生年1920、回顧録   作:佐伯 裕一

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彼の戦後

 正直な所、已は捕虜に出会った頃の大半を覚えていない。おそらく一年と少しは収容されていたと思うのだが、精々出所するひと月かふた月しか頭にない。

 已は知らなんだが、御国では陛下が直々に御言葉をくださる放送があったのだとか。已等の部隊に通信機器を持ったものなどおらなんだ。

 また、御大将が実際に降伏されたのも、放送よりいくらかかかったと聞いた。そのうえ、已が最後に立て籠もっていた山の指揮官殿は、徹底抗戦を主張しておられた。已もむざむざ下ってやるつもりはなかったのでいいのだが、それでさらに降伏が遅れたらしい。

 

 結果として、已の体は満身創痍を超して、ほとんど屍のようだったのだとか。

 ほとんど寝て。たまに食って。また寝て。作業のようなことをしたような気もするが、してないのかもしれん。頭が全く働いておらなんだ。

 

 ようよう活力も取り戻した頃、日本語のわかる米国人に快復を祝われ、出所も近いと聞かされた。冬が迫った頃だったと思う。

 

 

 

 

 

 已の感覚では早いも遅いも無かったが、己等日本兵の復員には、だいぶ梃子摺ったらしい。

 まず御国には船が全く足りておらなんだ。そのため米国の船を使うしか無いわけだが、已等が降伏したあとも戦いは続き、そのうえ支那戦線からの復員にも船はいる。己等は後回しであった。

 聞くに、御国で大きな顔をしているのはマッカーサーなる大将らしかった。己等が戦った相手だ。己等が奴を仕留めきれなんだゆえ、陛下が奴に頭を下げる羽目になっている。忸怩たる思いだった。

 そして、フィリピンが奴のお膝元であることから、問題は起こりづらいだろう、ということで後回しになったらしい。別にそれを恨んではいない。寧ろ奴の部隊の物資を消費してやったぞ、と酷く情けない成果を誇っていた。

 

 

 

 昭和二二年、二月。佐世保の港に降り立った。帰国の感慨などは全くなかった。何故まだ生きているのか不思議で、足元がふわふわと覚束ない気がした。

 身体検査やらなにやら手続きを経て、多少の手間賃を受け取った。これで郷へ帰れ、ということらしい。

 佐世保から鹿児島まで列車が出ていたので、それに乗った。鹿児島の港から島までは船だ。

 

 

 

 

 生家の戸を叩いた。叔母だか従姉妹だか、とにかく親族の女が出て、慌ててあんまを呼びに行った。

 已は元々、八人兄弟の末である。そのため、已の知っているあんまは若くはない。若くはないが、あまりに老け込んだと思った。

 あとから聞けば、兄弟が四人、兵役と、民間人であったにもかかわらず満州で支那人に襲われて死んだらしい。生き残ったのは已を含めて四人。半分だ。

 嗚咽混じりに「良かった」と零して已を抱きしめるあんまに応えた。小さな背中だったのを酷く覚えている。

 

 春節に丁度いいと言って、已の無事を祝ってくれた。

 首里に比べればいくらか本土の習慣に近い島で、首里の習慣を持ち出す意味は薄いのだが。已に気を遣ってくれたのだろう。嬉しかった。

 

 数日か、半月か、数ヶ月か、もう歳のせいか覚えていないが、生家で休養していた。

 気が緩んでいたのだろう。戦場でのことに比べて、全く記憶にない。家から出ずにごろごろと怠けていたことだけは覚えている。

 

 いつかはまた定かでないが、森へ入った。已は森が好きだったから、島のあちこちを見て回ろうと思ったのだ。

 だが、いつもの沢沿いの獣道から森を見たときから少しおかしかった。森に入ってからはもっとおかしかった。

 

 自身に言い聞かせた。木が違う。草も違う。鳥の鳴き声も、獣の気配も違う。臭いも違う。何もかも違う。

 

 駄目だった。

 森に入ったら、それまで緩みきっていた神経が張り詰めた。フィリピンの戦場へ戻ったような気がする。

 己は死ななければならん。敵に突撃して撃ち殺されなければならん。何を死に損なっている。仲間を食らったのは何のためだ。

 

 息ができなくなっていた。気づけば、げぼにまみれながら倒れていた。

 帰り道、気が付かなかったのか見ないふりをしていたのか。已の島にはあってはならん陣地や、爆撃に砲撃だろうか。跡があった。

 已の島も、戦火と無縁ではいられなかったのだ。ここで戦いがあったとは聞いておらんが、それでも米国の火砲は島を焼いていた。

 

