの無念を訴えるのよ。」
静かに、されど強い意思を感じさせる言葉だった。
「1人の人間が自ら死を選ぶ。それがどれほど重い決断か、当事者でなければ知ることが出来ない苦悩があったのでしょうね。だからと言って、冬子さんが感じた苦しみや痛みの理由をこのまま埋もれさせる訳にはいかない。彼女の御両親がそれを望んでいないの。冬子さんの無念を晴らしたい。それが彼女を愛した家族の切なる願いなの。」
祐二は言葉を失う。
冬子の家族の事など頭の片隅にすら無かった。
2人の会話の中に冬子の家族が話題にはならなかったし、元より家族との関係が薄い祐二にとっては思慮外の事である。
或いは、祐二の境遇を知る冬子が敢えて話題にしなかったのかもしれない。
「有森くん、私は君が冬子さんの死について何を知り、何を思っているかは知らない。だけどもし、君が冬子さんの死に苦しんでいるのなら、同じように冬子さんの家族も苦しんでいる事を理解して欲しいの。その上で君の知る冬子さんの真実を教えて欲しい。」
彼女の無念を晴らし、御家族の苦しみを少しでも取り除く為に…
そう言うと珠樹は祐二に向かってテーブルに手を付き深々と頭を下げた。
「どうか、お願い致します。」
珠樹の頭頂部を見ながら、祐二は必死に言葉を絞りだそうとしていた。
その心情はぐちゃぐちゃである。
あらゆる感情が心の内で駆け巡り、それを処理するには祐二は若すぎた。
気を抜くと涙が瞳の端から溢れそうである。
「…冬子は、アイツらを許そうとしたんだ。」
やっとの事で紡ぎだした声は、自分でも自覚できるほど震えていた。
「3人ともわざとやったんじゃないから、軽い悪戯のつもりで、よろけて戸棚にぶつかった自分にも責任があるから、そう言ってアイツらを許そうとしてたんです。なのにアイツらは…」
憎悪に顔を歪ませながら、祐二はテーブルを叩いた。
「冬子が誰にも言わなくてラッキーだったなんて言いやがったんだっ!馬鹿にしたようにっ!全く悪びれもせずにっ!冬子が、どんなに苦しんでいたのかも、知らないくせに…」
テーブルに突っ伏して嗚咽を漏らす祐二に、珠樹は何も言わない。
代わりに遠くから様子を窺う店員に申し訳なさそうに頭を下げ、祐二が落ち着くのを待った。
「…すいません。取り乱して。」
「そんなこと無いわ。これ、使って。」
暫くして落ち着きを取り戻した祐二に、珠樹はハンカチを差し出す。
祐二は礼を言ってそれを受け取ると、朱くなった目元を拭った。
「…有森くんにとって、冬子さんは大切な人だったのね。」
「…はい。周りには隠していたけど、心の底から愛していました。」
「そんな彼女の為に、君は何をしてあげたい?」
「…冬子をあんな目に遭わせた奴らに復讐してやりたい。けれど、これは俺が勝手に思っている事で、冬子はきっと望んでません。でもせめて、冬子の無念を晴らし、納得出来る決着をつけたいです。」
祐二は鼻を啜ると、真っ赤になった目で珠樹を見据え頭を下げた。
「お願いします。俺に出来る事ならなんでもします。どうか、冬子の無念を晴らして下さい!」
「……その依頼、お受けいたします。」
大切な恋人を失い苦しむ者の声に、野々宮珠樹は即答した。
普段であれば友人達と談笑しながら母の作った弁当に舌鼓を打っている昼休み中頃、日高織絵は憂鬱な足取りで職員室に向かっていた。
その横には、同じ演劇部に所属する桐生春美と早乙女涼子がいた。
