果樹園のある離島。そこに主であるセオリア、そしてその付添人であるゼマがいた。
潮風が吹き抜けるたび、果実の甘い香りが漂い、枝葉の揺れる音が静けさを際立たせている。島全体が眠っているかのように穏やかで、鳥の影すら見えない。害獣の足音もなく、驚くほどに人影がない場所だった。
ゼマは周囲を見渡し、思わず声を上げた。
「わーお、本当に見張り1人いないじゃん。こりゃあララクがうまく交渉したのか、王家が物わかり良いのか」
彼女たちはララクが王城に向かったあとで再会し、交渉が終わったことを知ってこの果樹園に訪れていた。セオリアに対して張り付いていた監視の気配は、今は完全に外されている。もちろん警戒心は捨てきれない。こっそり潜伏している者がいる可能性もあったが、少なくとも今すぐに拘束されて連れ去られる危険はなさそうだった。
「そんでぇ、どうすんのよこれから。あの園、移動なんてできないでしょ? それとも片っ端から収穫しちゃう?」
ゼマはやる気を見せるように半そでをさらにまくり、腕を軽く叩いてみせた。その軽快な仕草が、この静けさにひときわ際立つ。
「いや、桃とオレンジだけでいいかな。あとは、近所に買い取ってくれる業者がいるんだ。この土地ごと。ちゃんと運営してくれる契約でね」
セオリアはふと視線を落とす。頭の中に、屋敷の奥に眠る契約書の存在が浮かんでいた。自分の帰る場所を確保するため、ずっと前に用意したものだった。
「……? なんなら、結構帰る気あった感じ?」
ゼマが眉を上げる。半ば冗談、半ば探るような響きがある。
「ここは王都の人はこないけれど、船を出せばすぐ来れる距離だから。いずれこういう日が来ると、自分でも驚いているかな。結構用意周到だった」
セオリアの声には、どこか諦観と、それを覆い隠す覚悟が混じっていた。
「ほほう。ずーとおかしいとは思ってたんだよね」
ゼマは片目を細めて、セオリアの体を覗き込む。その眼差しは軽口に見えて、実際は核心を突こうとするものだった。
「何か気になる点が?」
セオリアは問い返すが、その姿勢にはわずかな緊張が滲んでいた。
「本当にばれたくなかったら、もっと遠くに行くでしょ。海外とか。んで、この果樹園が大切でここにいたいっていうなら、もっと見た目変えないと。髪色だって魔液スプレーで変えられるし、ショートにするだけで、随分と様変わりすると思うし」
ゼマの視線は鋭さを増す。彼女が疑問に感じていたのは、セオリアの姿がレーマ王女にあまりにも似すぎていることだった。海難事故で記憶を失ったというのならば、その容姿の一致は説明がつかない。ゼマはステンドグラス越しとはいえ王女の姿を見たことがある。桃色の髪に、後ろ髪を長く伸ばして二つに結んでいた姿。それは大臣たちですら確信するほど、今のセオリアと重なっていた。
「なかなか、君も推察眼があるんだね。この姿こそ、私の覚悟が半端で、迷い続けていた証拠なのかな。ゼマ、キミに言うとおり私は、美味香るこの果樹園の傍にいたいんだ。……契約も、本当は望んでいないんだ」
セオリアは全てを語ったわけではない。だがこの果樹園に並々ならぬ思い入れを抱いていることは、言葉の端々から伝わってきた。
「……現実的じゃないかもしれないけど、全部望んでいいと思うけどな。まぁ今はあんたの言うとおりに手伝うけど、ララクにまた交渉して貰えば? 王女のまま、ここで暮らしたいって」
ゼマの声は軽く響いたが、その裏には真剣な気持ちも含まれていた。
「……そんな欲望的な考えは、私の中にはなかったな。だけどそれこそが、私の理想なんだと思うけれど」
セオリアは口を閉ざし、木々に実る果実へと目を向ける。答えは出ていない。だが今は悩むよりも、目の前にある作業を進めるしかない。
こうして彼女は果樹園の収穫に取りかかることにした。ゼマもまた、確定的な言葉で背を押すことはせず、ただ寄り添うように彼女を手伝い始めるのだった。