 家に帰ると心配されたが、ごまかした。その日、布団に包まって泣いた。泣き喚いた。

 己は島にはもういられん。島に拒絶され、島を拒絶した己は、もう二度と島の土を踏めんのだろう。それが悲しかった。

 

 

 

 翌朝、家を出て東京へ行く、と告げた。驚かれたが、折角生き残ったのだからせめて御国の復興を助けたい、島ではできることが限られる、と。

 引き止められたが、固い決意だと言って島を出た。あんまとも、ぢゅうとも抱き合った。二人共何か感じるところがあったのかもしれない。

 その後は結局、結婚の報告をしにいったときくらいしか島には帰らなかった。

 

 

 

 

 

 已は何をすればいいのかわからなかった。したいことがあって島を出たのではない。島にいられないから出たのだ。

 

 時勢として助かったのは、復員兵に同情的な目線も多少はあったことか。

 中には正面切って喧嘩を売ってくる者もいた。そういうときは堂々と喧嘩してやった。

 貴様ら兵隊がしゃんとせんから、日本はこのザマだ!

 いっときだけ軍服を着せられた一般市民に吠えるな、情けない!

 大抵の連中は話にならなかった。

 

 実際はどうであったのだろうか? 已が先々のことを考え出すときには、御国はもう支那ときな臭くなっていた。

 結果だけを見れば、適性検査で甲判定をいただいたため、また島の外へ興味があったために兵隊になったが。

 已の人生に、「御国がもしも戦争へ進まなかったら」という道は無かったように思う。なるようにして兵隊になったのだと、今は思う。

 

 

 

 

 

 已は学もないため何もできなんだ。それ故、なんでもやった。ぢゅうとあんまに顔向けできんこと以外は、本当に何でもやった。

 

 材木だの土砂だのを運ぶ人足もした。学校の用務員になって植木の剪定もした。工場へ行って機械を教わりもした。鳶や大工の真似事もした。

 平成の今と違い、何かができねば生きていけない、なんぞという世知辛さは無かった。

 誰も彼もが、何かを無くしていた。ドン底から這い上がるなら、明日には希望しかない。そういう見方もできる。

 

 まあ、ただの空元気だ。しぶとく、生き汚く生き抜いて、爺になったからこそ言える強がりだ。フィリピンで死んでいった仲間達には、絶対に言うことの叶わない、そういう。

 

 

 

 別に東京にこだわる理由もなく、かといって島のある西にもあまり行きたくはなかったので、東海道をうろうろするようになった。

 定職と言える仕事には就かず、うろうろ、うろうろ。

 学者先生やお大臣でなければ大概のことはできるようになっていたもので、すっかり復興してからも、食うに困ることはなかった。

 

 

 

 そうこうしていたら、人の紹介で物好きな女と出会った。半ば世捨て人のようでもあった已と連れ添っても良い、という女だ。

 已は無頼を気取る質でもない。深く考えず、久しぶりの女に舞い上がった。

 

 することをしていればできるものもできる。已に一人息子が産まれた。

 まさかまさか。已が人の親になるなど考えもしなかった。子供をあやすのは下手ではなかったが、好きでもなかった。

 

 先にも触れたが、とにもかくにも報告だけはせねばならんと思い、島へ帰った。船から島が見えてきたあたりで不安が迫り上がったが、子をあやしているうちに着いてしまった。

 その後も、嗅ぎ慣れない南の木々の香りにむせたのか、ずっとぐずっていたのをあやしていた。女房になった女は物怖じせず、已の親族と談笑している。

 

 子の名を聞かれて、答えに窮した。名前を考えておくように言われていたのを忘れていたのだ。長男だから太郎? 一郎? なんとなく嫌な予感がした。

 とっさに、数の「一」と書いて「はじめ」と読む、と口走った。後々、子自身から「姓名を合わせて書いたときの収まりが悪い」と文句を垂れられる名だ。

 とはいえ、咄嗟の機転で思いついたにしては上等だろう。我が子ながら贅沢なことだ。

 

 

 

 島から本土へ戻って、また仕事を探さにゃあ、と思っていると、何が気に食わんかったのか、所帯を持ったはずの女が出ていってしまった。

 呆気にとられたというかなんというか。いやたしかに、見合いをしたわけではないが子を一人もうけたとなれば、女の責務は果たしたと言えるのかもしれん。仲人への顔も立つ。

 しかし本当に何が気に食わなんだのか。已は結果的にではあるが、関係を持った女と長続きした試しがなく、そのあたりの勘所もわからん。

 仕方ないこと、と早々に考えるのを止めた。

 