3人の間には会話は無い。重苦しい気まずさだけが流れていた。
「…いったい何の呼び出しなのかなぁ?」
沈黙に耐えきれず織絵はそう口にしたが、すぐに後悔した。
案の定、春美が横からキッと睨みつけてきた。
「さあ?知らないわ。」
「う、うん。そうだよね。ごめんね。」
慌てて謝罪の言葉を口にする。涼子は視線すら向けず織絵の言葉を無視する。
呼び出された心当たりは大いにある。
だがそれを口にするのは許されない雰囲気が3人の間にはあった。
「ねえ織絵、あんたあの事を誰かに喋ったんじゃないでしょうね?」
「い、言ってないよ!誰にも…」
そう否定しつつも、織絵は心に僅かな痛みを感じた。
織絵は自分と涼子達との間に、演劇者として大きな壁がある事を自覚していた。
織絵にとって演劇活動はあくまでも部活。
演じる事は好きだし、幼い頃はテレビの中に夢中になり「大人になったら女優になりたい!」と無邪気に語っていた。
だが高校生にもなれば自分の身の丈というのは嫌でも理解出来るようになり、本気で女優を目指すという事は無くなった。
部活動の範囲内で趣味として楽しめれば良い、というのが織絵の演劇に対するスタンスである。
しかし、涼子や春美、それに先日死んだ冬子はその先を目指していた。
学生演劇で実績を積み、箔をつけて芸能界入りし、いずれプロの世界で身を立てる。
そんなビジョンを明確に打ち立て、それを目指し本気で取り組んでいた。
そして、圧倒的な才能を持つ冬子に2人が強烈なコンプレックスを抱いているのを織絵は知っていた。
舞台上で眩い輝きを放ち観客の目を独り占めする冬子に、2人が悲痛な感情の籠った視線を向けている事を知っていた。
だからかもしれない。あんな馬鹿みたいな事をしてしまったのは…
思い出すのは煙を出す顔を手で押さえ悲鳴を上げる冬子の姿。そして彼女が「オペラ座の怪人」のセリフを口にし病院の建物から身を投げる光景だった。
正直な話あの事を、月島冬子が火傷を負った事故の真相を誰かに話した方が良いんじゃないか、という風に思った事はあった。
だけどもしこの話が周囲に漏れた際、周りから何を言われるか想像すると怖くて言い出せない。
罪悪感と自己保身。
その板挟みになり、織絵は冬子が自殺してから今日までまともに眠れない日々を過ごしていた。
程なく3人は職員会議室の前に辿り着く。
教師が生徒と個別で話し合いを行う場合、普通は生徒指導室を使うのだが今日はなぜかここだった。
涼子がノックをし、「失礼します」と声を掛けドアを開く。
中には学年主任、教頭と校長、更には演劇部顧問の緒方夏代に加えダークスーツを着たOL風の女がいた。
「良く来てくれたわ。入って頂戴。」
緒方が3人を促し部屋に入れる。
その声は心なしかいつもより硬い。他の大人たちも皆深刻な表情で三人の様子を窺っている。
否応も無く緊張が高まり、織絵は口の仲が急速に乾いていくのを感じた。
3人が部屋に用意された椅子に座ると、正面に座るダークスーツの女が名刺を机の上に置いた。
「初めまして。私は弁護士の野々宮珠樹。本日はお時間を頂きありがとう御座います。」
「弁護士…」
「本日お三方に来ていただいたのは他でも無いわ。先日亡くなった月島冬子さんについて、御話を伺いたいの」
その言葉に織絵の心臓が跳ね上がる。
呼吸が荒くなり、足がガクガクと震えだしそうになっていた。
