殺人鬼達に救われる道はあるのか? 作:コミカド
タクシーの車窓から見る故郷の姿は様変わりしていた。
以前は舗装されていなかった道にも今はアスファルトが敷かれ、昔ながらの木造民家の間を縫う様に最新の建築資材を使った真新しい住居が見える。
村の中央にはこれまたコンクリート造りの役場が新設されており、村の発展ぶりを象徴している。
それでも懐かしさが無い訳ではない。
山間から覗く情景には在りし日の景色が残っており、村に沿って流れる川のせせらぎは幼き日に遊んだ記憶を呼び起こした。
だがそれは同時に、これから待ち受けるモノの記憶も呼び戻し言い得ぬ緊張感をもたらしてくる。
「お兄さん、観光客じゃないね?元々こっちの人?」
ミラー越しに様子を窺っていた運転手が急に話しかけられ、巽龍之介は心臓が跳ね上がるのを感じた。
それでも内心の動揺を面に出さず、なんとか平静を装って頷く。
「ええ、まあ。」
「やっぱり!なんか懐かしそうに外を眺めてたからそうじゃないかなって思ったんですよ。今日は里帰りですか?」
「そんな感じですね。20年ぶりくらいに。」
「へー、それじゃあ見違えたでしょう!一昔前までは寂れた村だったのが、今や東京辺りからも観光客が来る村になったんですから!地主サマサマですよ!」
「地主様って言うと…」
「ここら辺の旧家の巽さんってとこですよ。お兄さんも村の出身なら知ってるでしょ?今の当主様が随分とやり手で、行政と協力して村興しだったり特産物のブランド化だったりを推進してくれたんです。最近は県外からの移住者も受け入れるようになったんです。」
調子の良い運転手は龍之介が聞いてもいないのに村の事をベラベラと喋ってくる。
龍之介は苦笑しつつも適当に相づちを打ち聞き流す。
タクシーは村の中心に向かって進んでいく。
運転手の話をBGMに龍之介は流れる車窓からの景色を眺めながら今日までの20年に想いを馳せる。
あの2枚目の遺言状が公開され父親の遺産の分配が決定してすぐ、龍之介は日本を離れて留学先のイギリスに渡った。
そこから日本での事を忘れようとするかのように勉学に励み、現地の大学を卒業するとそのままロンドンの建築会社に就職し造園部門に配属された。
イギリスの富裕層には日本式庭園の需要は昔から高く、龍之介は日本人というだけで配属先が決まった節があった。
正直最初は門外漢だと戸惑ったが、現場に出てみると意外なほどに性に合っていた。
クライアントから日本的な庭にするにはどういう風にすれば良いか尋ねられ、必死に頭を捻り巽家屋敷の整備された庭を思い起こしながら改善点を提案すると、クライアントからは思いの外喜ばれ、1年後には日本式庭園部門の責任者を任せられるようになった。
正直巽家での生活がこのような形で役に立つ事には複雑な気持ちがあるが、客に喜ばれ上司からも褒められるのは悪い気はしない。
そうして懸命に仕事に取り組み生活も安定した頃、のちに妻となる女性と出会う。
相手はアラブ圏の国の出身で、様々なしきたりや保守的な生活から抜け出す為に、イギリスに在住する親戚を頼って異国の地に来た女性だった。
闊達で自己表現が強い一方で世話好きな性格で、これまで龍之介が接してきた女性にはいなかったタイプの人間だが、不思議と相性は良かった。
やがて向こうからの提案で同棲し、子供が出来たのを機に入籍して早10年。
20年前の自分に、毎朝車で子供を学校まで送っていると言っても信じないだろう。
そう言った生活を心地よく感じるようになったのは、果たして自分が成長したからか、それとも単に過去を忘れかけているだけなのか…
「着きましたよお兄さん。ここで良かったですよね?」
タクシーが停まったのは役場前である。
礼を言って代金を支払うと、タクシーは走り去っていく。
「龍之介様ですね?」
まるで一人になるのを見計らったように背後から声を掛けられた。
振り向くとピシッとスーツを着こなした若い男がいた。
