殺人鬼達に救われる道はあるのか? 作:コミカド
比留田親子との面談から数日後、恭一郎は自身の母校であり比留田沙良の通う秀央高校を訪ねていた。
アポイントメントをとっての訪問だったからか、学生時代の元担任が恭一郎を迎え入れる。
「いやぁ、あの古舘が今や弁護士かぁ。本当に立派になったなぁ。」
「いえ、僕なんかまだまだですよ。周囲の人たちに助けてもらってばっかりです。」
「そういう風に言えるのは、君が大人になった証拠だよ。」
教え子の成長を喜び元担任は恭一郎を褒める。
それに対し恭一郎は気恥ずかしそうに笑った。
「それにしても、今日はいったいどうしたんだ?昔話をしに来た訳じゃ無いだろ?」
「…ええ。実は先日、此方に通われている比留田沙良さんという方から法律相談を受けまして。」
「…なるほど、比留田か。それは彼女の父親に関してか?」
「はい。少し気になる事があったので、事件後の彼女の様子を知りたくなったんです。」
恭一郎の申し出に元担任は難しい顔で腕を組む。
暫くして腕組みを解くと深々と息を吐いた。
「まずこれだけは言っておこう。我々教師陣は事件について報道された以上の事は知らん。その上で、比留田に対しては可能な限りの見守りを行い、必要に応じてメンタルケアをしていく事で一致した。今のところ、彼女やその人間関係に大きく変化した点は見受けられない。」
「比留田さんは事件後に、バドミントン部から電子技術研究部に転部したと聞いたんですが?」
「なんだそんな事まで知ってたのか。ああ、つい最近の事だ。比留田は中学の頃から実績があって、去年の秋からは団体戦のメンバーにも選ばれていたから顧問も引き留めていたんだがなぁ。本人の意志が固くてな。」
「転部の理由については何と?」
「将来的に就職に有利な理工学的な知識を身に付けたいと言ってたそうだ。父親が死んで、家計的な事情を考えていたのかもしれん。教師としては子供にあまりそういった事を気にして欲しくは無いが、こればっかりはな。」
そう語る元担任の顔には僅かに無念そうな色が見える。
何とも言えぬ空気の中、恭一郎は質問を続けた。
「では、事件があってから比留田さんには大きな変化は無かったという事ですね。欠席や早退なんかも。」
「うん。流石に葬儀から数日は休んでいたが……ああ、いや。ここ最近も1日休んだ日があったな。」
「それはどういった理由で。」
「裁判を傍聴に行くと。」
「裁判?それってもしかして…」
「父親を殺した犯人の判決を聴くためだ。次の日からはいつも通り登校して来たよ。」
判決の日に沙良が学校を休んだと知り、恭一郎は少しの間考え込んだ。
「……先生、比留田さんが転部したのは具体的にいつ頃でしたか?」
「ええと、2週間前くらい前…そうだ、裁判の傍聴で欠席した次の日だったよ!」
元担任の答えに恭一郎は僅かに目を見開いた。
つまり沙良は、裁判の結果を知ってから部活動を変えていたのだ。
「…すいません先生。少しだけで良いので電子技術研究部の活動場所を見せて頂けませんか?」
「えっ?ああ、まあ他ならぬお前の頼みなら構わないが…」
元担任は恭一郎の願いに戸惑いながらも、快く頼みを受け入れてくれた。
電子技術研究部は部室棟の1階に存在している。
部の創設自体ここ最近の事らしく、活動場所である部室は真新しい機材が多く並んでいた。
「あんまり勝手に触ってくれるなよ。下手な新車よりも高価な機材が揃っているからな。」
「わ、わかりました。」
元担任の注意を受け、恭一郎はややおっかなびっくりに部室内を歩いて行く。
そうして機材や部の活動成果などを見て回っていた恭一郎だったが、とある機材の前で足を止めた。
「これってもしかして…」
「ああ、こいつは電子技術研究部の目玉の一つだな。部活動紹介の時にもデモンストレーションをしたんだ。」
元担任は自慢げに説明するが、恭一郎は話半分にそれを聞き流してしまっていた。
彼の中で、最悪な予想が組み上がりつつあった。
その日の夜、終業時間になり1日の業務を終えた恭一郎であったが、帰宅せずに自身のデスクで思い詰めた様子で考えに耽っていた。