「月島さんは学校で保管されている硫酸を頭から被り、顔に重度の火傷を負う事故にあわれたわ。その後入院し治療を受けていたけど、貴女たち演劇部の皆がお見舞いをした翌日、病院の屋上から身を投げ命を絶った。どうして月島さんがそんなことをしたのか、何か知らない?」
「…さあ?私たち、月島さんとはそんなに仲良くなかったし。」
突き放したような素っ気ない物言いを涼子はする。
だが横にいた織絵は、涼子の言葉尻が僅かに震えているのに気が付いた。
学生演劇では間違いなくトップクラスの実力を持つ涼子にしても、内心の動揺を抑え切れて無い。
春美は下手な事は言うまい、としているかの如く唇を噛み締め、膝の上で拳をギュッと握っていた。
「…本当に何も話す事は無いの?」
珠樹が再び3人に問いかける。
それはまるで、『君たちのやった事は全て知っている』とでも言う様な口ぶりだった。
助けを求めるように緒方の方を見ると、彼女は悲しげな眼で3人を見詰め口を開いた。
「…あの事故があった日、直前まで月島さんは他の部員と一緒にいたから科学準備室に行って硫酸を持ちだす事は出来なかったことが分ってるわ。彼女にはアリバイがあるの。」
つまり硫酸を科学準備室から持ち出し、月島冬子に掛けた人物がいる。
緒方は暗にそう示唆していた。
すると涼子はキッと緒方を睨み付け机を叩いた。
「なんですか先生?私たちがわざと月島さんに硫酸を掛けたって言いたいんですかっ!?」
「お、おいおい落ち着きたまえ。別に先生達は君達を疑ってる訳じゃないんだ。君達は何も関係ない。そうだろ?」
激昂して反論する春美を校長が宥める。
ただ、言葉の裏には学校の責任が問われるような事だけはあって欲しくない、という下心が見え見えだった。
珠樹は暫し3人をじっと見つめるが、何も言う様子が無いのを確認すると小さく溜め息を吐き口を開いた。
「…月島さんは遺書を書いてたわ。」
「…え?」
その声が3人の内誰から上がったものかは分からない。ひどく間の抜けた声であった。
遺書は見つからなかった。3人はそういう風に聞いていた。
冬子は誰にも事故の真相を誰にも話していない。だから自分たちは見逃されている。
そう思って心の奥で安心していた気持ちが、急速に凍り付いていく。
血の気が引き、喉の奥から『ヒュウ』という呼吸音が無意識の内に漏れた。
「月島さんは亡くなった日に手紙を書いて、自分がどうして火傷を負ったのか知る人に送ってたの。そこには、どうか貴方達を憎まないでくれ、と書かれてたわ。」
「………は?どうしてそんな…」
「分からないの?月島さんは焼け爛れた自分の容姿に悲観したわけでも、女優になるという夢を断たれた事に絶望したわけでも無いわ。あの日、お見舞いに来た貴方達が口にした心無い言葉を聞いて、憎しみに心が焼き尽くされる前に自ら命を絶ったのよ。復讐に手を穢してしまわないように。」
「………あっ…ああっ!」
織絵は言葉にならない悲鳴を上げる。
その脳裏には、あの日3人で交わした会話が蘇っていた。
『よかったぁ!月島さん、あたしたちの事誰にも言ってないのね!?』
『ラッキーだったじゃないの』
『ほら、あたしの言ったとおりでしょ?あの子、あくまでもいい子ぶる気なんだから。おかげでこっちは助かっちゃたけど!』
聞かれていた。
冬子はあの時の会話を聞いていた!
