殺人鬼達に救われる道はあるのか?   作:コミカド

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オリエンタル号沈没事故
なぜ竜王丸は沈没したのか?


 鹿島洋子にとって海は想い出の場所であり、嫌いな場所だ。

 

 洋子の父親は1年の大半を海の上で過ごす船乗りである。

 一度海に出ると戻ってくるのは数ヵ月後というのもざらだ。

 

 洋子の母は洋子が産まれて間も無く亡くなっており、父は航海の度に幼い娘を親戚や近所の住民に預けていた。

 そんな時、洋子は港に向かおうとする父を引き留めようと泣いて縋り付くのが常だった。

 すると父は困った様子で「すまない洋子。でも、必ず帰ってくるから。」といって宥めてくれた。

 

 洋子は大好きな父を連れていく海が嫌いだった。

  

 それを知ってか知らずか、父は休みの度に娘を海に連れていった。

 父は根っからの海の男。彼は娘を船に乗せ、海の素晴らしさ、航海の楽しさを娘に知って欲しかったのかもしれない。

 

 そうして不承不承のまま海に連れ出された洋子だったが、父の同僚である船員達からは可愛がられ、いつしか船のマスコットのような扱いを受けるようになる。

 その頃には船の面白さや航海の楽しさを理解できるようになり、洋子は以前ほど海は嫌いではなくなっていた。

 この頃の記憶は、間違いなく洋子にとって大切な想い出である。

 

 

 しかし、思春期になると円満であった洋子と父の関係に溝が出来てしまう。

 父からのちょっとした指摘に反感を覚えるようになった洋子は、徐々に父と距離を取るようになった。

 

 そして数か月前、洋子は些細な事で父と言い争いになった。

 言葉の応酬の末に家を飛び出した洋子は、そのまま友人の家に転がり込んだ。

 それは、父が船長を務めるタンカーが出航する数日前の事である。

 

 父は何度か洋子の元を訪れ家に帰る様に諭したが、洋子は父と会おうとすらしなかった。

 結局顔を合わせる事をせず、洋子との蟠りを解かないまま父は航海に出てしまう。

 

 そのまま洋子は3か月以上もの間、家に帰る事は無かった。

 そうしている内に父の帰国予定日が近づき、洋子は陰鬱な気分を抱え始めていた。

 そんな時である。

 

 夜のニュースで速報が流れた。

 太平洋近海を航行していた超大型客船『オリエンタル号』が、父の乗るタンカー船『竜王丸号』と衝突し、沈没したという。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 沈没事故から数か月後、洋子はとある海岸にいた。

 そこは事故現場となった海域からも近く、事故後には犠牲者の遺体や船の残骸が流れ着き、警察などによる回収作業が行われた場所である。

 

 最終的に、あの事故における両船の犠牲者、行方不明者は100人を超える大惨事となった。

 龍王丸に至っては生還者は僅か1名。

 洋子の父は遺体すら見つかっていない。

 

 そしてさらに、洋子を打ちのめす事実が判明する。

 なんと生還した竜王丸の乗組員により、船長が事故当日に深酒をしていたことが証言されたのだ。

 それによって事故原因は竜王丸側にあったとされ、洋子の父は世間から激しいバッシングを受けるに至る。

 その批判は洋子の実家にまで及び、酷い嫌がらせにより洋子は慣れ親しんだ家に帰れず今に至る。

 事故から1月後になんとか母方の親戚と対面した洋子に、親戚の叔母さんは言い辛そうに告げた。

 

「これからは、お母さんの姓を名乗りましょう。」

 

 その言葉に一瞬混乱する洋子であったが、すぐに無理も無いと納得する。

 今や父の名は日本全国に「深酒をして多くの犠牲者を出した最悪の船乗り」として知られている。

 日本中から父に対する怨嗟と非難の声が送られ、それによって洋子の生活も脅かされている。

 こうなった以上、洋子が再び日常を取り戻すためには父との関係を一切断ち切るしかない。

 洋子が生きて行くには、それしか道は無かった。

 

 だから洋子は黙って頷く事しか出来なかった。胸中にどんな絶望を抱えていようと。

 

 

 

 

 この日、洋子が海岸を訪れたのは、ここから見える水平線の先が事故現場があるからだ。

 親戚の家に行く前に、「鹿島洋子」から「香取洋子」に名が変わる前に、どうしても父との繋がりを感じておきたかった。

 心の奥には、家出した日に心配して迎えに来てくれた父を無碍にした罪悪感が重くのし掛かっていた。

 

 そうして海を眺めていた洋子の視界の端に、奇妙な人影がいることに気がついた。

 人影はジャージ姿に軍手を着けた若い女性のようだ。

 片手にビニール袋を持ち、足場の悪い海岸線で顔を下に向けながら、へっぴり腰で何かを探している様子である。

 

 何だろあの人?大丈夫かな?