 しかし捨てる神あれば拾う神あり、とでも言うのか。あるいは、コブ付きはモテる、という噂は本当だったのか。

 子の飯の調達にも便利だと思い、旅館に住み込みで働いていたら、そこの仲居が已を気に入った。こんな甲斐性の無い男のどこがいいのかは知らんが、相手がいいと言うなら已に否やはない。再婚した。

 

 そうしたら半年も経たないうちに、また女が出ていった。あーも、うーも、言う暇がなかった。

 絶句したというかなんというか。こればかりは已のせいではないと、今でも思う。

 

 

 

 少し女に疲れたので、しばらく子と二人で過ごした。子の物心が付くか付かないかの頃、また女と縁ができた。

 だらしがない已でも、流石に多少は学ぶ。結婚は勢いだけでしては、子が不憫だ。今度の今度は、子の母親になってもらわねばならん。

 

 そう用心していたら、この女はなんとも辛抱強い質であった。

 女が已との将来を考えているというのに、已は東海道を相変わらずうろうろ、うろうろ。この頃は、東京から豊橋あたりを往復していたと思う。

 それでも女は已を待っていた。

 あまりに健気なものだから、已のほうがバツが悪くなって、折れた。

 

 正面から向き合わんのは不実だと思い、思いの丈をそのまま吐いた。

 已という人間は、人の下につくのが苦手だ。だから勤め人は難しい。かといって何か一芸に秀でているわけでもない。これまでの生き方を変えるのも難しい。それでもついてくるのか、と。

 女は迷わず首を縦にふるものだから、ならばいい加減肚を括らねば男が廃ると思い、この女と添い遂げようと思った。実際、己はじきにくたばろうとしているが、まだ離婚はしていない。

 

 あとから子に聞いた話だが、この三番目の女房を、実の母親だと長らく思い込んでいたらしい。それで事実を知ると、自分は母親に棄てられたのだ、と気にするようになった。

 不憫だと思う。子は親を選べん。已は良い両親に恵まれたが、已の子は、少なくとも父親のほうはろくでなしである。そのことは、本当に悪かったと思う。

 ただ、お前がいたから、生きながら死んでいたような已でも、人並みの人間になろうと努力することはできた。本当に有難いことだと思う。

 

 

 

 

 

 妻子を連れて放浪する生活には変わりなかったが、居心地より銭金を優先するようにはなった。多少は、責任感というものが芽生えたようだった。

 已がどこかに仕事を見つけると、女房もどうにか職を見つけて二人で稼いだ。

 二人ならまだいい。大工や工事の現場に子供を立ち入らせるわけがないが、旅館に住み込みであったりすれば、子も丁稚として動かざるを得んかった。また、不憫だと思った。

 

 それに、已が各地を転々とするものだから、子も学校を転々とせざるを得んかった。これも、不憫だと思った。

 

 子が中学の頃だったか。伊藤のあたりで知り合いの大工が、材料費だけ工面できるのであれば、自分が手伝ってやるから二人で家を建てよう、と言ってくれた。

 伊東市内でもちと難しい。熱海は論外だ。そうなると伊豆の、もっと南……。陸の孤島とまで言えるほど辺鄙な場所であれば、材木も土地代も安かろう、と考えた。その程度の銭は貯まっていた。

 

 已が家を立てているあいだ、女房も子も仮宿から度々見に来ていた。

 危ないからよせと言ったのに、已の仕事ぶりが見たいと子が駄々をこねるので、仕方なかったらしい。

 こんなろくでなしでも親父と慕ってくれるのかと思うと、知らず涙が出た。已の覚えている限り、幼少の頃以来ではなかろうかと思う。

 

 隣近所の古い家に比べれば粗末な家だったが、無事に完成した。己は見習い程度であるが、知り合いのほうは玄人である。造りはなかなか頑丈だった。

 居間と、仏間と、寝室。風呂と便所。野良仕事のための物置。鶏でも飼おうかと思いあえて残した端は庭だ。

 

 ここが新しい家だと言うと、子ははしゃいだ。もう転校とか、引っ越しとか、しなくていい? と聞かれ、頷くともっとはしゃいだ。

 苦労をかけたと思う。女房も目頭が熱くなったようだった。

 

 家ができてから気がついたが、少し、島に似ていた。

 道路を背にして山があり、道路を跨いで少し行けば、海が見える。木々に覆われた土地であるのに、不安ではない。

 ああ、と。やっと、と。フィリピンから帰ってこられた気がした。

 