「ええ、そうです。」
「失礼いたしました。社長のご指示を受けお向かいに上がりました。どうぞこちらへ。」
男はそう言うと駐車場に止めてある黒のセダンに龍之介を案内する。
高級感のある車内に乗り込むと、車は静かに動き出した。
5分後、車は巽邸の門を潜っていた。
門構えは20年前と何の変わりはない。
車を降りると和服姿の女中が現れる。龍之介の知らない顔だった。
「ようこそお出で下さいました。奥様がお待ちです。こちらへ。」
言われるがままに龍之介は女中に着いて行く。
屋敷の内部は多少模様替えをしているが、概ね龍之介が住んでいたころと変わらない。
懐かしい気持ちを感じると共に、居心地の悪さを感じた。
ここが巽家の屋敷と実感するごとに、龍之介の中で自分が異物であるというのが確かなものになっていっていた。
やがて女中は応接室の扉の前で足を止めた
「奥様、龍之介様をお連れ致しました。」
『…入ってちょうだい。』
扉越しに帰ってきた言葉に従い女中が扉を開けると。
巽家では珍しい洋間の中で、落ち着いた色合いのドレススーツに身を包んだ妙齢の女性がいた。
「…お久しぶりですわね。龍之介兄さん。」
「あ、ああ…もえぎ…」
言葉に詰まった様子で龍之介が返事をすると、もえぎは怪訝そうに眉を寄せる。
「なんですか?ああって。」
「あ、いや。お前にそう呼ばれると思ってなかったから…」
龍之介の返答に一瞬キョトンとした様子を見せたもえぎだったが、龍之介が戸惑う理由を悟ると納得した様子を見せる。
「いまさら龍之介さんとでも呼べと?まあ、そう望むのであれば構いませんけど。」
「いや、そっちの好きに呼んでくれればいい。」
「そう。それじゃ、そこに座られて。ヨーコさん、お兄様にお飲み物を。」
「はい、奥様。」
女中は深く頭を下げると応接室の扉を閉める。
残された2人はテーブルを挟んで向かい合って座る。
しばし、沈黙が続いた。
「お前が当主に成ったんだってな?」
先に口を開いたのは龍之介だった。
「…ええ、15年前に。大学を卒業してすぐ。」
「その…俺がこんな事を言うのもなんだが、大変だったんじゃないか?」
「多少はですね。頭の固い年寄りが多かったから。ただ変革を求める人たちも少なくなかったですわ。時代的な後押しもありましたし。なにより、隼人も征丸さんも私が当主に成るの応援してくれたのが大きかったですわ。」
「…そうか。よくやってるそうじゃないか。評判良いみたいだな。」
「…それほどでもないですわ。」
会話が途切れたのを見計らったように、扉が開き女中がお茶を2つ持ってくる。
テーブルに置かれたそれを2人は同時に手に持ち、口を湿らせた。
再び気まずい沈黙が流れるかと思われたが、龍之介がテーブルに湯のみを置いたのと同時に唐突に扉が開かれる。
「あっ!本当に来てたんだ龍之介兄さん!ヨーコさんがお客様が来てるって言ってたからそうだろうなって思ってたけど。」
「は、隼人っ!」
現れたのは巽隼人である。
龍之介は隼人の登場を予期していなかったのか、酷く動揺した様子を見せる。
「お、お前、こっちに来てたのか?東京で生活してるって聞いてたけど…」
「ん?ああ、1年前に家族でこっちに戻って来たんだ。上の子があまり都会の学校に馴染めなくて。それなら今だったらこっちの環境の方が子供には良いだろうって環がさ。冬木先生からは聞いてない?」
隼人はまるで20年の月日の流れを気にした様子もなく、久々に会う兄に接するように普通に話しかける。
その様子にもえぎは呆れた様子を見せ、龍之介は完全に押されていた。
「その…冬木先生からは何年かに1度くらいに連絡をもらってて、『あの人』の事も先生から…」
「…ふ~ん。」
龍之介の返答に隼人は意味ありげに頷く。
そしてもえぎに向かって目配せすると、もえぎは軽く溜息を吐いて龍之介の方を見据えた。
「龍之介兄さん、このあと病院に行くでしょ?積もる話はあるけど、そういったのは病院での要件が終わってからにしません?」