 

 なんて事を洋子が思っていると、大きめの波が迫って来るのが見えた。

 咄嗟に洋子は叫ぶ。

 

「危ないっ!!」

 

「へ?キャアアアッ!?」

 

 洋子の警告も虚しく、波は白い飛沫を上げて女性の体を飲み込み、潮が引いたあとには人の姿は消えていた。

 

「まずいッ!!」

 

 事態を把握した洋子はすぐに海岸へと駆けて行くと女性の姿を探した。

 

「大丈夫ですかっ!?いたら返事をして下さい!!」

 

「うぅ、だ、大丈夫ぅ。私はここだよぉ。」

 

 返事はすぐに返ってきた。

 声のした方を見れば磯辺の窪みに尻餅を着いたびしょ濡れの女性がいた。

 ホッとした洋子は手を差し伸べると女性が立ち上がらせた。

 

「怪我が無さそうで良かったです。でも気を付けて下さい。波に浚われてたら命の危険もあったんですよ。」

 

「本当にごめんなさい。捜し物に夢中になっちゃってて。くしゅん!」

 

 女性はくしゃみをすると体を震わせた。

 冬場では無いとはいえ、まだまだ海に入るには冷たすぎる時期である。

 このままにしておけば低体温症になる恐れがあった。

 

「あの、着替えとか持ってます?」

 

「この格好で来たの。」

 

 女性はガチガチと歯を鳴らしながら答えた。

 

 近くの店までは少し距離がある。

 交番を頼るのは、今の洋子には少々躊躇があった。

 かといって、このまま女性を放置するのも良心が咎める。

 迷った末に洋子は意を決した。

 

「うち、ここから近いんですけど、服乾かしていきます?」

 

「良いの?」

 

 震える声で聞き返す女性に洋子は頷く。

 

「流石に見捨てられませんよ。このままじゃ肺炎になっちゃいますよ。」

 

「本当にありがとう。お願いするわ。」

 

 洋子は女性を連れて実家に向かった。

 自分の上着を女性の肩に掛けると、女性は感謝しきりだった。

 

 そうして暫く並んで歩くと、洋子の実家が見えてくる。

 数ヵ月前には嫌がらせの落書きが書き連ねられていた玄関も今は綺麗になり、新たな落書きも目立たない。

 

 それに安心した洋子が玄関に手を掛けようとした時、突然横から男が現れ洋子に向けてフラッシュを焚く。

 

「ようやく帰ってきた。どうも、週刊MONDAY です。お父さんについて話を聞きたいんだけど良いかな?」

 

 現れたのは30代くらいの軽薄そうな記者である。

 話を聞きたいと言いながら了承も取らずに写真をとる記者に、洋子は顔を強張らせる。

 

「すいません。今はちょっと…」

 

「なぁ、少し話を聞くだけだからさぁ。君だって申し訳無く思ってるでしょう?お父さんがあんな事起こしたんだしさぁ。」

 

「ごめんなさい、本当に今は…」

 

「それともまさか、自分は関係無いとか思ってるの?そうだとしたら遺族の事を考えてご覧よ。彼等は今も苦しんでるんだよ。」

 

「それは…本当に申し訳無く…」

 

「だったら謝罪の言葉くらい言った方が良いんじゃないか。君のお父さんのせいで、沢山の人が死んだんだから。」

 

 容赦ない記者の言葉に洋子は息苦しさを覚え、瞳には涙が浮かぶ。

 それでも涙が溢れないように耐えていると、潮の薫りを漂わせた髪の毛が横を通る。

 

「何だアンタは?」

 

「貴方こそ、いったい誰なんですか?」

 

 怪訝にする記者に臆せず、女性は洋子の前に立つ。

 まるで洋子を守るかのような女性の対応に記者は眉をひそめた。

 

「誰って、さっき言っただろ。週刊MONDAY の記者だって。」

 

「本当に?有名な週刊誌の名前を騙って無理矢理取材をする輩もいると聞きます。ちゃんと身分が保証できる物が無いと信用できませんね。」

 

 女性の物言いにムッとする記者であったが、大きく息を吐くとヤレヤレといった様子で懐から名刺を取り出し女性と洋子に見せた。

 

