何をしている!早くその鞭で俺を打つんだ!! 作:ナカザキ
リリィへの謝罪を終えた後、俺の心にはある種の清々しさと同時に、新たな焦りが生まれていた。
(このままでは、また破滅の道を歩むことになる……)
俺の先ほどの行動は、ただの自己満足に過ぎない。前世での悪行を償うことだけでは、未来は変わらないだろう。
俺は、根本から自分自身を変えなければならない。
――傲慢で、自分の才能に胡坐をかいていた、あの俺を。
「……そうだ。まずは、アーノルド先生だ」
アーノルド・グレンジャー。
俺の剣の師。前世では俺が馬鹿にし、侮辱し、見下した人物だ。
彼は俺の才能を見抜き、その才能を正しく磨くための教えを説いてくれた。しかし、当時の俺は、自分が生まれながらにして天才だと信じて疑わず、彼の助言を『凡人の戯言』と一笑に付していた。
その結果、俺は才能の全てを開花させることなく、破滅の道を歩むことになったのだ。
(今生では違う。俺は先生の教えを、一から学び直す……!)
俺は意を決して、アーノルド先生の元へと向かった。
公爵家の敷地内の静かな森の奥にある、簡素な小屋。
前世では一度も足を踏み入れたことのない場所だった。
元々は亡くなった俺の父が与えた小屋らしい。盗賊に襲われた父はその場居合わせた先生に命を救われ、それ以来アーノルド先生は食客として敷地内の小屋に逗留している。
扉を叩くと、中から静かな足音が聞こえてくる。扉が開くと、そこに立っていたのは年季の入った道着を身につけた、がっしりとした体格の初老の男だった。
「スレイン様……お久しぶりでございます」
アーノルド先生は、俺に対して深々と頭を下げた。
その謙虚な態度が、彼の実直な性格を物語っている。俺はそんな彼に、無遠慮な言葉を浴びせ続けたのだ。
「アーノルド先生……お久しぶりです」
俺は今までの俺とは全く違う、丁寧な言葉遣いで挨拶をした。先生は俺の態度に戸惑っているようだった。
「スレイン様……本日は、どのようなご用件でしょうか?」
先生の問いに、俺は深く頭を下げた。
「先生……どうか、俺にもう一度、剣を教えていただけませんか」
俺の言葉に、先生の目が大きく見開かれた。
「スレイン様……?」
先生は、信じられないといった表情で俺を見つめる。
無理もない。かつての俺なら、こんなことを言うはずがないのだから。
「俺は、自分の傲慢さを深く反省いたしました。己の才能に溺れ、先生の教えを蔑ろにした俺を……どうか、もう一度、ご指導いただけませんか」
俺はそれだけを伝えた。前世の記憶を語ることはできない。しかし、この言葉だけでも、俺の決意が伝わることを願う。
アーノルド先生は、しばらくの間、何も言わずに俺を見つめていた。
その瞳には、困惑とかすかな期待のような光が宿っているように見えた。
「……分かりました。スレイン様。私の教えを真摯に受け止めてくださるのなら……喜んでお引き受けいたしましょう」
先生の言葉に、俺は顔を上げた。
「ありがとうございます!」
俺は、心からの感謝を込めて、そう言った。
しかし、先生はすぐに真剣な表情に戻ると、俺にこう告げた。
「ただし、スレイン様。私の稽古は、非常に厳しいものです。覚悟はできておられますか?」
俺は迷うことなく、力強く頷いた。
「はい。以前の俺とは違う。必ずやり遂げて見せます」
◆
アーノルド先生の訓練が始まった。
先生は、一切の妥協を許さなかった。
前世の俺なら、小一時間、いや数分で音を上げていたであろう、厳しい基礎訓練。しかし、今の俺には、それが必要不可欠だと分かっていた。
(前世で、俺は先生の言葉を全く聞いていなかった……)
素振りの一つ一つ、足運びの一つ一つに、先生が込めた意味を俺は今になってようやく理解する。
俺が天才だと驕っていた剣技は、実は基礎が全くできていなかったのだ。
「スレイン様! もっと腰を落としなさい!」
「はい!」
先生の厳しい声が、屋敷の中庭に響き渡る。
俺は、泥まみれになりながら、何度も何度も素振りを繰り返した。
前世ではこんなことは考えられなかった。
俺は常に清潔で優雅な生活を送っていた。
しかし今の俺には、その泥と汗が何よりも尊いものに感じられた。
剣を振る度に、かつての自分から一歩進める気がする。
訓練すればするほど、自分の中の何かが研ぎ澄まされているのを感じる。
アーノルド先生はそんな俺を見て、感慨深く呟く。
「やはり……(この方の才は規格外だ。この方なら私の剣の『先』の景色を見せてくれるのかもしれない)
そんな俺の姿を、公爵家の人々が目撃することなる。
その中には、リリィの姿もあった。
◆
――スレイン様が、最近おかしい。
それが、リリィの偽らざる感想だった。
きっかけは、あの日の朝。
スレインが、血相を変えて使用人部屋にやってきて、「鞭で俺を打て」と叫んだあの奇行だ。
(なぜ、スレイン様はあんなことを……?)