フロアにはもう人はほとんどいない。
日は完全に沈み大都会の夜景が窓の外に広がるが、恭一郎にその美しさを楽しむ余裕は無かった。
「どうしたの?暗い顔しちゃって。」
「…珠樹先生。」
恭一郎の様子に見かねたのか、缶コーヒーとマグカップを手にした珠樹が明るい声で話しかける。
顔を上げた恭一郎に珠樹は缶コーヒーを手渡した。
「最近ずっと煮詰まってるわね。特に今日なんて。高校に行ったんでしょ?どうだった?」
「いや、まあ。俺が通っていた頃よりも少し変わってましたね。卒業して6年も経てばそういうもんなんでしょうけど。」
「ふーん。私もつい最近開桜に行ったけど、やっぱり現役のころと比べると大分様変わりしたわね。それでも、知ってる先生がいたから懐かしさは感じたけどね。」
そう言って珠樹は手に持ったマグカップを啜り、満足そうに頷く。
「うん。最初は失敗かと思ったけど、飲んでると結構癖になるわね、これ。」
「……あの、珠樹先生。」
「ん?なに?」
「珠樹先生は依頼人を疑った事なんてありますか?」
「はぁ?そんなの決まってるじゃない。」
珠樹はもう一口コーヒーを啜る。
「しょっちゅうよ。依頼人は嘘を吐く、くらいの気構えでいるわ。」
「そ、そんなにですか!?」
「うん。本当に色々あったわ。飲酒轢き逃げをしたサラリーマン、ひったくりで相手に大怪我を負わせた高校生、そして泥酔した後輩に性的暴行を加えたと訴えられた大学生。みんな自分の都合の良いように話すから、弁護するこっちの気が参っちゃうわ。」
「………」
「けどね、冷静に考えると無理も無いなって思うわ。だって彼らにしてみれば、これから始まる裁判に自分の人生が掛かってるんだもん。被害者がどういう状況なのか気にする余裕なんて無いわ。自分よりも他人を優先できる人間なんて、そう多くないのよ。」
「…だったら、どうすれば?」
「信じる。それしか無いわ。」
珠樹は即答する。
「矛盾してるみたいでしょ?依頼人の事を疑うと言いながら、それでも信じるなんて。だけど実際そうなのよ。どんな重罪を犯した加害者でも、最初は自分の事で一杯一杯だったとしても、時間が経つと見えてくるの。自分の仕出かした事の重みや、被害者の苦しみが。」
裁判とは、そうした現実を加害者に知らしめる場所でもある。
そう珠樹は語る。
「…だから信じるんですか?加害者がいつか自分の罪を後悔し、本当の事を言ってくれると。」
「逆に聞くわ。弁護士が信じなくてどうするの?」
真っ直ぐに、迷いの無い瞳が恭一郎を射貫く。
恭一郎はその視線を正面から受け止めると、吹っ切れたように缶コーヒーを開け一気飲みする。
「ありがとう御座います、珠樹先生!やるべき事が分かりました。」
「みたいね。手伝いはいる?」
「いえ、自分のケツは自分で拭きます。」
恭一郎の決意は固まった。
『テレビクルー連続殺人事件』はまだ終わっていない。
被害者はまだ、地獄の底で苦しんでいる。だから…
「あの娘は、比留田沙良さんは俺の依頼人です。俺は彼女を信じます。」
その日、比留田沙良は学校を終えると古舘法律事務所を訪れていた。
先日損害賠償請求を依頼した弁護士に、母親がいない場所で個別に話したい事がある、と連絡があったからだ。
母親にはこの事を伝えていない。
郷は部活で遅くなると言えば、それ以上追求してくることは無かった。
前の訪問から約1週間。
沙良は前回と同じ部屋に再び通された。
そこにはこれまた前回と同じく、日本人離れした体格と見た目をした弁護士が待っていた。
「こんにちは、比留田さん。あれから何か変わった事はあったかい?」
「…いいえ、別に。なにもありませんよ。」
少し撥ね付けるように沙良は返答するが、恭一郎がそれを気にした様子はない。
「それで、いったい今日は何の用です?年を誤魔化して依頼をしようとした事については、もう終わった話だと思ってるんですけど。」
「ああ、それについては終わった話だ。今更どうこう言うつもりは無いよ。今日はね、君がどうして損害賠償請求をしようとしたのか。それについて確かめたいんだ。」