「ほら。『週刊MONDAY カメラマン 葉狩京士郎』。ちゃんと書いてあるだろう。もしこれでも疑うようなら名刺に書いてある電話番号に連絡してくれ。会社に繋がるから。」

 

「いえ、大丈夫です。どうやら本物のようなので安心しました。」

 

「ご理解頂けてどうも。それじゃ、オレは彼女に用があるから良いかな?」

 

「その前に、鹿島洋子さん。貴方は此方の葉狩さんの取材を今日この場で受ける気はある?」

 

「えっ!?いや、出来れば今は…」

 

「そう。という事なので葉狩さん、本日はお引き取り下さい。後日取材を受ける気になったら鹿島さんから連絡が有ると思うので。」

 

「ちょちょちょ!ちょっと待てよ!なに勝手に話を進めてるんだ!オレは彼女と話してるんだ!」

 

「と言いましても、鹿島さんはハッキリと本日の取材を拒否しましたよ。でしたら日を改めて取材を申し出るというのが筋なのでは?」

 

 当たり前では、とでも言う女性の態度に葉狩はイライラとした様子で青筋を立てる。

 

 一方で洋子は、顔色を変えることなく葉狩を翻弄する女性を見入ってしまい、さっきまで感じていた胸の苦しさを忘れていた。

 

「あのなぁ、オレもそう簡単にハイそうですかで引き下がれないんだよ!」

 

「つまり、ここを動かないと?」

 

「ああ、そうだよ。せめて一言くらいコメントを貰えないとな。」

 

 無論コメント一つで帰るわけが無い。

 そこから更に突っ込んだ質問をし、可能なら世間を騒がせる発言を聞き出そうと葉狩は考えていた。

 

「なるほど。そういう事なら仕方ありませんね。」

 

「ようやく分かってくれたか?そんじゃ、今度こそ…」

 

「鹿島さん、110番をして下さい。悪質なストーカーがここにいます。」

 

 その一言に葉狩は呆気に取られた。

 洋子も同じくポカンとし、女性の言う通り動けなかった。

 その間に葉狩はハッと気を取り直し女性に食って掛かる。

 

「おいっ、てめぇ!いくら何でもいきなり人をストーカー呼ばわりするのは無いだろ!オレはコイツの事なんてなんとも…」

 

「ストーカー規制法におけるストーカーの定義の一つに、特定の個人が居住する場所に押し掛けたり、対象者の意思を無視して接触しようとする『付きまとい行為』が挙げられるわ。そこに恋愛感情等の有無は関係しないの。」

 

「で、でもオレは取材をしようとしただけで…」

 

「貴方が何をしようとしていたか、その目的も関係無い。法律上貴方の行為はストーカー呼ばわりされても仕方がない事で、警察に連絡すれば注意をされるだろうし、会社に抗議する、或いは貴方の所とは別の出版社に『週刊MONDAY の記者に取材と称した悪質なストーカー行為をされました』って情報提供だって出来るのよ。」

 

「…アンタ、いったい何者なんだ?」

 

 葉狩はここに至り、ずぶ濡れのジャージ女が只者では無いことを察した。

 洋子も心境的には葉狩と同じであり、食い入るように女性の顔を伺っていた。

 

 すると女性はポケットをまさぐり、濡れてグシャグシャになった名刺を差し出しながら言った。

 

「申し遅れました。古舘法律事務所弁護士、野々宮珠樹です。信じられないようでしたら名刺に書いてある電話番号まで連絡をどうぞ。事務所に繋がるから。」

 

「弁護士…アンタがか…」

 

 まさか磯臭いジャージ女が弁護士とは思わなかったのか、葉狩は驚きながらも疑いの眼差しを珠樹に向ける。

 

「弁護士がどうして鹿島の娘と…ていうかその恰好は?」

 

「詳しい事情についてはまた後日って事で。鹿島さんに関しては私が誤って海に落ちたところを偶然助けて貰ったってだけよ。」

 

 珠樹の説明を受けてもなお葉狩は納得出来かねる様子で質問を重ねようとするが、それよりも早く珠樹は口を開く。

 

「先程も申したように、これ以上鹿島さんに付きまとい彼女の日常生活に支障をきたした場合、私はこれを見過ごす事が出来ないから警察に通報するし会社に対して抗議を行うわ。それと、さっき鹿島さんの了承を得ずに写真を撮ってたけど、肖像権の侵害ならびにプライバシー権の侵害に抵触する内容よ。あと、いま貴方が立っている場所は鹿島さん宅の敷地内。住居侵入罪で訴えられても仕方がない事をしてるって分かってる?」