それ以来、スレインの生活は一変した。
朝は早く起き、午前中は勉学に励み、そして午後はアーノルド様の元に行き、剣の修行に明け暮れる。以前なら、昼過ぎまで寝ているのが常だったのに。
しかし、良い変化であることには間違いない。以前に比べると癇癪を起こす回数は激減した。皆無になったと言ってもいい。
執事長などは、
「これで亡き旦那様、奥様に顔向けができます」
とその変わり様に涙を流したほどだ。
しかし、リリィは釈然としない思いを持っていた。人がそんなに簡単に変われるだろうか。
リリィの背中にはまだ、スレインが折檻で刻んだ鞭の跡が残っている――。
そんなある日の午後。リリィは掃除のために中庭にやってきた。すると中庭の片隅にある訓練場から、木と木が打ち合う激しい音が聞こえてくる。
「……っ!」
リリィは、その音に思わず足を止めた。訓練場には、二つの人影があった。一人は、公爵家の剣の師であるアーノルド。そしてもう一人は……。
「スレイン様……?」
信じられない光景だった。
スレインが、道着を身につけ、汗だくになって木刀を振っている。
その一振り一振りが、力強く、そして真剣だった。
アーノルドも、彼に容赦なく打ちかかっている。
以前のスレインなら、剣の稽古など、せいぜい一時間もすれば飽きて放り出していた。それなのに、今は、アーノルドの厳しい指導に、食らいつくようにして応えている。
「まだだ、スレイン様! 腕が降りている! 視線が胡乱だぞ!」
アーノルドの檄が飛ぶ。スレインは、返事もせずに、ただひたすらに木刀を振っていた。その顔は苦痛に歪んでいたが、その瞳には強い意志の光が宿っている。
リリィは、掃除の手を止め、ただただその光景に見入っていた。
(スレイン様が……こんなに一生懸命に……)
彼の姿は、以前の彼女が知る傲慢で非道な姿とは、あまりにもかけ離れていた。
やがて、稽古が終わった。
スレインは、その場に大の字になって倒れ込む。
全身から、湯気のように汗が立ち上っていた。
リリィは、彼に近づこうか迷った。しかし、声をかける勇気が出ない。
リリィは、ただただその場に立ち尽くしていた。
スレイン様の奇行は、一体何だったのか?
なぜ、彼はあんなにも必死になって、修行に打ち込んでいるのか?
その答えは、リリィには分からない。分からないが、確かなことが一つだけある。
――スレイン様は変わろうとしている。
それだけは確かだった。
◆
訓練を始めてから、数か月が経った。
俺は先生と互角に打ち合えるようになっていた。
しかしそれは身体能力や生まれもった魔力に頼った結果だ。剣の技量では俺はまだまだ先生の足元にも及ばない。
(剣……おもしれぇ!)
学べば学ぶほど剣の奥深さ、そしてその面白さにのめり込んでいく。フェイント一つ、剣先の僅かな揺らぎにも意味がある。
(俺は……本当に、馬鹿だったな)
汗を拭いながら、俺は前世の自分を深く反省していた。
あの時、俺は自分の才能に溺れ、先生を完膚なきまでに打ち破った。
そして、地面に這いつくばる先生の尻を、木剣で思い切り叩いた。屈辱に耐える先生の顔を見て、俺は満足げに笑った。
……その時の光景は今でも鮮明に脳裏に焼き付いている。
「スレイン様、今日はもう終わりにしましょう」
アーノルド先生の声に俺は我に返った。
先生は静かに木刀を納め、俺に背を向ける。
「少し休んでから戻るように」
先生の背中が、遠ざかっていく。
「先生!」
「スレイン様……何か、まだ用件が?」
「はい……」
俺は、意を決して、先生に頭を下げた。
「先生……どうか、俺の尻を、木剣で、思い切り叩いてくれませんか」
「―――――は?」
先生の顔が、困惑に染まる。
「スレイン様……何を、おっしゃって……?」
無理もない。先生は、俺が何を言っているのか理解できないだろう。
(これも……前世でしたことの、謝罪だ……!)
俺は、必死に言葉を重ねた。
「これは、俺の……俺の罰です。俺が、先生の尊厳を傷つけたことへの……謝罪です!」
先生は、ただただ困惑した表情で俺を見つめていた。
「スレイン様……以前のことはもう気にしておりません。それに……そのような、馬鹿げたことは……」
「いいえ! これは俺の贖罪です! 先生が俺を許すかどうかは……俺を、罰してから決めてください!」
俺はそう言って、その場で地面に這いつくばり、尻を突き出した。
「なっ……!? スレイン様! やめてください! そのような真似は……!」
先生は俺の肩に手を置き、立ち上がらせようとする。だが、俺は頑として動かなかった。
「先生……! 俺を……俺のこの罪を、どうか、罰してください……!」
先生には珍しくその顔は青く汗だくだった。そして先生はややあって言う。
「スレイン様。こうしましょう。あなたの罰は一旦保留です」
「しかし――」
「もし……あなたが私を破ることができたなら、その時はあなたの尻を叩きましょう」
「わかりました。約束ですよ!」
「はい……(これで私はスレイン様に負けられなくなったな……)」
◆
これを機に、アーノルド・グレンジャーはスレインに負けぬように必死に授業を積み、若い頃以上の実力を身につけるようになる。
齢50を超え全盛期を迎えた彼が『剣聖』と呼ばれるようになる話は、また今度にしよう――。