「………どういう事です?」
恭一郎の言葉に沙良は訝しむ様子を見せる。
しかし、その内心では心臓が跳ね上がるのを感じていた。
「…この前の相談の時、帰り際に君は民事訴訟で加害者が裁判に出廷するかを気にしてましたよね?それに民事訴訟に時効があるのかも気にしてた。それで思ったんだ。君の本当の目的は綾辻真理奈を訴える事じゃない。君の真の目的は、綾辻真理奈を証言台に立たせる事。時効を気にしてたのは、もしお母さんが賠償請求を起こさなくても、自分が賠償請求を出来る年齢になるまでに時効にならないかを知りたかったからじゃないか?」
「…だとしたら何ですか?別におかしな事じゃないでしょ。」
「…ああ、まったくおかしくない。当たり前すぎて失念していた。」
哀しみを帯びた恭一郎の蒼い瞳が沙良を見る。
「殺人事件の被害者遺族が、犯人に対して殺意を抱くなんてな。」
恭一郎の言葉に、沙良の顔が醜く歪む。
それを見た恭一郎は、自身の推測が当たっていたことを確信した。
「………殺意、ですか。確かにそうですね。わたしはあの女の事が殺してやりたいくらい憎いです。でも、人を殺したいと思う事は犯罪ですか?違いますよね?」
「ああ。殺意を抱く事自体なんの罪でもない。それを実行に移そうとしない限りは。」
「じゃあ、わたしがどう思おうが勝手じゃ無いですか!」
「…そうだね。だけど君は、綾辻真理奈を殺害する計画を練っているんじゃないか?」
その指摘に沙良の表情が固まった。
その横顔に一筋の汗が流れる。
「…何を、根拠に?」
「電子技術研究部。綾辻真理奈の無期懲役が確定した後、君はそこに転部したね。」
「っ!?」
「君がレギュラーを掴んでいたバドミントン部を辞めてまで電子技術研究部に転部した理由。それは電子技術研究部にある『3Dプリンター』を使用するためじゃないかい?」
恭一郎の推理に沙良は答えない。
ただその目は泳ぎ、明らかに動揺の色が見えた。
「近年、3Dプリンターは広く普及して、学校現場でも導入されるようになってきてる。しかし今から10年ほど前、『3Dプリンター銃製造事件』が起きて世間を大いに騒がせた。」
『3Dプリンター銃製造事件』
それは大学職員であった男が3Dプリンターを使用し、人を殺傷する威力を持つ拳銃を製作、試射する様子を映した動画や設計図をインターネットに上げたとして銃刀法違反で逮捕された事件である。
これは3Dプリンターで製作された銃に銃刀法違反が初めて適用された出来事であり、3Dプリンターの規制が本気で議論されるまでに発展した。
「電子技術研究部は部活動紹介の時に3Dプリンターのデモンストレーションを行っていたらしい。だから君も、電子技術研究部に3Dプリンターが有ることは知っていた。そして君は、3Dプリンターを使って拳銃を作れる事を知っていたんじゃないか?」
「………」
「君の計画はこうだ。君は綾辻真理奈に対する損害賠償請求の民事訴訟を起こす。そして綾辻に証人尋問を求め、裁判に出廷させる。その際、3Dプリンターで作製した銃を裁判所に持ち込み、証言台に立った綾辻を射殺するつもりだった。」
3Dプリンターで作製された銃の特徴の一つに、合成樹脂製により金属探知機に反応しないというのがある。
裁判所には凶器の持ち込みを防ぐために入口に金属探知機が設置されているが、3Dプリンター銃ならこれを免れる事が可能だ。
「………それ全部、古舘先生の想像ですよね?何か証拠はあるんですか?」
「…いや。無いよ。だけどそういう可能性が有る事に気が付いてしまった。だからもし、君が綾辻真理奈に対する民事訴訟を起こしたなら、僕は君が綾辻に危害を加える可能性が有る事を裁判所に報告する。」
「っ!?」
「法曹界は決して広い世界じゃ無い。大量殺人事件の賠償訴訟が起こされたとなれば確実にニュースになる。それに君の学校にも連絡をする。生徒が学校の機材を使って危険なモノを作らないように注意喚起をする。」
あらゆる手段を使い、君の殺人計画を潰す。