だとしたら、彼女に最後の一線を越えさせたのは…
「月島冬子さんという方は、とても優しい人間だったみたいね。大火傷を負わされ女優になるという夢を絶たれた事よりも、そんな自分を中傷されることよりも、自分の心が憎しみに燃やし尽くされる事に彼女は絶望したの。大変気高く、清い心の持ち主よ。」
珠樹が語る言葉の一つ一つが、織絵の心の奥底を締め付ける。
最早、罪を暴かれる恐怖は無くなった。
代わりに自分の浅ましさに対する羞恥心と、呼吸さえ忘れそうになる申し訳なさに襲われ涙が止まらなくなっていた。
「日高さん、桐生さん、早乙女さん、改めてお聞きします。月島冬子さんについて、貴方達には話さなければならない事がある筈よ。それは貴方達自身の口から話さなければいけない。それが、貴方達が月島さんに対して行う、最初の贖罪よ。」
もう、限界だった。
「涼子ちゃん、春美ちゃん、もう無理だよ…」
咽び泣きながらも、織絵はハッキリと2人にそう告げた。
2人は何も言わない。
涼子は両手で顔を覆い嗚咽を漏らしている。
春美は唇を噛みしめ、溢れそうになる涙を耐えるのに必死だった。
或いは2人も限界だったのかもしれない。
「体に掛けるつもりなんて…無かったんです……スカートの裾に掛けて…驚かせるだけだったんです……」
そう告白すると、織絵は関を切ったように大声を上げ泣き始めた。
その様子を周囲の大人達は暫しの間、痛ましげに見守る事しか出来ない。
1ヶ月後
都内から1時間ほど車を走らせた郊外。そこに月島冬子が眠る墓所はある。
『月島家』と刻まれた墓石の前で、珠樹と祐二の2人は手を合わせていた。
一通り黙祷を終えると、2人は墓石に水を掛け手拭いで表面を磨き始める。
無言のまま手を動かす2人であったが、不意に祐二が口を開いた。
「…結局、罪には問われなかったみたいですね。あの3人は。」
その言葉に珠樹は一瞬動きを止めるが、祐二の表情に激しい感情が無いのを確認するとゆっくりと頷いた。
「…ええ。月島さんの御家族と話し合った上で、被害届は出さないことにしたの。」
「………そっすか。」
「…御家族も決して冬子さんの事を軽く考えている訳じゃないわ。いろいろ考えて、悩み抜いた上で、刑事告訴はしないことにしたの。」
3人は始めから冬子に火傷を負わせるつもりなど無かった。
あくまでも驚かせる目的の悪戯が事故を招いた結果である。
被害届を提出しても、起訴に持っていくのは極めて難しかっただろう。
「だけどね、何も償いをさせない訳じゃないわ。3人の御家族とも話をして、賠償金の支払い、正式な謝罪、そして命日のお参りを条件に示談をする事になったの。」
示談交渉において、早乙女、桐生、日高の3人の家族は月島家が出した示談条件を全面的に受け入れる姿勢に終始した。
彼らは娘達の口から彼女らが犯した罪を聞き、共に罪を償う決意をした。
月島家への謝罪にも連れ立ち、真摯に頭を下げたそうだ。
「…俺も別にアイツらがまったく反省していない、とは思ってませんよ。その辺りの経緯は話に聞いてますし。」
面談の後、学校側は職員会議を行い教育委員会に事の経緯を報告すると、弁護士立会いのもと第3者委員会を立ち上げ事故の原因調査を行う事を決定。
生徒への聞き取りと事故当時の化学準備室の鍵の保管状況を調査し、緊急保護者説明会で結果を公表した。
説明会では本来厳重に管理しなければいけない劇薬の保管場所の鍵が学校に入れる人間であれば誰でも容易に持ち出される状況にあった事、被害にあった生徒に対し加害生徒が嫉妬心を募らせ軽い気持ちで悪戯を仕掛けた事、頭から硫酸を被ったのはあくまでも事故であった事、その他の生徒の関与は認められなかった事などが説明された。
説明会の最後に、校長は脂汗を流しながら学校側に管理責任があった事を認め謝罪し、当該生徒たちが所属していた演劇部は活動停止、顧問も当面の間は指導を控えさせ、加害生徒に対しては1週間の停学処分に処する事を発表した。
そして停学処分が明けたその日、早乙女涼子、桐生春美、日高織絵の3名は『退学届』を提出し学校を去った。
「俺だって分かりますよ。今の時代、高校を退学するなんて軽い決断じゃないって事くらい。アイツらなりに後悔して、冬子に対して償いをしようとしている事くらい。だけど…」