 

 珠樹の指摘に葉狩はハッとすると、慌てて後退りし鹿島宅の敷地外へと出ていく。

 それでも諦めきれないのか、珠樹に向かって恨めしげな視線を送っていた。

 

 すると珠樹はフッと肩の力を抜くと、葉狩に向かって微笑み掛けた。

 

「………ねえ、葉狩さん。貴方は報道の自由についてどう考えてます?」

 

「はあ?何だよいきなり…」

 

「私個人の考えだけど、民主主義かつ法治国家の日本にとって、報道の自由は最大限尊重されるべきだと思うの。それは国民一人一人に自らの考えで行動する自由が認められているからで、メディアが報じる内容が国民の考えに直接影響を与えるから。つまり、大多数の国民がメディアを信頼してるという事。メディアには人の心を動かし、社会を変えていく力があるの。」

 

「………」

 

「当然メディアには信頼に応える義務があるわ。じゃあ今回の事故でメディアが果たすべき義務とは何か?その一つは貴方自身が言った、犠牲者の無念を伝える事に他ならないわ。理不尽に家族を奪われた遺族の苦悩と喪失感、それを読者に伝え、支援の輪を拡げ、事故原因の解明と必要な処置を求める機運を高める。それが貴方達マスコミが果たすべき義務よ。だけど葉狩さん、忘れないで。」

 

 珠樹は葉狩の目を真っ直ぐに見つめて伝える。

 

「鹿島洋子さんもまた、唯一の肉親を突然失い苦しんでいる遺族。彼女の苦しみが貴方には見えない?」

 

 葉狩は言葉を詰まらせ視線を逸らす。

 その一瞬、彼の視線は確かに洋子の方を向いた。

 

「……日を改める。」

 

 それだけ言うと、葉狩はカメラを鞄に入れて背を向ける。

 しかし最後もう一度だけ思い詰めた表情で洋子を見ると、小さく何かを呟いたように見えたが洋子にはその内容を聞き取る事は出来なかった。

 

「…ふぅ。比較的ものわかりの良い報道関係者で良かったわ。」

 

「………野々宮、さんでしたっけ。本当に弁護士なんですか?」

 

「…ごめんなさい。隠してるつもりはなかったの。鹿島さんの素性も、ここに来るまで本当に知らなかったわ。」

 

「………あの、どうして海岸にいたのか、詳しく説明して貰っても良いですか?」

 

「それは勿論。だけど、その前に……ハックションッッッ!!!」

 

 盛大にくしゃみをすると、極太の鼻水が氷柱のように珠樹の鼻から垂れ下がった。

 

「わるいけどさきにあったまらせて…しんじゃう……」

 

 洋子は慌てて玄関を開けると、ガタガタと震える珠樹を風呂場へと案内した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 シャワーで体を温めた後、洋子は自分の服を珠樹に着せ炬燵で暖を取らせた。

 そして2人前のホットミルクを用意すると、片方を珠樹に差し出した。

 

「どうぞ。熱いんで気を付けて飲んで下さい。」

 

「ありがとう。ア゛ア゛ァ、生き返るわぁ。」

 

 体の奥から熱が広がる感覚に珠樹は喜びの笑みを浮かべる。

 洋子は隣でチビチビとミルクを飲みつつ珠樹の様子を伺うが、彼女がイメージする弁護士と今の珠樹の姿にはだいぶ乖離があった。

 

「ふぅ。いやぁ、何から何まで本当にありがとうね、鹿島さん。この服、ちゃんと洗って返すわ。」

 

「それは別に良いんですけど。それよりも、さっきの話。野々宮さんは本当に弁護士なんですよね?海岸で何をしてたんですか?」

 

「…うん。そうね。一応守秘義務が関わってくる話なんだけど、鹿島さんには話しておくべきね。」

 

 珠樹はマグカップを炬燵に置くと、洋子の方に向き直った。

 

「改めて自己紹介するわ。私は古舘法律事務所の弁護士、野々宮珠樹。私が所属する事務所は、現在オリエンタル号沈没事故の賠償訴訟で被告側の担当をしているの。」

 

「それってつまり、お父さんの会社の弁護をしてるって事ですか?」

 

「ええ。原告である事故遺族会は竜王丸の船長が飲酒した事が事故原因になったという証言を信じ、竜王丸を管理している会社に対し賠償請求をしているわ。その金額は、会社の資産や社長の財産を全て売り払ったとしても半分にも満たないわ。」