「うん、僕もそう思うよ。お互いに報告する事は多いと思うからさ。ここで全部話そうと思ったら面会時間が終わっちゃいそうだ。」
「あ、ああ。それで構わない。でも、これだけは言わせてくれ!」
そう言って龍之介は立ち上がると、腰を90度曲げ深々と頭を下げた。
「2人とも、俺のせいで本当に迷惑をかけた!申し訳ない!特に隼人、俺はお前の飲み物に農薬を入れた!お前が親父に可愛がられているのが気に喰わなくて。子供のやった事なんて言い訳は出来ない!本当にすまない!」
精一杯の謝罪だった。
龍之介は頭を下げ続け2人の返答を待った。
しかし、一向に言葉を掛けられない。
不安になって少しだけ顔を上げると、信じられないといった様子で龍之介を見る2人がいた。
「嘘…龍之介兄さんが謝ってる…」
「…ここ数年で一番驚いたかも。」
2人とも、あの傲慢不遜が服を着て歩いているようだった龍之介が真摯に頭を下げるとは思わなかったらしい。
龍之介としても、そう思われても仕方の無い振る舞いをしていた自覚があり、じっと頭を下げ続けるしかなかった。
「……顔を上げて下さい。」
そう声を掛けたのはもえぎだった。
もえぎは顔を上げた龍之介と目線を合わせるように椅子から立ち上がった。
「…龍之介兄さん、そうやって私たちに頭を下げるのは、兄さんの自己都合ですよね?」
「っ!?……ああ、否定できない。」
「でしたら、私は頭を下げられる立場にはありませんわ。私は兄さんから何かをされたわけではありません。当主になるための苦労も、当主になってからの苦労も、全て私が自ら背負った物です。」
そう言ってもえぎは隼人を横目に見た。
隼人はそれに肩を竦める。
「僕は実害を受けた立場だし兄さんに思う所は大いにあったけど、もう20年以上前の話だ。もしあの頃から兄さんが全く変わって無かったのなら話は別だけど、少なくとも今の兄さんは昔とは違う。だからその謝罪を受け取るよ。」
「…2人とも、ありがとう。」
安堵と許された事の後ろめたさが混ざり合った声で龍之介は感謝の言葉を述べる。
それを見た2人は龍之介が完全に変わったのだと改めて理解した。
「それじゃあ、早く行って下さい。きっと向こうも待っている筈ですから。」
「あっ!でも待って!多分いま病院には征丸さんが...」
「いや、良いんだ。」
龍之介が病院に行くのを止めようとした隼人に、龍之介は穏やかな声で言う。
「たぶん俺が一番謝らなくちゃいけないのは征丸なんだ。アイツには本当に酷いことをした。『あの人』に会う前に、きちんと謝らなくちゃいけないと思ってるんだ。」
「…そうですか。なら、私達から何か言うことはありませんね。」
そう言うと、もえぎは使用人を呼んで車を用意するように指示する。
再び車に揺られる事30分。
龍之介はくちなし村から最も近い総合病院に到着した。この病院こそ、龍之介が産まれた場所である。
車を降り、立て直された真新しいエントランスに立つと、すぐに白髪の老人が龍之介の側に寄る。
「龍之介君…だよね?」
「…お久しぶりです。冬木先生。」
出迎えたのはかつて巽家に通いの医師をしていた冬木である。
その顔には20年の時間の経過が色濃く映っている。
「妹…もえぎから連絡を受けたんですか?」
「ああ、今から君が行くと…」
「…征丸もいるんですよね?あの人の所に。」
「…ああ。行くのかい?」
「…はい。案内をお願いします。」
「…分かった。」
冬木から先導され、龍之介は病院内に入った。
移動中、冬木と龍之介の間に会話は無い。
龍之介は前を歩く冬木の少し曲がった背中を見詰めていた。
この20年、龍之介と巽家を辛うじて繋いでいたのは冬木だった。
龍之介がイギリスに渡って1年が経った頃、龍之介が住まうアパートメントを突如として冬木が訪問した。
突然の訪問を陳謝しつつ、冬木はずっと龍之介の足取りを追っていたのだと言った。
どうして自分を探していたのか?