そう宣言するに等しい言葉を口にする恭一郎を、沙良はキッと睨み付ける。
しかし恭一郎はその視線を正面から受け止めた。
暫し間、2人だけの空間に重苦しい無言が流れる。
だが程無くして沙良はガクリと肩を落とすと、突っ伏すように額を机に着けた。
「……先生、どうしてあの女は、綾辻は死刑にならなかったんですか?」
絞り出すような、震える声だった。
「4人も殺したんですよ。凄く計画的に。自分が疑われないよう、他人に罪を着せようと…」
顔を伏せた沙良から涙をすする音が聞こえる。
その小さな肩は小刻みに震えていた。
「……綾辻には幼少期の航空機事故によるトラウマがあり、長年不眠症に悩まされていた。それにより正常な判断力が奪われていて、善悪の判別が難しい精神状態にあったんだ。」
「知ってます。お父さんたちが、綾辻の母親を見殺しにしたからですよね。いけない事だと思います。恨まれても仕方がない事だと思います。でも先生も言ったじゃないですか。殺意を抱く事と、それを実行に移すことは違うって。綾辻は、超えちゃいけないラインを超えたんですよ。なのにっ!」
沙良は机を強く叩くと絶叫した。
「アイツは1度だって謝って無いんです!お父さんにもっ!私達にもっ!判決が下された時も、ホッとした様子で『ありがとう御座います』って裁判官に言ったんです!わたし達の事は見向きもしないでっ!それどころかっ!」
沙良は顔を上げると真っ赤に充血した目で恭一郎を見た。
「あいつ、逮捕される時に『あんなゴキブリどもは殺されて当然』って言ってたんですよっ!検察の人が言ってました!」
「っ!?」
恭一郎も思わず絶句してしまう。
遺族の前で直接言ってなかったとしても、どれ程恨みを持っていたとしても、決して口に出してはいけない、死者の尊厳を冒涜する最悪の暴言だ。
「何で殺されなきゃいけないの?何で『ゴキブリ』なんて呼ばれなきゃいけないの?お父さんは殺されなきゃいけない人間なんかじゃない…お父さんは優しくて…バドミントンの試合をいつも応援に来てくれて…いっぱいカメラで撮ってくれて……お父さんは『ゴキブリ』なんかじゃ……う、うわあああぁん!!!」
そう言うと沙良は再び突っ伏し慟哭を上げ涙を流した。
彼女の心は悲鳴を上げていた。
大切な家族を殺され。その死を著しく罵倒され。
その心に何度も、何度も、冷たい刃を突き立てられていた。
どうしてこの子が、これほどまでに傷付けられなければならないのか?
恭一郎はそう思わずにはいられなかった。
「………沙良さん、君の悲しみは痛い程伝わった。だけどそれでも、僕は君が復讐のために生きるような悲しい人にはなって欲しくない。だから、僕にはこんな提案しか出来ない。」
恭一郎は優しく、傷ついた少女に寄り添うように声を掛けた。
「君のその痛みを、相手に伝えてみる気はないかい?」
「それで、彼女に『心情等伝達制度』について教えたのね。」
「ええ。たぶん沙良さんにとって、行き場のない気持ちを言葉にする事こそ、必要だと思ったんです。」
沙良との面談を終えた後、恭一郎は話し合いの結果を珠樹に報告し、沙良に『心情等伝達制度』の活用を勧めた事を話した。
『心情等伝達制度』とは、2023年12月1日に始まったばかりの新制度であり、被害者や遺族が加害者に対して問い掛けやメッセージを伝える事が出来る制度である。
被害者側が制度の利用を申し込むと、刑務官らが被害者や遺族のもとに出向き心情等を聞き取り録取書にまとめる。
被害者や遺族が加害者への伝達を希望すれば、刑務官は加害者に録取書を読んで聞かせる。更に希望すれば、その時の加害者の返答が心情等伝達結果通知書として被害者の遺族に届けられる。
「だけど私は、あまり良手とは思えないわね。」
珠樹は厳しい面持ちで指摘する。
「心情伝達制度は、施行されてからこれまでに100件以上申し込みがあり、加害者の謝罪の意志が伝わり心が救われたという遺族もいる。だけどその一方で、まったく反省していない加害者の心無い言葉で余計に傷つけられた遺族の方も少なくないわ。」