 

 あまりの金額に洋子は絶句するが、それも仕方ないと思い直す。

 100人以上もの人間が、1人の人間の身勝手な行動によって命を奪われたとなれば残された者たちの怒りも当然だろう。

 もし自分が彼らと同じ立場なら、きっと許す事など出来ない。

 

 それが分かるからこそ、洋子は罪悪感によって息苦しさを感じていた。

 

「…大丈夫、鹿島さん?」

 

「……はい、大丈夫です。あの、野々宮さん。私、どうやって謝ったらいいと思います?」

 

 目の端の涙を拭うと、洋子は鼻を啜る。

 

「父が、やってしまった事は許されない事です。私に何が出来るか分かりませんけど、せめて、謝罪だけでも…」

 

「鹿島さん、落ち着いて。あなたは何も悪くない。」

 

「でも、父のせいでたくさんの人が死んじゃいました。会社にも凄い、迷惑を掛けて。本当に、どうすればいいのか…」

 

「鹿島さん!」

 

 珠樹は洋子の側に寄ると、震える手を優しく包み込んだ。

 

「大丈夫。誰も貴女を責めたりしないわ。それにね、貴女のお父さんが事故の原因だって証拠はどこも無いんだから。」

 

「でもっ!父が酒に酔っているのを見たって人がいるって!」

 

「そう。竜王丸の唯一の生存者が、船長はかなり酒に酔っていて十分な指示を出せていなかった、と証言しているわ。だけどね、こういう証言もあるの。」

 

 

 

 

 

 

「鹿島船長が酒を飲んで船を操舵するなんてあり得ない、ってね。」

 

 確信を抱いているような優しくも力強い言葉に洋子は言葉を失ってしまう。

 だがその心の内には、事故以来寒風が吹き抜けるように冷えきっていた部分に僅かな暖かさが灯った。

 

「鹿島船長の事を知る人は皆言ってたわ。あれほど仕事熱心な人はいない。停泊中に飲酒が許可された時間でさえ、何かあった時の為にシラフだったって。海の上で鹿島船長が飲酒をしているのを見たって言うのは1人だけよ。」

 

 確かに洋子の父は海での仕事を楽しんでいたが、職務に関しては真面目一筋であった。

 お酒に関しても、家で嗜む事はあったが前後不覚になるほどベロベロになるのを見た事は無い。

 

「じゃあどうして、事故があった日に父は酔ってたんですか?」

 

「それはまだ分からない。もしかしたら、何か酔わなければならない事情があったか、或いは証言そのものに間違い、又は虚言があるのかもしれないわ。」

 

「父が酒を飲んだって嘘を吐いたってことですか!?どうしてそんな…」

 

「それはまだ分からないわ。だけど次の公判で件の船員が証言をする事になってるの。そこで貴方のお父さんの過失について話すと思うのだけど、その証言を崩す証拠が海岸に漂着しているかもしれない。そう思って、あそこで漂着物を探してたわけ。」

 

 そう言って珠樹はビニール袋を掲げる。

 どうやらその中には海岸で拾った漂着物が入っているらしい。

 

 もしかしたら、父の無罪を示す証拠もそこにあるかもしれない。

 

 そう思うと、洋子は知らず知らずのうちに唾を飲み込んでいた。

 

「それ、私も確認させてもらっても良いですか?」

 

「この袋の中身を?それはまあ構わないけど、ガラス瓶も入っているから念のため軍手を着けてね。」

 

「分かりました。」

 

 洋子は飛び上がるように立つと大急ぎで用具箱のある部屋へと向かい、軍手を探し出すとそれを着けて居間に戻る。

 ついでに古新聞も用意すると、炬燵の台の上にそれを広げた。

 

「どうぞ、ここに出してください。」

 

「ああ、分かったわ。」

 

 洋子の勢いに気圧されながらも、珠樹は海岸で拾ったものを一つ一つ丁寧に並べていく。

 

 酒類のガラス瓶、革靴、破損した救命胴衣、船体の一部と思われる鉄板。

 事故から既に数か月が経ったが、海流に流され漂着した物は殊の外多い。

 洋子はそれらをつぶさに観察していたが、その内の一つに視線が固まる。

 

「これって…」

 

「ん?この鞄がどうかした?」

 

 それは年季の入った革張りの鞄である。

 長い間海水に浸かっていたせいで腐食が激しいが、洋子には見覚えがあった。

 

