カニ甲爵が驚いているのもつかの間、セオリアはすでに音符を紡ぎ出していた。水飛沫に揺れる光の中で、空気を震わせる音符が鮮烈に輝く。4色に散る中で、特に目を引くのは桃色の光。それが赤や緑、青と混じり合い、渦のように回転しながら、不安定なほど強烈な存在感を放っていた。
「 【ドドドドミミファソ】……!」
音符は弾丸のように撃ち出され、豪速でカニ甲爵に迫る。空気を切り裂く轟音と共に、一直線に迫る閃光に、カニ甲爵の瞳孔が一気に収縮した。
「こ、これはまずい香りが……!」
本能に突き動かされるように横へ跳び、刹那、音爆弾はその脇を抜けていく。
「ぼほほ。不意打ちとはなりませんでしたな」
余裕を見せて嗤おうとしたその口元に、セオリアが冷たく響く声を返す。
「私が得意な事、その身で感じるといいよ。……それは、初見殺し、だ……!」
突き抜けたはずの音爆弾が、不自然なほど鋭角に旋回する。水を裂き、風を巻き込み、凶器のように戻ってくるその光弾。カニ甲爵の顔が凍りついた瞬間、頬を直撃した。
「ぼふぁぁあ!? 操作、弾か!?」
カニ甲爵の叫びが響く。今回の音爆弾に組み込まれた新たな桃色を担当するファの音色。それがセオリアの秘蔵スキルだった。
【音爆弾・ファ】
効果……爆破のタイミングと軌道を操作できる音爆弾を生成して射出する。
頬に突き刺さるようにめり込んだ音符は、爆発せず圧力だけを加え、彼の巨体をぐいっと浮かせて押し上げる。触覚がしなり、甲羅の表面に細かいヒビが走り、カニ甲爵は目を見開いたまま制御を失って宙に舞い上がった。セオリアは立てた2本の指を自らの方へくいっと倒す。
「……!」
音符が呼応するように発光し、次の瞬間、爆炎が夜空を裂く花火のように弾けた。
「ぼふぁがぁああ!」
轟音と共に眩い光の柱が立ち上がり、カニ甲爵の巨体は花火玉のように打ち上げられ、空高く舞い上がる。爆風に煽られ、広場を覆っていた水飛沫が虹色に煌めきながら散り、蒸気の霧が立ち込めて視界を奪った。
空中で何度も回転したカニ甲爵は、甲羅を焦がされ、触覚をぐらつかせながら落下し、石畳を砕きながら大きな噴水の縁へ叩きつけられた。
甲爵は大の字に倒れ込み、甲羅の隙間から苦しげに泡を吐き出していた。白目を剥きかけてはいるが、辛うじて意識は保っている。高らかな威勢は完全に消え失せ、打ち上げられた花火の残骸のように、ただ広場に横たわっていた。
セオリアは震える腕を下ろし、焼けただれた肌を押さえながら、深く息を吐いた。
「民を守ってこその、高貴なる存在じゃないのかな。……私は……そうであって欲しいよ」
彼女の顔には晴れやかな笑みはなく、静かな陰りだけが宿っていた。勝利の実感ではなく、ただ障害を取り除いただけという重みが胸を覆っている。
「グォオオオオオ」
セオリアの視線の先、少し離れた場所で海の神がなおも暴れていた。教会前の広場を越え、王都ミズクア全体へ荒波が押し寄せる。白波を立てた大波が石畳を叩き、露店を飲み込んでいく。積まれた果実が水面を転がり、桶に入った魚たちが水ごと流されて、路地の奥へと消えていった。
「か、海神様ぁ……! お、お戯れが過ぎますぞぉお!」
必死の声を張り上げたのは、教会に仕える神父だった。中年の人間の男で、黒い法衣を濡らしながら波に飲まれていく。大きな水路へと引きずり込まれ、必死に手足を動かしていた。
泳ぎはおそらく得意なはずだ。この国で泳ぎが苦手な人間など珍しい。義務教育で誰もが泳ぎを叩き込まれるからだ。しかし、その過程で人間のような種族は、必ず直面する。人魚や魚人族の、あまりにも卓越した遊泳能力。その差に挫折し、己の限界を知る。神父も例外ではなかった。
もがいて水面に顔を出そうとするが、息継ぎのタイミングが掴めない。波に揉まれ、肺に空気を取り込む間もなく水が流れ込む。
「かぁ、ごぼ……!」
喉を鳴らし、泡を吐きながら神父は必死に藻掻いた。
その姿を目にしたセオリアは、反射的に水路へと駆け出そうとした。助けることに迷いなどなかった。しかし……脚が、急に止まった。
「……っはぁ……!」
自分でも驚くほどに、体が動かない。肺の奥が焼けるように痛み、全身が重く鉛に沈む感覚。思わず足を止めて、荒い息を吐き出す。
「ここまで重症なんだ私……」
震える唇で呟き、彼女は自分の脚を両手で叩いた。叩いても、力が戻ってこない。
「さっき口にしたじゃないか……。王女なら、絶対に民を助ける……のに……! 得意だろ、泳ぐのは……!」
膝が折れそうになるのを堪え、セオリアは自分を責めるように脚を叩き続けた。それでも海へ飛び込む勇気は湧かず、荒波の音が彼女の胸を締め付けるように響いていた。