「綾辻真理奈も、そういう人間だと?」
「私は綾辻真理奈について、報道や紙面での姿しか知らないわ。それを見る限り、彼女が被害者達に向ける感情は苛烈としか言いようがない。被害者の娘である沙良さんに対しても、どんな感情を抱くかは予想がつかないわ。」
弁護士としては、人は必ずやり直せると信じなければならない。
だが人の善性を信じるあまり、傷つけられた人間をさらに痛めつけるようでは本末転倒だ。
難しい問題ではあるが、弁護士を続ける以上避けては通れぬ道である。
「……伝達結果通知書は、弁護士の元に送られてきます。その内容を確認し、沙良さんに伝えるべきかどうか検討します。」
「そうね。それが良いでしょうね。」
それ以上は珠樹も言う事が無かった。
窓の外を望むと既に夕暮れ時。
厚い雲の向こうに、真っ赤な太陽が沈んで行っていた。
それから数か月後、恭一郎は沙良の元に電話を掛けていた。
「刑務所からの、伝達結果が送られてきました。内容をお伝えしたいので、当事務所までお越し願えませんか?」
恭一郎と沙良が机を挟んで対面するのは3回目である。
今日は珠樹も同席していた。
恭一郎は沙良に書類の入った封筒を差し出した。
「こちらが伝達結果の通知書になります。」
封筒を受け取った沙良は、その重みを両手で感じ取った。
「……読んでも、いいですか?」
「ええ、どうぞ。」
恭一郎の了承を得て、沙良は封筒から書類を取り出す。
順番を示す数字が振られた書類の束を、沙良は1枚1枚丁寧に読み進めていく。
だが、書類が中頃に差し掛かった時、書類を掴む沙良の手が細かに震え始めた。
「………なんなんですか、これ?」
かすれた声が、沙良の口から洩れる。
「被害者の方にも、…家族がいる事を…考えもしなかったって……何を言ってるんですかこの人?そんな…当たり前のことも…分からないんですか?」
「比留田さん…」
「大切な家族を奪って申し訳ないって……どの口が言ってるの!?人の事を…『ゴキブリ』呼ばわりした癖に!」
「比留田さん、落ち着いて…」
「落ち着けるわけないですよ!いまさら謝ったって………そんな言葉が吐けるなら、最初から人殺しなんてしないでよ!」
「お父さんを……返してよ…お願いだから…」
耐えられぬ痛みに打ちのめされ、涙に暮れる少女。
恭一郎と珠樹は、その姿を黙って見守る事しか出来なかった。
「古舘先生、わたしやっぱり、あの女の事が許せません。」
オフィスビルを出る際、見送りに来た恭一郎に向かい、沙良は真っ赤に充血した目で告げた。
「どんなに謝られても変わりません。どんなに後悔してようが関係ありません。わたしのあの女に対する気持ちは、今日で固まってしまいました。だからわたし、決めました。」
沙良の瞳には、憎悪とは違う強い輝きが宿っていた。
「わたし、誰かを幸せに出来る人間になります。誰かの幸せを、自分の喜びにすることの出来る人に。復讐しか生きる目的が無い、そんな悲しい化物になんて絶対にならない。」
そう話す沙良の顔は、以前よりもずっと大人びて見えた。
「それが私の復讐です。」
沙良は深々と頭を上げると、振り向くことはせず真っすぐに最寄り駅までの道を歩んで行った。
恭一郎が言葉を送る隙も無い程、堂々と。
「…どんな人間にだって、加害者にも、被害者にも、大切な人は必ずいるわ。」
恭一郎に並んで沙良を見送った珠樹が呟く。
「彼女の姿を、私達は絶対に忘れちゃいけないわ。あの背中だけは、絶対に。」
「…ええ。もちろんです。」
悲しみの果てに誰かを幸せにする未来を誓った少女の姿は、既に雑踏の中に消えていた。
それでも恭一郎たちは、いつまでも少女が消えた先を見つめ続けた。
その誇り高き姿を、胸に刻みつけるために。
・綾辻の『ゴキブリ』発言
当初このエピソードは別の着地点を想定していました。
しかし執筆の為に原作を読み直した際、この発言が目に止まり「これ言われたら和解は無理だ」と感じ大幅にシナリオを書き直す事にしました。
今回のエピソードの方向性を決定づけた、重要で残酷な台詞です。