裕二は手にしている手拭いをギュッと握りしめた。
「とてもじゃないけど許す気にはなれねぇ!今だってアイツらが生きている事にはらわたが煮えくり返りそうだ!」
出来る事ならこの手で殺してやりたい。
それはあの日から裕二がいまだに心に宿し続けている想いである。
いくら後悔していようが、謝罪しようが、贖罪をしようが、この気持ちは一向に薄れない。
そんな裕二を悲しそうに見つめ、珠樹は首を垂れる裕二の肩にそっと手を置いた。
「当然の想いよ。傷付けられた人間の気持ちはそう簡単には癒されない。早乙女さん達はこれから長い時間を掛けて償いをしていくことになる。だけど彼女たちが本当の意味で更生したかどうか判断し、許すことが出来るのは、傷付けられた側だけだと私は思うわ。」
「……許せる日が来るんですか?」
「分からない。こればかりはどうしても…」
再び2人の間に沈黙が流れる。
しかし程なく、裕二はフッと息を吐くと哀しげな笑みを浮かべた。
「正直に言いますね。俺、野々宮先生と会った時、あいつらを殺すつもりでいたんです。冬子の無念を晴らすにはそれしかないって思って。でも、やめました。」
裕二はそっと墓石に手を添える。
「手紙の中に書いてあったんです。冬子は憎しみに身を委ね地獄の炎に心が焼かれないように死を選んだんです。そうすれば奇麗な心のままで天国で俺と会えると思うからって。あいつが天国で待ってるなら、俺は地獄に行くわけにはいかない。そう考えなおしました。」
精一杯冬子の分まで生き抜き、そして笑顔で冬子に会いたい。そのために復讐を捨てる道を裕二は選んだ。
「天国で会えた時、冬子はなんて言うかな…」
「きっと喜んでくれるわ。だって貴方は、復讐を捨てる事の出来る強い人だもの。必ず冬子さんと再会出来るわ。」
晴れ渡る空の下、爽やかな風が2人の頬を撫でた。
それはまるで、誰かが2人の言葉に同意をするかのように。
その後の彼ら…
・有森裕二
高校卒業後、短大に進学し造形を学び映像制作会社の美術スタッフに就職。
10年ほど勤めた後に独立し個人事務所を設立。主に映画やドラマの造形に携わり、業界内での評判も上々。
プライベートでは冬子の両親と交流を持ち、実の息子のように可愛がられる。
そして彼らの紹介で妻となる女性と出会い結婚。子供を2人授かり慌しくも充実した日々を過ごしている。
20年後も毎年冬子の命日には欠かさずお参りをしている。
・早乙女涼子
退学後、保護司の勧めで老人施設でのボランティアを始め、その縁で介護士の資格を取得し施設に就職。
30歳になる頃に職場の男性と結婚、数年後に子供を授かる。
冬子の命日には毎年お参りに来ていたが、10周忌の際に冬子の両親から「君たちの謝罪の気持ちは十分に伝わった」と言われ和解する。
それでも毎年、命日には欠かさず墓参りに訪れており裕二とも和解している。
・桐生春美
退学後、一時自宅に引き篭もっていたが翌年から予備校に通い始め高校卒業検定を受け合格、短大に進学した。その後、一般企業に事務職として就職する。
冬子の命日には毎年墓参りをしていたが、10周忌に冬子の両親と和解して以降、墓参りには現れなくなった。
・日高織絵
退学後、精神に不調を抱えるように成り、うつ病と診断され一時期精神病院に入院した。
退院後も精神科へ通院し、社会復帰には数年を要した。
社会復帰後は派遣社員として働いているが、現在でもうつ病は完治しておらず、定期的な通院と精神安定剤の服用が必須である。
早乙女と同じく、冬子の両親の赦しを得た後も命日の墓参りを欠かしていない。
・緒方夏江
第3者委員会の調査の結果、指導者としての過失は無かったと認められたが、自身が顧問を務めていた部活内での自殺事件の責任を取り年度末で辞職する。
その後故郷に帰り、児童カウンセラーの勉強を始め資格を取得。
学校内の人間関係に悩む生徒に寄り添い、冬子のような悲劇を二度と出さないと決意を胸に現場に復帰する。
また、不動高校演劇部のOBOGを中心としたアマチュアの劇団の設立にも尽力する。あの悲劇で学校を去る事になった3人にも、いつか自分の劇団の舞台に上がって欲しいと願っている。