当然の疑問を龍之介がぶつけると、冬木は思いつめた表情で床に膝を着き、土下座の体勢を取ると悲痛な声で言った。
『申し訳ない!自分は紫乃さんが君と征丸君を入れ替えたところを見ていた。なのにそれを咎めず、見て見ぬふりをしていたんだ!』と。
当然ながら龍之介は驚き、土下座を辞めさせると椅子に座らせ事情を聴いた。
やがて冬木はぽつりぽつりと話し始めた。
研修医時代、冬木は総合病院に勤めていた事。
宿直の日、紫乃が新生児室で自分の子供と巽綾子が産んだ子供を入れ替えていたのを目撃した事。
その事を誰にも言わず、ずっと黙っていた事。
龍之介は何故紫乃を止めようとしなかったのか理由を尋ねると、苦しげな表情になり『紫乃さんが不憫だった…』と口にした。
冬木は昔から紫乃の事を知っており、その境遇についても知っていた。
故に彼女が我が子を想う気持ちを考えると、その凶行を止める事が出来なかったのだと。
全てを打ち明け、とてもではないが許されない事をしたと再び龍之介に対して頭を下げる冬木。
それを前にした龍之介の心境は、正直どうすれば良いのか分からない、というようなものだった。
混乱しつつも、ゆっくりと自分の気持ちを整理した龍之介は、冷静な口調で「今更謝られても困る」と言った。
結果はどうあれ、龍之介は巽家の長男として何不自由なく18年を過ごす事が出来た。
もちろん、自分が本当は巽家の人間では無かった事のショックは大きい。
だがその原因は龍之介の実母にある。
冬木が責任を感じるとすれば、それは医師として患者に対して誠実に、そして倫理を以て行動できなかった事だと龍之介は考えた。
龍之介の言葉を聞くと、冬木はグッと何かを堪えるような面持ちにある。
冬木も薄々とは龍之介の指摘されるような事は自覚していたのかもしれない。それでも、謝らずにはいられなかった。
せめてもの償いだったのか、冬木は龍之介との連絡先の交換を求めた。もし何か困った事があったらいつでも連絡して欲しいと。
龍之介はその申し出を受け、以来20年、2人の関係は続き、龍之介は細々と巽家との繋がりを持ち続けていた。
2人の足はやがて1人部屋の病室の前で止まる。
扉の前で冬木は小さく息を吐くと、真剣な面持ちで扉を2回ノックした。
「征丸君、私だ。彼も、一緒にいる。」
緊張を孕んだ声で冬木が扉の向こうに語り掛けると、程なく扉越しに誰かが近づく気配がし、静かに扉が開かれた。
「ありがとう御座います、冬木先生。それと…」
病室から出てきたのは、まぎれもなく巽征丸。
龍之介の義理の弟であり、20年前に龍之介が殺そうとしていた相手である。
征丸は冷たい視線で龍之介を見据える。
「…久しぶりだな。」
「あ、ああ。久しぶり。」
「…少し話をしよう。屋上に来てくれないか?」
「征丸君、彼は...」
剣呑ならない征丸の雰囲気に不穏なものを感じた冬木が止めようとするが、征丸は小さく首を振った。
「すみません先生。母さんに彼を会わせる前に、どうしても話しておきたい事があるんです。」
「それは…しかし…」
「…いえ、大丈夫です。行きます。」
心配した様子を見せる冬木に龍之介は言った。
震えそうになる声を抑え、出来る限り誠実に見えるように正面から征丸に向き合った。
「俺も征丸に言わなくちゃならない事がある。だから、行こう。」
「…分かった。冬木先生、母さんをよろしくお願いします。」
そう言うと征丸はエレベーターに向かって歩き出す。
いまだ不安げにする冬木に背を向けると、龍之介は覚悟を決めて征丸の背中を追った。
病院の屋上は、花壇とベンチが整備されており中庭のようになっていた。
プランテーションに植えられた花の周りでは、入院患者とその家族が和やかに話をしている。
征丸と龍之介は屋上の隅のベンチに離れて座る。
しばしの間、2人の間には沈黙が流れた。
「…先月、母さんが倒れた。軽度の脳梗塞だったよ。」
先に口を開いたのは征丸だった。
龍之介は軽く頷く。
「ああ、冬木先生から聞いてる。手術上手くいったんだってな。」
「…発見が早くて良かったらしい。独り暮らしだったけど、近所の人が気付いてくれて。本当に、運が良かった。後遺症も、あまりない。」
最後の一言には、僅かばかりだが感情が乗っていた。
龍之介が横目で見ると、少し顔が綻んでいるようにも見えた。
しかしすぐに厳しい面持ちになると、征丸は龍之介に睨み付けるような視線を向ける。
「龍之介、お前は何をしに来た?」
努めて感情を圧し殺した声色だった。
龍之介は口の中ぎ急速に乾いてくるのを感じた。
「…見舞い、だ。倒れたと聞いて、もしかしたらこのまま…そう思ったら、一目だけでも会っておきたい。そう思ったんだ。」
「…20年も、顔を見せなかったクセにか?」
「…今さらであるのは重々承知している。それに、お前達にも会わなくちゃいけないと思ったんだ。」
「……さっき、もえぎさんから電話を貰ったよ。『龍之介兄さんから初めて謝罪の言葉を聞いた。昔とは完全に別人だ。』って。その上で言わせて貰うぞ。」
征丸は恐ろしく冷たい目付きになると、憎々しげに口許を歪めた。
「僕はこの20年、お前から言われた言葉も、受けた仕打ちも一切忘れていない。20年も経ったから許されていると思ったか?」
「………」
龍之介は否定する事は出来なかった。
隼人からも許して貰えたのだから征丸も...