「それ、父が仕事に使ってる鞄です。」

 

「ほ、本当なの!?」

 

「はい!チャックに着いてるビーズのアクセサリー、あれ私が父に昔あげたんです!」

 

 小学生の時の父の日のプレゼントに渡したそれを指し、洋子は興奮気味に話す。

 

 まさかこんなにも早く重要な証拠品が見つかると思っていなかった珠樹も平静さを失いかけていたが、大きく深呼吸して心を落ち着かせる。

 

「…鹿島さん、中身確認させてもらって良い?」

 

 珠樹の申し出に洋子は黙って頷く。

 

 珠樹は緊張した様子で鞄のホックを外し、中身を取り出す。

 中からは壊れた携帯、色落ちした筆記用具などに交じり、厳重に封のされたビニール製の真空パックのような物が出て来た。

 

「これって…」

 

「あっ、それたぶん、緊急パックだと思います。万が一のことが起きた時に水に濡れたら不味い物なんかをそれに入れて持ち出すんです。前に一度、父が教えてくれました。」

 

 洋子の説明を聞き、珠樹は緊急パックの封を解く。

 中には使い込まれた大学ノートがあった。

 

「航海日誌だわ。」

 

 それは、警察や海上保安庁の捜索では発見されなかった竜王丸側の航海日誌である。

 珠樹が慎重にそれを開くと、中にはその日あった航海中の出来事の他に、鹿島船長の個人的な心境の吐露も含まれている。

 どうやら船に定められている公式な航海日誌ではなく、鹿島船長の個人的な日誌らしい。

 

「………ねえ、鹿島さん。」

 

「大丈夫です。野々宮さんも、いっしょに読んでください。」

 

 日誌の中には、珠樹が思わず読むのを躊躇するような家庭の悩みについても書かれていた。

 思春期を迎え、ぎこちなくなった娘との関係に鹿島船長は悩んでいた。

 航海が進むにつれ、娘を思う心情が強くなっていくのが分かる。

 そして遂には、今回の航海を終えたら会社に頼んで地上勤務に配置換えして貰い、娘と接する時間を増やそうと決心した事が書かれていた。

 

「………お父さん!」

 

 洋子から涙ぐんだ呟きが漏れる。

 ハンカチを手渡しつつ珠樹が読み進めていくと、事故のあった日の記述に到達する。

 

 そこには、前方に大型の客船を確認した事

 航海法に則り右方向に回避行動を行った事

 前方の船が回避行動を行わず直進してきた事

 警笛を鳴らし無線にて回避を促したにも関わらず一向に反応が無い事

 最早衝突は避けられぬと船員に退避指示を出した事

 衝突の衝撃によりタンカーに積まれていた原油に引火し、船が炎に飲まれた事

 脱出は不可能になってしまった事

 

 それらが生々しく、焦燥感を感じさせる筆跡で書かれていた。

 最後のページには、かすれた文字で次のように書いてある。

 

『洋子よ すまない』

 

 全てを読み終えた2人の間に会話はない。

 日誌に記された内容に打ちのめされ、言葉を失っていた。

 

「父は、精一杯衝突を避けようとしてました…」

 

「………ええ。そうね。」

 

「酒に酔ってなんていない、何も悪いことはしてなかった!」

 

「ええ。間違いないわ。」

 

「じゃあ何で父が責められてるの!?最後まで、頑張った父が極悪人にされて。どうしてっ!?」

 

 混乱と怒りが爆発し、洋子は声を荒げる。

 もしこの日誌に書かれている内容が本当なら、世間は重大な事実誤認をしていることになる。

 その誤認によって父の名誉が散々に汚されている現実が、何よりも許せなかった。

 

「…鹿島さん、貴方の気持ちは良く分かるわ。私だって、このままにしとく訳にはいかない。」

 

 珠樹もまた同じ気持ちだった。

 何の罪も無い人間が濡れ衣を着せられ、蔑まれ、恨まれる。

 そのような事は断じて有ってはならない。

 

 たとえ鹿島船長が既に亡くなっていたとしても、その名誉が冤罪によって傷つけられているのなら、それを払わねばならない。

 それが弁護士の矜持である。

 

「鹿島さん、お願いがあります。この日誌を私に預けて下さい。必ず貴方のお父さんの無実を証明しますから!」

 

「…お願いします。お父さんを、お父さんの無念を晴らして!」

 

 その返事を聞き、珠樹はヘアゴムで髪を後ろで纏める。

 

「その依頼、お受けします。絶対に無罪を勝ち取ります!」 

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