 

 

 

 

 光陰矢の如しとは言うが、それからは本当にあっというまだった。

 ちび助だった子も、少ししたら已の背に並んだ。その頃には色気づいたのか、ドライヤーで髪にパーマをかけようと苦心していたのを覚えている。

 しかし已には似ず、女にはあまりモテなかった。真面目過ぎる性格がいかんのだろう、と思った。

 助言をくれてやろうかとからかうと、鼻を鳴らしてどこかへ行ってしまう。それもまた、愛らしかった。

 

 高校を出てすぐ、大手の自動車会社に就職し、伊豆を出ていった。

 多少は寂しくも会ったが、盆と正月には必ず帰省してくれた。已に似ず、孝行な息子である。

 

 しかし妙なところで已に似たのか、やはり似てないのか。職人気質とでも言うのだろうか。自分の仕事に自信と実感がほしい、と折角の大手を辞めてしまう。

 まあ子には子の人生があるのだから好きにしろ、と言っていたら、いつの間にか同業の新興企業に入り、順調に出世して、嫁まで見つけてきた。

 なんというか、やたら順調に人生だなと思い、我が子ながら実感がなかった。女房にそう言うと、親子とは言え別人なのだから当たり前だ、と言われた。そう言われれば、そうかもしれない。

 

 子の連れてきた嫁さんは、なかなか可愛らしい方だった。熊本の出だという。已も島とはいえ九州の出である。不思議な縁を感じた。

 

 また少しして、孫が産まれた。子にそっくりだった。手紙を出した先の親族が見に来たとき、已にもそっくりだと言った。已の血は濃いらしい。

 それからまた少しして、年子かどうか微妙なあたりで、二人目の孫が産まれた。これも、上の孫にそっくりであった。

 已も色々な家庭の話を耳にする。橋の下や女房の不貞を疑わんですむというのは、一つ幸せなことだと思った。

 

 

 

 

 

 本当にあっという間だった。子がすっかり親父の顔になり、已は皺だらけ染みだらけの爺になった。孫の成長は、子のそれよりさらに早い。

 

 下の孫を抱き上げるのを断るようになった頃から、徐々に呆けが始まった。

 最初は認めたくなかったが、已の不甲斐なさに辟易し、怒り、眠れなくなった。

 いっとき子等と同居したが、嫁に迷惑をかけるだけだったので、やめた。じきにお迎えなのだろうと思い、伊豆の田舎で余生を過ごそうと思い、その旨を子にも伝えた。

 

 子はそういうことなら、と病院も伊豆に見つけてくれた。重ねて記すが、辺鄙な辺鄙な、弩の付く田舎である。そうそう病院などありはしない。

 死に逝く最期に、また迷惑をかけたと申し訳なく思った。子はぶっきらぼうに、「これくらい、いい」と言う。なるほど、已の子である。

 孫等はこの爺が死ぬということに、まだ見当がつかんようであった。已の死を以てそのあたりを感じ取ってくれれば、悪い人間にはならんだろう。

 

 

 

 そういえば、こうして連々と書いてきて今更だが、已は靖国に行くのだろうか? 戦いはしたが死に損なった間抜けには、その資格はないのだろうか?

 だとすれば、前述の分隊長へ詫びを入れることもできぬわけで。

 

 申し訳なく思います。この場を借りて、お詫び致しとうございます。

 

 あのとき、部下にあるまじき、味方にあるまじき行いをしました。私にも言い分はありましたが、貴方にもあったことでしょう。

 それに、今の私よりずっと若い身の上で、生意気な部下を従えて、弾雨の中を突破せねばならなかったその恐怖たるや、如何程のものだったことでしょう。

 まこと、この愚か者は道理を知るにも死にかけなければ及ばない出来でありまして、遅くなったこと、重ねてお詫び申し上げます。

 我等の戦線で米国人を押し留めることは叶いませなんだが、御国のためにと散っていった護国の鬼を見た敵大将は、日本人侮るべからず、と感じたそうです。

 あのフィリピンでの戦いも、無駄ではなかった、と信じとうございます。

 靖国でお会いできないとすれば、私は地獄に落ちていることでしょう。極楽から石でも投げて、叱ってくださいませ。

 

 

 

 

 

 

 

 これで、大方吐き出したいことは記せたと思う。

 なんというべきか。已のような人間でも、天寿を全うすることはできたのだ。あまり肩肘張らず、気楽に生きよ。

 では、壮健で。

 あなかしこ。




これにて完結となります。
笑いどころの一つもない話にお付き合いいただき、ありがとうございます。
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