そんな淡い期待を持ってしまっていた。
「だから今お前に謝れたところで迷惑だ。謝罪の言葉を言わないで欲しい。きっとこの気持ちはまだ当分は変わらない。お前がどれだけ改心しようが、あの時俺が受けた屈辱は変わらないからな。」
「………本当にすまない。」
謝るな。
そう言われた直後だというのに思わず言葉が漏れてしまった。
心の内にある後悔と罪悪感が、無意識の内に龍之介の口を動かしていた。
それを敢えて咎める真似を征丸はしない。
顔をうつむける龍之介をただただ忌々しげに見つめるのみだ。
しかし、その表情に僅かに哀愁のようなものが浮かぶ。
「………母さんも、同じ気持ちだったのかなぁ。」
その言葉が持つ意味に、龍之介は思わず驚きの眼差しを征丸に向けた。
「…あの人の、気持ち?」
「…ああ。母さんはずっと、巽綾子への屈辱と憎しみを抱え続けていた。だからあんな過ちを犯した。その気持ちが分かるからこそ、俺は母さんを恨むことは出来ない。いや、例え気持ちが分からなくても、幼い俺を懸命に守ってくれた母さんを恨むことは出来なかっただろうけど。」
巽紫乃の実の子として生きてきた時間は、その程度では覆せないのだと征丸は言う。
それが龍之介には、とても羨ましく見えた。
「………龍之介、子供はいるか?」
「…ああ。」
「そうか。俺にもいるよ。自分の命よりも大切な存在だ。あの子達に、俺達と同じ苦しみを与えたくはない。」
そう言って龍之介を見据える征丸の眼差しには、憎しみと同居する愛情と覚悟があった。
「俺はお前を許せない。けれど、この憎しみは俺の代で終わらせる。何も伝えず、何一つ表に出さない。それが俺の決断だ。もしお前が俺に謝りたいと感じているならば、お前もそうしろ。」
「………分かった。俺たちの因縁は俺たちで終わらせよう。」
「…行けよ。母さんが待ってる。」
征丸に促され龍乃介は黙って立ち上がった。
そのまま無言で屋上出入口のドアを開け、後ろ手に閉める。
もしかしたら、これが二人にとって新しい関係を始める機会になるのでは?そんな淡い期待を胸に宿しながら…
病室の前に戻ると冬木が心配そうに待っていた。
「龍之介くん、大丈夫だったかい?」
「ええ、先生。大丈夫です。」
「…征丸くんは、まだ?」
「はい。上にいます。俺にあの人と会ってこいと。」
「………そうか。」
少しだけ、冬木がホッとした様子を向ける。
後は言葉は不要だった。
冬木は静かに龍之介を病室のドアへと促す。
深く深呼吸をして心を落ち着かせると龍之介はドアノブに手を掛けた。
横開きにドアを滑らせ中に入る。
病室はシンプルな造りの個室で、窓際のベッドの回りには床頭台に小型冷蔵庫、テレビ台や来客用の椅子が並べられている。
ベッド上のその人は、ドアに背を向け横になっていた。
一見すると寝ているように見えた。
「……失礼します。」
龍之介は固い声でそう告げると、一人で部屋に入った。返事は返ってこない。
「…お久しぶりです。見舞いに来ました。」
それでも龍之介は声を掛け続けた。
「その…何を言えばいいか……」
暫し言葉を迷わせる龍之介だったが、やがて深く息を吐くとしっかりとした口調で背を向け続ける女に向かって口を開いた。
「知ってるかもしれないけれど、俺、いまイギリスで家庭を持っています。本当に俺には勿体ないくらい良い嫁と、自分の命よりも大切な子供を持てて、俺は幸せに暮らせてます。それと…」
ふと、小さな背中が震えている事に気付き、龍之介は続けた。
「子供を持って、ようやく気付きました。俺を見るあなたの目、昔は憎しみの目だとずっと思ってました。でも、そうじゃなかったんですね?あの目は…俺を見る、あの目は……」
それ以上、言葉を続けれない。
返事は返ってこない。
広い病室の白いベッドの上で、白髪の掛かった小さな背中が、嗚咽を押し殺し細かく震えていた。